人間誰でも亡くなるものだが、今月6日、父が亡くなった。とはいうものの、私と父の縁は薄く、子供の頃遊んでもらった記憶も無いために、長い闘病生活の末の死についてはあまり感慨が湧かなかったというのが本当である。なお、父に遊んでもらった経験は5歳年上の姉の方がふんだんに持っており、海水浴から万博まで、充実したレジャーの数々は姉の思い出には残っているが、年子の私にはいたはずだが記憶になく、姉に言われてようやく断片的な記憶を思い出す程度である。
河野の父親は大阪大学の出身だが会社で疑獄事件に巻き込まれ、裁判に出廷して上司の自己欺瞞を目の当たりにしたことから会社に疑問を持つようになり、晩年まで組織とは区別された自律した人格を保っていた。会社は会社、家庭は別と棲み分けができていたように思われる。その死まで自分でコントロールし、最期まで統御された意思を保ち続けた。私の父はそうではなく、骨の髄まで会社人間だった。彼も事件に巻き込まれれば少しは自意識というものがあったかもしれないが、高卒であるにも関わらず、いくつもの会社の社長を兼任し、本社では現在でいえば副社長級(役員の椅子自体が少なかった。あれば座っていただろう)まで昇進した彼にその機会はついぞなかった。
言いようによってはネグレクトに近い育ち方をしたことから、私の父に対する感情はごく淡白だが、感心したのは火葬の際に目にした父の骨が86歳という高齢にしては実にガッチリとしており、量も骨壷に入りきれないほど多く、母の食育が間違っていなかったことを示した点である。父の命を奪ったのはコロナの流行による長期間の病院での監禁と医者を盲信してオーバードーズになっていたことである。彼には不思議なところがあり、自分と同じ真剣さを医者も子供の教育に当たる教育者も同僚や近所の隣人も持っていると思い込む所があり、その陥穽を突かれた感じである。
現実は医師は治療よりも点数を数えていたし、教師はサラリーマンで私はどちらかといえば嫌われ者だった。その教師より(大学の教授も含めて)頭が悪いと思ったことは一度もないが、中には東大の教授もいる。いずれにしろ、母は内助の功で父を支えたし、口うるさい女性だったが最後に正しさを示した感じである。足の骨は牛の骨のように太く、これが本当に90歳近い人間の体かと思ったほどである。100歳を越えた私の祖母や祖父は灰しか残らなかった。
そのことは姉は褒めなかったが、私は母を褒めようと思う。意固地だろうと性格が悪かろうと口うるさかろうと、正しいものは正しいのである。が、相性の悪い二人による葬儀の相談は葬儀屋泣かせなものだった。スケジュールを10分ずらすのに3時間の口論があり、私が到着した時点で打ち合わせ時間は17時間を越え、私も参加を勧められたがさらに混乱するので逃げ出した。一応喪主だが名前だけである。姉は18歳で進学のため家を出たが、今になってようやくその理由が分かったような気がした。どうも我が家は家族として少しおかしいと指摘されたのはアメリカでホームステイをしていた時である。奇妙に事務的で家族の縁が薄く、幼少の頃から何を決めるにも苛烈な口論が日常会話であった。
なお、葬儀の金額は家族葬で戒名代も含め160万円で、これは婆さん200万、爺さん300万を下回るが、交渉に当たったのが母と姉で、私に交渉権を与えてくれればさらに値切ったと思うが、この二人に付き合わされた葬儀屋の気苦労を考えると金額は値引きは下手だが慰謝料を考えれば妥当だと思う。生まれて初めて葬儀屋を気の毒と思ったこともある。
とはいうものの、私にも両親に対する愛はある。少し精神を病んでいて、父親を侮辱した従兄弟の一人を私は即座に殴り倒した。母親が止めなければ首の骨をへし折ったかも知れない。それは私は法学徒で、暴行と結果的加重犯による傷害の区別くらいは付く、が、弟分でもあるこの従兄弟に手を上げたことは私はどんなに怒っても半世紀間なかったのである。が、決別することにし、葬儀の参列も許さず、二度と敷居を跨ぐなと言い渡した。普段の私にはない苛酷さである。いい年をしてと言われるかも知れないが、親と家族に対する侮辱は私でも許さないし、許すべきでもないのだろう。これは本来は死んだ私の父親がすべきことであったし、私も愛する弟に手を上げるのは心が痛んだが仕方がない。
親父が愛飲していたのはサントリーのスペシャル・リザーブであった。私以外の誰もが居間に瓶が置いてあるオールドと思い込んでいたが、実は本人の言によると、オールド(はまずいので)の瓶にリザーブを入れ替えて飲んでいたらしい。たぶんこれは会社教のなせる業で、リザーブは部長以上の酒で、オールドはそれ以下ということらしい。それと東京オリンピックの時に外国人観光客向けに作られたリザーブは「バタ臭い」酒で、守旧的な会社では部長でも飲む酒ではなかったらしい。バカらしいが、そういうわけで親父の愛飲していた酒は姉も母親も知らず、知るのは本人から直に聞いた私だけということになっている。棺桶に入れておこうかと思ったが、揮発物は当然ながらNGで、遺体の唇に付けてにしてもいかにもわざとらしく、しかも火葬まで5日あったため唇はセメダインで接着されており、付けても溢れることから葬儀後に一人リザーブを買って故人を偲ぶこととした。
あと、晩年の親父については料理ができないくせに「美味しんぼ」だけは集めており、なぜか海原雄山に自分を重ねていたようである。これもマンガは生前に連載が終了し、ラストで雄山と山岡が和解したから良かったようなものの、連載が継続していたなら、雄山と山岡の壮大な親子ケンカはマンガの見せ場であったことから、これは死んでも死にきれずに苦悶死しただろうことは想像に難くない。
亡くなった一日後に対面した遺体は「あんた誰」というような様子で、元々恰幅の良かった人物だが、闘病の影響で骨と皮ばかりに痩せ細り、10キロ単位で積み上げられたドライアイスで胴体はせんべい状に潰れて凍り付き、遺影は本人が選んだ30年前の写真だが、ギャップが激しすぎて弔問した人々が絶句するような状態だった。私だったら直近の写真を選ぶし、確か河野の父親も1年前の写真だった。ついでに母親の遺影も見せてもらったが、これはさらにひどく50年前の写真で、これを使えと厳命されたが、いやこれはちょっとと思うような若作りで、そういえば我が家に並んでいる遺影を見ると、死亡当時に近いのは私の母の父親の写真だけで、後はすべて30~40年前の写真なのだった。私の祖母(母親の母親)に至っては20代である。
ついでに書くと接待要員が足りないため、姉は東海高校の息子とフェリス女学院の娘を動員して火葬まで付き合わせたが、接待はともかく火葬の方は悪影響が心配である。ある程度分別が付く年齢になるまで、見せるべきものではないと思うのだが、遺体の扱いはいくつかの葬儀を目にした私が見てもエジプトのミイラのほうがまだマシに見えるようなあちこちから出血し、せんべい状に凍ってやせ細ったややグロテスクなもので、素直に灰になってくれれば良いものを、骨片もガラガラとやたらと残ったので、痛ましいと思いつつも直に目にした彼らには少し心配である。最後まで教育的配慮の欠けた人であった。
宇宙論で有名なホーキング博士の持論では、死とは生体機関である肉体の機能停止であり、故障に近いものであり、それ以上でも以下でもないというものだが、実は私の死生観もそれに近い。クルマも年数を経ると故障による出費が新車の購入に近いものになり、買い替え時だが、形あるものはすべて滅びる。死はやむを得ないことである。ただ、故障にはMTBF(Mean Time Between Failure)というものがあり、維持や管理に気を配ることで稼働時間を延長することが可能である。故意に近い怠慢でむざと生命を失う道理も理由もなく、取れるべき手段は取るべきである。私の母親は取れるべき手段は最善を尽くした。父の命を奪ったのは寿命もあるが、患者に配慮のない公務員体質の病院と、そういったものを盲信する父の根拠なき組織信仰である。それさえなければ、と、思うと少々惜しまれてならない。
父が入院していた病院は死の2日前になぜかCTスキャンを撮った。撮像によると脳機能の低下は見られなかったということだが、少なくと母と姉はこれで安堵したが、姑息な言い訳である。コロナ禍では病院は数百人の患者を監禁し、何ヶ月もの間、人によっては1年近く、家族との面会さえ許さなかった。私も病院の理事長に詰め寄ったし、その間に数十人の患者がむざと死んでいった。父のように痴呆化した例も少なくなかったはずで、撮像はそのアリバイ作りである。こういうことを考える人間には私は怒りしか覚えないし、そういうものに慣らされてしまったのが父らの作った今の日本の姿である。
ひょっとしたらその死も末期患者にモルヒネを投入した不自然死かもしれない。燃やしてしまったから分からないが、その死まで経済効用を優先した工業的に管理されていたもののように思われてならない。「安らかな死顔」と母は喜んでいたが、その1時間前まで肺塞栓で苦悶していた人間の死顔が安らかなわけがないのであるから。とはいうものの、特殊医療に手を染めた医師の判断も生前の故人の意思には合致するものであった。この国の人間に対する考え方が少しおかしいことは、今さら書くまでもない。
彼らの成功や功績など、私は絶対に認めない。これは人間のあるべき姿ではない。個人的なことは書きたくないが、1本くらいは良いだろう。