太田裕美ヒストリー ~ 誕生から木綿のハンカチーフ 結婚 そしてがんとの闘い | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

テーマ:

最近発売された週刊誌に、太田裕美の記事がありました。
彼女は昨年、乳がんの罹患を公にしています。

その後の動静を伝える、続報でした。

記事によると、
同年7月に手術をおこない、がんを切除、
その後は治療を受けながら、音楽活動をおこなっているとのことです。
しかし抗がん剤の投与は副作用をともなうもので、相当な苦痛であるとも告白しています。
同世代の自分としては、身につまされる話です。

彼女については、以前ここで『木綿のハンカチーフ』を取り上げたことがあります。
テレビ番組をテキスト化したものです。
そして太田裕美本人の人となりについても、書きたいと思っていました。
資料もあつめていました。
そんなさなかの、病の報でした。

状況がよくわからないのに、軽々なことは書けません。
しかし苦しいながらも、経過は順調のようです。
そこで僭越ながら、彼女にエールを送る意味で、以下の話をまとめてみました。
誕生から現在にいたる、『太田裕美ヒストリー』となります。

上記の記事に依り、最新の動向までを詳述しています。
太田裕美ファン、木綿のハンカチーフファンのみなさんにお読みいただければさいわいです。


参考資料
『太田裕美白書 』太田裕美著
『週刊平凡』1983年12月
『週間平凡』1984年9月
『週刊文春』2004年2月26日号
『潮』2007年5月号
『週刊ポスト』2008年12月19日号
『婦人公論』2009年6月7日号
『週刊現代』2013年10月19日号
『女性自身』2020年2月18日号
『日本経済新聞』2020年1月27日~31日
https://jisin.jp/entertainment/interview/1829044/

 

 

太田裕美 近影
(日本経済新聞サイトより)

 

 

 

太田裕美が生まれたのは1955年1月20日。
家は東京都荒川区東尾久で、都電荒川操車場の近くだった。
本名は太田弘美という。
裕美は長女で、翌年に弟、そのまた翌年に妹が生まれている。

父は自宅で、画板の製造業を営んでいたが、
裕美が3歳のとき転業、一家は埼玉県春日部市に引っ越した。
家電製品の箱詰め用の、包装パッキン製造業を始めている。

製造の工程では、新聞紙をドロドロに溶かして天日で干す。
そのためには広大な土地が必要で、自宅兼工場の敷地は二千坪もあった。
幼い裕美は弟や妹といっしょに、工場内を男の子のように遊びまわった。
弟妹が大きくなるまでは、ひとりで遊んだ。
天気のいい日は工場の屋根に上り、せんべいをかじりながら大好きな漫画を読み、空を見て過ごした。

母は三人の子供をかかえながら家業を手伝い、さらには寿司屋も始めている。
夫婦とも、夜遅くまで働いた。
子育ては放任主義で、勉強も強いることはなかった。
子供たちは父の工場の宴会やバス旅行に連れて行ってもらっている。
裕美は都はるみなどの演歌を披露、みんなの拍手をもらえるのがうれしかった。

余談ながら、松任谷由実も同じだった。
家業は呉服屋で、幼いころ、従業員の前で歌うのが好きだった。
こうした刷り込みが、彼女らを歌の道へ進ませたように思える。

裕美は8歳から、家庭教師によるピアノを習い始めた。
小学校ではコーラス部に入り、曲も作りはじめている。
6年生のときには、裕美が作曲した歌を全校児童が歌った。
のちに裕美の長男が、同じことをやった。
次男の友だちから、「お兄ちゃんのつくった歌をみんなで歌った」と聞かされ、裕美は驚いた。

裕美は、人見知りする性格だった。
愛想笑いができない。
無理は決してしない。
人がどう思おうと気にしない。
さっぱりとしていて、デビューしてからも外見はアイドルだが、じつは男っぽい性格であった。

67年、中高一貫校の上野学園中学校音楽指導科声楽科に入学。
ピアノの先生が、この学校を勧めてくれた。

中3のとき、スクールメイツのオーディションを受け合格する。
渡辺プロダクションの、ポップス合唱団であった。
動機は、歌の世界に入れば、大好きなザ・タイガースの沢田研二に会えると思ったから。
裕美は熱烈なファンだった。
ファン・レターを出したり、タイガースがロンドンへ行ったときは、羽田まで見送りに行っている。

スクールメイツで、歌の仕事ができることは嬉しかった。
でもどうしても芸能界にいたい、という、強い気持ちはなかった。
親も「兄弟で一番地味な性格のあなたが芸能界に入るとは」と驚いている。
渡辺プロの同期生には、のちにキャンディーズとなる、伊藤蘭や田中好子らがいた。
彼女らがデビューしたときも、「大変だろうな」と他人事のように感じている。

うらやましいとは思わなかった。
自分にはアイドルの素養はないと自覚していた。
音楽の世界に足を踏み入れたとはいえ、本格的なプロではない、練習生のような気分だった。
夜間に歌やダンスを習い、ピアノのレッスンも続けていたものの、高校では演劇部にも属していて、遊びにも精を出していた。

それでも高3のとき、NHKのオーディションを受けて合格する。
歌番組に出演することとなった。
ファン・レターがくるようになり、プロなのだとの実感が芽生えた。
だが流れに乗っているだけのような、強いプロ意識はなかった。

一方で裕美は、銀座のライブハウスでの、ピアノの弾き語りを始めている。
歌謡曲やフォークソング、洋楽のスタンダードをレパートリーとした。
井上陽水の、『帰れない二人』や『白い一日』が好きでよく歌った。
やがてこの姿が、レコード会社関係者の目にとまることになる。

ソロ歌手としてのデビューは、74年11月のシングル『雨だれ』。
フォーク調の曲で、ピアノの弾き語りで歌った。

ヒット・チャートは14位を記録。

新人歌手としては高いポジションを得て、
75年の日本レコード大賞と日本歌謡大賞で、新人賞を受賞している。

20歳の75年12月、
4枚目のシングルである、『木綿のハンカチーフ』を出した。
だがもともとは、アルバムのなかの一曲だった。
裕美も譜面を最初見たとき、詞が長く、男女の掛け合いという印象しかなかった。
他にもたくさん歌入れしなくてはならない。
アルバム全体のことしか頭になかった。

だがスタッフの間で、この曲の出来の良さが話題となった。
これはいける。
急遽シングル化することになった。


ところが5分もの長さがネックだった。

そのままではラジオで流してもらえない。
とはいえ歌詞を短くするとイメージが壊れてしまう。
テンポとアレンジを変更した。

それでも4番まである。
歌番組では最後まで歌えない。
4番で初めて歌詞に「木綿のハンカチーフ」が出てくるというのに、2番と3番の省略も普通のこととなった。
それでも売上枚数は86万枚を超え、『木綿のハンカチーフ』は大ヒットとなった。

しかし裕美には、実感がなかった。
来る日も来る日も、コンサートやテレビ局の楽屋で軟禁状態。
食事は弁当だけで、世間の様子がわからない。
言われるままの出番を繰りかえしていた。
スタッフから売れていると聞かされても、うれしくなかった。
好きな歌が歌えて、広く受け入れられて、スケジュールが埋まっているのに、幸せだとは受け止められなかった。

太田裕美はルックスで売るアイドルでありながら、フォーク系の歌手でもあった。
ふたつのポジションを掛け持ちするのは辛かった。
アイドルはテレビやラジオ出演、雑誌の取材を受ける。
フォーク系はコンサートとレコーディングが仕事のメインだ。
裕美は両方こなさなきゃいけない。
睡眠時間は毎日三時間で、ほかの歌手の二倍の仕事をしていた。

『木綿』のヒットを実感したのは、結婚して子供を産んでからのこと。
発表してから二十年以上も経っていた。
家族旅行に行くと周囲から、
「ほら、あの人『木綿のハンカチーフ』の人よ」との声が聞こえてくる。
日本中のどこへ行ってもそうだった。
しかも当時は聴いていなかったろう、中学生や、はるか年輩者までが話しかけてくる。
『木綿』が大勢の人に愛されていることを、初めて知った。

実は歌の作中の男を、「身勝手な男だ」と感じていた。
自分が東京の生まれで、恋人と遠く離れた経験がなかった。
そもそも恋愛経験がほとんどなかった。
だが齢を重ねるごとに深く理解するようになった。

歌は、恋人が都会から戻らないことを知り、彼女が木綿のハンカチーフを望むところで終わっている。
しかし彼はその手紙を読んで、故郷に帰ったかもしれない。
聴く人の想像に思いを致すようになった。
三十年以上経ってから歌詞の深さに気づき、心のなかで「松本さん、ごめんなざい」と謝りながら歌うこともある。
松本とは、作詞者の松本隆である。

松本隆にとっても、この歌は大きな飛躍となった。
すでに、アグネス・チャンの『ポケットいっぱいの秘密』でヒットを飛ばしてはいた。
しかし、世に作詞家松本隆を知らしめたのは『木綿』であった。
この歌をみごとに歌い上げた裕美に、松本は感謝している。

いっぽうの裕美は、「私が松本隆を育てた」と茶化している。
ふたりが出会ったとき、松本はまだ駆け出しだった。
この人が詞を書くと紹介されると、
裕美は本人を目の前に、「こんな若い人が・・・」とつぶやいてしまっている。

松本は裕美を戦友だとする。
裕美は同士だと思っている。
誰もが松本を「先生」と崇めるようになっても、松本さんと呼び続けている。
むろん親しみと感謝の意味を込めてである。

裕美はデビュー後も、春日部の実家から通っていた。
親が東京での一人住まいを許してくれなかった。
『木綿』で有名になってからも同じだった。
クルマでの送迎が主だったが、電車のときもよくあった。

朝の満員電車では、「あの~、太田裕美さんですよね」と声をかけられる。
「は、はい、そうです」と、おたがい身体が斜めになりながら話していた。
それから約三十年ほど経ってからも、
「まさか電車に乗っているとは信じられず、声をかけられませんでした」と言われたこともある。
毎日電車で通勤する、普通の女の子であるイメージが、太田裕美の魅力だった。

しかし『木綿』以降、裕美は複雑な気持ちを抱くようになる。
この歌よりいいと思える歌を出しても、世間は評価してくれなかった。
両肩に、『木綿』が重くのしかかっていた。
『木綿』を歌うとき、うっとうしいと思ったことさえあった。
大ヒットした曲をもつ歌手の宿命だった。

裕美は、固定化されたイメージの払拭を試みている。
デビュー以来4年にわたった、松本隆・筒美京平による作家コンビに別れを告げ、新しい方向性を探ることにした。
だがその試行錯誤もうまくいかない。
81年には、紅白歌合戦を落選した。

27歳の裕美は、いろいろな意味で煮詰まっていた。
このまま歌い続けていたら、歌が嫌いになってしまう。
ビジネスライクに歌っている自分も嫌になった。
あれだけ歌が好きだったのに。

28歳になった裕美はすべてをリセットするため、仕事をいったん休むことにした。
82年2月から、ニューヨークに8か月留学することにした。
周囲は「芸能界から忘れられてしまう」と猛反対した。
でももしそうなっても、自分はそれだけの存在だったとあきらめられる。
裕美はそう思った。

だが行ってよかった。
充電ができた。
いまでも歌を好きでいられるのは、ニューヨーク時代があったからだ。

関係者には多大な迷惑をかけた。
突然ニューヨークに行くと言い出した娘を、親は何も言わず送り出してくれた。
息子たちが同じことをしたら、とても平静ではいられない。
親となってから、そう思った。

じつはアメリカ行きは、20歳の頃からのライフプランだった。
25を過ぎたら、勉強にいきたいと考えていた。
ニューヨークでは、ブロードウェイ近くのアパートを借りて、ひとりで暮らした。
そこは風俗店が軒を並べる危険なエリアだったと知ったのはあとのこと。
血だらけで歩いている人を見かけたり、バッグをひったくられそうになった。
空き巣に入られ、家電品をごっそり盗られた。

だが裕美はホームシックにもかからず、自由を満喫している。
髪をばっさり切り、英会話学校に通い、教室ではいろいろな国の仲間もできた。
ひとりでミュージカルやコンサートに行き、セントラルパークで食事をしたり、楽しくて楽しくて、寂しいと思う暇もなかった。

だが一方で、やはり自分は歌が好きだと実感できた。
ひとりでは何もできないことも、身にしみてわかった。
帰国後は、ジャズっぽいものや、現代音楽に関心を向けたり、いろいろな冒険をしている。

裕美にはこのころ、恋人が存在していたようだ。
帰国後の83年12月、雑誌の対談で、
「実は今年の頭に大きな恋を終わらせたんです」と告白している。
82年の10月にアメリカから帰ってきたのだが、その直後に別れを経験していたようだ。

しかしここでは、新しい恋も明かしている。
相手は、音楽プロデューサーの福岡智彦だった。
裕美と同い年で、大阪市の出身。
京都大学文学部現代史学科を卒業後、渡辺音楽出版に入社している。

初対面は82年の8月、裕美のニューヨーク滞在中だった。
じつは異国の裕美を案じ、関係者が数多く彼女のもとを訪れている。
福岡もそのひとりだった。
皆と一緒ながら、ふたりはエンパイアステートビルや自由の女神で遊んでいる。
だが裕美に恋の予感はなかった。
帰国後、福岡が裕美の仕事をディレクトすることになったのだが、ビジネスライクな関係性だった。

だがコンビで仕事をしてゆくうちに、彼の仕事に対する姿勢やその誠実さに、裕美の方から惚れ込んでいく。
裕美にはもともと結婚願望がなかった。
それまで業界の、不実な男性を数多く見てきたことがトラウマになっていた。
周囲の既婚男性でも遊び人が多く、妻の立場を想像できなかった。

だがアメリカで価値観が変わったのか、普通に恋愛して、その延長線上で結婚を考えるようになった。
もっとも、歌手とディレクターの恋愛は御法度であった。
それもふたりは意に介さなかった。

85年、裕美は30歳の誕生日の6日後、福岡と結婚。
引退宣言はしなかった。
裕美は、89年と91年に男児を出産、育児に専念した。
せっかく苦労して生んだのに、かわいい時期を見逃したら損だと思った。

それでも昼間は、子供とだけの日々。
母親という存在を考え込んだときもあった。
また厳しい母親でもあり、子供からは「鬼母」と呼ばれた。

裕美は次男の幼稚園入園を機に、仕事を再開させている。
年に数回の、CMソングや、童謡CDなどの仕事などに絞った。
育児ノイローゼにならなかったのは、仕事のおかげだったかもしれない。

次男が中学を卒業するとき、そのお別れ会で『木綿』をリクエストされている。
音楽の先生がいたのだが、譜面がないとピアノが弾けない。
すると保護者の男性が突然、
「僕、ファンでしたから、譜面がなくても弾けます」と手を挙げてくれた。
とある、有名な指揮者だった。

96年からは、ライブ活動を再開させている。
裕美は歌の仕事を、さしたる欲もないまま始めている。
結婚も、レールに乗せられての感があった。
しかしライブは、自分の意思で決めた。
子供に手がかからなくなり、もう一度やってみたいと強く思うようになった。

再開後の初めての仕事は、渋谷の『ジャンジャン』というライブハウスだった。
ピアノ一本での弾き語りだけ。
それでもたくさんの人が来てくれた。
『木綿』のシングル盤にサインを求められたりもした。
そのきれいな保存状態に、ファンのありがたみを感じた。

それから二十余年、音楽活動を続けてきた。
裕美はいつしか、スペインへの移住を望むようになる。
かつてアメリカへ渡ったように、老後はスペインで暮らしたいと、彼の地への思いを募らせるようになった。

ピカソとガウディの国で、
大好きなサッカーの本場で、
一度きりの人生だから、楽しみ尽くしたい。
食事もワインもおいしい、きれいな街で、酒と薔薇の日々を過ごしたい。
裕美は、この夢を65歳に実行するとしていた。

しかしその前年、思わぬ事態となった。

2019年春、太田裕美は胸に異変を感じた。
検査を受けると、乳がんだった。
初期ではなかった。

今年、太田は週刊誌でこう語っている。
「異変を感じたのは、昨年の3月末くらいでした。胸に大きめのしこりを感じて、これはまずいな、と。でも、昨春もライブの予定がずっと入っていたので、一段落して検査を受けに行ったのが5月末。そしたら先生が、『すぐに手術しましょう』と。ショックというより、あぁやっぱりな、という感じでしたね」

覚悟していた太田は、現実を冷静に受け止めた。
むしろ心配なのは夫のことだった。

「男の人って、動揺しやすいでしょ。いちぱんショックを受けたのは、夫だったかも。私、家族でいちぱん元気だから、『まさか』と思ったんじゃないでしょうか。次男は医療関係の仕事をしていて知識もあるので、検査に行く前に『ちょっとまずいかも』と相談したんです。そしたら、『治る病気だから』と励ましてくれました」

手術をしたのは、7月に京都でのソロコンサートを終えたあと。
入院は4日間だけ。
退院して3日後にはステージに立った。
「主治医に『週末、ライブがあるんですけど』と聞いたら、『大丈夫です』と。内視鏡での手術だったから、ダメージも少なく回復も早かったんです」

問題は、8月から始めた抗がん剤治療を乗り切れるか、だった。
「私の場合、3週間ごとに1回のサイクルで、合計8回受ける必要がありました。副作用がどんなものかは、やってみなくちゃわからない。もう当たって砕けろという気持ちでした」

実際に受けてみると、予想以上に体力を奪われた。
「抗がん剤を打って4~5日間は、猛烈な倦怠感に襲われて動けなくなるんです。長男に、『ものすごく体力か奪われる』とLINEで弱音を叶いたら、『そりゃ、地球上でモルヒネと並ぶくらいに強いクスリだからね。でも、だからがん細胞もやっつけられるんだよ』と励まされて」

しかし太田には、活動を休止して治療に専念する選択肢はなかった。
休む分、周囲に迷惑をかけるという、気持ちの負担の方が大きかった。

夫の智彦も、副作用で手が荒れやすくなった太田さんを気遺って、食器洗いや洗濯などをしてサポートしてくれた。
この間も、太田は副作用が切れる合間を縫うように、ステージに立った。

「幸いライブは週末が多かったので、週のはじめに抗がん剤を打つと、ちょうど副作用が抜けるころにステージに立てるんです。あとは気力で乗り切りました」

そして改めて、自分にとって音楽がいかに大切かを再認識した。
「音楽で心や体をケアする音楽療法があるくらいですからね(笑)。私の場合は、治療しながら歌い続けることで、かえって元気になれたのかもしれません」

そして9月、ブログで乳がん治療中であることを公表。
じつは、このときまで、マネージャーをのぞいてスタッフや共演者にも伝えていなかった。

「早く伝えると、余計な心配をさせてしまう。それがイヤで。なるべくふだんのまま接してもらって、治療のめどかついたところで『これまでどおり歌えるのでサポートしてください』とお願いしたかった」

11月には「太田裕美45周年コンサート」を開いた。
ところは東京国際フォーラム。
客席は満員となった。
「みなさん、私が元気な姿で最後まで歌えるのか心配してくださっていたみたい。その思いがステージにも伝わってきましたね」
ファンが見守るなか、太田は、懐かしい曲から最新のシングルまで全19曲を熱唱。
観各は、その歌声に酔いしれた。
 
そしていま、歌手生活46年目を歩み始めている。
「先のことより、この一年を生きることに必死というのが正直な気持ち。一回一回のステージをちゃんと歌っていきたい。そして、積み重ねた年齢のぶんだけ、深みのある歌を歌える歌手になりたいと思っています」
 
「27歳のとき、ニューヨークで80歳を超えたジャズシンガーの歌を聴いたんです。ステージに出てくるときはヨロヨロしているのに、歌いだすとシャンとするの。私もこんなふうに80歳になっても、ピアノを強いてデビュー曲の『雨だれ』を歌えたらすごいな、と」

そのためにも、いままで以上に健康には気をつけていくつもりだ。
「治療を始めてからは、大好きだったお酒もすっぱりやめました。食べ物は以前から気をつけていましたし、いまはめちゃくちゃ健康的な生活を送ってますよ。人に『食べ物に気をつけなさい』つて口うるさく言ってますけど。自分が乳がんになってしまったから、説得力ないかもしれませんが」

太田は45周年コンサートでも、穏やかな笑みを浮かべながら、観客にこう語りかけている。
「人生は、思いがけないことが起こりますね。私自身、自分が病気になるなんて思ってもいませんでした。みなさんにもご心配をおかけしましたが、今もこうして元気にステージに立っています。生きていれば、つらいこともあるし、思いどおりにいかないこともある。でも、つらいつらいと下を向くんじゃなくて、私はやっぱり上を向いて歌っていたい」

 

 

 

45周年コンサートで

太田裕美ヒストリー

 

 

 

ブログ後記

冒頭に、今年1月の雑誌記事について触れましたが、

同月には、日本経済新聞でも太田裕美のコラム記事が掲載されました。
これまでの半生における、興味深いエピソードを本人が語っています。
そのなかからひとつ、以下に紹介させてもらいます。


本文でも触れましたが、太田裕美は幼いころから大の漫画好きでした。
多忙を極めていた『木綿』のころも、漫画雑誌を愛読していました。
少年向けの『こち亀』こと、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』もそのひとつだった。

四十余年前のある日、マネージャーが太田に言った。
「こち亀の作者がファンらしいよ」

まもなくコンサートの楽屋に、作者の秋本治が訪ねてきました。
漫画の主人公である両さんこと両津勘吉は、お巡りさんらしからぬキャラクターです。
その傍若無人さで、いつも周囲に嵐を巻き起こしています。
しかし秋本は、両さんとは似ても似つかぬ、とても控えめな人でした。
サインをもらうためのLPレコードを、とても恥ずかしそうに差し出したそうです。

後日掲載されたこち亀に、太田裕美が登場しました。
両さんが、彼女のファンであるという設定です。
太田は、こまかい部分までリアルに描写されていることに驚きます。
ステージ衣装の両肩のリボンまで、しっかりと描かれていました。
その後何回にもわたり、太田は登場したということです。


太田の息子が7歳と5歳になったとき、テレビでアニメ版『こち亀』の放送が始まりました。
母親の遺伝なのか、とくに長男が夢中になります。
そして同級生たちと一緒に、コミックの一巻から遡って読み始めた。

「おい、これ、おまえのお母さんじゃないか?」
友達に言われて、長男はびっくりします。

「お母さん、こち亀に出てたの?!」
「そうよ」
「すげ~!!」

大騒ぎとなった。
息子たちは、自分の母親が歌手でありヒット曲もあることは知っていました。
しかし褒められたのは、これが初めてのことだった。

秋本はこち亀の連載を、40年間一度の休載もなく描き続け、2016年に連載を終えました。
太田には、これがどれほど大変だったのか想像もつかない。
2017年に秋本と太田の対談が実現したのですが、
秋本は、太田が結婚、出産を経て、今も現役でいることを賞賛してくれたという。

太田は、まさに亀のごとき長寿漫画に登場させてもらった縁を大切にしたい。
そして末永く歌い続けていきたいと思ったということです。