鎌倉幕府を開いたのは、ご存じ源頼朝です。
教科書に載っていた、あの肖像画も有名です。
ところが今から25年前、これは別人であるとの説が発表されました。
するとこの像は、あっという間に教科書から消え去ってしまったのです。
では本当のモデルは誰なのか?
室町幕府を開いた足利尊氏の弟である、足利直義だという。
幕府の草創に大きな役割を果たしたらしい。
しかし一般にはあまり知られていないのでは。
メジャーな頼朝のままの方がよかったとさえ思いました。
それから四半世紀たった今年、
ブログ筆者は図書館で、たまたまこの説の本を手にしました。
普段は寄りつかない美術史のコーナーで。
あぁこれかと思い出し、読んでみた。
すると思いのほかおもしろかったのです。
なぜ頼朝像が直義だとわかったのか。
逆に、直義像がいつどうして頼朝にすり替わってしまったのか、
その推理が素晴らしかった。
まさに歴史のミステリーなのです。
ただしこの手の本は、専門用語が飛び交います。
学術的な記述が多過ぎます。
理解するには難解な言葉を検索しつつ、行きつ戻りつ、メモをとりながらの読書となりました。
また類書も読み込んで、不明な部分を補いました。
以下はそのメモをもとにした、頼朝否定・直義論のあらましです。
もっとも、この論の根拠は多岐にわたります。
ここにすべてのご紹介はできません。
ただ、おもしろいことに、その論拠には画像の分析が多い。
対象がそもそも肖像画ゆえ当然のことなのですが、以下の記述も、いわばビジュアル面に絞りました。
研究者という人たちも直感的なことで判断を下す、素人的なその一面に親近感をおぼえたこともあり、写真引用を多用し、わかりやすさを心がけました。
なお、文中にある「研究者」というのは、美術史家や歴史学者らの総称です。
頼朝とされる像については、多くの学者が長年にわたり研究を重ねてきたのですが、最後に、米倉迪夫という美術史学者により歴史の真実があきらかになりました。
これらのすべての方たちに敬意を払いつつも、煩雑さを避けるため、以下の文章ではほとんどそのお名前を省略し、一律「研究者」とさせていただきます。
つまり、あたかもひとりの研究者による思考・論証という流れとなっています。
簡明さを優先させたことにご理解下さい。
ブログ筆者は歴史ミステリーが大好きです。
謎が解明されるまでの過程がたまらない。
この頼朝とされてきた肖像画の数奇な運命は、まさにその醍醐味を味あわせてくれました。
同好の士の方々にお読みいただければさいわいです。
参考・引用資料
『源頼朝像 沈黙の肖像画』 米倉迪夫著
『国宝神護寺三像』とは何か』 黒田日出男著
『源頼朝の真像』 黒田日出男著
など
上の三枚の絵は、京都の神護寺に伝わる、いわゆる神護寺三像と呼ばれるものです。
源頼朝、平重盛、藤原光能を描いたとされます。
しかし現在、これらのモデルは、すべて否定されています。
以下、説明の便宜上、
伝頼朝像
伝重盛像
伝光能像
と、します。
三像のうち、伝頼朝像はとりわけ有名です。
江戸期から広く知られるようになりました。
明治に入ると、国宝に指定(三像とも)されます。
しかしその後、これは本当に頼朝の像なのかとの声が上がり始めます。
鎌倉時代初期において、類似の像がまったく存在しないのです。
神護寺三像は絹本と呼ばれる、書画用の絹地に描かれています。
問題は、その絵絹の幅(織幅)が約112cm(三尺六寸七分)と極めて大きいことです。
このような広幅の絵絹は、十二世紀末期・十三世紀初頭の日本の絵画作品にはいっさい使われておらず、広幅の絵絹が使用されるのは、鎌倉末期以降となります。
頼朝を、当時存在しないキャンバスに絵を描くことは不可能なのです。
これら状況証拠的だけでも、神護寺三像はかなり怪しい存在といえます。
では、像そのものについて検討を加えていくことにします。
神護寺の三枚の絵は、素人目には同じような作風に見えますね。
しかし研究者の目からすれば、表現や構図が微妙に異なるという。
最初に伝頼朝像と伝重盛像の二枚が描かれ、そのすこしあとに、伝光能像が描かれたというのです。
この分析が、真相解明の大きなポイントとなりました。
まずは、セットと思しき、伝頼朝像と伝重盛像に話を絞ります。
ここでご紹介するのが、とある古文書です。
室町時代の初期である、1345年に書かれた、
『直義願文』と呼ばれるものです。
じつはこの文書が、伝頼朝像を否定する、決定的な論拠となりました。
直義願文には、こう書かれています。
「征夷大将軍である兄の足利尊氏と、自分(直義)の画像を神護寺に奉納する」と。
兄弟ふたりで苦労して開いた、室町幕府の安寧を祈るためです。
直義願文は、一部の研究者のあいだでは、その存在が知られていたようです。
しかし神護寺三像との関連性には、誰も気がつきませんでした。
この両者に着目した研究者こそが、伝頼朝像の真実を発表した米倉迪夫です。
米倉により、それまでくすぶっていた頼朝懐疑論が、一気に表面化したのです。
ならば三像のうちの、セットと思われる二像が、尊氏と直義に違いない。
研究者は、そう考えました。
では、どちらが尊氏で直義なのか。
じつは二像を並べる場合、両者の序列で左右が決められるという。
つまり、右側に上位者が置かれる。
尊氏と直義の関係であれば、征夷大将軍である尊氏が右側となります。
その結果、左側の伝頼朝像が、直義像となるのです。
一気に結論に達してしまいました。
あまりにもあっけなく。
しかし直義であるのならば、さらなる証明が必要です。
この像が、直義の時代に描かれたとの立証が必要です。
そこで登場するのが、夢窓疎石です。
南北朝中頃の、高名な禅僧です。
そして京都の天龍寺には、夢窓疎石の像が伝わっています。
寿像と呼ばれる、モデルの生存中に描かれたものです。
夢窓疎石像
研究者は、夢窓疎石像と直義像に共通点を見いだします。
まずは目の部分。
① まつげが水平に引かれている。
② 眼球が目の上部におかれ、黒と灰色で描かれている。
③ 眉がふたつのユニットから成っている。
次は顔の下半分です。
④ 上下唇の境界線は左右の端で強く打ち止めされている。
⑤ 彩色されている原画での朱の処理に共通点がある。
⑥ 鼻孔が見えるように鼻を描き、鼻孔は灰色で色づけされている。
つまり直義像と夢窓疎石像は、同じ時代の、さらには同じ絵師により描かれたものと考えられるのです。
そしてじつは、決定的な事実があります。
夢窓疎石は足利尊氏・直義兄弟と、きわめて近しい関係にあったのです。
この要因にもより、伝頼朝像が足利直義である可能性が高まりました。
さらに伝頼朝像には、頼朝をモデルとするにはおかしな点があります。
太刀の紋は源氏ではなく、足利家の紋であることも判明したのです。
頼朝の時代に、足利の紋が存在するわけはありません。
決定的に頼朝を否定しています。
研究者は、もう一段の証拠で直義説の補強を試みます。
直義と思われる神護寺の像と、他所に現存する直義像との比較です。
端的にいえば、顔が似ているかどうかを較べようとした。
しかし残念ながら、直義とされる像は現在どこにも伝わっていません。
そこで研究者は、もうひとつの伝重盛像に目を向けました。
この像は足利尊氏と推定される。
ならば、他のどこかに伝わる、尊氏の像に似ていればいいことになる。
足利尊氏といえば、かつては『騎馬武者像』でした。
教科書にも載っていました。
一定以上の齢の人なら、この像がいまだ頭に浮かんでしまいます。
騎馬武者像
ところがこれは尊氏ではないと、現在では否定されています。
伝頼朝像と、同じ憂き目にあったということです。
しかしさいわいなことに、尊氏とされる像は各地の寺に伝来しています。
広島尾道の浄土寺の画像と、京都の等持院、および大分の安国寺の木像です。
これらの三像を、神護寺の像と比較してみましょう。
さてどうでしょう。
左端の伝重盛像と、右の三像はよく似ています。
思わず笑ってしまうくらいに、いくぶん垂れ気味の目がすべてに共通しています。
顔の形状や丸い鼻も同じように見える。
これらの類似により、研究者は伝重盛像を足利尊氏であるとしました。
それでは三像のうちの、残った伝光能像は誰なのか?
先にすこし触れたように、この像は、尊氏・直義像のすこしあとに描かれたとされます。
そのため、伝光能像は第二代将軍足利義詮と推定されました。
あらためて三像を見較べてみましょう。
おわかりでしょうか。
右端の足利義詮の像は、尊氏・直義と比べて、若々しさが感じられます。
義詮の父は尊氏です。
義詮の叔父は直義です。
息子と父、おいと叔父をくらべれば、若くて当然のこととなります。
研究者はこの仮定のもとに、他に伝わる義詮像との比較を試みました。
尊氏と同様、顔が似ているかどうかです。
先に紹介した足利家の菩提寺である京都の等持院には、室町幕府歴代将軍の木像が安置されています。
そのなかには義詮の像もあるのです。
比較してみましょう。
おわかりいただけたと思います。
等持院の像は、伝光能像とそっくりです。
研究者は、神護寺に尊氏と直義の像が奉納されたあと、数年後に義詮像も描かれて、同じく神護寺におさめられたと考えています。
この推定を裏付ける、直義願文のような古文書はありませんが、しかしこの両像が似ていることは、素人目にも納得できます。
こうして、神護寺三像の「身元」があきらかになりました。
ではなぜ足利将軍家の三人が、頼朝らにすり替わってしまったのか。
ここが一番知りたいところです。
研究者は、この経緯も推測しています。
室町幕府は、尊氏直義兄弟が力を合わせて開いたものです。
いわば、二頭政治として発足している。
ふたりは、とても仲がよかったのです。
ゆえに神護寺に、そろって像を奉納したのです。
しかしこの5年後、兄弟は決別してしまう。
いわゆる観応の擾乱と呼ばれるものです。
この内紛は2年にも及びました。
戦いの前半は直義が勝利しています。
尊氏は屈服し、直義は尊氏の嫡子である義詮と新たな二頭政治を始めました。
そして直義は義詮の像を描かせて、神護寺に奉納した。
これは、尊氏と直義の像のすこしあとに義詮の像が描かれたとの推定に合致します。
じつは尊氏像には、顔面などに傷みがあります。
義詮像が納められたため、一時的に折り畳まれたのです。
しかし乱の後半は尊氏が巻き返します。
結果として直義は争いに破れ、亡くなってしまいました。
尊氏が毒殺したともされます。
さて神護寺は困ったことになりました。
直義の像の扱いについてです。
寺宝が一転して、不都合な存在となってしまったのです。
しかし廃棄はされませんでした。
伝頼朝像にも折り畳まれていた痕跡があります。
壁から外され、寺庫の奥深くにおさめられたと思われます。
のちの神護寺の諸寺伝にも、これらの像については、記載されることはありませんでした。
以上の真実は、まさに歴史の闇に消えていってしまったのです。
その後、室町幕府は次第に弱体化してゆきます。
呼応するかのように神護寺の寺勢もおとろえ、室町後期には伽藍が焼失してしまいました。
時は下った江戸初期、
荒廃した寺を再興すべく登場したのが、神護寺の僧、普海です。
徳川家は、そのルーツを源氏と自称していたのですが、晋海はここに目をつけます。
神護寺はそもそも、源氏の氏神である八幡大菩薩の神願により創建されています。
つまり晋海は、「神護寺は源頼朝ゆかりの寺」であるとの主張を始めたのです。
もうおわかりでしょう。
晋海は、神護寺には「頼朝の御影」が存在するとしたのです。
寺の奥から、直義の像を引っ張り出してきたのです。
しかし三像のうちの、なぜ直義の像だったのか。
おそらくですが、
義詮像では若すぎる。
垂れ目の尊氏像では威厳がない。
それに比べて直義の像は、端正な凜とした顔立ちです。
案外こんな理由で、直義が源氏の象徴、頼朝に仕立て上げられたとされます。
なんともわかりやすい理由です。
現代には、家康の像も伝わっています。
このご面相からは、尊氏の方が、その祖とするにふさわしいと思わぬではありませんが。
冗談はともかく、直義の像は、頼朝御影として生まれ変わりました。
家康は神護寺に二百九十石を与え、荒れ果てていた同寺は、みごと再興を果たすこととなったのです。
以降、直義像は江戸期を通じ、源頼朝像として崇敬されることになりました。
そして明治には国宝に指定され、昭和の世まで、広く日本人に源頼朝像として親しまれてきました。
しかし平成に入ると、直義願文が決定的な証拠となり、頼朝とされてきた像は、教科書から消え去ってしまったということです。
では源頼朝の像は、現代に伝わってないのでしょうか。
研究者は、そのいわば真像を突きとめています。
山梨県甲府市善光寺の、源頼朝像です。
この像は、妻北条政子による制作とされてきましたが、
胎内銘の解読から、鎌倉時代の前期の作だとの裏付けが成されたのです。
善光寺 源頼朝像
神護寺の像とくらべると、かなり厳つい印象ですね。
しかし頼朝は、血を分けた弟である義経を滅ぼしています。
いくぶん優しげな伝頼朝像より、この像の方が頼朝に相応しいのかもしれません。
直義も兄尊氏に滅ぼされています。
ともに兄弟間の抗争があり、ともに弟が敗れている。
歴史の因果をなにやら感じてしまいます。
さて一方、頼朝像が否定されたことを、神護寺はどう思っているのでしょう。
神護寺にはHPがあり、この問題を取り上げています。
そして直義説を否定しています。
やはり頼朝の像なのだと主張しています。
せっかくの寺宝を、今さら否定するわけにはいかないようです。
寺側のその気持ち、わからぬでもありません。
ネームバリューは、圧倒的に頼朝なのですから。
神護寺はこれからも、きっとこのままガンバルのだと思います。
しかし当の直義は、あの世でどう感じているでしょう。
兄に滅ぼされ、像は外され、また日の目を見たと思ったら、あろうことか別人にされてしまった。
さらにも四百年も経った平成の世に、ようやく「復帰」できたのに、持ち主の神護寺は、いまだ頼朝だと言い張っている。
じつはこのブログも、神護寺と同様、直義には「冷たい」のです。
タイトルを、『源頼朝の憂鬱』としています。
直義に同情するのであれば、『足利直義の憂鬱』とするべきでしょう。
でもそれでは人目を引きません。
読んでもらえません。
それで頼朝の名を使わせてもらっています。
最後までお読みいただきありがとうございます。