吉田拓郎ヒストリー Ⅱ (1/3)誕生から"ラスト"アルバムまで 70年代前半偏愛史観 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 今から2年前の2022年、吉田拓郎はラストアルバムを発表し、引退しました。1970年のデビューから、半世紀以上にわたる音楽人生だったことになります。特番が組まれたテレビの引退セレモニーでは、拓郎さんは感極まった表情を見せました。その初期にファンとなった自分も、ついにこの日が来たかと感じ入ったものです。ところがです。つい先日、新作となるミニアルバムを発表しました。あの引退劇は何だったのか。

 思えばこの方は、四十歳の頃にも引退をほのめかしたことがあります。先般の引退劇も、かつての盟友の泉谷しげるが「絶対戻ってくる」と喝破していました。他にも前言撤回歴がいくつもあり、世間はこれをよく承知なのか、あるいは過去の人と見なされているのか、今回の復活劇は話題にすらならないようです。吉田拓郎の盛時を知るファンとしては寂しくもあります。

 それはともかく、その”ラスト"アルバム『ah-面白かった』というタイトルには、大好きな音楽を楽しくやり遂げた思いが込められているといいます。ですが拓郎さんの資料を読み込むと、本当に「面白かった」のかと訝ってしまう。第一、このアルバムのLP盤ライナーノーツですら、ネガティブなことばが書き連ねられています。

 

 四十歳のときには「面白い」とは対極のことば、「(音楽には)もう飽きた」を繰り返し発言していました。あるバンドが解散した際には「吉田拓郎を解散したい」と洩らしました。このような例は枚挙にいとまがなく、関西弁風に揶揄すれば、『ah-しんどかった』が拓郎さんの音楽人生のもう一つの側面だったのではないかと思ってしまいます。

 この見方を"立証"するべく、以下の拙文をまとめました。吉田拓郎の父母の生い立ちから始まり、本人の誕生から今年のミニアルバムに至るまでの歳月を、各資料から抜き書きし構成しました。何回もデビューに失敗し、70年のデビュー後も多くの辛酸をなめ、天下を獲った数年の間も、吉田拓郎は波瀾万丈の日々を送りました。そして人気が落ち着いた80年代以降も「しんどかった」ことは資料が明示しています。拙文はこの視点に立ち構成しました。

 たかが一ファンの分際で、稀代のアーティストの音楽人生をこのように捉えることは失礼なことです。ですが、的外れな話ではないと思っています。80年代以降の「しんどい」原因は、自らが築きあげた70年代のイメージから脱却できなかったことにあるようです。自分はまさに70年代の、その前半を愛するファンであり、拙文はそのスタンスでまとめた「吉田拓郎70年代前半偏愛史観」となります。

 70年代のファンが、当時の吉田拓郎像をいつまでも追い続けたから、拓郎さんはしんどかった。であれば自分はまさにその原因をつくったひとりといえます。ですからすこし大層に言えば、贖罪の意識を持ちつつキーを叩きました。一方、80年代以降の動向を知ることで、90年代に「LOVE LOVE あいしてる」などの番組に出るようになった拓郎さんの思いも理解できるようになりました。我がヒーローはそこまで追い詰められていたということです。


 半世紀前、初めて買ったアルバムが吉田拓郎の『元気です。』でした。その夜から毎晩、溝がすり切れんばかりに聴き入ったものです。リスペクトは幾つになっても消えません。当時の熱情を思い起こしてまとめた、リスペクトゆえの「吉田拓郎70年代前半偏愛史観」です。個人的な思いも織り交ぜた”偏向”史観でもありますが、拓郎ファンのお一人でもいい、共感していただければ幸いです。


 

 拓郎さんのデビュー前の友人関係のお名前につきましては、小説である、田家秀樹著『ダウンタウンズ物語』の人物名を借用しました。他の関係者の方々については実名を使わせていただき、敬称は略させていただきました。

 

 

 

 

 

父と母

 吉田拓郎は1946年に生まれた。日本が戦争に敗れた翌年であり、世は混乱のただ中にあった。後に不世出のアーティストとなる吉田拓郎を生み出した父母は如何なる人であったのか、二人のその戦前の歩みから話をはじめることとする。

 拓郎の父・吉田正廣は、鹿児島県北伊佐郡(現在の伊佐市)の出身である。生家の名は堂前という。堂前正廣は1895年(明治28年)、同家の三男として生まれ、5歳で近所の吉田家の養子となった。鹿児島は養子縁組が多い土地柄である。小学校(尋常小学校および高等小学校)を出ると、正廣は鹿児島県立鹿屋農学校に進んだ。

 農学校を卒業した正廣は、当時日本の統治下にあった朝鮮に渡り、朝鮮総督府で農林官吏となった。農村調査や資料収集に励み、朝鮮農業の小作事情に精通するようになる。その膨大な資料をまとめあげ、総合的に咀嚼し、朝鮮総督府編纂『朝鮮ノ小作慣行』を成した。朝鮮農地令制定を実務面を支え「生みの親」と評された。上司から厚い信頼を得て、今でいうノンキャリからキャリア官僚に昇進している。高給取りとなり、結婚後は複数の使用人のいる裕福な暮らしを送ることになった。

 拓郎の母・朝子は1907年、朝鮮における日本陸軍病院に勤める軍人の一人娘として、京城で生まれた。当地で何不自由なく育ち、朝鮮一のエリート女学校である京城公立高等女学校に入学している。卒業後は単身日本に渡り、同志社大学に入学。3年後に朝鮮にもどり、母校で英語の教師を1年つとめた。同志社への入学から、若くしてのキリスト教帰依が推定され、結婚後の広島在住時にはルーテル派教会信者となっている。

 1930年、36歳の正廣は23歳の朝子と見合い結婚する。朝鮮新聞には「官人プロフィール」という、官庁の役人を評するシリーズ記事があった。正廣の記事は「朝鮮研究に没頭せる農務課の篤学者」なるタイトルで報ぜられ、36歳まで独身であったのは、学究肌から結婚を考える暇がなかったからだと記されている。

 吉田夫婦は朝鮮において、拓郎の姉や兄となる3人の子(長女・長男・次女)を成している。しかし長女は夭逝してしまう。また戦争に敗れたため、朝鮮在住日本人は本土に引き揚げねばならなくなった。正廣は残務のためか遅れて帰国することになり、朝子は長男と次女、そして実の母も連れ朝鮮を脱した。拓郎の自著には、祖母のことばとして「おじいちゃんはあんなに早く死んじまった」と記されていることから、朝子の父は終戦時には故人であったようだ。



吉田拓郎誕生

 朝子一家がたどり着いたのは、鹿児島県伊佐郡の夫の生家(堂前家)だった。このとき朝子は拓郎を宿していた。正廣が遅れて帰国した3ヶ月後の1946年4月5日、拓郎は誕生した。しかし出産には周囲が反対していた。戦後の混乱期であり、母体も齢をとりすぎていた。それでも朝子は反対を押し切り拓郎を生んだ。

 拓郎は喘息を持病として生まれてきた。症状は重く、医者が見放した時も一再ではなかった。栄養失調からだろう、朝子は乳も出ず、喘息の発作に苦しむ我が子の背中をさするほかなかった。帰還後、吉田家は農業で糧を得ていた。朝子は拓郎を背負い、リヤカーを引いてカボチャを売り歩いた。だがカボチャはどこの家にもあった。糊口をしのぐ足しにはならなかった。

 拓郎が幼いころ、名門進学校となる鹿児島ラ・サール高校が創設され、兄が入学している。朝子は校長の世話で、同校寄宿舎舎監の仕事に就くことになった。拓郎の面倒は祖母が見ることになり、朝子は単身鹿児島市に出て寄宿舎に住み込み働き始めた。休みの日は夫や子の待つ家に帰り、一方では勤めの空き時間に生徒といっしょに図書室で勉学にはげみ、国家資格である栄養士試験に合格している。43歳での資格取得であった。

 一方、正廣も鹿児島県庁で仕事を得ることになった。嘱託として入庁し、朝鮮時代と同様、ここでもその能力を発揮することになった。『鹿児島県農地改革史』、『鹿児島県農地改革史資料』、『鹿児島県史』、『鹿児島県議会史』などの資料収集・編纂にあたり、共著者としても名を連ねることになった。また単著として『鹿児島県農民組織史』、『鹿児島明治百年史年表』を完成させている。鹿児島で生まれ育ったとはいえ、働き盛りは朝鮮に居た。当時は初老といえる歳から郷土の状況を調べ上げ上梓したことになる。

 鹿児島で両親が働くことになった吉田一家は、再び皆がひとつ屋根の下で暮らすようになった。52年の春、拓郎は谷山小学校に入学。快活で勉強がよくできる拓郎は、クラスの中心的存在となった。ガキ大将となり、のちにカリスマ的存在となる片鱗を発揮し始めた。やさしい担任宮崎静子先生に恋心も抱いた。腹痛をおこしたときは、先生におんぶされ病院に連れて行ってもらった。先生は名作『夏休み』の「姉さん先生」のモデルとなった。だがまだ小児喘息は癒えない。一度発作が起きると一、二週は学校を休んだ。



広島

 拓郎が3年生に上がろうとする年、吉田一家にまた大きな転機が訪れた。母が広島で働くことになった。このいきさつを朝子は、週刊誌のインタビューで語っている。「(広島の)教育長と知り合いだったもので、長男の大学受験(立教大学)の帰りに広島に寄ったら、盲学校の栄養士の職を世話していただいたんです」。朝子の母は広島の出身であり、この地縁からだろうか、教育長に新たな勤め先を紹介された。

 広島市比治山本町に居を構えた朝子の元に、母と次女と拓郎が移り住んだ。夫は鹿児島に残り、県庁での仕事を続けることになった。年に一、二度、父は広島に来たが、居着くことはなかった。次女と拓郎は、なぜいっしょに住まないのかと、繰り返し父に問い責めた。小学生の拓郎は、鹿児島に戻る父にすがり泣いた。思春期になると、衝突を繰り返すようになる。世に出てからもその確執を隠すことはなかった。別居は鹿児島での仕事が理由とされているが、一因は朝子の母にもあったようだ。難しい性格の人で、家族全員と、特に正廣との折り合いが悪かったという。朝子は板挟みで苦しみ、別居は止む無き選択だったのかもしれない。

 話を戻す。広島市立皆実小学校に転校した拓郎だったが、環境の急変は病弱な少年には過酷であった。喘息が悪化し、発作がおきると学校を休んだ。また鹿児島弁は広島の級友に通じない。失語症状態となり、休みがちではさらにクラスになじめず、鹿児島での快活さは消えてしまった。

 広島での吉田一家は、当初の間借り生活を経て、近くの霞町の一軒家に移った。寡黙になった拓郎は新しい家でもひとりで遊んだ。漫画雑誌に熱中し、紙を切ってつくった力士に相撲を取らせ寂しさをなぐさめた。高学年になっても各学年の出席日数は90日ほどしかなかった。鹿児島時代はよかった成績も下がってしまった。



中学

 59年、拓郎は翠町中学校に入学。成績の良い子は私立中学へ進むため、公立の翠町中学は荒れた学校だった。生徒同士の喧嘩どころか、生徒が教師を殴るなど、広島の仁義なき戦いの観さえあった。拓郎もいじめられた。だが、めげない強さがあった。喘息もまだ癒えず、神経疾患の発作もおこし、授業中や朝礼で失神した。近所のクラスメート大野光一が同情し、拓郎を自転車の荷台に乗せ毎日往復してくれた。

 拓郎が中学に入ったころ、母は栄養士の職を辞し、自宅で茶道教室を開いている。拓郎も作法を教えられた。音楽に興味を抱いたのは中学2年のときだった。姉の歌謡曲好きの影響を受けた。ラジオのヒット・パレード番組にかじりつき、順位を毎週ノートに克明に記録し、リクエスト・カードが初めてDJに読まれたときは狂喜乱舞した。米軍基地岩国のFEN放送からも、アメリカの最新のヒット情報を得た。

 音楽の影響は兄からも受けた。兄は鹿児島ラ・サール中高から立教大学に進み、ジャズ研究会に在籍した。卒業後もアルバイトでクラブなどで弾き、レコードも出している。兄が夏休みに帰省するときは女性同伴で、それも毎回ちがう人だった。拓郎はその刺激を受け、プロのミュージシャンを志向する動機となった。



高校

 62年、拓郎は進学校である県立皆実高校に入学した。中学は休みがちで、成績は芳しくなかった。なぜ合格したのか。拓郎は自著に「母は学校に日参し工作した」と記している。中学校で内申書に手心を加えるよう懇願したのだろうか。朝子はそれまでも、鹿児島ラ・サール校長や広島の教育長など教育界とのコネがあった。「工作」なぞ朝飯前だったのかもしれない。

 母は入学祝いにウクレレを買ってくれた。拓郎にとって初めて楽器となった。教則本で練習するとたちまち上達した。部活は写真部に入った。写真には興味はなく、適当な部がなかった。このころようやく喘息の発作もおさまり、生来の活発な性格が頭をもたげてきた。上庭弘樹、藤田和之という新しい友人もできた。丈夫になった拓郎は、縦横無尽の行動を繰り広げることになる。

 写真部では3年生で部長になったが、始めていた音楽活動に部室を乱用したため、部を追い出された。演劇部にいる藤田とは演劇集団を立ち上げ学内公演を開き、授業を抜け出し映画館にも行った。藤田は応援団にいて、屈強なリーダーだった。彼のおかげで高校生活を謳歌した。腹の立つこともあった。拓郎は応援団のパレードにかり出され、市内のデパートに先頭で太鼓を叩いて入っていった。拓郎が後ろを振り向くと、誰もいなかった。藤田の仕業だった。

 藤田は音楽好きでギターも弾けた。ウクレレをマスターした拓郎はギターも買ってもらい練習に励み、上庭らとバンドを結成。トーン・ダイヤモンズと名付け文化祭などに出演した。思い思いにギターやウクレレをかき鳴らすだけのバンドで、口が達者な拓郎の話術が場をカバーした。この時期、ボブ・ディランから大いに刺激を受けている。好きな女の子ができるたび、曲をつくっては聴かせた。



大学

 拓郎は大学を受験。兄の影響か母の勧めか、立教大学を志望した。しかし東京で臨んだ政経学部の試験は、最初の国語がまるでわからず、以降を放棄してパチンコ屋へ遁走。65年4月、地元の広島商科大学(現・広島修道大学)に入学した。

 拓郎はクラブ活動として軽音楽部に入る。文化系ながら実態は体育会系であり、1年生は奴隷扱いされる。頭にきた拓郎は即座に辞め、中学生時代の友人とバンドを組むことにした。大野光一、陸奥田政司、海野正和である。3人は翠町中学から広島商業高校に進み、拓郎と同様、バンド活動を行なっていた。高校で同級だった藤田は東京歯科大学に、上庭は京都の同志社大学に進んでいて、広島には居ない。



デビュー失敗 1回目

 新バンドの名はバチェラーズとした。R&B系のバンドである。拓郎はドラムを叩き、特訓を開始すると夏には成果があらわれ、ビヤホールなどで演奏活動を始めた。たちまち人気を博すようになり、ジャズ喫茶に前座で出たときは、メインのバンドを凌駕した。レパートリーはビートルズナンバーなど多数で、拓郎のオリジナル曲もあった。バチェラーズは「リサイタル」を開くまでになり、65年9月、広島市平和記念館会議室での演奏は満員の盛況となった。

 リサイタルには藤田が帰省し観ていた。終演後興奮冷めやらぬ拓郎は、東京で演奏して一儲けしようと藤田に相談。東京の大学に通う藤田に異存はない。にわか編成のバンドとして、京都に居る上庭を誘うことにした。最後に、渋る陸奥田を説き伏せ、後日、拓郎は二人して列車に乗り込んだ。母には置き手紙を残して家を出た。「東京に出てプロになります。心配しないでください」と覚悟を綴った。母は驚きながらも、家中のカネをかき集め駅に駆けつけて激励した。

 拓郎と陸奥田は途中の京都で降車し、上庭を口説いた。上庭は渋ったが、俺たちは家出同然で広島を出てきたと泣き落とし承諾させる。3人は東京に着くと千葉にある藤田の下宿に転がり込み、我がバンドを売り込む作戦を練った。唯一知っている音楽事務所は、有名な渡辺プロダクション(ナベプロ)だけだ。狭い部屋で雑魚寝した4人は翌朝、手に手に楽器を持ち、有楽町にあるナベプロに向かった。そして受付の女の子に「ぼくたちは広島からはるばるやって来たのです」と、担当者への面会を求めた。

 普通なら相手にされるわけはない。だが、チャーリー石黒という、高名なバンドリーダーが応接してくれた。おそらく暇つぶしだったのだろう。思わぬ大物の登場に拓郎らは意気高揚し、自分たちがいかに優れたバンドであるかを力説した。そして録音したバチェラーズの演奏テープを差し出した。だが石黒は聴こうともしない。拓郎はあきらめず、どこか演奏できる仕事場を紹介してほしいと粘った。石黒は新宿のジャズ喫茶店への紹介状を書いてくれた。だが訪れた店では門前払いされてしまう。意気消沈した4人は場末の映画館でピンク映画を観て、失意の家路についた。

 ちなみにナベプロで拓郎らは、あの森進一にお茶を出してもらっている。森はチャーリー石黒にスカウトされ、当時はその付き人であった。藤田らが顔をおぼえていて、デビュー後に気がついた。後に『襟裳岬』で大ヒットをとばすことになる、作曲家と歌手の最初の出会いとなった。拓郎がブレイクしたとき、チャーリー石黒は気がついただろうか。逸材を逃したと後悔しただろうか。

 後年、拓郎は語っている。「自信は広島にいるときからあるんです。俺が東京へ行ったら、大革命が起こると思って。それぐらいの自信を持っていますよ。広島でロックバンドをやっているときから、僕は自信はあった。ただ、渡辺プロ訪問では相手にされなかったわけで、あのとき相手にしておけば、沢田研二達と一緒にライバルで、ショーケン、ジュリー、拓郎と呼ばれていたよ、きっと。僕は彼らより上だと。広島で間違いなくそういう自信は持っていましたよ。いわゆるGSのどれを聴いても、僕から見て全然レベルが低かったからね」



デビュー失敗 2回目

 東京での売り込みに失敗した拓郎は、バンド活動に身が入らなくなる。仲間のあいだにも隙間風が吹き始めた。だが音楽への熱意は燃えさかっていた。高校時代にボブ・ディランから受けた影響により、ひとりでフォーク・ソングの練習もしていた。その歌う場をもとめ、広島のフォーク団体のコンサートに顔を出すようになる。ここでも喋りのうまさもあり評判を呼ぶようになった。

 大学2年の夏、コロムビア・レコードのフォーク・コンテストが広島で開催され、拓郎は単身出場する。しかし時はフォークグループが全盛で、ソロの出演は拓郎だけだった。怖じ気づいた拓郎は付き添いに来てくれていた大野に「帰ろう」と言いだす。大野は「しっかりせんか」と拓郎の股間を握り気合いを入れた。拓郎はボブ・ディラン風の長髪で、よれよれの風体は異彩を放っていた。課題曲も独特のアレンジで歌い、存在感は群を抜いていた。だが審査結果は2位。優勝すれば決勝大会に進めたのだが、夢は潰えた。それでも強烈な個性から特別賞が贈られ、決勝大会で歌うことが認められた。

 66年7月の神奈川での決勝大会は、さすがは全国大会だった。他のグループの演奏や歌声は、みな素晴らしかった。拓郎が歌ったのは自作曲『土地に柵する馬鹿がいる』。フォークソングのひとつの潮流であるプロテスト・ソングで、三里塚闘争から着想を得た。のちの吉田拓郎からすれば異色の歌だが、R&B系バンドのバチュラーズから一転、時代の空気に合わせ、なんとか世に出ようとした。

 果たして見事3位を獲得。特典としてレコード化のチャンスが与えられた。翌日東京のコロムビア・レコードのスタジオで入賞曲をレコーディング。だがやはり異端だった。コロムビアは商用化は困難と判断し、レコーディングは没となった。デビュー一歩手前まで迫ったものの、再び夢は消えた。それでも大会を取材した週刊誌の平凡パンチが、拓郎は和製ボブ・ディランのようだと記事にしている。



デビュー失敗 3回目

 こうして拓郎は、またもや失意の日々をおくることになった。バチェラーズでやり直そうという気にもなれなかった。続けざまに失恋したことも大きかった。悪循環の不満は広島の街に向けられた。もう一度東京に出てトライしよう。そう思い立った拓郎は母に相談する。反対されるかと思いきや、逆に激励してくれた。母はコロムビアのコンテストでも、客席でそっと見守っていた。拓郎が東京に発ったあと、大学に休学届を出したのも母だった。

 東京での売り込みの拠点は、千葉市の広徳院というお寺。拓郎は広島のカワイショップ店長と昵懇となり、広徳院はその実家だった。寝泊まりさせてもらい、プロへの足がかりを得ようとした。お寺での日々は、昼ごろ起きだし朝昼兼の食事を頂くと、東京へ出かける。レコード会社に自作曲のテープを持ち込み、紹介された芸能プロで歌った。帰って夕食をいただくと、誰もいない本堂で新たな歌をつくり録音した。長距離トラックの助手やラーメンの出前持ちなどアルバイトもやりつつの、売り込み行脚であった。しかし結果は出なかった。のちにデビュー曲となる『イメージの詩』も披露したが、お経のようだと酷評された。

 おまけに居候の身はつらい。寺で気を使いすぎた拓郎の心身は日々弱っていった。そんなとき陸奥田から手紙が届く。新バンドを結成するから帰って来いという。半年にも及んだお寺での生活は終わりを告げ、拓郎は広島への帰路についた。67年の3月のことであった。

 

 

 

デビュー失敗 4回目

 広島に戻ると、陸奥田と大野に新メンバーも迎え、新バンド『ダウンタウンズ』を結成した。もともと地力があるメンバーが特訓を重ねると、たちまち広島で最も実力・人気のあるアマチュア・バンドとなった。練習場であるカワイショップでは見物客が引きも切らず、定期無料コンサートはいつも満員札止めで、ビヤガーデン、ディスコの仕事も入ってきた。オーディションでは審査員をつとめ、親衛隊もできた。時あたかも、グループサンズの時代が到来していた。

 67年7月、ダウンタウンズはヤマハ音楽振興会が主催する、第1回ライトミュージック・コンテストの中国地区大会に出場。ロック部門であっさり優勝してしまう。しかし全国大会はカワイ楽器関係のバンドであることから出場を辞退した。拓郎が講師をつとめるカワイギター教室は満員の盛況で、さながらファンクラブのようだった。RCC中国放送とカワイショップ共催コンサートには司会兼歌手として出演、自作曲は広島ローカルながら歌謡曲以上のヒットとなった。岩国の米軍キャンプでは、耳の肥えた本場の客にR&Bを披露した。

 68年3月、ダウンタウンズは第2回ライトミュージック・コンテスト中国大会で、またもや優勝してしまう。前回は所属会社の垣根で出場できなかった決勝大会も演奏できることになった。11月、東京での全国大会のボーカル・グループ・サウンズ部門に勇躍出場するため、広島を発った。駅には数多くのファンや友人が見送りに来てくれた。みなの期待を一身に背負ってステージに立った。しかし結果は4位だった。入賞を逃したダウンタウンズは意気消沈。メンバーの熱も急速に冷めてしまう。仲のよかった4人にも意見の対立が生じ、バンドは自然消滅となった。



偶然のデビュー

 68年11月、広島では、ヤマハ系やカワイ系など三つのフォーク・ソング団体がひとつにまとまり、広島フォーク村が発足した。拓郎はこちらでも中心的存在となった。12月の旗揚げコンサート以降、ステージでは毎回トリをつとめている。中国放送の番組ではディスク・ジョッキー的に出演し、69年夏には、NHK広島のローカル番組に出演した。

 一方で拓郎の学生生活も大詰めを迎えていた。プロにはなれないが音楽にかかわる人生を送ろうと、河合楽器から就職内定をもらう。将来はその広島の支店長にでもと、堅実な人生の青写真を描いた。これまで東京でのデビューを目論み、4回挑戦したプロの道はあきらめるしかなかった。ところがここに来て、その運命を変えるできごとがおきた。

 フォーク村の「村長」には、拓郎の後輩(皆実高校、広島商大とも2年下)にあたる、伊藤明夫が就いていた。69年の晩秋、伊藤は広島アマチュア・フォーク界の代表として、東京で開かれたある会議に出席した。ここで伊藤は皆実高校同級生の杉原と出会う。杉原は上智大学生で、かつては全共闘の活動家であった。学生運動は挫折したが、フィーチャーズ・サービスなる組織を運営し、新たな世直し運動の資金獲得活動を行っていた。杉原はその一環として、手作りのレコードを制作し販売したいと言う。それならばと伊藤は、我が広島フォーク村があると自らをアピール。その結果、吉田拓郎デビューの道が開かれることになった。

 それまで4回にわたる東京進出の夢は潰え、広島で一市民として生きようとした拓郎に、杉原が最後のチャンスを与えたことになる。もっとも当の拓郎は後年、このデビューが不本意であったと事あるごとに繰り返してきた。思い描いていたプロへの道ではなかった。だが事実関係としては、杉原の偶然の働きかけがなければ、吉田拓郎が世に出ることはなかった。日本音楽史の分岐点となる、運命のいたずらであった。

 さて、日を置かずして杉原は、地元である広島に帰った。広島フォーク村にレコード制作の話を持ちかけるためだ。杉原は拓郎らフォーク村のメンバーをキャバレーに連れて行くなど、札束にものを言わせ大盤振る舞いした。この接待に拓郎らは引いてしまったのだが、レコードを出せるなら青春の記念碑になる。収録の運びとになり、アルバムの大半の曲をフォーク村のメンバーが広島で、拓郎のみが東京でレコーディングすることになった。これを取り仕切ったのが、エレックレコードだった。デビュー時に拓郎が所属することになるレコード会社である。

 拓郎が広島に帰った一週間後のこと、突然拓郎のシングルレコードが市中に出まわり始めた。東京で収録した『イメージの詩』と『マークⅡ』であり、エレックから関東と広島限定で売りに出された。拓郎は驚いた。何の連絡も相談もなかった。それ以上に問題だったのは、『イメージの詩』の長い詞はカットされ、リズムも途中から逆になっていた。拓郎は抗議した。すると、エレックは歌い直しを提案してきた。

 3月、拓郎はふたたび上京、再収録がおこなわれた。この上京が拓郎の運命を変えた。本人も後年、「俺は河合楽器に就職するつもりだった。あんなことがなかったらね」と語っている。東京でエレックレコードの浅沼勇に口説かれたのだ。ダウンタウンズが2年連続して出場したライト・ミュージック・コンテストの企画者のひとりであった。審査員として全国をまわり、新しいユニークな才能を探していて、すでに拓郎の才能に目をつけていた。

 だがこれまでの経験で、拓郎は音楽業界の厳しさや裏側を知ってもいた。一方、これまであと一歩でプロ入りを果たせなかった悔しさがあった。地方とはいえ、広島での実績も十二分に積んだ。やってやろう。拓郎はプロの道に進むことを決心する。就職を控えた前月、まもなく24歳を迎える、春も間近のことだった。

 

 

 

 

 

吉田拓郎ヒストリー Ⅱ (2/3)

に続く