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デンゼル・ワシントンとイーサン・ホーク、という、役作りに真摯に取り組む二人が、ロサンゼルスのストリート出身の作家と監督を得て、オールロケで臨む、超リアルな麻薬捜査クライムムービー。

勤勉な警察官から出世を夢見て麻薬課の刑事になったジェイク(イーサン・ホーク)の初日「研修日」を時系列で描いた物語。伝説的な凄腕刑事アロンゾ(デンゼル・ワシントン)は教科書を片っ端から否定して独断ぶりを発揮、それは大きな正義をなすための必要悪なのか…、がテーマ。

途中で出会う売人の大物にスコット・グレンがなってたり、トム・ベレンジャーが悪事で成り上がった大物になってたり、スヌープ・ドッグやドクター・ドレがチョイ悪役で出ていたり、興味のつきない作品。

途中から、もう一線を超えてしまったのがわかってきて、やっぱりデンゼル・ワシントン、従来の殻を破った超悪役!それも、自分の正義に確信を持った狂信的な悪!初めはとにかく出世がしたくて迷いながらいやいや従っていたジェイクが、次第に自分の譲れない一線を発見し、そして絶体絶命の罠からまさかの伏線で生還し最後のクライマックスを迎えます。

終盤、少し、ハーヴェイ・カイテルが主演した「バッド・ルーテナント」を思い出すところもあったりしたのですが、これは後味はあんまりよくないですが傑作と言えるでしょう。
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もう記憶の中ではカラスのことしか浮かんでこないのですっかりモノクロ映画だと思い込んでいたら、なんとカラーでしたね。
1963年なので、「サイコ」がモノクロなのに「鳥」はカラー。こどものころにテレビで見たときにモノクロだったのかも。

ティッピ・ヘドレン演じるメラニーのキュートさにまずびっくり。彼女がキャスティングされた経緯とか、オープニングシーンのちょっとした遊びの仕掛け(ヒッチコックのカメオ出演はさておき)にもびっくり。

新聞社の社長令嬢としていたずらをしかけるのが得意なじゃじゃ馬娘が、お固い弁護士ミッチの妹キャシーにラブバードをプレゼントしつつ、モーションをかける、というのがきっかけなのが、二人の恋の行く末がどうなるのか、という縦軸にもなっていて、そこに夫を亡くした後に息子の相手に嫉妬する母親、というリディア(ジェシカ・タンディ)の神経質な名演が花を添えます。

結局、ラストの方でメラニーが襲われた後の看護の様子で、リディアはトラウマを乗り越えて、メラニーをいたわることができるようになる、という様子も見て取れて、人間ドラマとしてもカタルシスがあるわけです。この辺は、家庭に入って男性に頼りきった女性、という古い伝統的な女性の生き方の限界をもほのめかしているわけで、ヒッチコックは割に早くから、女性の生き方、ということをテーマとして意識していたことがうかがえます。

いろんな動物パニックものや、現実の事件の情報をたくさん仕入れてしまったあとの我々は、あそこでわざわざ外に出て逃げたらパニックになるのは当たり前だろう、とかしたり顔で言ってしまいがちですが、その「当たり前」を教えてくれた原点が、この「鳥」なわけで、天に唾するような批判はいけませんね。

主演のティッピ・ヘドレンは、2階の寝室で襲われるシーンで、作り物の鳥に襲われるだけだと思っていたら当日に生身の鳥のシーンになっていて、それが1週間続いて、すっかりまいってしまったらしく、ラストシーンの呆然とした感じとかは、もしかしたら演技する余裕のない、無表情になっていたのかもしれないな、と鬼気せまるのもを感じました。

音楽をほぼ使わず、合成音を中心に使った、というのも実験心旺盛なヒッチコックらしいところ。合成の映像や鳥の特撮にばかり気を取られがちですが、サスペンスを盛り上げるための鳥の声や気配の巧みさは、この映画の重要な主役の一つだったと思います。

メイキングで合成の仕掛けもいろいろと解説を見ましたが、マットペインティングの技量の高さは圧倒的。スタジオとロケの区別はさすがにつきますが、当時の特撮でマスクを作って合成する仕組みとか、もう55年前のものと思うと、一流のスタッフのものすごい労力が投入されていたことがうかがえます。
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事件が実話にもとづいていて、しかも同性愛をモチーフにしていた、というのは作品を見ただけではわからないのですが、制作陣からするとこれは裏テーマのようになっていたとのこと。もしかしたらその辺りも殺人の動機には関係あったのかもしれませんが。

仕立て全体が極めて演劇的。フィルムが1リール10分の時代に1カットで撮ろうというのですからどれだけチャレンジングなのか。途中でリールの乗り替わりだけ、カメラがだれかの背中をかすめて一瞬だけ画面が真っ黒に落ちるのですが、それを除けば、すべて1カットで撮影されているということです。演劇と同じ、リアルタイムにすべてが起きていって、日中から、日がとっぷり暮れる時間帯までの出来事、ということを象徴しています。

メイキングで見るとわかるのですが、カラー時代のカメラがとにかく巨大で、一連のシーンをカメラが動き回れるように、椅子やら壁やらを撮影中に動かしながら進行したようで、スタッフの苦労がしのばれます。普通なら1カットで演技をした役者が誉められるところ、技術的な到達点としてもすごいことなのだろうな、と思いました。

ストーリーは、犯人が最初に犯行をバラして、それがいかに露顕するかという倒叙型式。少しコロンボ風でもあります。少年たちの犯行の動機の一つとなったのがジェームズ・スチュワート演じる教授の教えだ、という微妙な影が、ずっとつきまとってあとに残る作品です。ラストの教授の説教が、ヒューマニズムを説く演説、というよりは、教育の失敗を嘆く絶望に聞こえるわけです。ニーチェの超人思想が都合よく使われる恐ろしさを感じます。

予告編に、実際の映画にはない、殺されるデイビッドのプロポーズシーンが使われているのもなかなか独特です。原題を見るとROPE!と「!」付きのようにも見えますが、あまりこだわってないんですかね。
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映像的な象徴性でもうーん、とうならされる部分があるのですが、やはり、人物の造形が深いですね。どの人物にもリアリティーがあって、キャリアは浅くてもそうそうたる顔ぶれの役者たちが、それぞれに考えながら掘り下げていったようすが、メイキングからも見て取れます。

なにか素敵なことが起きて、平凡な日常を変えてくれるのでは、と夢見る少女。日常に疲れてしまった母、平凡な銀行員だけど殺人トリックを考える趣味のある父、本ばかり読んでいるおしゃまな妹、憎たらしい弟。そこにはるばるやってきて、いつまでいるのかわからない居候のおじ。

少女はシャーロットだから、おじさんのチャールズとおそろいのチャーリー、初めは運命かと思ったその近さが、後に仇となるわけです。

後半のロマンスはともかく、弟が去ってしまう、と知ったときの母の涙に、当時の、家庭に入った女性が感じていた閉塞感がとてもよく表現されていて、これはヒッチコックの奥さんの功績でもあるのかな、と思ったりしました。

ロバート・カミングスは、これが珍しい悪役だとか。でも堂々たる演技だと思います。

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一部の表現には時代だな、と思う部分もありますが、心理的にも深みのあるドラマだなと思いました。ヒッチコックには、サスペンス以外にも、映画ごとにこだわった描写のポイントがあるのがさすが、という感じです。

当時のアメリカだから、多少敵国に対する戦意高揚に見える部分もあるのだけど、ここで描かれているのは共産主義やナチス、というような分かりやすい敵ではなく、巧妙に社会に溶け込みながらも、人を憎み、分断することを喜びとするようなカルトの存在。それは現代にもまるまる当てはまるな、と感心しました。

ラストの自由の女神のシーン、ほかに何かの映画で似たシーンを見たような気がしてしかたないのですが、どうも見当たらないので、この映画を昔見た体験なのかな、と思っています。
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実話を元にしているだけに、キリキリする感じのドキュメントタッチの映画です。

いま見ると、ああ記者はこうやって丹念に裏をとって、一人一人に聞いて、メモをとりながら記事を書いていたんだな、という当たり前のことが、改めて伝わってくる映画です。多少の脚色はあっても、足で稼いで、人に会って、人と話して、そこからいかにウソがなく、破綻のない論陣を張るか、がジャーナリズムの命なんだな、圧力がどのような形で襲いかかるか、それにどう脇を締めて対処するか、というのはツールが便利になったいまも変わらないんだな、と思いました。

プロット的には、ディープ・スロートに頼る部分が少し大きくて、実際もこうだったのかも知れないのですが、やはり曲がったことに対して忸怩たる思いでいる人も確かにいて、どんなに隠蔽しても辻褄の合わないことはいずればれる。そんな確信を持たせてくれる映画です。

NHKがBSプレミアムでわざわざこれを流すことの意味、わかりますかね。
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原題はHugoだけなのに、邦題は、ヒューゴがなにかを発明するのでは、たとえばヒューゴが直したオートマータが何かをしでかすとか、駅内部に巨大な仕掛けを作って大きなクライマックスにつなげるのでは、という期待感をもたせすぎるという意味で、ミスリードだったと思います。作品のせいではなく、観客が空振り感をもつのはよくないのでは。

途中で少し調べて監督がスコーセッシだと知ったときの驚きといったら。ふだんはドキュメンタリータッチの、半分実話系シリアスハードボイルドしか見てないので、うれしい驚きでした。エンドクレジットを見てジョニー・デップがプロデュースしていると知って、これは「シザーハンズ」や「不思議の国のアリス」で彼がティム・バートンから見て学んだものを自分なりに昇華して作品化しようとした結果なんじゃないか、と思ったのですが、勘繰りすぎですかね。

フランスのモンパルナスの駅に住みつく、というヒューゴの暮らしぶりが、少し「サブウェイ」「パリ空港の人々」などを連想させたり、オートマータの修理からは「シザーハンズ」テイストがしてきますね。クリストファー・リーが出演しているのもそういう怪奇映画の歴史へのオマージュに思えます。

ストーリーで言うと、父親の影をずっと追いながら未完成のオートマータを動かそうとする、が前半、そのオートマータに関する鍵を握っているのがイザベルの養父パパ・ジョルジュで、どうも心を閉ざしているらしい、というのが後半になります。途中からあれ、オートマータの存在忘れられてないか、と思っていたら、最後にちゃんと登場して最後のピースを埋めてくれる。途中で張っていた伏線が全部回収されてめでたしめでたし、という、大団円が待っていました。

あとで調べたら、史実とかなりかぶる部分もあって、メリエスが途中で忘れ去られる冷遇の時代を経て再評価されるとか、モンパルナスの駅で店を持っていたとか言うのも事実らしいですね。ただし、奥さんは後妻だったので映画制作の全盛期には前妻の方が関わっていたとか、弟がずいぶん手伝っていたとか。

プロットの道具立てはすべてそろっていて、でも欲を言えばパパ・ジョルジュとヒューゴの疑似師弟関係、というのはもう少し膨らんでもよかったのでは、とか、鉄道公安官が最後に「おれも孤児だった、人間は命令に服従して一人で生きていけばいいんだ」と叫ぶようなところはもう少し早めに売っておいた方がよかった、とか、リゼットが彼の心を癒やすのにもう少し積極的に動いてくれてもいいのに、とかいう部分はありましたね。駅にいる人々にとって、ヒューゴが全編を通じて透明すぎたのが、そういう展開の原因になっているのだと思いますが、この辺がハートウォーミング系での実績が薄いスコセッシの不慣れな部分なのかもしれませんね。

ヒューゴは最初は孤独を解消できるのではと、父親との再会を目指して行っていたはずのオートマータ直しが途中から違う意味を持ってきているのがこの作品の妙味ですね。機械だとどんな部品も意味があって必要とされてる。だから社会でも自分には意味があるはずだ、というのが隠れたメッセージで、そこから自分の使命はなにか、を考え、fix(直す)ことがそれだ、とヒューゴが確信することが大切だったのでしょうね。このfixというキーワードは、テレビシリーズの「LOST」でも主人公の外科医ジャックがこだわった言葉で、壊れた人形を「直す」ことも、壊れてしまった心を「治す」ことにもつながっていますね。、邦題の「ヒューゴの不思議な発明」は、ちょっとミスリードで、ヒューゴはけっして発明家ではありません。

そもそも、おじさんが何カ月も行方不明なのが前半で説明されなくて、でもネグレクト気味の人だったからまあいいか、みたいな扱いなのは気になってはいましたが。でも時計を合わせてねじを巻き続ける専門職、というのがこの世界に存在して、感謝もされなければ存在を意識もされない。いなくなっても気づかれない、というのは人間にとっては致命的なことなんだ、というメッセージもあるのでは。

ヒューゴとイザベルの雰囲気とか、すごくよくて、今後この二人が、これ以上の役にめぐり合うことはあるんだろうかと心配になるほどでした。リゼット役のエミリー・モーティマー、少し「ファンタスティック・ビースト」のキャサリン・ウォーターストンを思わせる、普通の魅力がありました。
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いま見たら原題は"i, ROBOT"と、iが小文字になってROBOTは大文字だったんですね。しかも主人公自身も少しロボット入ってます、というネタバレにも見えるという、引っかけもあるニクいタイトルです。公開当時なら少し辛い点をつけたかもしれないのですが、10年以上経っても多少CGがちゃちとはいえ、ちゃんとした作りになっているな、と最近の雑な大作よりはむしろ好感がもてる印象でした。

ロボットが本気になったらもっとスプーナーを瞬殺できたんじゃないか、とか、AIが本気出せばあらゆる行動が監視できて人間側の動きなんかすべてお見通しじゃなかったのか、とかそういう粗はいろいろと見つけられるのですが、殺人事件の謎解きが持続したのと、スプーナーがロボットに対して抱いた不信感、少女を見殺しにするハートのなさを、サニーが解消する、というドラマ的な伏線の回収は見逃せない高ポイントだと思います。

アシモフの原作至上主義の人から見たら、それでも物足りない、とか、そもそもV.I.K.I.の暴走そのものがロボット三原則に欠陥があったことの証明になってしまう、とかあるのですが、りっぱな平和憲法があってもそれを解釈の問題でひっくり返してしまう政府とかが出現する現代においては、むしろいいアイロニーになっているんじゃないか、と思ったりして。

実際のところ、結末がこうなった以上、もう人類にテクノロジーへの絶対的信頼なんていうものは失われてしまったし、パンドラの箱は開けられてしまった。ある意味もう一つの「猿の惑星」なんじゃないか、と思ったりもします。この未来は「ウォーリー」につながってたりして。

キャストではウィル・スミスの他、一瞬オドレイ・トトゥではないかと思ったブリジット・モイナハンの言葉少ない好演。銃を目をつむって撃つところなんかはとてもよかったからもっとコミカルなこともできたんでしょうね。他、なんのために出てきたのかいま一つよく分からないシャイア・ラブーフなど。
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エンディングでまさかの展開でしたが、終戦間近のドイツとイギリスを舞台に描いた作品。

とにかく、ダレずにテンポよくこの大胆不敵な作戦を描ききっています。

序盤のシュタイナーの軍法会議のいきさつとかはちょっと時系列的に荒っぽいかな、とか、モリーとデヴリンの感情的なもつれ方が生煮えだとか、そんなことはいくつかあるのですが、作戦の遂行という大きな流れがあるので、あんまり気にしてる余裕がないというか。

少女が流されるのを助けようとしたことがきっかけで計画が露顕するとか、村人も目ざといなとか、最後に神父がデヴリンにだけはキレるのね、とか、シュタイナーは作品が成功したと信じて死んだのね、とか、そもそもラードルは失敗する確率の方が高いと思ったけど、シンクロニシティーに魅入られて、作戦の決行を決めたのね、とか、途中でシュルシュルシュルと勝手に撤収に入るヒムラーの姑息さとか、人間の振る舞いが味わい深くてすばらしいです。

あと、すごいのが音響。普段だと中央にしゅっとまとまる音場が、この作品だと縦横無尽に爆音が暴れまくり。1976年というとスターウォーズの前年ですからね。もはや写実的に描く記録映画のノリを越えたエンターテイメントとして意識されてる「売り物」だったという感じがすごくします。
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やはりカルト・クラシックとしての位置づけ以上にはいかないのでしょうが、見て飽きない作品です。ナタリー・ポートマンとジャン・レノの組み合わせ以外には考えられないほどに、このタイミングならではの二人の化学反応が魅力的なんでしょうね。

冒頭のマチルダとレオンの出会いは少し人工的というか、この時が初めての出会いにはちょっと思えないのが奇妙で、前からこの子が虐待されているのにはレオンは気づいていないとおかしいだろうと思ったり、あの父親はなんで麻薬をくすねているのがばれるのをわかっていながら逃げようとしなかったのか、とか、不自然な点がいろいろある気がしました。

マチルダが最初に18歳だ、と主張するところ、本当の年齢は12歳なんでしたっけ?ばれるタイミングがラストの方なので、なんで6歳もサバを読まれて気づかないのかな、とか不思議に思いました。

マチルダがマドンナやチャップリンのモノマネをするところ、正直あんまり面白くない、レオンが世間に疎いことを示すエピソードなのかもしれませんが。ターミネーター2の交流シーンの焼き直し感が強すぎなんですかね。

マチルダがレオンに愛を告白するところ、おっさんはそういうシチュエーションに萌えるのかもしれないのですが、レオンがそれをああいう形で放置するのはどうなんだろう。マチルダだって、父親からの愛情を注がれていない未成熟な部分への補償行為なわけだし、レオンも父親代わりの保護者にはなりきれていない、でも放っておいたらどういうことになるのか、に対しての危機感はちょっと薄いんじゃないか、いずれ彼女も組織に狙われる、という警戒心もないようだし、一人でいるときに何をするか、だってもっと心配するはずじゃないのかなぁ。

レオンとトニーの関係もその意味ではこの状況を生み出した張本人でもある、と言えるわけで、読み書きもちゃんとできない、率直に言うと少し頭の足りないレオンにつけ込んで、トニーはちゃっかりいただいちゃってますよね。最後にマチルダに100ドル渡して済むと思っているのも、ちょっと馬鹿にしてるというか、本当に彼女を将来的に育てる気があったのかどうか。元々警察からの仕事も請け負って、おいしい思いもしてきたわけだし、スタンスフィールドに締め上げられてレオンを死に追いやった張本人でもあるわけだし。スタンスフィールドが死んだあとも、後任がいて、警察からの殺しの仕事を引き受け続けるんですかね。マチルダの生命だって安泰とはいかないような気がします。

ゲーリー・オールドマンのスタンスフィールドは、本当に何をするかわからない、「バットマン」のジョーカーのような性格で、それが魅力の一つではあるのですが、逆に言うとこんな狂人が警察で普通に仕事をしていて誰にもその違法性を気づかれない、というのはちょっとありえないことのように思えます。

なので、最後にマチルダが生き残ったから少しは救われる、という気持ちにはなれない、バッドエンドに見えて仕方ないのですが、それでもこれを「純愛」と呼べますかね。