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原題はHugoだけなのに、邦題は、ヒューゴがなにかを発明するのでは、たとえばヒューゴが直したオートマータが何かをしでかすとか、駅内部に巨大な仕掛けを作って大きなクライマックスにつなげるのでは、という期待感をもたせすぎるという意味で、ミスリードだったと思います。作品のせいではなく、観客が空振り感をもつのはよくないのでは。

途中で少し調べて監督がスコーセッシだと知ったときの驚きといったら。ふだんはドキュメンタリータッチの、半分実話系シリアスハードボイルドしか見てないので、うれしい驚きでした。エンドクレジットを見てジョニー・デップがプロデュースしていると知って、これは「シザーハンズ」や「不思議の国のアリス」で彼がティム・バートンから見て学んだものを自分なりに昇華して作品化しようとした結果なんじゃないか、と思ったのですが、勘繰りすぎですかね。

フランスのモンパルナスの駅に住みつく、というヒューゴの暮らしぶりが、少し「サブウェイ」「パリ空港の人々」などを連想させたり、オートマータの修理からは「シザーハンズ」テイストがしてきますね。クリストファー・リーが出演しているのもそういう怪奇映画の歴史へのオマージュに思えます。

ストーリーで言うと、父親の影をずっと追いながら未完成のオートマータを動かそうとする、が前半、そのオートマータに関する鍵を握っているのがイザベルの養父パパ・ジョルジュで、どうも心を閉ざしているらしい、というのが後半になります。途中からあれ、オートマータの存在忘れられてないか、と思っていたら、最後にちゃんと登場して最後のピースを埋めてくれる。途中で張っていた伏線が全部回収されてめでたしめでたし、という、大団円が待っていました。

あとで調べたら、史実とかなりかぶる部分もあって、メリエスが途中で忘れ去られる冷遇の時代を経て再評価されるとか、モンパルナスの駅で店を持っていたとか言うのも事実らしいですね。ただし、奥さんは後妻だったので映画制作の全盛期には前妻の方が関わっていたとか、弟がずいぶん手伝っていたとか。

プロットの道具立てはすべてそろっていて、でも欲を言えばパパ・ジョルジュとヒューゴの疑似師弟関係、というのはもう少し膨らんでもよかったのでは、とか、鉄道公安官が最後に「おれも孤児だった、人間は命令に服従して一人で生きていけばいいんだ」と叫ぶようなところはもう少し早めに売っておいた方がよかった、とか、リゼットが彼の心を癒やすのにもう少し積極的に動いてくれてもいいのに、とかいう部分はありましたね。駅にいる人々にとって、ヒューゴが全編を通じて透明すぎたのが、そういう展開の原因になっているのだと思いますが、この辺がハートウォーミング系での実績が薄いスコセッシの不慣れな部分なのかもしれませんね。

ヒューゴは最初は孤独を解消できるのではと、父親との再会を目指して行っていたはずのオートマータ直しが途中から違う意味を持ってきているのがこの作品の妙味ですね。機械だとどんな部品も意味があって必要とされてる。だから社会でも自分には意味があるはずだ、というのが隠れたメッセージで、そこから自分の使命はなにか、を考え、fix(直す)ことがそれだ、とヒューゴが確信することが大切だったのでしょうね。このfixというキーワードは、テレビシリーズの「LOST」でも主人公の外科医ジャックがこだわった言葉で、壊れた人形を「直す」ことも、壊れてしまった心を「治す」ことにもつながっていますね。、邦題の「ヒューゴの不思議な発明」は、ちょっとミスリードで、ヒューゴはけっして発明家ではありません。

そもそも、おじさんが何カ月も行方不明なのが前半で説明されなくて、でもネグレクト気味の人だったからまあいいか、みたいな扱いなのは気になってはいましたが。でも時計を合わせてねじを巻き続ける専門職、というのがこの世界に存在して、感謝もされなければ存在を意識もされない。いなくなっても気づかれない、というのは人間にとっては致命的なことなんだ、というメッセージもあるのでは。

ヒューゴとイザベルの雰囲気とか、すごくよくて、今後この二人が、これ以上の役にめぐり合うことはあるんだろうかと心配になるほどでした。リゼット役のエミリー・モーティマー、少し「ファンタスティック・ビースト」のキャサリン・ウォーターストンを思わせる、普通の魅力がありました。