坂本龍一ファミリーヒストリー拡大版(2/3) NHK番組再現&自叙伝エピソード挿話 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

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坂本龍一ファミリーヒストリー拡大版(1/3)

から続く

 

 

 

のちに坂本龍一の母となる下村敬子。

 

 

その下村家のルーツは、長崎県諫早市にあった。

 

 

龍一の曾祖父・代助は、この地で農業を営んでいた。

 

 

代助の孫で、敬子の弟・下村由一は、当時のことを伝え聞いていた。

 

 

「(家は)掘ったて小屋で、梁がむき出しになっていた。これはよく言っていました。朝起きると、布団の上にアオダイショウが落っこってくる。アオダイショウはよく卵を飲み込んで、それを割るために落ちてくる。(代助は)小作人だったと思うんですが、まぁ水呑百姓で、土地も捨てて佐世保に出る」

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

ぼくの母親には3人の弟がいて、昔から毎週末のように白金にあった祖父母の家に行っては、彼ら叔父たちに遊んでもらっていました。長男の由一は東京大学で国際関係論を学び、ローザ・ルクセンブルクの研究者となった。彼は東西冷戦に突入して間もない頃に東ドイツへと亡命し、保守的な政治思想を持っていた父の弥一は、息子を失ったように落胆したそうです。しばらくして由一は、日本語が堪能なドイツ人のパートナーを連れて戻ってきましたが。彼は90代になってからも、元気に暮らしています。

 

引用注:下記サイトに下村由一氏の略歴あり

 

 

 

明治38年4月、代助は家族を連れ新たな仕事を求め、佐世保に移住。当時は日露戦争のさなかで、佐世保は造船業で賑わい、多くの人が移り住んでいた。この地で何の伝手もない代助が得た仕事は市役所の臨時雇い。町の中を仕事を募りながら歩きまわる何でも屋だった。腰に鈴を付けりんりん鳴らす。その音に気づいた人に呼び止められ、仕事を行い、なにがしかの報酬を得た。

 

代助の三男として生まれたのが、龍一の祖父となる弥一である。

 

 

12才となった弥一は、授業でリンカーン大統領も貧乏な家に生まれたことを知り感銘を受ける。弥一はこのときの思いを日記に綴っている。

 

 

弥一は立身出世を夢見るようになり、旧制中学に進みたいと願うようになる。しかし貧しかったため、小学校を卒業後は働かなくてはならない。軍艦などをつくる佐世保海軍工廠の見習い工となり、毎日油まみれになって働いた。

 

 

しかし進学の夢をどうしても捨てきれない。3年後、弥一は思いきった行動に出る。佐世保中学の校長を紹介もなく訪ね、中学4年への中途編入を直談判した。

 

 

その佐藤秀一校長は試験合格を条件に、異例の了承をしてくれた。佐藤校長も苦学して教員になり、校長に登りつめていた。

 

 

弥一は編入試験の合格を目指し、寝る間も惜しみ勉強に明け暮れた。

 

 

眠くなると膝にキリを突き刺した。翌年の3月、弥一はみごと試験に合格、旧制佐世保中学4年生に編入された。

 

 

弥一はそのとき18歳になっていた。父・代助は弥一の学費を工面するため、必死に働いた。弥一は日記に、「父は如何に苦しい労働をこれを厭わずに自分を勉強させておられたのであろう」と綴っている。

 

さらに大正8年、第5高等学校(現熊本大学)に合格した弥一は、成績優秀で奨学金も得た。そして生涯の友と出会う。のちに総理大臣となる池田勇人だった。池田は所得倍増計画を唱え、高度経済成長政策を推し進めた。

 

 

 

弥一は池田と酒を酌み交わし、天下国家を論ずる仲になった。大正11年、弥一は京都帝国大学法学部に入学。

 

『音楽は自由にする』

 

祖父は九州の出身で、小さいころには貧乏ですごく苦労した人です。小学校を出てすぐに働き始めましたが、とにかく勉強をしたくてしたくて、毎日働きながら、夜は本当に蛍の光と窓の雪で勉強していたんだそうです。やがて援助をしてくれる人がみつかって中学に入れることになり、五高、京大と進学した。(中略)五高、京大では後に首相になる池田勇人と同級で、意気投合して生涯の親友になり、彼の葬儀では祖父が友人代表として弔辞を読んだと聞いています。

 

大学に入学した2年後のこと。弥一のもとに、佐世保の小学校時代の恩師三浦朝千代が、娘の美代を連れて訪ねてきた。弥一はふたりを京都の名所を案内することになった。

 

 

すると朝千代は弥一に言った。娘の美代の結婚相手になってほしいと。2年後、弥一と美代は結婚した。

 

 

大正14年、弥一は共保生命保険(後の東京生命)に入社。3年後に長女の敬子が生まれた。のちの龍一の母である。

 

 

弥一は順調に出世街道を歩んだ。35歳で新潟の支部長に、翌年には新橋の支店長に昇格し、取締役まで登りつめた。

 

 

一方、家庭では、4人の子供に恵まれた。

 

 

妻の美代は、子供たちの教育に力を入れた。特に熱心だったのが音楽。童謡からクラシックまで、様々なジャンルを聴かせた。何よりも感性を伸ばすことを大切にした。

 

 

長男の由一は、弟・三郎の当時をこう振り返る。「茶わん、皿をなんでも、三郎が隙をみてはひっさらって、それを持ってヨチヨチ走って縁側に出て、敷石に落っことして、割れる音(の違い)を耳を澄ませて楽しむというね、(安価な)ドボっという音ではなく、(高価な)チャリンという音が好きでね。高いものを狙って壊す・・・」

 

 

番組の収録で龍一は、幼き三郎が茶わんを割っていたことに、「それ僕ちょっと いただこうと思って 次の作品は それにしようかと思って」と語った。

 

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

三郎が、まだ1歳だった頃に、茶碗やお皿を縁側から敷石に落っことして遊んでいたそうなんです。台所から食器をくすねてきては割り、その音を聴いて楽しんでいたのだと。三郎は「バリン」という太い音より「チャリン」という澄んだ音が好きで、そういった音を出すものは決まって有田焼など、薄めの高価な器だったらしい。すごいのは三郎の母親、つまりぼくの母方の祖母で、普通なら子供がそんな遊びをしていたらすぐに叱るところ、黙ってその様子を見ていたという。「ああ、この子は音に敏感なんだわ」と呟きながら。祖母白身も、ヴァイオリンを習っていた音楽好きのひとでした。下村家で語り継がれてきたそんな昔の話が頭のどこかに残っていて、ぼくは焼物で音を鳴らすというアイディアを思いついたのです。これも「もの」としての音楽ですね。編集者の立場から作家をサポートしていた父には、創作の先輩として生前もっと話を聞いておけばよかったと後悔することもある。しかしぼくは両親だけでなく、叔父をはじめとする親戚からも、多くのものを受け継いできました。こうしてみると、自分という人間はつくづく、周囲の大人たちから影響を受けて作られてきたんだなと思います。

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

2018年3月末には、「樂焼」で有名な京都の樂吉左衛門さんの窯を訪れました。今は代替わりして16代目になっていますが、このときに応対してくれたのは15代目の光博さんです。樂さんとは以前にトークイベントでご一緒し、こちらが「なかには失敗する焼物もあるんでしょう?」と尋ねたところ、「もちろん、たくさんありますよ」と答えていた。彼のその話を聞き、ぼくは常識がないから、そうした失敗作を譲ってもらえないだろうか、と考えたんです。

 

実はこの時期、半分冗談、半分本気で、次のアルバムは焼物にしようと構想していました。購入した人それぞれか焼物を割り、その割れる瞬間にだけ鳴る一度きりのサウンドを楽しんでもらえたらという狙いの、究極のコンセプチュアル・アートです。樂さんの失敗作を譲り受け、音の研究の参考にしようと思って頼んだところ、さすがにそれは無理だという。考えてみれば当然ですが、失敗作が万が一にも世に出たら、樂さんの名前に傷がついてしまいますからね。彼に聞くと、上手くいかなかったものは段ボールにどんどん投げ捨て、再び土に戻して次の作品に使うのだそうです。とはいえ、ぼくとしては焼物が割れる音を聴きたいだけなので、実物を持って帰れなくてもいい。交渉の結果、樂さんのところであれば割っても構わない、と許しを得られ、失敗作を片っ端から割っては音を録らせてもらいました。もっとも、一口に「失敗作」と言っても、それは樂さんの主観で判断しているだけで、素人目にはそれ自体ものすごく価値があるものに見えるのですが。20個くらい割ったところで、さすかに良心の呵責に苛まれて止めました。

 

結局、焼物としてのアルバムはリリースしなかったものの、2021年3月に数量限定で発売したアートーボックス『2020S』では、デザイナーの緒方慎一郎さんのディレクションで唐津の陶芸家・岡晋吾さんに協力してもらい、オリジナルの陶器の皿を作りました。その皿をぼくが割ったときの音を使った『Fragments,time』という曲と、割れた陶器の破片そのものもアート・ボックスには収録し、購入者のもとに届けています。それぞれが一点ものの作品ですね。そもそも、こんなことを思いついたのは、母方の叔父の幼い頃のエピソードが印象に残っていたからです。

 

長女の敬子も幼いころから琴やピアノを習い、音楽が得意な少女に育っていった。

 

 

 

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

 

「敬子」という母の名前は、戦前に総理大臣を務め、最後は東京駅で暗殺されてしまった原敬にあやかり、祖父が付けたものだそうです。母方の祖父母にとって最初の子供で、その下に3人弟がいるんだけど、きょうだいの中で母がもっとも雄弁かつ勉強もできたらしい。池田勇人の親友だった祖父は、この子が男だったら政治家にしたかった、と語っていました。母は気も強くて、ぼくが「若尾文子って本当に綺麗だよね」と同意を求めたら、「そうかしら?」と対抗意識を燃やしたり。亡くなってからも、そんなキリッとした彼女の表情がしみじみ思い出されます。ちなみに、親交のあった金子きみさんの歌集『草の分際』によれば、若い頃の母は幼いぼくの手を引き、女性中心の平和活動団体「草の実会」の反戦デモに参加してもいたようです。このときのことは一切憶えていないけれど、ぼくは物心がつく前から、思想の上でも母に大きな影響を受けてきたということでしょうか。

 

『草の分際 : 金子きみ歌集』(2005年)

草の実会(抜粋)

朝日新聞の今に続く女性の投稿欄「ひととき」は昭和二十八年に始まった。初期は有識者の教条的な響きが有ったが、間も無く一般女性から投稿を募るようになった。戦争批判と敗戦後の世相を写した声が多かった。女性差別への論難、民主主義の高揚など、参政権や新憲法を握った強さで戦争に翻弄された無念さをあらわに訴える。台所から上げた目に見えてきた社会の不合理や政治のおかしさなども指摘した。従来の女らしがらぬ声で野の思い、市井の考えが発射される。


女が黙っていたらまた間違う。放ってはいられない。中央から、北海道から、九州から、大阪から固まろうと言う声が上がった。現代の「ひととき」の内容と違ってはいないが社会的であり骨っぽかった現れであろう。
 

昭和三十年、「草の実会」と言う平凡な名前がつき、日本列島をあげて二千名近い集団が出来た。娘、母、妻、嫁、姑、先生、婦人、戦争に男をとられた独身者、有名人も農家や商店のおばさんも横並びした。日本列島大きく分け、なお小分けして、私は世田谷グループに属した。グループは月例会を持ち、その連絡会が月に一度、総会が年に一度ある。
 

反戦平和を運動の本流に、新憲法遵守を訴える。社会正義に関わる問題には誰かが耳を立てて浸透をはかる。教科書問題、ガイドライン、戦争記念館問題、慰安婦問題、ダイオキシン問題などにも動く。国会にも永田町にも出かける。メキシコでの第一回婦人大会への参加、母親大会では魯迅婦人を迎えたりした。憲法記念日と8月15日のデモは欠かしたことが無い。2000年にはデモ100回を数えた。著名な方々も仲間のように出入りされた。子連れの母親も多い。今音楽活動にときめく坂本龍一さんも小さな出席者だった。

 

読書が好きだった敬子。ある日、父弥一から「私の部下の息子が、小説の編集者をしている。敬子は、その人が編集した本を読んでみたいと伝えた。

 

 

そして椎名麟三の小説『永遠なる序章』を届けに来たのが、坂本一亀だった。

 

 

昭和23年、敬子と出会った一亀は、そのときの印象を綴っている。

 

「若々しく健康そうな彼女に好感を持った」

 

 

一方、敬子も、文学について熱く語る一亀の姿に惹かれていった。

 

敬子の弟・由一は語る。「敬子はすっかり一亀にほれ込んじゃって。随分たくさんね、男が(敬子に)言い寄ってくる男がいて、家にまで押しかけてくるような男が何人もいたんですが、それが手もなく坂本一亀にほれ込んじゃったという、何でしょうね、ありゃあ」

 

 

二人は交際をはじめる。

 

 

このころ一亀が力を入れていたのは、新人作家の発掘だった。

 

そして一人の男の才能に目をつける。当時その男は勤める役人だったが、その傍ら小説を書いていた。一亀はその男のもとを訪ねる。「長編小説を書いてみないか」。男の名は三島由紀夫。のちに日本文学界を代表する人物となった。

 

この数日後、三島は大蔵省に辞表を提出する。東京目黒にある日本近代文学館には、三島が作品の構想を練っていたときに、一亀に出した手紙が残されている。

 

 

 

 

 

 

 

仮面の告白の一年後、一亀と敬子は結婚式を挙げる。一亀28歳、敬子23歳であった。

 

 

その2年後、長男が誕生。坂本龍一である。

 




坂本龍一ファミリーヒストリー拡大版(3/3)

に続く