坂本龍一ファミリーヒストリー拡大版(3/3) NHK番組再現&自叙伝エピソード挿話 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

坂本龍一ファミリーヒストリー拡大版(2/3)

から続く

 

 

 

坂本龍一が生まれたころ、父・坂本一亀は『仮面の告白』で成功し、周囲から高い評価を受けるようになっていた。

 

ところが、有名になった三島にはもはや興味を示さず、相変わらず新人の発掘や育成に力を入れた。目をかけた新人作家たちを自宅に呼び寄せては、厳しい言葉で指導した。

 

 

一亀の弟・昇 「こんちくしょー、バカヤロー。かわいい表現とか、いい表現ができないんですね。大体、ある一定の線を越えると、『バカヤロー』がでてくる」

 

 

一亀が担当し、のちに直木賞作家となった水上勉が書いた『霧と影』。

 

 

水上はこの本が出来るまでを、こう語っている。

 

「坂本一亀という人がおって、それを四へん書き直させた。七百枚の小説を四へん書き直すと、二千八百枚、四回とじた時の気持ちを考えてみろよ」

 

同じように一亀に見いだされた作家、椎名麟三は、当時をこう振り返っている。

 

 

「少しでも私が弱音をはこうものなら、気魄のこもった口調で、私をはげましてくれたのである。未知数である作家というものの可能性を信じているというふうにだ。しかも神経質なほど私の家の経済生活まで配慮してくれたのであった。彼は倒れてしまうのではないかと思ったほどであったのだ」

 

『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』

 

坂本一亀は涙もろい人であった。彼が掘り出した新人作家高橋和巳が若くして他界したとき、坂本一亀はどれほど泣いたことか。高橋和已について彼が書いたいくつかの追悼文はどれも感傷の涙で濡れている。

 

一亀が新人作家に繰り返し言った言葉がある。

「妥協するな。最善を尽くせ」。

 

敬子の弟・由一も一亀の様子を覚えている。

「多く売れるかどうか、それは二の次、三の次だ。作品として活字にして残しておかなければならないと。大げさに言うと人類のために必要だと、日本文化のために必要なんだと」。

 

こうして一亀が育てた新人作家たちは、戦後日本文学を支える作家たちになっていった。

 

 

龍一 「世に出しちゃったら、それは人に任せて、自分はもう新しい人を探すと、お金にも地位にも興味がなかった」

 

 

忙しく働く一亀に代わり、家庭を守る敬子。幼いころから龍一に音楽に触れさせた。

 

 

三歳からピアノを弾かせ、作曲も習わせた。

 

『音楽は自由にする』

 

幼稚園(注)でピアノの時間というのがあったんです。毎週のように。みんな順番に、ピアノを弾かなくてはいけない。ぼくが初めてピアノに触れたのはそのときです。3歳か4歳でした。楽しいという感じはぜんぜんしなかったし、どんな曲を弾いたのかも覚えていない。(中略)この幼稚園を選んだのは、母でした。父は九州男の編集者で、ほとんど家にいませんでした。母方も九州・長崎なんですが、母自身は東京生まれで、父親の関係であちこち転々としたそうです。まあ、リベラルな人で、普通の公立の幼稚園ではなく、こういう幼稚園に息子を入れたがるような「進歩的」な女性だったんですね。とにかくぼくは、母の選んだその幼稚園に入って、たまたまピアノを弾くことになった。もしよその幼稚園に行っていたら、その先はだいぶ違っていたのかもしれません。あるいは音楽をやっていなかったかもしれない。当時ぼくは、とくにピアノが好きだったわけではないし、特別うまくもなかった。家にピアノはありませんでした。

 

(注)自由学園系の幼稚園自由学園は、ジャーナリストでクリスチャンでもあった羽仁吉一・もと子夫妻によって設立されたユニークな学校法人。「思想しつつ 生活しつつ 祈りつつ」「生活即教育」を教育理念とする。

 

『音楽は自由にする』

 

(卒園し)入学したのは区立の小学校で、制服を着るきまりがあったわけではないと思うんですか、入学式の写真を見ると、なぜかみんな学生服を着ている。男の子は黒の詰襟。ところが、ぼくだけ白っぽいブレザーだったんです。たぶん、母が着せたんでしょう。それがいやでいやで、鮮烈に記憶に残っている。「みにくいアヒルの子」じゃないですけど、ひとりだけ違うというのは、子どもにとっては辛いことですね。(中略)自由学園系のちょっと変わった幼稚園を選んだのも母ですし、他の子とは違う服を着せて入学式へ行かせたのも母ですから、母の影響力は大きいですね。まあ、母親というのは人が最初に出会う他者ですから、当然のことだとは思いますが。あの幼稚園で過ごしたことも、みんなと違う格好で小学校に入学したことも、ぼくにとってとても大きな経験でした。

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

帽子デザイナーだった母の膝の上に座って、白黒のスクリーンを見上げていた記憶がある。肝心のストーリーはまったく記憶にないんだけど、そこで聴いた「♪ターリラリラー」という、ヒロインのジェルソミーナのテーマ曲がずっと耳に残っていました。そんなイタリアかぶれの母だから、旅行も何度かしていて、一度ぼくがペルージャでコンサートをするのに合わせて友達と遊びに来たことがありました。たまたまその日はペルージャの市長も会場にいて、彼は母のことを気に入り、「サカモトマンマ」と呼んでエスコートしてくれましたね。

 

 

『音楽は自由にする』

 

小学校に入ると、先生についてピアノを習い始めることになりました。「幼児生活団」ではピアノを弾いたり作曲をしたり、みんなで音楽に親しむ機会がありました。でも、小学校にあがったらピアノを弾かなくなってしまう。「もったいないからみんなで習いに行きましょう」と、お母さんたちか声を掛け合ってピアノの先生を探したんです。それで、生活団の卒業生10人ぐらいの仲間で、目白の徳山寿子さんという先生のところへ習いに行くことになりました。週に一回の楽しい同窓会、というような雰囲気もありました。実は、ぼくも母もそんなに積極的ではなくて、友だちも行くといっているからまあ行ってみよう、という感じだったんですが。それまで自宅にはピアノがなかったんですが、それではさすがに練習もできないからということで、ピアノを買ってもらいました。もちろんアップライトです。グランドピアノを置けるような大きな家ではありませんでしたし、お金もなかったですから。今の編集者はどうなのかわかりませんか、父のころは編集者というのはすごく薄給だったんですよ。だから、ぼくのためにピアノを買い、レッスンにも通わせるというのは、家族にとってかなりの負担だったはずです。

 

父・一亀は、編集者として仕事中心の日々を送っていた。作家と毎晩のようにバーに繰り出し、大激論。午前様になることも常だった。

 

『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』

 

坂本一亀も作家や若い編集者たちと前記のバーで飲みながら、元気よく激論を交わしていた。野間宏や中村真一郎や篠田一士、丸谷才一、井上光晴、高橋和巳、真継伸彦などと一緒のことが多かった。酒を嗜むことのない平野謙や黒井手次まで現れることもあった。坂本一亀がジナ・ロロブリジダに似たバーの美女に口説かれていた様子を離れた場所から見かけたことがある。そのとき彼は他の多くの男性たちのように、冗談で返したり、軽口をたたくことをせず、困ったように黙ったまま、深く首うなだれていたのが印象に残っている。

 

 

龍一 「僕が知っている父っていうのは、毎日午前3時ぐらいに帰ってくる。僕は当然寝ているんだけれど、大通りを大きな声で歌いながら帰ってくるんで、寝てても目が覚めちゃうんですね。もうそこら中に聞こえてますよ。『あっ、またか』って感じで」

 

 

自宅でも電話口で、作家に怒鳴り散らしていた一亀。そんな父を龍一は怖がるようになった。

 

『音楽は自由にする』

 

父は仕事が忙しくて、一ヵ月に一度顔を合わせるかどうか、という感じでした。そして家にいればいたでいつも怒鳴っている。野間宏、高橋和巳、埴谷雄高、小田実、というような著者と仕事をしていたわけですから、思想的にはもちろんリペラルなんですが、学徒出陣で満州に行った人なので、陸軍で染みついたものが抜けなくて、軍隊のような命令口調調で怒鳴るんです。「雨戸を開けんか!」とか、「新聞取ってこい!」とか。とにかく怖い。そんな調子でしたから、ぼくは父に話しかげたこともなかった。初めて目と目を合わせたのが、高校3年ぐらいのときじゃないかな。父の方も、何か言いたいことかあるときには、ぼくに言わずにいったん母に言ってきたりしていた。そんなふうに、息子と直接のコミュニケーションがなかったぶん、一種のエクスキューズというか、教育ではしっかり投資しようと考えてくれたのかも知れません。

 

『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』

(中略・一部改)

 

『憂鬱なる党派』の刊行後まもなく坂本一亀は胃病で倒れ、翌春まで会社を休むこととなった。さきに、坂本一亀が出社しない日はほっとした、と記したが、今度は頻繁に坂本家に出向いて指示を仰がねはならなくなった。そのための往復の時間がとられて、私は物理的にかえって忙しい羽目に追い込まれた。訪れた坂本家で龍一少年が奥でピアノを弾いていると、坂本一亀は「リューイチー!ヤメロー!ヤカマシイ!」と怒鳴るので、龍一少年は何も言わずピアノを弾くのを止めていた。会社では坂本一亀が休むと安堵する人がいても、家族にとっては坂本一亀が会社にいるほうが気楽なのではないか、と私は想像したりした。龍一少年は、ときには父親が装丁の印刷物について私に指示しているそばで見ていることもあったけれど、殆どいつも伏目がちに黙っていた。夫人は活発に夫君に対応していたけれども龍一少年が父親と元気に会話を交わしている場面には一度も遭遇したことがない。おそらく龍一少年は幼いころから賢くて、無駄なエネルギーを費やさない智恵をそなえていたのかも知れない。そして一人っ子によくあるように、他者の介入し得ない独自の世界を、自分のなかで育んでいったのだろう。

 

 

龍一 「父の目をちゃんとまともに直視したことはなかったですよ。子どもの時は怖くて。言いたいことがあるときは母を通して、お互いにそうですね」。

 

叔父・昇の息子であるいとこも、そのころの龍一の様子を覚えている。「人の目を見ない人ですよ、龍一さんは。下からちょっと見上げて、目が合った瞬間、スッと伏せるような、そんな人でした。だからどっちかというと、ねくらな感じが」

 

『音楽は自由にする』

 

編集者だった父とはめったに顔を合わせませんでした。帽子のデザイナーだった母も仕事で家にいないことが多かった。いわゆる「かぎっ子」ですね。3、4年生ぐらいになると、自分でごはんを炊いたりもしました。コンロに火をつけて、吹きこぼれたら木のふたをずらして、炊けたごはんに、母が用意してくれたカレーをかけて食べる、とか、それぐらいのことは自分でしていました。

 

 

おとなしい少年だった龍一。楽しみは、数学の教師だった叔父・三郎の家に行くことだった。

 

 

幼いころ、茶わんを割る音を楽しんでいた三郎。そんな三郎は、たくさんのクラシックレコードを持っていた。龍一は一枚のレコードに目をとめる。

 

 

坂本龍一 「中学2年だったですかね。見つけたのがこれで、ドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏ですね。本当に度肝を抜かれて、これは何だ?と。そっから猛烈な勢いでドビュッシーを聞き始めて、自分はドビュッシーの生まれ変わりであると」

 

 

『音楽は自由にする』

 

母は長女で弟が3人いるんですが、いちばん下の弟、ぼくの叔父ですが、彼がかなりの音楽好きで、たくさんレコードを集めていた。ピアノも持っていて、けっこう弾けた。その叔父さんの部屋には、しょっちゅう遊びに行きました。いろんなレコードをひっぱり出して聴いたり、ピアノを叩いてみたりした。幼稚園で毎週のようにピアノを弾かされた経験と、叔父さんの影響、ぼくの最初の音楽体験と言えるものは、だいたいそういうものでした。

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

真ん中の叔父・了二は、2018年1月に亡くなりました。彼はシャンソンなどフランス音楽が好きで、ぼくは幼い頃にそのレコード・コレクションを勝手に引っ張り出して聴く中で、ドビュッシーと出会った。その当時の了二は慶應義塾大学のラグビー部に所属していて、毎週末ドロドロになって帰ってきていました。その下に、のちに高校の数学教師となる三郎がいて、彼は早稲田大学に通っていたので、了二とはよく「早慶戦だ!」と言って喧嘩していたものです。ぼくにドイツ音楽を教えてくれた三郎も、2016年の11月に亡くなってしまいました。

 

引用注

 

「ファミリーヒストリー」では、あたかも龍一は三郎のレコード・コレクションからドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏を見つけたように構成されていますが、上記の『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』にあるように、「了二のコレクションから」が正しいようです。

 

『音楽は自由にする』

 

ビートルズを聴いて、ハーモニーが不思議なので、なんだなんだ、と気になって、ピアノで弾いてみる。でもそれはまだ習っていない響きで、何と呼べばいいのかわからないんです。あとでわかったことですか、それは9thの和音だった。これはまさに、ぼくがやがて出合って夢中になった、ドビュッシーの好んだ響きなんですよ。その響きにぼくは、ものすごくどきどきした。オルガスムスみたいな快感を覚えた。あまりに興奮して、日ごろ話もできなかった父をステレオの前に引っぱってきて、ビートルズのレコードを聴かせたりしました。

 

音楽の道に進む決心をした龍一は、東京藝術大学音楽学部作曲科に入学。

 

 

そして昭和53年、龍一はYMOとしてデビュー。テクノポップと呼ばれる、まったく新しい音楽をつくりだし、大ヒットさせた。

 

 

 

さらに当時珍しかった男性の化粧や奇抜なファッションを取り入れ、話題となった。

 

 

しかし、そんな龍一の姿を見た父・一亀は怒った。龍一「カンカンに怒ってね。『なんで音楽で勝負せんか』って。俺はお前をピエロにしようと思って音楽学校に入れたわけじゃない』って怒られた」

 

 

 

その5年後の映画『戦場のメリー・クリスマス』。龍一は初めて映画音楽を手掛け、自らも出演した。

 

 

昭和63年、映画『ラストエンペラー』の音楽を担当。アカデミー作曲賞を受賞した。日本人初の快挙となった。

 

 

 

そして帰国した龍一を囲んで、親戚たちが祝賀パーティを開いた。

 

 

この会に出席した叔父・昇の息子であるいとこが語る。

 

「一番印象に残っているのは、もちろん伯父さん(一亀)もニコニコはしなかったけども、ヒソヒソ話をしているのを、初めてこの2人が話しているなというのを見た。目は合ってないですね。伯父(一亀)はまっすぐ向きながら、龍一さんは横から話してるって感じでしたね」

 

 

そんな中、一亀と龍一の間にある事件がおこった。龍一がある沖縄古い民謡をアレンジして自分のアルバムに入れた。それが一亀の逆鱗に触れた。

 

「これはお前の(オリジナルの)音楽じゃない。何でこんなものを入れてるんだ」

 

 

龍一 「僕は好きな音楽で、しかも自分なりにアレンジして自分の音楽としてやってるので、こっちも段々ムッとしてきて、『いや俺の音楽だ』って口論になって、本当に初めて大ゲンカになりましたね」

 

 

その後も龍一の活躍は続いた。

 


平成4年、バルセロナオリンピックの開会式の音楽を担当した。

 

 

こうした龍一の活躍に親戚たちが沸いている中、一亀は何も言わなかった。

 

一亀の弟・昇は、「あんまり僕らには、龍一のことは話しませんでしたよ。龍一のニュースは敬子さんから聞きました。(龍一のことを褒めたことは)ないです。(友人が)息子がえらく有名になったなと言ったら、電話して、『あいつはあいつです。私は私です』と言ったらしい」

 

 

 

今回見つかった資料の中に、ある冊子があった。

 

昭和60年の、東京生命の社報。そこに一文を寄せているのが、龍一の母方の祖父・下村弥一である。この会社のOBとして活躍する中で、『戦場のメリークリスマス』で有名になった孫、龍一のことを記していた。

 

 

 

 

弥一は、生命保険会社を退職後、大手サッシメーカーの専務に就任。その後、国内の三大航空会社の東亜国内航空初代会長をつとめた。長崎の貧しい農家に生まれ、苦学の末、大学を卒業した弥一は、日本を代表する経営者になった。

 

 

 

『音楽は自由にする』

 

(祖父の家には)毎週のように遊びに行っていましたので、祖父は身近な存在でした。母がぼくを連れて祖父の家に行くと、祖父はぼくの手をひいて有栖川宮記念公園まで連れて行ってくれる。それから近くの本屋に行って、2人でゆっくり本を選んで、1冊買ってもらう。勤勉な努力型の祖父らしく、買ってくれるのは偉人伝みたいなものばかりでした。読んだあとに「感想を言ってみなさい」と言われたりするんですが、偉人の伝記なんて面白くないから、本当は面倒くさくて読んでいないんですよ。とりあえず「おもしろかったよ」とか答えるんですが、納得してくれない。「面白いじゃわからない、どこかどう面白かったのか言ってみなさい」と言われて、これは困った。自分が小さいころ、勉強したくてもできなかった人だから、子どもや孫にはできる限りのことをしたいという気持ちがあったんでしょうね。祖父と歩いた有栖川宮記念公園は、なんだか故郷みたいに思えます。60年安保が小学校3年の時で、ぼくも学生のまねをして、家や学校で「安保、反対!」なんて言ってデモごっこをやったりしていました。いま考えると、財界系で自民党支持の祖父は、自分のかわいい孫がそんなことをするのをどんな気持ちで眺めていたんでしょうね。

 

そして龍一の父・一亀。若い作家の発掘に情熱を傾け、60歳まで一編集者を貫いた。

 

 

晩年の一亀と交流があった人がいる。今から17年前(番組放送時)、早稲田大学3年生の時、卒論のテーマに三島由紀夫を選び、一亀に話を聞きたいと手紙を出した。

 

学生の自分など相手にしないだろうと半ば諦めていた。ところが返事が届いた。「了承しました。雑談の中で、何かお役に立てば幸いと思います」と。

 

 

自宅を訪ねた早大生は、一亀に訊いた。

「何で若い方々を、そんなに育ててこられたんですか?」

 

「戦後は私にとって余命だった。戦争でもう死んだという感じがあった。多くの同世代の仲間が死んで、その人たちのためにも頑張らなければいけない。同世代の仲間たちを育てたいと思ってきた」と一亀は語った。

 

番組で元早大生は、宝物にしているという卒論のページを広げた。17年前に一亀に見せたとき、この元編集者は丹念に読み込み、直しを入れて返してくれていた。

 

 

 

一亀の自宅を辞するとき、早大生がお礼をすると、一亀は深々とおじぎを返した。その丁重な姿勢に23歳の学生は非常に驚いた。

 

『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』

 

『仮面の告白』は永遠の青春の書であるだろう。『仮面の告白』を卒業論文に選んで、八十歳に近い晩年の坂本一亀を訪ね、二時間にわたって当時の話を聞いた早大の学生がその時のことを綴った文のコピーを送ってくれた。私(引用注:著者 田邊園子)が僅かに仲介に関わったからである。坂本一亀は、三島が雑誌の広告用に書いた文章の、発表されなかった続きの文を手書きで写しとってあり、青年に見せたそうだ。作者の言い訳じみた説明が気にいらなかったので坂本一亀自身がカットしたのだという。気にいらないからカットした部分を、わざわざ写しとって半世紀以上も保存し、初めて会った青年に読ませて昔を語るのも、また坂本一亀の隠れた一面であるだろう。彼はおそらく青年の無垢な純真さにふれて、素直に胸襟を開いたのだ。そしてさらに彼は語ったという。「僕にとって戦後は余命だった。もう戦争で死んだという感じがあって、戦後は余命にすぎなかった。でも、多くの同世代の仲間が死んで、その余命は彼らのためにもがんばらなければならないと思った。それで河出に入って同世代の若者を育てたいと思った」と。戦争で仲間を失って生き残った世代の人々から、同じようなことを聞くことがある。それはあとから付けた理由だとも言えるが、重い真実でもあるのだろう。

 

それから2年後の平成14年。一亀は亡くなった。80歳だった。

 

 

一亀のお別れの会が開かれた。龍一は自らつくった冊子を配った。その中に父への思いを記した。

 

 

その時ぼくはブリュッセルからパリへ向かうバスの中で寝ていた。 現地時間、朝4時半ごろスタッフに起こされ、父が亡くなったことを告げられた。父の身体がすでに限界に来ていることを知っていたので、動揺はなく、とうとうその時が来たかと心の中でつぶやいた。父の姿を最後に見たのは今年の8月24日、ブラジル政府から与えられた勲章を見せるために病室を訪ねた時だった。いつもと同様、あまり話もせずに時間を過ごした。最後に病室を出るとき、ふと「これが今生の別れか」という思いが頭をよぎったが、それが現実になるとは確信していなかった。芸人は親の死に目に会えないというが、それが自分にも当てはまるとは。自分が芸人という自覚もなかった。父とまともに話をしたのが話をしたことがないのが悔やまれる。創作に携わるものの大先輩として聞いておきたいことは山ほどあったのだが。しかし、面と向かってもお互いにあまり突っ込んだ話はできなかった。父も恥ずかしかったのだろう。第一 、僕は小さい時はあまり家にいなかった。いても、怖くて話はできなかった。高校に入るまで、一度も父の目を凝視したことはなかった。 覚えているのは、おとした視線で、文学のこと、会社のことを、時に語気を荒げながら語り、痛飲していた姿だ。親子とはそういうものかもしれない。ただ残された断片的な言葉の記憶と対話するしかないのかもしれない。父が本当にどういう人間だったのかよくわからない。人が死ぬといつも思う。他人の心の中は覗き込めないと。その人が、何を愛し、何を思っていたか、根本的には分からない。越えようのないへだたりが人間にはある。父は自分の思いを他人に伝えるのが下手な人だった。愛するのも、愛されるのも下手な人だった。最後までそういう人だった。前夜のブリュッセルでの公演は、いつにもましてエモーショナルなものになった。父が死にそうなこと、それでも僕がこのツアーを続けざるを得ないことを、他のバンド・メンバーも知っているので感情の起伏がすぐに伝わるのだ。あの夜は、もうこれで最後になるそうな予感があった。ぼくたちはいつも公演の最後に「Sem Voce(あなたなしで)」という曲を演奏するのだが、この美しい音楽を想像したアントニオ・カルロス・ビジョンはもうこの世になく、そして今、父も。その意味でぼくは感傷的にならざるをえなかった。

 

2002年10月10日 リスボンにて

 

 

 

『音楽は自由にする』

 

アメリカ同時多発テロから1年後の2002年の9月、ぼくはヨーロッパにいました。前年に初めて行ったモレレンバウム夫妻とのボサノヴア・ツアーは好評で、この年にも開催されていました。ベルギーからフランスに移動するバスの中で、朝の4時ごろ、ニューヨークから電話を受けました。父が亡くなったという知らせでした。父の死が間近に迫っているということは知っていて、誰か代理を立てて日本に帰るべきなのかどうか、相当悩みました。実際に代理の手配をしたり、いろいろな準備を始めてはみたんですが、よくよく考えて、やっぱり帰らないことにした。ぼくが帰国したとして、その後父の容態か良くなるか悪くなるかはわかりませんから、ぼくがちょうどよく最期に立ち会えるとは限らない。たとえしばらくそばにいても、仕事に戻ったとたんに亡くなってしまうということだってあり得るわげですし。とても難しい判断でしたか、結局はツアーを続行して、移動中に知らせを聞きました。その日のパリでの公演も予定どおりやりました。(中略)公演はパリのあとも各地で続いたので、結局、日本に帰ったのは、1ヵ月後ぐらいでした。いろいろなことを母親に全部任せることになってしまって、申し訳なかったと思っています。父が亡くなって自分が変わったとか、そういうことはとくに感じてはいません。でも、それまで自分の後ろにあった大きなものがなくなったような、そんな感じはあるように思います。ぼくが父に似ているような気がするところは、いろいろあります。あまのじゃくだったり、あまり表に出たがらなかったり。それから、2人とも人やものごとに惚れ込みやすく、すぐ夢中になるんです。子が親から受ける影響というのは、文化的なものと遺伝的なものと両方あると思うのですが、後者の方が、つまり父親の背中を見てどうとかではなく、もともと生まれ持っている性質が受け継がれるという形での影響の方が強いんじゃないかという気が、最近はしています。なんとも言えない仕草とか表情、好みとか考え方とか、そういうものが、けっこうそっくりになっちゃうもんだなあと。なんかいやだなあとも思うんですが、でもやっぱり似ているんです。

 

今回、一亀が勤めた出版社で、日記が新たに見つかった。

 

 

そこには、龍一が生まれた日の記述があった。

 

 

一亀は日記を残していた。龍一が生まれた日のことも綴っていた。

「男子生る!何かしら微笑みを禁ずることができないのだ」

 

 

「まもなく婦長に抱かれた赤児を見る。大きく、きれいなのだ!標準を突破した偉大な赤ん坊なのだ!」

 

 

さらには、龍一がYMOとして活躍したころの記述もあった。無関心を装っていた一亀だったが、出演する映画やテレビ、雑誌などをすべてチェックしていた。本人やまわりの人には悟られないように、自慢の息子を喜び、心のなかで応援していた。

 

 

 

 

 

「心の中では褒めていたと思いますよ。龍一を」

 

 

(それは言葉には?)

 

「でない、絶対でない」

 

 

「それこそ でたら、バカヤローですよ」

 

 

音楽家坂本龍一のファミリーヒストリー。自らの信念を貫き、力強く生きた家族の歳月があった。

 

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

生前、面と向かって褒めてくれたことは一度もありませんでしたが、生まれたときはこんなに感情を露わにして喜んでいたのですね。(番組の)収録で泣くつもりはなかったのに、さすがに涙を禁じ得ませんでした。

 

 

 

 

 

坂本龍一ファミリーヒストリー拡大版

 

 

 

 

 

坂本敬子

 

 「坂本龍一ファミリーヒストリー」は、番組の柱に父の坂本一亀が据えられ展開しました。その強烈な個性ゆえ、当然の構成といえます。一方、2010年に亡くなった母の坂本敬子も、優秀かつ個性的な方であったようです。以下は、番組の流れの中には適切な箇所がなく、引用できなかった坂本敬子に関する記述をまとめたものです。

 

『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』

 文庫本のためのあとがき(冒頭抜粋)

 

本書の成立は、まだ坂本一亀の存命中に、子息龍一から、父が生きているうちに父のことを書いて本にしてほしい、との依頼があったことが発端である。坂本一亀は、昔、私の上司だった。河出書房新社で、坂本一亀編集長による「文藝」復刊の準備中にスタッフとして私は入社した。1961年のことである。思い返せば、坂本宅ではじめて坂本龍一に会ったとき、夫人に紹介されて、にっこりし、ぴょこんと頭を下げた丸顔の愛らしい少年は、まだ十歳を迎える前だった。「作曲をやっておりますの」と、夫人が息子を見やって言い、私は、「え、こんなに小さくて作曲ですか」と、びっくりして問い返した記憶がある。古武士のように寡黙な坂本一亀とはちがって、夫人は華やかで明るく活発だった。坂本家には、坂本一亀が作り出す息詰まるような厳しい職場の雰囲気とは全く異なる、開放的な空気が流れていた。子育てや家庭内のことは、すべて夫人が仕切っていたのだろう。坂本一亀の弟たちは化学者や技術者であるそうだが、それは坂本一亀の几帳面な綿密さ、きめの細かい仕事ぶりとも通じあうものがある。

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

今だから明かしますが、ぼくは20代前半の一時期、大貫(妙子)さんと暮らしていました。しかし、別の相手ができたぼくは、その部屋を出ていってしまった。本当にひどいことをしてしまいました。その後、大貫さんと親しくしていた母が、龍一がお世話になったと会いに行ったようです。「お母さまが、清楚な真珠のネックレスをくださいました」と、大貫さんから聞きました。

 

ユリイカ

令和5年12月臨時増刊号

総特集 坂本龍一

インタビュー「古い付き合い」

大貫妙子

 

(本稿アップ後 追記)

 

インタビュアー 坂本さんが大貫さんの部屋から出ていった後、その時、大貫さんは(坂本の母から)真珠のネックレスを渡されたと。そのシーンは覚えていますか。


大貫妙子 もちろん覚えています。うちにいるようになって、お母さま、敬子さんは、とても気になさっていて。敬子さんは山登りが好きで、ある日「龍一!行きましょう」って、山登りに誘われたんです。坂本さん、山登るの好きなわけないんですけど(笑)。私も山は苦手で。でも、一緒に行きました。そんなに高い山じゃないんですが、手ぶらで行くのもなんだなと思って、朝、サラダが良いかなと思って、アスパラガスを茹でて、パックにぱっと入れて、レモンをジャーッとかけて持って行ったの。で、お昼にパックを開けたら、レモンが染み込んだアスパラガスがすごい色になっちゃっていて(笑)。それを見た坂本さんが「何だコレ!」とか言って。「だめだこんなの!」とかむちゃくちゃ怒られちゃって。今でもはっきり覚えています。せっかく早く起きてアスパラガス茹でたのに……。レモンを別に持って行って、着いてからかければよかったのに。かけてっちゃった私。それで怒られて(笑)。お母さまの手前、やっぱりなんか恥かいた、と思ったんでしょうか。山のお供は、その一回きりでしたけれど。教授はお母さん孝行ですよ。その後も何回か付き合ったみたいです、山登り。懐かしいです。

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

母親は生前、「あなたはバラエティばかり出ているけど、NHKからは声は掛からないの?」と、ぼくによく嘆いていたものです。ダウンタウンのコント番組で演じた「アホアホマン」役を嫌々やらされていたと勘違いし、勝手に怒っていたのでしょう。本当は事務所が止めても、ぼくの方から出たいと言ったのに。だから母親は亡くなったあとではあれ、自分たちの家族がこんな素敵な番組(引用注:ファミリーヒストリー)に取り上げてもらえて、満足しているんじゃないかな。

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

父が亡くなったあと、母はしばらく東京でひとり暮らしをしていました。母は母で甲状腺ガンをはじめ、さまざまな病気にかかってきたのですが、それでも手術のたびに尋常ではない回復力を見せ、何とかやってきたんです。しかし、これまで身の回りのことはすべて自分でこなしてきた彼女も、だんだん掃除が満足にできなくなったりと、心配な部分が目立ってきた。そこで、2009年の夏に本人を説得して、病院に入ってもらうことにしました。本当はターミナルヶアの施設がいいだろうと思いつつ、母がそれには拒否感を示すので、まずは一般病棟に治療のためと連れていき、その後、老人専門の病院に移りました。母は最初こそ「自分の家の方がいい」と愚痴を言っていましたが、次第に若い男性理学療法士を気に入ったらしく、どこかウキウキしているようにも見えましたね。とはいえ、ぼくはニューヨークが本拠地なので、母を病院に預けてから「またこっちで仕事があるときは会いに来るからね」と言って一度は別れたんです。もちろん、もう80代だし、いつどうなるか分からないと思いながらも。幸い、その年の12月には日本でピアノ・コンサートがいくつかあり、ツアーの合間を縫って足繁く見舞いに通いました。そして当初の予定では年の瀬に、またアメリカに戻るはずだったのですか、このときふと思い立ってニューヨークに住む親しい知人に、いま日本を離れても大丈夫だろうか、と相談してみることにしました。普段から「私には未来が見える」と話し、実際にその予言が当たると周囲で評判だった女性に。念のため付け加えておくと、いかにも怪しげなスピリチュアル系の人物ではなく、かつては芸能界でも立派な仕事をされてきた方です。すると彼女は、「年明けの1月9日にお母様のエネルギーが見えなくなりますね」と言うんです。それを聞いて、言われたことを文字通り信じるわけではないけど、滞在を延ばすことにしました。外れたら外れたで、それでいいやと思ったんです。そうしたら、ぴったり1月9日の朝に母は亡くなってしまった。これには本当にびっくりしましたね。このときも(引用注:父と同様)死ぬ瞬間には立ち会えていないのですが、すぐに病院へ駆けつけることができた。そして、ぼくが喪主としてお通夜や葬儀・告別式を取り仕切り、すべてが終わった1月20日にアメリカへと戻りました。20日の帰国便を取っておいたのも、その頃まで日本に滞在しておいた方が安心だろうという、年末時点での知人の予言に従ったものです。ちなみに、母の葬儀に出席してくださった方への会葬礼状には、生前彼女が好きだった歌人・柿本人麻呂の、次の歌を引用しました。「こもりくの 泊瀬の山の 山のまに いさよふ雲は 妹にかもあらむ」。奈良時代、土形娘子が亡くなって葬られた際に、人麻呂が詠んだ挽歌です。ぼくはひとりっ子ですから、母が亡くなって、ついに親子の中では自分だけになってしまった。家制度やお墓を守る文化にこだわる気はさらさらないけど、そう思うと、どこか寂しいものですね。

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

前にも語りましたが、2010年の重要な出来事として、母との死別がありました。前年の夏ごろ体調が急に悪化し、老人向けの病院に入ってもらっていた母のもとへは、日本に滞在すると必ずデパ地下で美味しい弁当を買っては持って行っていました。でも、年末から次第に意識が遠のいて、年明けの1月9日にあの世へ旅立ってしまいました。それ以前に父も亡くしていましたが、やっぱり母との別れはこたえましたね。落ち込むというわけじゃないけど、喪失感が大きかった。文芸編集者として働いていた父親は、家にいてもずっと原稿チェックをしているようなひとでした。平日はぼくが起きている時間に帰ってくることはほとんどなく、たまに顔を合わせても偉そうにしていて、なんだか煙たい存在だった。対照的に、快活で社交的な母親とは、子供の頃からなんでも話せる関係でした。だけど、ぼくの中には両親のどちらの素もあるんですよね。戦争経験のある寡黙な九州男児の父親と、東京生まれの明るいヒマワリのような母親と。そんな相反するふたつの性格に、時に自我が引き裂かれそうになることもあります。

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(一部 略・改)

 

母が亡くなって少ししてから、箏曲家の沢井一恵さんの委嘱で初めて邦楽器と本格的に向き合い、『箏とオーケストラのための協奏曲』を書き下ろしました。この着想を得たのは前年のヨーロッパーツアーの最中で、秋の深まる頃、イギリス国内を移動するバスに乗りながら、ぼくは不意に折囗信夫の言葉を思い出していました。折口は、「冬」は生命の種を増やそうとする「殖ゆ」という動詞から来ていて、「春」はその種が地中に根を張って芽吹き、エネルギーが「張る」ことに由来するのだと説きます。その影響で、ぼくは四季は「春夏秋冬」の順ではなく、冬から始まるのではないか、と考えました。当然、季節の移り変わりは人間の一生も想起させ、秋がその終わりということになる。『箏とオーケストラのための協奏曲』は、「冬」「春」「夏」「秋」の全4楽章からなっています。ぼくが古希を迎えたことを記念しての企画「私が好きな坂本龍一10選」で、40年来の親交がある友人の村上龍は、この協奏曲について書いてくれています。「個人的には、坂本龍一の最高傑作はこの『箏とオーケストラのための協奏曲ではないかと思う。このコンチェルトは、坂本が亡き母に捧げたレクイエムなのだ。この曲を坂本のお母さんは聞くことができなかった。レクイエムなのだから当然だが、わたしは聞かせたかったなと思う。坂本のコンサートや映画の試写会では、わたしは坂本のお母さんの隣か、隣の隣だったり、いつも近い席だった。わたしは軽い会釈をして、席に着いた。お母さんは、いつもありがとうございますと言って、挨拶を返した。ただし笑顔を見せたことはない。きびしい顔つきだった。この人に坂本は育てられたのだと思った」。『箏とオーケストラのための協奏曲』は母へのレクイエムだと、自分ではっきり謳ったことはありません。それでも2009年の秋の暮れ、遠く離れた病室にいる母の姿を思い浮かべていたのは事実です。その意味で、やはりこれは鎮魂曲なのでした。

 

 

 

あとがき

 

 NHKのファミリーヒストリーを観るたび思うことがあります。番組のゲストのその両親や祖父母らが、実際に生きた人生と異なる人生を歩んでいたならば、ゲストはこの世に生まれなかったかもしれない、いわゆる「歴史のイフ」です。今回の坂本龍一においても、いくつかの歴史のイフを考えてみます。

 

① 下村弥一の中学編入受験を佐藤秀一校長が認めなければ、その後、弥一は生命保険会社で坂本昇太郎と出会うことはなく、下村敬子と坂本一亀が結婚することはなかった。

 

② 三浦朝千代が下村弥一と娘の結婚話を積極的に進めなければ、弥一は他の女性と結婚し、下村敬子が生まれることはなかった。
 

③ 坂本一亀の同人誌に東京の出版社社員が目をとめなければ、その上京はなく、下村敬子との結婚はなかった。

 

 もちろん、これらは現実としてはおこらなかったわけで、坂本龍一は”無事”生まれてきました。こちらから話を振っておきながらこう言うのも何ですが、①②③が現実にならなかったことはさして不思議ではないかもしれません。

 

 当時は、中学の編入試験は例外的ながらも制度として認められていたのかもしれませんし、親が子どもの結婚話を進めるのはむしろ当たり前の世の中だったと思われます。坂本一亀はかつて日大生だったことから、上京のハードルは低く、自ら働きかけ東京で出版界に入ることはあり得たと思います。

 

 実はそれよりも、ここに真っ先に挙げるべき大きな分岐点がありました。「坂本一亀には上京前、甘木において恋人がいたのに、両親がその結婚に猛反対」したことです。この反対がなければ、坂本一亀と下村敬子の結婚はなく、結果、坂本龍一が生まれることはなかったからです。直接的には、歴史のイフとしてこれ以上の話はないでしょう。

 

 『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』の著者・田邊園子によると、坂本一亀はプライバシーについて「極端に押し隠した」とあります。結婚の反対の話も簡単な記述であることから、本人からではなく、弟などからの伝聞に過ぎないのかもしれません。ですがこの本は出版前、原稿を当の本人も読み確認しているところから、真実であるはずです。

 

 そして、これは事が事だけに、取り上げるのを躊躇するのですが、甘木劇場での殺人事件も決定的なできごとでした。この偶発的な事件がおこらなければ、坂本昇太郎はそのまま甘木で劇場主として暮らし続け、福岡で生命保険会社に入ることはなく、下村弥一と出会うことはなかったからです。坂本龍一が誕生するには、このような悲劇を経なければならなかったとは考えたくないのですが、事実関係としては否定できないところです。


 つまり、これら歴史のイフは、祖父・坂本昇太郎が当事者といえます。この方の半生における二つの局面における行動から、息子・坂本一亀と下村敬子が結婚に至り、孫・坂本龍一が誕生することになったのです。甘木での事件はともかく、新天地に赴き転職することは普通のことですし、子供の結婚話に反対するのもこれまたあり得ることですが、坂本昇太郎は後年我が身を振り返り、これらの経緯を意識したことがあったのか。

 もう一人の祖父である下村弥一は、1985年の東京生命の社報で、「(龍一の活躍を)昇太郎氏が生きていたらどんなに喜んだろう」と記しています。この記述から推察するだけですが、1978年のYMO結成前に坂本昇太郎は他界していたと思われます。もし長命であったなら、我が孫の目を見張る活躍に、自身の遠い過去に思いを致したかもしれません。


 さて、今から11年前の2012年、坂本龍一は還暦を迎えました。その1月には月刊『文藝春秋』に「坂本龍一60歳 還暦の悦楽」を寄稿していて、齢を重ねた身体のあちこちの不具合を嘆きました。それでもまさか十年後の古希を前に余命を宣告されるとは想像だにしていなかったでしょう。デビュー時からのファンであり、すこし下の年齢の自分としても、身につまされる話です。

 この一文で坂本龍一は、父を亡くしたあと、坂本家の墓を建てた経緯を語っています。この方らしい、とても個性的な墓であるようで、後には母も、そしてご本人もここで安らかなる眠りについたことになります。改めてご冥福をお祈りすると共に、この引用文を最後にご紹介し、拙稿を閉じることにします。

 

私が子どものころは、「人生五十年」という言葉が普通に使われていました。だから五十を超えてからは、いつお迎えが来てもおかしくないという意識がどこかにあります。この意識は、十年前に父を、一昨年母を亡くして以降強くなってきたように感じています。特に父が亡くなったときは、墓をどうしようとか、お骨をどうしようとかいう問題がどんどん起きて、それが自分の死の準備に繋がっていく感じがしました。もともと坂本家の墓は九州の田舎にあったんですが、自分でそこまで行ってみて、「これは一年に一回も墓参りに来ないな」と思った。そこで東京に新しい墓を作ろうと決意し、いろいろ調べてみたんです。そうすると霊園をどうしようとか、墓石をどんなものにしようとか、考えなければならないことがたくさんある。自分も入るつもりの墓ですから、あまりに普通でカッコ悪いものは避けたい。かと言って、凝りすぎて演出しすぎるのもみっともない。どんな墓がいいだろうと、当時は理想の墓を求めて、昔の文豪とか作曲家の墓をあちこちに見に行きました。そしてたどり着いた答えが、「雑木林に転がっているような石」。墓石屋の方にリクエストをしたところ、「難しいですね~」と言われて、結局理想的な”何でもない石”が見つかるまで二年ぐらいかかりました。場所は母方の祖父が縁のあった都内の寺に決まりました。石の周りに木を植えて、本当に雑木林のようになっています。