幻のレコード大賞 大瀧詠一作曲『熱き心に』 大瀧没後十年に小林旭が明かす賞レースの舞台裏 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 今年の文藝春秋11月号に、小林旭の回顧録(最終回)が掲載されました。「『熱き心に』と幻のレコード大賞」と題されたもので、ここで小林はいわゆる”爆弾発言”をおこないました。1986年のレコード大賞において、小林が歌った『熱き心に』が審査段階で大賞に決まったものの、直後の裏工作により、中森明菜の『DESIRE』が逆転受賞したというのです。以下には、回顧録から当該部分を引用させていただきました。また他書でも、作曲者の大瀧詠一、作詞者の阿久悠がそれぞれこの歌について語っていて、これらも併せて引用させていただき構成したものです。

 最初にご紹介するのは、『みんなCM音楽を歌っていた』(田家秀樹著 2007年)です。『熱き心に』はCMソングとしてつくられたのですが、この本では、著名なCM音楽プロデューサ大森昭男と、その依頼を受けた大瀧詠一が対談するかたちで、同曲が完成に至る経緯が詳述されていています。大瀧の『熱き心に』にかけた情熱が伝わる貴重な資料といえます。

 次は、阿久悠が著した『愛すべき名歌たち』(1999年)です。「私的歌謡曲史」と副題されたこの本では、阿久悠が幼少期の思い出とする歌から、他の作詞者による歌、自らつくりだした数多くの歌など、百曲にわたって思うところが述べられています。『熱き心に』についても、作詞者本人しか語れないエピソードがとても興味深い。件のレコード大賞にも触れていて、当時の悔しさを率直に吐露しています。

 最後が小林旭の回顧録からの抜粋となります。この本文は冒頭からいささか荒れ気味の記述となっていて、憤怒の情が如実にあらわれています。拙稿をアップしようと思い立ったのは、まずもってこの怒りでした。小林がレコード大賞の内幕を暴露したのはこのときが初めてのようで、2004年に出た自伝、タイトルもズバリ『熱き心に』においても、レコード大賞については触れていません。回顧録の、それも最終回でついに鬱憤を吐き出したことになります。

 自分は大瀧詠一のファンです。その大瀧は長年にわたって小林旭のファンでした。『熱き心に』がレコード大賞受賞の栄に浴していたなら、憧れの人に曲を提供した一ファンとしても、どんなにうれしかったことでしょう。今年は大瀧詠一没後十年にあたります。その年に秘話が明かされたことは、何か因縁を感じてしまいます。拙稿がお一人でも多くの大瀧詠一ファンのお目に留まることを願っています。

 

 

 

 

 

『みんなCM音楽を歌っていた 大森昭男ともう一つのJ-POP』
田家秀樹 著
対談 大瀧詠一 大森昭男 (抜粋)


引用注:大森昭男は著名なCM音楽プロデューサで、三ツ矢サイダーのCMに大瀧詠一を抜擢し、その名を世に知らしめた。インスタントコーヒー「AGFマキシム」のCMにも大瀧を起用し『熱き心に』が生まれた。



大森 で、どうしましょうか。話はどこに行きましょう。

大瀧 それで、『熱き心に』ですよ。85年の。その間、大森さんには随分いろんな話でスタジオに足を運んで頂きました。84年に『EACH TIME』が出て、84年の途中からは何もしてない状態で、85年はなおさらそうだったんですけど、毎日スタジオにはいたんですけど、失礼なことをしてるんですよね。でも、僕の中では『サイダー’83』で終わったっていう気分があったので、気持ちが動かなかったんですよ。それがある日、大森さんが、信濃町のソニーのスタジオの階段を自信ありげに上がってきた。それは良く覚えてる。にこやかな顔で自信ありげにツカツカとやってきて「大瀧さん、今度は逃げられませんよ」って言ったんですよね。

大森 絶対に大瀧さんって決めてましたからね。逃げられませんよ、断れませんよって。

大瀧 あの時に、いままでにはないただならないものを感じたんですけれど、僕はいつものパターンで、「言わないでくれ」と。僕が想像するからってまず3つ挙げた。つぎ5つ、その後に10個くらいと並べたんですよね。ビールとか化粧品とか、大森さんが持ってきそうなものを色々考えて、「この中に入っているようなものだったら断りますよ」って。大森さんは「いやいや」とか「なかなか」とか言ってるだけなの。

大森 当たりませんでしたねえ(笑)。

大瀧 そうやって10個まで聞いて、その中に入ってなかった時点で諦めた。負けたと思ったの。僕はいつもそういうのは当たるんですよ。”一を聞いて十を知る”というところがありますから。単に早とちりなだけなんだけど(笑)。大森さんはとにかく自信満々な表情で威圧的に来るわけですよ。”分かるはずない”っていう感じで、ムフムフ、ムフフって。こっちの前突っ張りを全部、右に左にひょいひょい牛若丸のようにかわして行くんです。それで、「参りました」と言ったんですよね、確か。

大森 その時に「小林旭さんです」と言ったんですけど「やります」ともなんとも言いません。返事はすぐにくれなかったですよね。ただ、深い沈黙がありました。

大瀧 沈黙でした? 内心は、そっちで来たかという感じでね。想像に入っていなかったから。あまりに近すぎた。だって10年前にビデオを見せているわけですからね。でも、85年になんで小林旭だったんだろう、AGFは。

大森 やっぱり『北帰行』ですよ。朗々と広がりのある歌というんで。ディレクターと演出家とプロデューサーが「小林旭さんで」と言った時に、これはもう大瀧さん以外、私はやらないと決めてましたからね。

大瀧 それが自信ありげな表情に出ているわけですよ。僕はその時点でこれは天命と受け取ったから、そこで沈黙があるわけですよ。考え始めているんですよ、どのラインにしようか。『さすらい』にしようか『北帰行』にしようか。それで沈黙になったんじゃないですか。でも、出来なかったんですよ。どっちにしようか最後まで悩んだ。ロケ隊はもう出発して、向こうから「電話でもいいから、カセットでもいいから聴きたい」って連絡が来るわけ。「曲を聴いて撮りたい、曲を聴いて撮りたい」って。でも出来なかったんですよ。結局、『さすらい』と『北帰行』と2曲作って、一つにまとめちゃえば良いんだって、だから2部構成の長い歌になってるんだけど。あれが夜中に出来た時はインターホーンで女房をたたき起こして「聴け!」って。一生で一回だけですよ、そういうことしたのは。あんなことそれまでに一回もなかった。

大森 でも、その時点で作詞家は決めていたでしょう。

大瀧 阿久悠さんで決めてました。あ、そうだ、CMと言えばサントリーの『冬のリヴィエラ』を忘れてるじゃない。大森さんじゃなかったけど。あれは川崎徹さんから「大瀧詠一と森進一の組み合わせで何か」と言ってきたんですよ。最初はジャズで、ということだったんで『ハロー・ドーリー』みたいなのをやろうと思ったんだけど、うまく出来ない。自分の中にジャズがないんだって初めて気づいた。いざとなると出てこない。もちろん演歌も出てこない。あの時は、自分は流行作家にはなれないんだって思いました。自分の中にないものって出てこないんだね。しょうがないから松本(隆)に「何か作って」って頼んで、詞を書いてきて、あれを読んでいたらああいう詞になったんだけど。『熱き心に』の時に「松本隆で」という声もありましたね。でも、僕は「小林旭に松本は合わないと思うから」って阿久さんにしたんですよ。

大森 男の歌だから阿久さんにしようと。阿久さんと大瀧さんは日比谷の東京會舘で逢いましたね。ほとんど言葉を交わさなかったですけど、曲を渡して、阿久さんはそれを持って伊豆の旅館かどこかに行かれたんですよね。一週間くらいして原稿用紙のマス目一杯の文字でファックスで届いた。

大瀧 大森さんのところに届いたんですよね。僕はそれを電話で読んで貰った。”言葉を聞く”という手法は結構良いんですよ。『A LONG VACATIN』の時は『カナリア諸島にて』が最初に出来たんだけど、あれも電話で聴いたんですよ。松本が喋っている時にも身体がブルブル震えるような手応えというか、実感があった。そういうことがあったから大森さんに読んでもらったんだけど、『カナリア諸島にて』の時のような実感はまるでなかったですね。全くなかった。ところが小林旭が歌ったら変わったんだよね。

大森 大瀧さんは、小林さんとお会いしたのはあの歌入れの時だけでしたっけ。

大瀧 あの時一回だけ。六本木のあの歌人れのスタジオが最初で最後。その時、銀座に誘われたんだけど、そんなところに行ったら大変だと思ったからね(笑)。それ以降も逢ってないです。一期一会。それで十分。作品の提供だけで良いんですよ。

大森 小林さんの娘さんが、大瀧さんのファンだったんですってね。あの大瀧さんがウチのお父さんに曲を書いてくれるはずがないって言われたらしくて、カセットを証拠に持って帰ると言われてましたよね。

大瀧 僕は以前、僕の仮歌を家で流していた時に、娘さんが二階から「これ、大瀧詠一でしよ!」って降りてきたっていう話を聞いたことがありますよ。それで「おう、お前知っているのか」って言ったっていう。上機嫌で「カセットをくれ」って持って行ったものね。

大森 85年6月27日、六本木ソニーAスタですよ。あの時、ボーカル・セレクトしているスタジオには大瀧さん以外誰も入れなかったですよね。でも、僕は、どう進んでいるのか気になって、ピアノの下で身を隠して聞いていたんですよ。大瀧さんは知らないと思うけど、ヘッドホンには、大瀧さんの声が返ってきてたんです。そうしたら、大瀧さんは、独り言言ってるの。プレスリーじゃなかったと思うけど、外国の歌手の名前を出して「まるで誰それじゃないか」って「ウッフッフッ」て笑いながらつぶやいている。

大瀧 あ、ほんと? 聞いていたの? でも、それは覚えてないなあ(笑)。

大森 あの時は、大瀧さんとしても相当気持ち良かったんじゃないですか。

大瀧 良かったですよ。それはだって、本当に念願が叶ったしね。実際に良かったし。どうなるかと思っていたのがだんだん良くなってきて「これは行けるぞ!」っていう高揚感があったし。『熱き心に』はうまく行ったね。『サイダー’73』の軋礫から色々あって『サイダー’74』で僕としては出来上がって、『サイダー’77』である種の終焉を迎えて。その後に再会して幻の『サイダー’79』があって、それが結果的には二年半も待って『A LONG VACATION』になって。その間に『A面で恋をして』で杉山登志と資生堂の呪いまであって(笑)。で、85年に『熱き心に』で、それまでの流れと違った形で、大森さんと一緒に小林旭さんという大存在と出逢って、作品としても本当にうまく出来た。もう、これで燃え尽きましたね(笑)。

大森 これは僕だけの思いかも知れないけど、大瀧さんは岩手県、イーハトーブのご出身でしよ。僕、宮沢賢治さんの世界で有名な高校があるでしよ。『熱き心に』の後、あそこに行ったんですよ。

大瀧 花巻農業高校ですか。

大森 そうそう。そこへ行って半日くらいいたんですよ。『熱き心に』のあのメロディは、あの風景で聴くと、三つ子の魂かなと思いましたね。

大瀧 風土には関係していると思いますよ。その場所に行くと分かるということはありますよね。僕、太宰治の小説は読んだことないけど、斜陽館に行った時に全部分かったような気がしたものね。こんなこと言うと太宰の好きな人に怒られそうだけど(笑)。宮沢賢治は読んだことないけど、読まなくても自分の中にあるように思ってるんですよ。(小林)アキラはぽくの従兄弟がすごく好きだった。僕は世代的には少しずれているからリアルタイムも後半の方なんです。従兄弟の影響なんですよ。『熱き心に』は彼も聴いてたと思うんで、良かったなと思いますけど。

 

 

 

 

 

 

『愛すべき名歌たち』(1999年)
阿久悠 著
~熱き心に~


 『熱き心に』はコーヒーのCMソングとして書いた。もちろん、最初から、小林旭が歌うということも決まっていた。作曲の大滝詠一とは初仕事で、東京会館かどこかのティーラウンジで、顔合わせを兼ねた打ち合わせをした。あまり、しゃべらなかった。しかし、クレイジー・キャッツの歌に興味があるとか、小林旭の初期の頃のアンチャン節風のものが好きだとか、ちょっと不思議な人だなと思った。それでも、何となくイメージを語り合って、作業としてはメロディーを先に作るということになった。『ズンドコ節』とか『ダソチョネ節』といった曲が出来てきたらどうしようと、ひそかに恐れているところもあったのだが、届けられた作品は朗々と美しく、満足した。

    くちびるに ふれもせず
    別れた女 いずこ
    胸は 焦がれるま・・・

 そろそろ世の中、何もかもが等身大になってきていて、しかも、すべてが有視界、夢にしろ、ロマンにしろ、手の届く距離しかあてにしないというのが現実になっていた。その現実を反映して、歌もまた、電話で探せる範囲のドラマになっていて、ケタはずれのスケールとか、とんでもなく大きな男とかは登場させられなくなっていた。仮にそういう歌を作ったとしても、歌って似合う個性の持ち主が少なくなっていたのである。

 しかし、小林旭が歌うとなると話は全く別で、ぼくは、可能な限り美文調をメロディーにあてはめ、日本離れのした風景と、現実離れのした浪漫を書いた。 

    オーロラの空の下
    夢追い人 ひとり
    風の姿に似て・・・

 小林旭なら、オーロラの壁の中につき進み、地球を一巡りして南から、「やあ」と帰って来ても不思議な感じがしない。そう思っていたのである。銀幕のスターの大きさとおおらかさであろう。

 昭和60年の秋から、テレビでCMが放映され、評判になった。レコードは、少し遅れて12月1日に発売されて、年を越えて約1年間、ずっと売れつづけた。結果、昭和61年のレコード大賞の有力候補だと言われ始め、ぼくはかなりの自信を持って、当日会場に臨んだ。もちろん、小林旭も出席していた。

 しかしながら、突然、特別賞的なものが設けられ、そっちへまわされることになる。ステージで、少々憮然とした顔になったことを、今でも覚えている。その前だったか後だったか記憶が曖昧だが、たしか吉田正さんのパーティーで美空ひばりさんに会い、珍しく ― ぼくは美空ひばりさんを畏怖していてしゃべれない ― 一言二言話しているうちに、「あちらにばかりいい詞を書かないで、こちらにも」と言われた。

 あちらとこちらの関係を理解するまでに少々の時間を要したが、やがて気がついて、「ぜひ、そのうちに」とシャッチョコばって答えた。

 

 

 

 

 

 

『文藝春秋』2023年11月号
   小林旭回顧録 

『熱き心に』と幻のレコード大賞(抜粋)

 表彰状を受け取る小林旭の隣で、阿久悠が露骨に顔をしかめていた。賞レースの意外な結末に小林も苦笑いを浮かべるしかなかったという。「もしあのときの授賞式が生放送ではなく収録だったら、俺はストップをかけていたかもしれない。『おいちょっと待てよ。レコード大賞はどこに行っちゃったんだ』ってね。若い頃は腹を立ててテーブルをひっくり返したり、コップを握りつぶしたしたこともあったけど、さすがにあの時は自制心が働いたよ。公の場で何かしようものなら恥をかくのはこっちの方だからね」

 昭和61年の大晦日に放送された「第28回日本レコード大賞」(TBS系)。通算124枚目のシングル『熱き心に』が大賞候補にノミネートされた小林は、作詞を手がけた阿久と共に授賞式が行われた日本武道館のステージに立った。

 その年の金賞、すなわち大賞候補作に選ばれた作品は、石川さゆり『天城越え』やテレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』、渡辺美里の『My Revolution』など、いまも歌い継がれる名曲ばかりだ。並みいるライバルを押し除けて最終審査に残ったのが小林の『熱き心に』と、前年『ミ・アモーレ』で大賞を受賞し、二連覇を狙う中森明菜の『DESIRE-情熱-』だった。

 大賞が発表される直前まで、小林には自分が選ばれるという確信があった。舞台裏で事前に審査員の西村晃から受賞を伝えられていたからだ。「審査を終えた晃ちゃんから『アキラ、おめでとう!決まったよ。レコード大賞だよ』って言われたんだ。俺は『そんなもん、下駄履いて帰るまでわかんないでしょ』と言ったんだけど、晃ちゃんは『映画俳優で大賞を取るなんてのは初めてだから俺も嬉しいよ。じゃあな』なんて言って帰っちゃったの。

 賞を決める審査員が言うんだから間違いのない話だ。ところが、阿久さんと二人でその気になって舞台に上がると、大賞に選ばれたのは中森明菜だった。俺に渡されたのは『特別選奨』という聞いたこともない賞だ。しかも、いま書きましたと言わんばかりの鉛筆書きの賞状で、後で聞くと、その場で作られたみたいだね」

 当時のレコード大賞は紅白歌合戦と同じ大晦日に放送され、出場者は式が終わると東京・渋谷のNHKホールに駆けつけるのが恒例になっていた。審査が終わった段階で選に漏れた歌い手が会場を後にするため、控え室には大賞の受賞者だけが残される。その年、最後まで残ったのは小林と明菜の二人だけだった。

 「結果を知らされていた俺にしてみれば、なぜ彼女がいるのか不思議で仕方がなかったよ。中森明菜がどんな歌手なのか、どんな歌を歌ってるのかも俺はよく知らない。前にスタジオですれ違ったことがあって『なんだあのガキは』って印象を抱いたことがあるくらいだから。結局、審査員が帰り、歌手もいなくなった後で裏工作が行われ、審査以外の要因で結果が動いたわけだ。取ってつけたような賞をもらったところで、俺は嬉しくも何ともないし、そりゃ阿久さんにしたって『ん?』ってなるよ。坊主憎けりゃ袈裟まで-という言葉があるけれど、その一件以来、俺はレコード大賞だけでなく、授賞式を放送したTBSも嫌いになった」

 公益社団法人・日本作曲家協会が主催する「日本レコード大賞」は米国のグラミー賞を範として、作曲家の古賀政男と音楽評論家の平井賢が中心となって昭和34年に創設された。草創期から後援のTBSテレビが中継を行い、長年の間、NHK紅白歌合戦と並ぶ国民的歌番組として親しまれてきた。

 昭和52年、沢田研二が『勝手にしやがれ』で大賞に輝き、小林が特別賞を受賞した第19回日本レコード大賞は番組史上最高の視聴率50.8%を記録している。だが、不自然な選考過程が批判を浴び、レコード会社やプロダクションの力関係で受賞者が決まるという指摘が相次ぐと、賞レースとしての権威は失墜した。

 小林は昭和35年の第2回大会で『小林旭のズンドコ節』と『ダンチョネ節』で企画賞を受賞、平成7年には功労賞を受賞している。「たしかに賞は何回かもらったよ。ただ、それにしたって結局はプロダクションの勢力争いの範囲内で行われることさ。何しろ、事務所の社長が仕事を広げるために取りに行くような賞なんだから。変な話だが、あのときのレコード大賞では六千万円からの金が動いた。当時、俺のマネジャーをやっていた企画会社の社長から『すいません、これだけの金がかかるんです』と言われ、現実として俺の財布から大金が出て行ったんだ。その社長はよく働くし、仕事もできるいい男だった。ところが、大会側の人間に言われるがままに金を出し、あれこれ使わされるうちにあっという間に六千万円が消えてしまった。その結果が『特別選奨』だったというわけだ。どこの事務所の力か知らないが、最後には芸能界の力学で票が動く。そんなことが平然と行われている世界なんだよ」

 二連覇を遂げた明菜が、泣きながら歌った『DESIRE』は大きな話題を呼んだが、その年の視聴率は十数年ぶりに30%の大台を割った。翌年以降も数字が回復することはなく、近年は10%台の低空飛行を続けている。


デカい歌になる


 レコード大賞の授賞式を終えた小林は、その足で第37回紅白歌合戦」に出場するためにNHKホールに向かった。会場では初出場の少年隊が『仮面舞踏会』を歌い、石川さゆりが紅組のトリを務めた。小林にとっては昭和52年に『昔の名前で出ています』で出場して以来9年ぶりの紅白のステージだった。「NHKにしても、俺がレコード大賞を取って来ると思っていたようだから面食らっただろうね。慌てて画作りを変えたりして、色々影響があったようだよ。紅白にはその後も2、3回呼ばれたと思う。7回?ああ、そう。全然覚えてないな」

 レコード大賞は逃したものの『熱き心に』はカラオケソフトを含むトータルセールスで百万枚以上を売り上げた小林の代表曲のひとつだ。紅白で白組の司会を務めた加山雄三は「今年、この曲ほど話題になった曲はありません」と紹介した。前年11月に発売されて以来、息の長いヒットを続けていた『熱き心』には味の素AGFの「マキシム」のコマーシャルソングとして制作された曲だった。

 「最初に音だけ入ったデモテープを聞いた時は、正直言ってピンと来なかったんだよ。リズム隊のドタッドタッという音ばかりが強調されていて『なんだい、この曲は?』と思ってね。ところが、吹き込みの段になっていざイントロが流れると、チャララリララン~というストリングスのアレンジが、俺が好きな映画『大いなる西部』のタイトルバックと重なったんだ。その瞬間、幌馬車がグーツと砂を巻き上げながら疾走す芯映像が目に浮かび『これだ!』と思った。『デカい歌になる』と直感したね」


スタジオで快哉を叫ぶ大瀧詠一

 作曲を手がけたのは松田聖子や森進一などに数々の名曲を提供し、若き日の山下達郎をプロデュースしたヒットメーカーの大瀧詠一である。小学生の頃から小林に憧れ、エルビス・プレスリーと同じくらい小林に心酔していた大瀧は、依頼を受けた時に「一生の内、何としてでもやり遂げなければならない仕事の一つ」と考えたという。

 大瀧は小林の『さすらい』と『北帰行』に着想を得て壮大な曲を書き上げた。出来上がった時には夜中に寝ていた妻を叩き起こし、無理やり聞かせるほど手応えを感じていた。スタジオで小林の力強い歌声を聞いた大瀧は「これは行けるぞ!」と快哉を叫び、ひとりで高揚感に浸っていたという。

 「どうやらそんな感じらしいね。俺のファン? ああ、そう。ありがとうねって言うしかないけれど。大瀧くんとはゆっくり話してみたくて何度か会おうとしたんだけど、本人が”畏れ多くて嫌だ”と言って逃げちゃうんだよ。『熱き心に』を吹き込んだ時は、ミキサー室にスタッフしか居なかった。俺が『(大瀧は)来てないのか?』って聞くと、彼が金魚鉢くらいの四角い小さな窓からひょこっと顔を出してね。ディレクターから『あそこにいますよ』と言われて『ふ~ん』と返事して、それきりさ。結局、その後も彼とは会う機会がなかった。ただ、俺が歌い終わった後のスタジオで、彼はこっそりマイクを握っていたらしいね。『旭さんがここに足を置いて、こう立ってたね』、『こんな風に歌ってたね』なんて言いながら、俺と同じ恰好を真似して歌っていたそうだよ」


男の最後の切り札

 大瀧たっての願いで、曲に詞をつけたのが小林と何度も仕事をしている阿久だった。後に阿久は『熱き心に』に込めた思いを著書でこう振り返っている。

 〈そろそろ世の中、何もかもが等身大になってきていて、しかも、すべてが有視界、夢にしろ、ロマンにしろ、手の届く距離しかあてにしないというのが現実になっていた。その現実を反映して、歌もまた、電話で探せる範囲のドラマになっていて、ケタはずれのスケールとか、とんでもなく大きな男とかは登場させられなくなっていた。仮にそういう歌を作ったとしても、歌って似合う個性の持ち主が少なくなっていたのである。しかし、小林旭が歌うとなると話は全く別で、ぼくは、可能な限り美文調をメロディーにあてはめ、日本離れのした風景と、現実離れのした浪漫を書いた〉(『愛すべき名歌たち 私的歌謡曲史』岩波新書)

 阿久は小林を”男の最後の切り札”と表現し、〈小林旭なら、オーロラの壁の中につき進み、地球を一巡りして南から、「やあ」と帰って来ても不思議な感じがしない〉(同)と評した。

 北国の旅の空
 流れる雲 はるか
 時に人恋しく・・・

 阿久の書いた詞を見た小林は、初めは途切れ途切れの言葉の意味を捉えることができなかったという。

 「阿久さんの詞は一見すると難解で、活字にすると何だか分からないようなところがある。ところが、メロディに乗せると途端に言葉が生き生きとして、きちっとした歌になってるんだから不思議だよね。 阿久さん自身も大変、不思議な人だった。俺もしょっちゅう会っていたし、一緒に番組に出たこともあるけど、寡黙な人で自分からはほとんど喋らないんだ。話しかけても、ボソボソ言うだけでよく聞こえない。大瀧くんもそうだけど、そういう変わった人たちが、一生懸命になっていい歌を書いてくれたんだからありがたいことだよね」


楽屋でひとり空を見上げると

 大瀧と阿久がコンビを組んだのは後にも先にもこの一曲だけだった。シャイで寡黙な二人が作った『熱き心に』は、テレビCMで盛んに流れ、じわじわと人気を伸ばして行った。

 「コマーシャルが流れ始めた頃は、クレジットが無かったせいか加山雄三が歌ってると思われていたらしいね。それで画面に小林旭と名前を出すようになって、レコードの売り上げもその頃から動き出すようになったんだ。もっとも、あの曲の世界観を自分のものにするまでには時間がかかったよ。たしかに皆がいい歌だって騒いでくれるんだけど、自分の中ではどうにもしっくり来ない。もともとコマソンから出発しているし、大瀧くんとはまともに話もできなかったしね。

 ようやく理解が追いついたのは、金沢で歌謡ショーをやった時だった。楽屋でふと、天井を見上げると、たまたま開いていた天窓から飛行機雲がパーツと流れるのが見えたんだ。その瞬間に閃いたのが『北国の旅の空』という出だしの歌詞。すぐに『流れる雲はるか』、『時に人恋しく』と浮かんできて、ついに映像をはっきり捉えることが出来た。映像が見えて来なければ、旅に出ることさえできない。逆にそれさえ見えれば、あとは自ずと物語が動き出すんだ。

 

 

幻のレコード大賞

 大瀧詠一作曲『熱き心に』

   大瀧没後十年に小林旭が明かす賞レースの舞台裏

 

 

 

 

あとがき

 冒頭でも触れましたが、自分は大瀧詠一のファンです。デビューしたロック・バンドはっぴいえんどからのファンであり、ソロ初期作品や、その名を一躍世間に知らしめた『ア・ロング・バケイション』は今も愛聴盤です。ですが大瀧は、『ア・ロング・バケイション』を出すまでの一時期、コミック・ソング(と自分は感じた)的な作品を発表し続けていました。正直なところ、これら新作が出る都度、首をかしげたものです。阿久悠も同様の懸念を抱いていたらしく、上の引用文にある、「『ズンドコ節』とか『ダンチョネ節』といった曲が出来てきたらどうしようと、ひそかに恐れ・・・」には、思わず笑ってしまいました。

 

 しかしそもそも大瀧の音楽の世界は多岐にわたり、自分が傾倒した作品群はごく一部の範疇でしかなかったようです。大瀧が小林旭に曲を提供したときも、正直、違和感を覚えましたが、後に大瀧には様々な音楽ルーツがあったことを知るにつけ、その心情を理解するに至りました。


 大瀧は2002年、小林信彦と責任編集した『小林旭読本』を上梓。自ら企画・監修したコンセプトアルバム『アキラ』シリーズ4作品もリリースしました。この時期は特に”小林旭愛”が高揚していたのでしょうか。2000年に開催された高田文夫のトークイベントでは、劇中の小林旭さながらの格好、テンガロンハットにウェスタンブーツ姿でギターを抱えて登場したといいます。大瀧詠一にとっての小林旭は、小学生のときの映画「渡り鳥シリーズ」以来、いくつになっても永遠のアイドルだったのです。

 大瀧ははっぴいえんど時代、テンガロンハットをよくかぶっていました。意図してなのか偶然なのかわかりませんが、あたかも小林旭を気取ったかのような写真が遺されています。最後にその姿を紹介し、本稿を閉じることにします。お読みいただきありがとうございました。