大貫妙子と坂本龍一Ⅱ 〜出会いから別れまでの軌跡 〜 追想の「色彩都市」 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 一昨年、「大貫妙子と坂本龍一  『新しいシャツ』はその別れの歌だった」をアップしました。坂本龍一が自叙伝『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』で語った、かつて大貫妙子と共に暮らしていたとの告白を受け、二人の著書などから関連記述をまとめたものです。

 

 昨年末、大貫妙子は月刊誌『ユリイカ』のインタビューを受け、亡き坂本龍一を語りました。拙稿は坂本の自叙伝での告白とインタビュー記事をベースに、二人の出会いから坂本龍一逝去に至るまでをたどったものです。インタビュー記事はおそらく、大貫が坂本とのかつての関係性を初めて語ったものと思われます。

 

 実は前稿「大貫妙子と坂本龍一」において、二人が同棲していたのはいつ頃であったのか、その時期の推理をおこないました。そして大貫がバンド・メンバーであったシュガーベイブ期のどこかであったろうと結論付けました。しかし所詮はわずかな資料からの当てずっぽうであり、案の定、外れていたことがわかりました。件のインタビュー記事で、当の大貫がその時期を明かしたからです。

 

 拙稿でもこのことを当然取り上げています。ですが、インタビューで大貫が語ったことばに矛盾を感じたことから、より"正しい時期"を求め、懲りもせずまたもや推理を行ってしまいました。当事者であるご本人の些細な言葉尻をとらえて、微に入り細に入り、ああでもないこうでもないと書き連ねています。これは事をより正確に知りたいとの思いからであり、他意はありません。このことも含め拙稿は、大貫妙子と坂本龍一の一ファンによる、限られた資料からの推測を交えた記事だとご承知おきください。

 

 なお、上のタイトルには「追想の『色彩都市』」の副題を付けました。この意図については、本文終盤部とあとがきに記しました。資料を読み解くうちに気がついた、大貫妙子の胸の内を推測したものです。ご本人の思いを不遜にも推し量るということになりますが、ある程度の確度はあると考えています。

 

 いずれにせよ、両名についてあれこれ書くことで、当時の関係性が浮き彫りになったと思っています。大貫妙子と坂本龍一のファンの、お一人でも多くのお目にとまることを願っています。

 

 

参考引用資料

 

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』坂本龍一著

『ユリイカ2023年12月臨時増刊号 総特集坂本龍一』

『大貫妙子デビュー40周年アニバーサリーブック』

『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969‐1989』牧村憲一著

『音楽は自由にする』坂本龍一著

『追憶の泰安洋行』長谷川博一著

『風都市伝説』北中正和編

『自暴自伝』村上“ポンタ”秀一著

『レコードコレクターズ』(1997年7月)

『レコードコレクターズ増刊』(2012年2月)

『レコードコレクターズ』(2020年12月)

『シュガー・ベイブ』 Wikipedia

『月刊カドカワ 総力特集大貫妙子』1988年10月号

『月刊カドカワ 』1989年1月号

『坂本龍一 音楽の歴史』吉村栄一著

https://natalie.mu/music/news/183254

https://ameblo.jp/blue-dream-blue/entry-11894491974.html

 

 

 

写真(レコードコレクターズ20年12月号)は97年撮影で、アルバム『ルーシー』収録時のものと思われる。大貫妙子は下の本文中で、「いつも左側に坂本さんがいた」との趣旨を語っている。

 

 

 

 

坂本龍一の告白

 

 坂本龍一は自叙伝『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』で、「大貫妙子さんとの思い出」と題し、かつての関係を明かした。

 

今だから明かしますが、ぼくは20代前半の一時期、大貫さんと暮らしていました。しかし、別の相手ができたぼくは、その部屋を出ていってしまった。本当にひどいことをしてしまいました。その後、大貫さんと親しくしていた母が、龍一がお世話になったと会いに行ったようです。「お母さまが、清楚な真珠のネックレスをくださいました」と、大貫さんから聞きました。そして当時、大貫さんが発表したのが『新しいシャツ』で、この曲の歌詞を聴くとつい泣いてしまう。でも、泣いてしまうのは自分だけじゃなくて、ふたりのコンサートでぼくができるだけ感情を抑えながらこの曲のイントロを弾き始めると、なぜか客席からも嗚咽が聞こえるんですね。きっと、ぼくたちの昔の関係を知るひとがいたのでしょう。

 

だけど、あれから長い時間が経ち、今ではもう親戚のような付き合いになっていて、『UTAU』では大人のミュージシャン同士の新たな関係が築けたと思います。それにしても、昔のことを思い返すと本当に懐かしい。大貫さんと知り合った70年代の頃は、みんなまだ売れていないし、とにかく時間ありました。麻雀をやろうと思ってもふたりだけじゃできないので、仲のよかった山下達郎くんに電話で「来ない?」と誘うと、彼は練馬にあった実家のパン屋から、店の軽トラを運転してすぐにやってくる。もうひとり、近所に住んでいたギタリストの伊藤銀次くんも呼んで、4人でひたすら雀卓を囲んでいました。三徹だってザラでした。誰ひとり、ろくに仕事をしていないのに、どうやって食っていたんだろう。

 

 坂本の逝去後、大貫は月刊誌のインタビュー記事で坂本との交流を語った。以下は、当記事と坂本の自叙伝を主な手がかりとし、大貫妙子と坂本龍一のおよそ半世紀にもわたる交流をたどっていく。

 

 

出会い

 

 まずは、大貫と坂本の初めての出会いの時期から特定したい。それは大貫がメンバーであった、シュガー・ベイブ在籍時のことであった。このバンドは73年4月から76年3月まで活動していたのだが、坂本はその間の74年秋、フォークシンガー・友部正人のバックでピアノを弾くようになり、プロの道に足を踏み入れた。

 

 以降、坂本は様々なミュージシャンと交流を深めるようになり、シュガー・ベイブともライブハウス、あるいは他者のレコーディング現場などで顔を合わせている。これらはいくつもの資料で確認でき、その中に、大貫と坂本の二人に関する具体的な記述があった。

 

 75年12月、新宿厚生年金会館小ホールでシュガー・ベイブのクリスマスコンサートがおこなわれた。大貫のソロ・コーナーがあり、その『からっぽの椅子』のピアノ伴奏をしたのが坂本だった。後に大貫にヨーロッパ・テイストの音楽を勧めることになる音楽プロデューサー・牧村憲一は、「その日の坂本のピアノは煌びやかだった。それまでの芝居やフォーク・シンガーのサポートとはまるで違う、別の世界を楽しむかのようだった」と、坂本没後の寄稿文に記している。

 

 この牧村の一文は、23年12月の『ユリイカ臨時増刊号総特集坂本龍一』において掲載されている。大貫妙子のインタビュー記事もそのひとつである。同誌には、故人を偲ぶ、各界著名人の47もの寄稿文や座談会記事がずらりと並び、インタビューは巻頭に配されている。大貫妙子と坂本龍一の関係性の深さを象徴しているかのようだ。

 

 

コタツ

 

 大貫はシュガーベイブ時代に坂本と共演していた。だがインタビューで問われた大貫はその記憶は定かではないようだ。それでも坂本と親しくなったきっかけは印象深いようで、その内容を要約する。

 

 当時大貫は笹塚に住んでいた。ある日、同じ笹塚の所属音楽事務所ジャムライスに顔を出し、同じビルにある音響関係の会社に立ち寄った。部屋にはコタツがあり、入っていたのが坂本龍一だった。大貫もコタツに入りこみ話し込んだ。コタツで親しくなったとは凄いことだと、大貫自身が振り返っている。

 

 拙稿としてはまずもってこのコタツの時期を知りたい。インタビュアーも同様であったようで、入念な下調べをおこなっていた。「ジャムライスは76年に設立された」と大貫の記憶を喚起させるよう問いかけている。大貫はコタツの時期については語らなかったものの、少なくともジャムライス設立の76年以降に大貫と坂本が親しくなったことはわかった。(ジャムライスには前身会社があり、このためか設立年は資料により異なるが、拙稿はインタビュアーの76年を採る)

 

 

「ある日私の家に来て、そのままずっといた」

 

 コタツに一緒に入り、大貫と坂本は恋愛関係に至った。では同棲はいつ始まったのだろう。大貫はインタビューにおいて同棲について語った。だがインタビューという性格上、一貫した脈略で話したわけではない。以下ではそれらを整理してお伝えすることとする。

 

 インタビュアーはまずもって、坂本の自叙伝に大貫のことが記されているなど前置きを述べつつ、インタビューを始めた。すると大貫はその意図を感じ取ったのか、同棲については問われていないにも関わらず、自ら語りだした。

 

1977年にアルバム『サンシャワー』をリリースしていますから。46年前(引用注:インタビューは2023年)ですね。ある日私の家に来て、そのままずっといた、っていう感じです(笑)。うちのLP棚を片っ端から聴いて、二人で盛り上がる毎日。当時の、ウェザー・リポート、ブレッカー・ブラザーズ、マリーナ・ショウ、卜ッド・ラングレン、ダニー・ハサウェイ・・・

 

 このことばから、同棲は77年に始まったことがわかる。坂本が大貫の笹塚の家に住み着くかたちで始まったのだ。大貫がセカンド・アルバム『サンシャワー』を出した年である。しかしさらに話が進むと、77年という年に疑問符がつくことになる。坂本の才能について問われた大貫はこう答えた。

 

「できるな」っていうか・・・そうですよね、どう考えても。ピアノは上手だし。それでうちに、いつのまにかいるようになったんです。日がなこれを聴こう、あれを聴こうと延々。基本的には音楽漬けで、レコードを聴いてはかっこいいねとかって話で盛り上がる。そんな感じの日々でした。部屋にアップライトのピアノもあったので弾いたり。暇な時間はたくさんあって、ある日、山下(達郎)さんが遊びに来て、「麻雀やろうっ」ていうことになって、三人麻雀っていう。もう一人呼べばいいのに(笑)。二日間徹夜で。そんな暇な日々の中、突然、ソロでレコードを作るっていう話になって。

 

 お気づきになったろうか、大貫が言うところの77年を前提に読み始めると、最後の「突然、ソロでレコードを作るっていう話になって」が77年と矛盾することになる。このことばをそのまま受け取れば、初めてソロ・アルバムを出す話としか捉えられない。初のソロ・アルバムは『グレイ・スカイズ』であり、それは前年の76年にリリースされている。大貫のことばをどう解釈すればいいのだろう。

 

 『グレイスカイズ』と『サンシャワー』は、同じクラウンレコードから出ている。別の会社ならともかくも、同じ会社ならアルバム制作スケジュールはあらかじめ決められているはずで、「突然、ソロでレコードを作るっていう話になって」という表現はあり得ない。大貫が語ったのは76年か77年なのか、どちらなのだろう。

 

 

76年か77年か

 

 実はインタビュアーも大貫が『サンシャワー』と語った時点で疑問に感じたか、「最初のソロ作『グレイスカイズ』は同棲していた頃?」と具体的な時期を指し問い直している。これに対し大貫は「同棲って、石鹸カタカタ鳴ったの世界ですね、それって」と笑い、話は先述のコタツの話に流れてしまっていた。

 

 インタビュアーは事前に下調べを行って臨むとされる。限られた時間で効率よく話を聞き出すには、予備知識が必要であることは素人でも理解できる。事実、このインタビュアーは大貫が覚えていないことも事細かに調べ上げていて、大貫は古い記憶を喚起させられている。当時の関係者なら同棲は周知の事実であったはずで、それら情報を収集した上での質問だったのではないか。だからこそ、「最初のソロ作『グレイスカイズ』は同棲していた頃?」という、具体的な時期を投げかけたと思われる。

 

 そして「突然、ソロでレコードを作るっていう話になって」も重要なキーワードだと思う。これはやはり初のソロアルバム制作の話とするならば、ミュージシャンにとって決して忘れることができない思い出のはずであり、これこそが真実を語るキーワードだと思われる。ならば同棲の開始は76年となる。

 

 さらにポイントとして考えたいのが、「暇な時間はたくさんあって」である。坂本も『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』で、「大貫さんと知り合った70年代の頃は、みんなまだ売れていないし、とにかく時間がありました」と記していて、大貫のことばと一致している。しかし坂本は、遅くとも76年の後半には売れっ子スタジオミュージシャンとなり、77年はさらに多忙を極めるようになっていた。大貫の言う「暇な時間はたくさんあって」は77年とは考えられないことになる。

 

 以上、いわば傍証ばかりだが、拙稿としては76年に同棲が始まったと考えたい。つまり大貫と坂本は、音楽事務所ジャムライス設立間もない、まだコタツが必要であった、おそらく76年4月に親密になり、時を置かずして同棲関係に入り、同年9月リリースとなる初ソロアルバムの話が突然舞い込んできた。状況証拠的にそう考える方が自然だと思う。

 

 なお後述するように、この同棲は78年の秋頃に終わりを告げたようだ。76年の春から始まったであろう、そして78年の秋までの、およそ2年半の同棲生活であったと推定される。拙稿はこの前提で話を進めていくこととする。

 

 

グレイ・スカイズ

 

 ともかくも、かくて始まった大貫妙子と坂本龍一の同棲生活。先のインタビューにあるように、大貫は当時の暮らしを楽しげに語っている。

 

・うちのLP棚を片っ端から聴いて、二人で盛り上がる毎日

・日がなこれを聴こう、あれを聴こうと延々

・基本的には音楽漬けで、レコードを聴いてはかっこいいねとかって話で盛り上がる

・部屋にアップライトのピアノもあったので弾いたり。暇な時間はたくさんあって・・・

 

 だが一方では、仕事面の不安は大きかったようだ。それを救ったのもやはり坂本だった。資料にある大貫のことばは、坂本への信頼感で満ちあふれている。

 

シュガー・ベイブを離れて一人になったら、全く自信なかったのね。もう、このままやめるんじゃないかと思ったし…。でも、まわりの勧めにより、続けていこうと。いつも、山下くんの影にかくれてピアノを弾いてただけの存在だったけど、そんな私にも何か可能性を感じてくれた人がいたんですね。話しを進めてくれたのは、後に『ロマンティーク』『アヴァンチュール』をプロデュースしてくださった牧村憲二さんです。そういう意味ではまわりの人に恵まれていた。(中略)

 

それでも、まだソロ・アルバム『グレイ・スカイズ』を出した時は半信半疑でした。これから、どうやっていくかも具体的に考えられませんでした。とにかく、これからは自分でやっていこうと思った時に、やっぱり音楽的パートナーが必要だった。今までは山下くんというパートナーがいたわけでしよ。

 

その時にいろいろな人とソロ・アルバムで仕事した中で、坂本龍一さんとの出会いが、ものすごく自分にとって大きかったわけですね。まだ彼はそんなに有名ではなかったけれど、とても才能のある人だと思ったし、もう芽生え始めていましたから。その頃、新しいシンセサイザーが出だした頃で、いち早く取り入れて使っていました。随分、勉強熱心だったし、研究熱心だったから。

 

『グレイ・スカイズ』の中でやってるんだけど、彼のアレンジで。坂本くんも、最初は私の仕事を通じて、いろいろ試しながらやってたようなところがある。でも、自分のやりたいものとは、すごく近いところを持ってたのね、最初っから。私のメロディーというのは、すごく器楽的なので、どこかクラッシックの要素が強く、その点、坂本くんは基本的でところで、よく理解してくれました。

 

 かように大貫の初ソロアルバム制作において、坂本は欠くべからざる存在であった。この76年においての坂本に深く依存する関係性からも、同年に恋人関係にすでに至っていると考えるのが自然だと思う。

 

 

矢野顕子

 

 ちなみにこの76年は、5月において、細野晴臣がおこなった横浜中華街の同發新館のライブに矢野顕子が出演している。矢野はピアノを担当、松任谷正隆がエレクトリック・ピアノを弾くことになっていた。だが松任谷が来れなくなり、急遽、坂本龍一が呼ばれた。このときが後に結婚することになる矢野と坂本の初対面となった。しかし以下の矢野のことばにあるように、坂本の第一印象は悪かった。それはむろん後に好転することになるのだが、ともかくも、大貫と坂本が一緒に住み始めたであろう時期に、矢野と坂本が初めて顔を合わせたことになる。もしこのとき矢野が好意を抱いたなら、歴史は変わっていたのかもしれない。

 

譜面はちゃんと読めるみたいだけど、汚いのね。なんかにおうのね(笑)。ジーパンなんかあまりの汚さで、ニシマった(原文ママ)感じね(笑)。それで始まったんですけど、好きなようにガチャガチャ弾くわけ。全然、バンド全体のアンサンブルを考えていないんです。というのは、彼、経験がないからね。それでちょっと驚いて、何だろうって思っていたのね。その後、みんなで食事ね。円卓囲んでね。その隣に偶然か故意か座ったわけね。私は「イヤだなッ」と思ったから、細野さんとばかり話してたんだけど、彼は何か食べると、「おいしいね」と話しかけるのね(笑)。とにかく、不潔、イヤだッという印象が強かったんですけど、それが第一印象です。

 

 

サンシャワー

 

 大貫は翌77年、『サンシャワー』をリリースした。『グレイ・スカイズ』が思いのほか売れたことから、このセカンドアルバムへの期待は大きかった。

 

(前作から)坂本くんというパートナーを得て仕事をしていくわけですが、77年に出た『サンシャワー』になったら、レコード会社があまり力を入れてくれなくなったわけです。ちょうどその頃、事務所、解散したこともあって、一切、外野がいなくなっちゃって、坂本くんと私だけになっちゃったのね。だから、もう好きなように作ってしまえ。という感じで、欲求不満というか(笑)、もうレコード売れるとか売れないとか、全然関係なく。

 

 このアルバムは、当時流行していたクロス・オーバー、フージョン色が強いアルバムで、全曲の編曲とディレクションを坂本がおこなった。昨今の海外におけるJポップブームにおいて評価が高く、坂本との最初の音楽的結実とされる作品である。

 

坂本くんもほんとに力を入れて、いいアレンジをしてくれました。で、これが残念ながら売れなかったんですよ。やっぱりレコード作っていく上ではルールっていうのがあるんですよね。ところが、私とか坂本くんは、それを無視してひんしゅくを買ってたところがあって。例えばミキサーの卓をみんなでギンギンにいしくり回しちやってミキサーが激怒したという。やっぱリシステム化された中で作らないと。売れないもんですかね、レコードって。

 

 セールス的には芳しくなくないアルバムであったが、大貫のことばからは、坂本と二人だけで仲良く勝手気まま好き放題につくった喜びがにじみ出ている。76年に始まったであろう同棲は、77年になっても仲睦まじく続いていたようだ。また先述のインタビューにおいて同棲生活を自ら語り出したとき、77年の『サンシャワー』を真っ先に挙げたことからも、このアルバム制作が同棲において一番楽しい時期だったのではないだろうか。

 

 

”事件”

 

 だがここで、二人の暮らしに黄色信号が灯っていたかもしれないエピソードを紹介する。ドラマー奏者である村上“ポンタ”秀一は、数多くのミュージシャンとの交流があり、大貫や坂本とも親しかった。自叙伝「自暴自伝」(03年)には、この二人の酒にまつわる一節がある。

 

 タイトルは「酒に強い大貫妙子、ベロベロの坂本龍一」。内容はこのタイトルに集約されていて、大貫は酒に強く乱れないとする。一方で坂本は悪酔いするタイプで”錯乱系”だとする。ある夜、坂本は新宿ロフトでのライブの打ち上げから帰宅する途中、新宿伊勢丹の「ショーウインドウの中のマネキンを見てムラムラ来て暴れる」という失態をおこす。このため新宿警察のご厄介になり、翌朝村上が身元引受人として迎えに行ったという。

 

 この”事件”自体が興味深いのだが、拙稿としてはいつこれがおきたのかが知りたい。村上は時期については書いていないのだが、別資料によると、77年春から坂本は、村上や高中正義らと新宿ロフトなどで盛んにセッション活動をおこなったとある。別資料にも、77年の新宿ロフトにおいて村上と坂本が共演したとの記録があり、さらに二人が大貫のライブでバックを務めた記述もある。坂本は78年以降、YMOの時代に入ることからも、”事件”は77年に起きた蓋然性が高い。

 

 さて、村上の記述からはある疑問点が浮かび上がってくるのだが、お気づきになったろうか。村上は坂本の身元引受人となっているのだ。「みんな冷たくてさ。誰も龍一を迎えに行ってやらないんだ。しかたがないから、俺が行きましたよ」と嘆いている。坂本が大貫と同棲しているのなら、大貫が迎えに行くべきだろう。なのに行かなかったことになる。実は村上は「(坂本は)その頃笹塚のマンションに住んでた」と書いている。大貫の家とはむろん書いていないが、笹塚ならそうであろう。なぜ大貫は行かなかったのか。

 

 この謎を拙稿としてはこう推察する。77年において坂本龍一はまだ無名のスタジオミュージシャンである。一方、大貫妙子はすでにレコードを出している、それなりのミュージシャンである。仲間内しか知らないだろう同棲関係を警察にも明かすわけにはいかないと、村上は男気を発揮し身元引受人となったのでないか。あるいはこの夜坂本は大貫とケンカでもしていて、身元引き受けを音楽仲間に頼んだのだろうか。笹塚が坂本の家であるなら、大貫との同棲は続いていたわけで、いずれにせよ村上は真相を書かなかったと思われる。

 

 なら、村上はなぜこのエピソードを披露したのだろう。世界のサカモトが若き日に引き起こした失態を伝えたかっただけだろうか。いや実は、酒にまつわる話で大貫と坂本を対比させ、当時の恋人関係を示唆したかったからではないか。ともかくも、村上が書いてくれたおかげで知ることができた、大貫妙子と坂本龍一の同棲期と思われる、貴重なこぼれ話である。

 

 

鍋パーティ

 

 翌78年、坂本龍一は細野晴臣と高橋幸宏と組み、YMOを結成した。インタビューにおいて大貫は、このバンド結成時の話を坂本から聞いていたかと問われた。「…多分聞いていると思いますが、はっきり覚えていないです。彼は彼で忙しくなり、私も曲を書く毎日だったり。だんだん疎遠な感じに。思い出せないです、本当に…」

 

 だが別資料により、大貫は坂本にYMOの話が最初にもちかけられたとき、その場に居たことがわかる。78年1月のある日、大貫の家で鍋パーティが行われた。ここで坂本と大貫、日笠雅子、生田朗の4人が鍋を囲んだ。日笠雅子とは細野のマネージャーであり、生田朗は坂本のマネージャー的存在であった。

 

 鍋とアルコールで汗をかいた坂本が髪をかき上げた。すると日笠は彼が美形であることに気づいた。後年には手相観になるほど直感に秀でた日笠は、細野が構想しているYMOに坂本が適任であると確信したという。すぐ坂本に参加の可否を問い、興味があるとの言質をとると、翌朝さっそく細野に伝え、YMOは結成に至った。

 

 ともかくもこの鍋パーティーにより、78年の1月まで同棲は続いていたことが確認できた。ここでのYMOの話は2月以降進展していったから、寝食を共にしていれば、大貫はその経緯を自然と聞いていたろうに、「はっきり覚えていない」ということばからは、78年に入ったあたりから、坂本との関係性が怪しくなっていったニュアンスを感じてしまう。

 

 

別れ

 

 坂本は大貫に会う前から、長髪でヒッピーまがいの汚い格好を常としていた。着るものに興味はなく、ボロボロのジーンズに冬でも裸足に先がボロボロのゴム草履だったという。大貫はインタビューで、「風呂に入りなさいって言っても風呂が賺いで、あの方」と語っている。

 

 坂本はYMOの話が持ち上がる頃から、最初のソロアルバムとなる『千のナイフ』(78年10月発売)の準備に取りかかっている。これを機に、高橋のファッション指南により容姿を一変させた。『千のナイフ』ジャケット写真では短く切った髪で、アルマーニに全身を包んだ。その着衣のまま泡だらけのバスタブから立ち上がる姿には、大貫のみならず、従前の坂本を知る人たちはさぞ驚いたことだろう。インタビューで大貫は、変身した坂本を、そして坂本との別れを語った。

 

初めてのソロアルバムだし、アルマーニのスーツを着たのがすごく嬉しかったみたいで。「どうよ」とか言って(笑)。彼は学生運動も長くやっていたし、アンダーグラウンドな音楽もやっていて、チャラチャラしたものなんて!っていう、出会った頃はそういうものの塊だったんです。女の子を見る時以外はキッイ顔をしていたし。そんな彼でも、アルマーニを着せられたら人生変わっちゃう(笑)まんざらでもないっていう。嬉しそうだった。

 

仕事も増えてきていましたし。それである日、出ていったような気がします。というか、サポートミュージシャンとしての仕事で、ツアーにも行くでしょ。当然、家にいないことが多くなりますよね。そのうちなんか来なくなりました。別れるとかそんな話をした記憶もないですし。でも頼んでいる仕事はあるので、会うことはあるし。……そうですね、そんな感じでしょうか(笑)

 

 判然としないが、坂本が初のソロアルバムをリリースした78年の秋あたりが、二人の別れの時となったのだろうか。拙稿としては、あえて細部にこだわるとすれば、「ある日、出ていった」と「別れるとかそんな話をした記憶もない」が気になる。坂本は身の回り品などはどうしたのだろう。身一つで出て行ったのだろうか。

 

 実は坂本は別に部屋を持っていたようだ。資料にこのような記載がある。

 

(引用注:78年の)1月の初期の作業は自宅でシンセサイザー、コルクPSー3100とアーブ・オデッセイを駆使しての自宅録音でのデモ作り。4トラックのカセットMTRでのピンポン録音の毎日だ。

 

 この「自宅」が大貫の家(村上秀一の本ではマンション)だとすると、坂本はこれら機材を運び出さなければならない。大きさは不明だが、後述する矢野顕子のコメントの中に「桐箪笥」と表現する機材がある。当時のハードウェアは今から想像できない大きさであったはずで、これらを収容するため、77年から坂本はこの部屋で仕事をしていたと思われる。先に大貫が語った「だんだん疎遠な感じに」の背景にはこの部屋の存在があり、二人の関係性は78年において徐々にフェードアウトしていったのではないだろうか。

 

 

ミニヨン

 

 実は大貫は、セカンド・アルバム『サンシャワー』が売れなかったことで、クラウンレコードを離れRVCに移籍していた。移籍第1弾としてのサード・アルバム『ミニヨン』は売れる作品にしなくてはならない。そのためプロデュースを音楽評論家の小倉エージに依頼した。前作を坂本と好き勝手に作っていた姿勢を改め、厳しく注文を付ける小倉の意見を取り入れ作った。

 

 このアルバムの編曲は坂本と瀬尾一三が半々担当した。大貫としては今度も坂本に全面依頼したかったが、「そんなに多くはできない」と断られている。事実、坂本は多忙であった。『ミニヨン』はRVCとして大がかりなセールス・プロモーションを行った。だが売れなかった。大貫は『ミニヨン』にはいい思い出が一つもないという。

 

 78年は大貫にとって、仕事と恋愛という公私両面において、苦しい局面に陥ったことになる。坂本が言うところの「本当にひどいことをしてしまいました」は、大貫が仕事面において不遇の時期に、同棲関係を一方的に終わらせてしまったことを意味するのだろうか。大貫は『ミニヨン』のあと、2年4ヶ月もの間、新作を発表していない。『ミニヨン』の不振がその理由とされるが、坂本との件も尾を引いていたのだろうか。

 

 

新しいシャツ

 

 大貫は音楽活動を縮小していた間、山下達郎のコンサート・ツアーにコーラスとして参加、あるいはCMソング作曲や、他アーティストへの楽曲提供をおこなっている。そんな大貫に、先述の音楽プロデューサー・牧村憲一が声をかける。フランス的な音楽が似合うのではと路線転換を促した。大貫は助言を受け入れ、世に問うたのが『ロマンティーク』(80年)である。大貫妙子にとってエポックとなる、いわゆるヨーロッパ指向作品である。このコンセプトを音にするため、再び坂本龍一の力を仰いだ。2年前に別れた坂本の知識と編曲が必要だった。

 

(坂本に)こういう曲にアレンジしてほしいという時、音以外にもヴィデオとか本とか、イメージを生み出せる材料をごっそり渡しておくんです。実際坂本さんとは一緒に曲作りしていたようなものでしたね。”その音はいやだ”とか″もっとこうしてくれ″とか、それこそ千個くらい注文をつけながらやってるんで。

 

 このアルバムに収録されているのが、『新しいシャツ』である。坂本はこの曲について、「別の相手ができたぼくは、その部屋を出ていってしまった。本当にひどいことをしてしまいました。(中略)歌詞を聴くとつい泣いてしまう」と語っている。当然、大貫が坂本との別れを歌ったと解釈される。だがインタビュアーが問うと、大貫のことばは意外なものだった。 

 

大貫 はい……。よく言われます。これ、坂本さんのことですかって。でも、これはただの歌詞です。だって〈新しいシャツに/袖をとおしながら/私を見つめてる/あなたの心が/今は/とてもよくわかる〉というような人ではありません。坂本さんは(笑)。

 

インタビュアー 「突然の贈りもの」の〈別れつげないで/独りぼっちにさせた〉という歌詞も、坂本さんの記述を踏まえると二人の関係を思わせる楽曲だなと思ったのですが。

 

大貫 そういうのって、つい思いたくなると思うんですけど、もし自分の体験だけを歌詞にしているなら、歌詞を書くたびに恋愛して別れなきゃならないでしょ? 映画も見ますし、小説も読みますし。私にとって別れの歌詞は、結果ではないんです。大切なのは、二人が過ごし共有した時間なんです。地球に膨大な人がいるのに「その人」と出会って恋に落ちる、ということのほうが奇跡なんです。なので、そういう風に思い入れてくださる方がいらっしゃるのは知っていますけれど、教授のことですかと聞かれると……。「どうでしょう……」と、答えるようにしています。教授も、若気の至りで、私にひどいことしちゃったなと、思ったかもしれないけれど。全て時効です(笑)。

 

 『新しいシャツ』には「山ほど手紙を書いた」の一節がある。大貫は小学校のとき、毎学年書かされた日記に始まり、中学時代は文学に親しみ、雑誌編集者を志したこともある。後には本をいくつも著すなど文才を発揮することになる大貫なら、「山ほど手紙を書いた」はさもありなんと思わせてくれる。同じく「お互いが必要だったころ」は、シュガー・ベイブ解散後の、大貫妙子にとっての坂本龍一を想起させる。

 

 インタビュアーが問うた、『突然の贈りもの』の歌詞「別れつげないで/独りぼっちにさせた」は、まさに大貫が語る、「ある日、出ていったような気がします」とする状況である。手紙にしろ、別れの状況にしろ、聴き手としては大貫の実体験が自ずと詞にあらわれたのだと思ってしまう。

 

 

矢野顕子

 

 後に坂本と結婚することになる矢野顕子は、78年9月、アルバム『ト・キ・メ・キ』をリリースし、そのコンサートにYMOを助っ人として頼んでいる。先述の通り、矢野と坂本は76年に初めて出会ったのだが、当時の坂本は”汚く”、矢野の眼中にはなかった。それが78年の『千のナイフ』で”きれい”に変身していた。この時期は丁度、大貫の別れの時期と符合することになる。

 

私の『ト・キ・メ・キ』というアルバムが出た時に、コンサートをしたんです。その頃はシンセサイザーをたくさん使っていて、ピアノの他にも、その当時ムーグ・ⅢCという桐箪笥みたいなのがあった。そこにキーボードをおいたりしてたから、もう完全にお部屋になっていたわけです。それを一人でやって、しかも歌わなくちゃいけないでしょ。とてもじやないけど忙しくて忙しくて。

 

でも、下手なキーボード入れるのいやだったからどうしようって細野さんに言ったら、坂本君というのがいて、今度三人でバンド始めたからと言うんですね。それで、エ~ッ、汚いから嫌だと言ったんだけど、細野さんが言うんだったら、と、そしたら、きれいになっていたわけ(笑)

 

 

ロマンティーク以降と坂本編曲休止12年

 

 『ロマンティーク』(80年)の新しいコンセプトは世に受け入れられた。再出発した大貫妙子の新しいイメージが確立された。大貫と私的な関係性はなくなった坂本だったが、以降も編曲者として大貫作品に関わり続けた。『ロマンティーク』の後続となる、『アヴァンチュール』では5曲、『クリシェ』(4曲)、『シニフィエ』(5曲)、『カイエ』(2曲)、『コパン』(5曲)とアレンジを担った。これら一連のアルバムは81年から85年まで1年ごとにリリースされ、精緻で陰影に富んだ作品から、「ヨーロッパと言えば大貫」との評判を高めていった。『シニフィエ』は売れ、『オリコン』でトップ・テンに立ったこともある。

 

 しかしデビューアルバムから続いていた坂本への編曲依頼は、9枚目の『コパン』(85年)を最後に、しばし間が空くことになる。これは坂本の多忙によるものだった。その後の大貫は、アルバムを出すたび、試行錯誤の連続となった。ヨーロッパというわかりやすい記号を離れ、抽象性の高い世界を求めるようになった。『カミング・スーン』(86年)は、童謡調の『ピーターラビットとわたし』や原田知世に提供した『地下鉄のザジ』など、従来の作風からすると異色の曲ばかり収録されている。

 

 大貫の作品は、それまでがキーボード中心のアレンジだったことから、87年の『スライス・オブ・ライフ』では大村憲司を全面フィーチャーし、ギター・サウンドにアプローチしている。翌88年にはマーティ・ペイチ指揮によるストリングス・オーケストラとの共演を含む『プリッシマ』を発表。この時期の音楽の振幅の大きさがうかがえる。

 

 90年にリリースされた『ニュー・ムーン』以降、『ドローイング』(92年)、『ジューティング・スター・イン・ザ・ブルー・スカイ』(93年)の3作は、小林武史と組んだ。このコンビでは、大貫の音楽はポップな方向へと振れた。すると一転、95年発売の、ブラジルとロサンゼルスでレコーディングされた『チャオー!』は、ヴォーカリストとしての新境地を、現地ミュージシャンによる練達の演奏で探りあてようとした。

 

 大貫の音楽は、幾多の変遷を重ねてきた。そのため、とまどったファンも少なからずいた。売れるには売れ線に固定し、大衆に迎合すればいいが、同じスタイルのアルバムを出し続けることは大貫にはできない。マンネリは悪だったのだ。だがその方向性はついぞ定まらなかった。

 

つねにこれじやないとか思っちゃう(笑)。坂本さんとはアルバムを9枚一緒に作って、さすがにお互い手のうちが見え過ぎるようになってコンビを解消したんですが、"この人だ”と思える存在にその後残念ながら巡り会えなかった。

 

 

自由学園

 

 大貫は『コパン』(85年)の収録中だった84年、初めてアフリカの地を踏んだ。ビデオ作品『アフリカ動物パズル』のサウンドトラック制作のためで、監督の羽仁未央からのオファーだった。その二週間ほどのケニア旅行があまりにも楽しかった。次の年には自費で一ヵ月ほどかけて行った。この体験を元に初の書籍『神様の目覚まし時計』を上梓、以後も健筆を振るうことになった。きっかけをつくった羽仁未央の曾祖母・羽仁もと子は、自由学園の創設者で、大貫は高校進学時に自由学園を受験している。

 

 受験は中学3年のとき、編集者となる意志を立てたことによる。具体的な雑誌があった。羽仁もと子が創設した婦人之友社が発行する月刊誌『婦人之友』で、同社に入るには自由学園の高校を出ればコネが効くという。自由学園は幼稚園からの一貫教育だが、欠員補充のため高校での入試がある。入試は音楽や体育まで10科目も課せられるが、大貫はその校風にも憧れ猛勉強した。だが、あえなく不合格となってしまう。何日も食事が喉を通らないほどショックを受けた。

 

 大貫は、羽仁未央からのオファーに、かつての叶わなかった縁を感じたかもしれない。偶然ながら、坂本龍一は幼稚園は自由学園に通っていた。もし坂本がそのまま通い続け、大貫が合格していたなら、高校3年と1年で同窓生となっていたことになる。坂本の入園は、母親の坂本敬子の、進歩的な思想信条によるものであった。

 

 大貫は坂本と暮らしていたとき、敬子と親しくなっている。あるいは自由学園について話が弾んだかもしれない。敬子は大貫と息子を趣味の山登りに誘ったことがある。若い二人の趣味ではなかったが、断れなかった。大貫は昼食の副菜にサラダを作り持って行った。だがパック詰めを開けるとひどい状態になっていた。坂本は母の前で恥をかかされたと大貫に怒った。坂本は母思いで、その後何回か山登りに付き合っている。山登りは大貫にとって懐かしい思い出となった。坂本が大貫と別れた後、敬子が大貫に、お世話になったと真珠のネックレスを贈ったことは、冒頭に引用した通りである。

 

 

久々の共演

 

 大貫作品に坂本が関与しなかった間の89年12月、坂本はNHK・FMの特別番組「アコースティック・コンサート」をナビゲートし、『ラストエンペラー』などをピアノ演奏。大貫妙子をゲストに迎え、『風の道』で共演している。坂本はこのときの心境を、17年の『Year Book 1985-1989』ブックレットで振り返った。六十代半ばに達し思うところがあったのか、『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』での告白を彷彿とさせるものがある。

 

このときが大貫さんとのひさしぶりの共演になりました。その前は大貫さんのアルバムの『コパン』(85年)で3曲(引用注:別資料では5曲)ぐらいだけ一緒にやって、それ以降はお互いに忙しく、以前のようにアルバム一枚を丸ごと協力するということも不可能になっていました。この頃、そのことに対する罪悪感を実はずっと持っていた。とくに、この『風の道』という曲は、そうしたずっと長年一緒にやってきたけれども、ここで一度お互いの道が別れるんだなという気持ちがこもった特別な曲で、詞で描かれている情景などもとてもプライベートで胸にささる。そういう意味で大好きな曲ではあるのだけど、実は伴奏してつらい気持ちになる曲ではありました。

 

この共演のとき、大貫さんから一緒にこの曲をやろうと提案されたときは、とても感慨がありました。ぽくも伴奏していてつらい気持ちはまだあるけど、そこをあえて清算しようという気持ちが双方にあったんじゃないかな。そう、このときにはもう過去は過去として、この名曲をいい演奏といい歌で聴いてもらおうという穏やかで楽しい気持ちで演奏していますね。とてもなごやかな雰囲気。レコーディングしたときとはまたちがい、そして後年に『UTAU』(10年)でこの曲を再演したときともちがう、この頃ならではのふたりの演奏と歌だと思います。

 

 

ルーシー

 

 大貫妙子が再び坂本龍一と本格的に組むことになったのは、アルバム『ルーシー』(97年)であった。85年の『コパン』での編曲以来、12年ぶりである。下の大貫のことばは、前段は同作のリリース時で、後段は坂本没後の「ユリイカ」インタビュー時のものである。

 

『ジューティング・スター・イン・ザ・ブルー・スカイ』(93年)を作ったあと、小林さんとのコンビもこれで終わりだろうなと思った。これから先どうしようかという問題になった。外国でもう一度プロデューサーやアレンジャーを探す方法もなくはないけど、私の場合、単なるスタイルで音楽をやっていない。日本人としての物事のとらえ方をどこかで共有し、かつマインドは外人じゃないといけない(笑)。そうすると坂本さんしかいない。しかし敷居が高い。あちらは“世界のサカモト”で、こっちは日本のしがないシンガー・ソングライターだし(笑)。断られたらどうしようとか、やっぱり思いますよね。そんな時彼のアルバム(『スウィート・リヴェンジ』)の作詞の声がかかったので、もう揉み手をして引き受けて。2年待ちましたけどね。坂本さんのスケジュールが空くまで。

 

坂本さんでなければ(という気分が)、そうですね、結局、一番わかってくれているし。好みとかもそうだし。私がニューヨークに行った時に、坂本さんと話すタイミングがあって、「時間があったら、また1、2曲でいいんだけどアレンジしてくれるとうれしいな」。「うん、わかったよ」みたいなやり取りがあって、それでニューヨークに録りに行ったの。詳しくは忘れましたけど、『ルーシー』が完成した時に、坂本さんのスタジオで爆音でかけてみんなで踊りまくったのを覚えています。めちゃくちゃ楽しかった。

 

 

UTAU

 

 『ルーシー』の後、坂本は大貫作品において、映画『東京日和』のサウンドトラック(97年)や、『アンサンブル』(00年)の弦アレンジで数曲参加しているが、やはり一番大きいプロジェクトは、10年の大貫の歌と坂本のピアノのみの『UTAU』となる。アルバム制作とコンサートツアーが同年おこなわれた。

 

(『UTAU』)は、坂本さん、空(里香)さん(坂本のパートナー)と、三人で話している時、急に決まったんです。そのときは彼が日本に戻って来ていた時で、「また時間があったらコンサート一緒にできるといいね」と言ったら、「ちょっと待ってくださいよ」って空さんがその場でスケジュールを確認して、「この辺の時期、空いてますよ」って。「ほんとに?」って(笑)。でもバンドのかたちだと調整が大変ですから。ピアノと歌だけで、ということになったのだと思います。坂本さんには、素敵な楽曲がたくさんあるので。歌詞をつけて歌える機会があったらいつか……と、思っていたので。歌詞をつけていい?ってリクエストしました。そうしたら空さんが「いいですね、その企画!」って。何年も間が空いているから、また二人で何かやったら面白いのでは?と。空さんに押されて教授も、「そうか」って。それで、ピアノと歌だけの「UTAU」プロジェクトがスタートしたんです。忘れられない思い出ですね。全ては一期一会です。忙しい坂本さんの、たまたまその期間が空いていた。それに空さんが気付き、実現にこぎつけた。ということです。

 

 

色彩都市

 

 『UTAU』から6年経った16年4月、東京・恵比寿ザ・ガーデンプレイスにて、坂本の音楽プロジェクト、コモンズレーベル設立10周年を記念したイベント「コモンズ10 健康音楽」が行われた。そのライブ・プログラムに大貫も参加。7曲を披露し、後半には坂本がピアノで加わった。『UTAU』以来の共演となる大貫は、『3びきのくま』と『色彩都市』を一緒にパフォーマンスした。

 

 さらに4年後の20年12月20日、東京で開催された大貫妙子「シンフォニックコンサート2020」に坂本はゲスト出演している。場所は世田谷区にある昭和女子大学人見記念講堂であり、『UTAU』ツアーの東京での初公演地となったのがこの会場だった。コンサート中盤にゲストで登場した坂本は『Tango』を弾き、アンコールでも登場し、『色彩都市』を演奏した。

 

 この人見記念講堂公演日を16日遡った12月4日、坂本は日本で人間ドッグを受検。その結果が出た11日、ニューヨークで治療を受けていた直腸ガンが肝臓やリンパへの転移しているとの告知を受けている。全米で一、二を争うニューヨークの病院では転移は告げられていなかった。年が明けた1月、坂本は日本において直腸など4箇所の、20時間にも及ぶ大手術を受けた。人見記念講堂公演は、思いもかけぬ告知と、その手術の間におこなわれたことになる。

 

 

きっといつか夢の中で! 

 

 拙稿の締めくくりとして、大貫のインタビュー記事のラスト部分を引用させていただく。

 

 03年に始まり、20年間続いた坂本さんのラジオ番組『RADIO SAKAMOTO』の最後の放送(23年3月5日)で、坂本さんの代役を大貫さんか務めました。これは急遽決まったのでしょうか。

 

大貫 急遽というわけではありませんでした。長い付き合いですし、「困ったときは大貫さんに」ということになっているというか。もしそうなら光栄です。……なんだろう、坂本さんにとっての私も、私にとっての坂本さんも、なんだか不思議な存在で、兄妹ではないけど、こう……説明しなくても、頼んでおけば大丈夫っていう。そういうのがずっとあるんですよね。前世のご縁でしょうか。彼は、ずっとニューヨークに住んでいて、10年以上もっとかな。会わないのに、いつもこっち(自身の隣の指す)に坂本さんがいた感じがしていたんです。左側に。いた感じっていっても、感じだけで、いつも意識しているわけではないんですが。全然説明つかないんですけど。でも、それが何十年もそうだったんです。それで、亡くなって三ヵ月くらい経って、ふっと気付いたら、こっち側の風通しがよくなっていて、って言い方も変ですが。あれ、坂本さんいなくなってる、と。そういう魂の、縁みたいなもの?ってあるんですね、きっと。ああ、もう天国に旅立ったんだねって。その時、初めて大泣きしてしまいました。

 

 精神的なつながりのようなもの?

 

大貫 いえ、そういうものではないですね。わかりません。言葉に置き換えることはできません。いつも左側に、何十年も。だから、彼とずっと会わなくても、左側に意識が向くと、いつもいる感じがしていたんです。ただそれだけです。それが、なくなった。ある日ふっと気が付いたら。

 

 それは何十年ぶりに会ったとしても、全然「久しぶり!」みたいにならない感じでしょうか。

 

大貫 ならなかったですね。彼はずっとニューヨークでしたから、会うことはほとんどありませんでしたし。仕事以外。でも家族みたいな感じではなくて。お互い元気なら何より、っていう関係だった気がします。坂本さんにとっても、同じだったと思います。具合が悪くなって仕事の頼みごとをされても、私しかいないでしょ、っていう感じでした。それは、自惚れているわけではなく、ご縁とでもいうことでしょうね。

 

 坂本さんが大貫さんのことを早い段階で書いた(引用注:「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」連載と思われる)のも、おそらく今仰っていたような、隣の辺りに存在している人について書く、ということだったのだと思いました。

 

大貫 彼は、ひとつ下の妹みたいな感じでずっと思っていたみたいです。それは実際彼が言っていたので、多分そうだったんでしょう。ですから、坂本さんと私の関係は、ちょっと言葉にできないし。実際の家族って、いますよね、みんな。私にも両親や兄弟がいて、それよりもっと強いなにか……言葉にできませんが、やはり音楽か絆だったのだと思います。……でも、こんなに早く亡くなるとは思わなかったです。寂しいです。

 

 今日のお話で、最後まで坂本さんとは対等な関係でいたというのが、よくわかりました。

 

大貫 そういえば、亡くなる少し前なんですけど、「学校の校歌を頼まれたんだけどどうしたらいいの?」ってメールがきたんです。私、小学校の校歌の歌詞を書いたことがあったので(高松市立新番丁小学校)。「坂本さん、学校の校歌はなんのためにあるか知ってる? それはね、卒業式の時に御両親を泣かせるためにあるのよ」って返信したの。そうしたら「なるほど!」って返ってきた。それが最後だったような気がします、彼からのメールで。

 

 それが遺作となった神山まるごと高等専門学校の校歌なんてすね。最高のアドバイスだと思います。

 

マネージャー 後日、その曲を大貫さんに聞かせたら「映画音楽じゃない(笑)」と言っていました。

 

大貫 難しすぎ(笑)。でもいい曲ですよね。網守(将平。編曲担当)は頑張ったね。昔、『夢であいましょう』って番組ありましたよね。きっといつか夢の中で! ありがとう坂本さん。

 

 

 

 

 

大貫妙子と坂本龍一Ⅱ

  〜出会いから別れまでの軌跡 〜

  追想の「色彩都市」

 

 

 

 

あとがき

 

 大貫妙子は、坂本龍一が逝去した翌月、NHKラジオに出演し故人を偲びました。この放送は多くの反響があり、NHKは半月後に未公開カットを放送しました。このあとがきの後、長文にわたりますが、両放送の文字おこしを記します。

 

 先述した通り、大貫妙子と坂本龍一は16年と20年、それぞれのコンサートにおいて互いをゲストに招きました。お気づきになったでしょうか。この両ステージで二人は『色彩都市』で共演しました。大貫妙子のあまたある楽曲の中から、客演という制約の中、なぜこの曲が二回とも選ばれたのか。ましてや20年においてはアンコール曲でした。そして結果的に、このときの『色彩都市』が二人の最後の共演曲となってしまいました。

 

 実は、NHKの番組においても『色彩都市』が流れました。二回目の放送のとき、大貫妙子が希望したものです。二人の半世紀にも及ぶ音楽人生の、集大成の時期にあたる16年と20年の公演において、そして追悼となる放送でも『色彩都市』が取り上げられたことは、偶然とは思えません。大貫妙子にとって、『色彩都市』こそが二人の思い出の曲なのではないでしょうか。

 

 坂本龍一は最期まで大貫妙子への贖罪意識を持ち続けました。その別れの歌が『新しいシャツ』なのだと語りました。ですが当の大貫妙子は、インタビューにおいて「ただの歌詞です」としました。そしてインタビューの冒頭においては、問われてもいないのに開口一番、坂本龍一と暮らした当時を楽しげに、心弾むように語りました。『色彩都市』の明るい詞と調べこそが、坂本龍一との過ぎ去りし日々を象徴している。大貫妙子がおこなった選曲には、そのような思いが込められているのだと感じます。

 

 お読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

NHKラジオ  マイあさ!

23年4月15日

大貫妙子   坂本龍一を語る

「ありがとう坂本龍一さん」

 

 大貫妙子です。先月、音楽家の坂本龍一さんがお亡くなりました。わたしも長い間音楽を通して交流がありました。今朝は坂本さんのことをすこしだけお話ししたいと思います。ご連絡いただいて、そのときは、ただただ絶句いたしました。わたしは最初にコメントというか、書かせていただいて、すべてこれがわたしの気持ちですと発信しましたので、それでおさまっているというか・・・。でも、どの音楽家にとっても非常に大きい痛手であって、ショックであったということに変わりはないと思うんですよね。残念としか言い様がないという一言だと思うので、そんなに大騒ぎにはなっていませんでした、まわりも。コロナがあった頃はまず会っていないので、三年は会っていないです。その前は、何していたかも思い出せない。メールとかはときどきしてましたかね。でもほんと、仕事関係のことなので、一行二行というメールという、そんな感じで。

 

 (坂本さんが)なにか、どこかの学校の校歌を頼まれて、「大貫さん、どうやって書いたらいいか」というので、まぁ一行、校歌は何のためにあるかと・・・、これはわたしが書いた文章ですよ。「親御さんが涙する、そういう曲を書いてください」と伝えました。そしたら、「なるほど、さすがだな」、という返事が返ってきました。校歌って、涙する子もいるけれども、やっぱり校歌はご両親のためのものなんじゃないかなと思っていたので、そのように伝えました。その後、どういう風に書かれたのかは聞いていないですけれど。聞かない間にいなくなってしまって・・・、ほんとに残念です。

 

 二十代の頃からずっとお付き合いがあるので、どんな方ってあらためて考えたこともないですけれど、非常に頭もいいし、若い頃はやっぱり女性に興味があってというか、当然ですよね、そういう、僕の方向いてくれないかなっていう、的な空気を発散させた人でしたけれど、正常ですよね、正常、わたしはそう思っているんですけれど。

 

 で、あるときから、もともと社会問題とか、そういうデモとかにも参加してましたし、ある年齢からはそういうことにも積極的に自分の意見を述べるようにもなったし、最近では神宮外苑の木を伐採するなということで発言なさっていましたけれども、曲げないというか、とくに大人になってからですけれども、そういう昔の男子のイメージっていうのは、わたしなんかそうなんですけれども、そういう方にどんどんなっていきました。

 

 だけど柔らかい部分も山盛りあって、冗談も大好きだし、とにかく魅力的な方でした。でも調子に乗って、いっしょにその上に乗ってしまうと、「なに笑ってんだよ!」と急に怒るので、それがちょっと理解しがたいところもあったんですが、とにかく怒られようがなんだろうが、とにかくお付き合いが長いので、魅力的な一言に尽きます。

 

 たぶん理屈ではないので音楽は、いいと思えば世界のどこにでも流れていくし、伝わっていくし、そういう意味で何か、多くの人の胸に響くものがあったのではないかと、正直、思います。ただひとつ絶対あるのは、非常に耳のいい方で、いっしょにレコーディングしてきた若い時代のときでも、シンセサイザーの音を決めるのに、非常に時間をかけていて、途中で涙を流しながら音を決めていて、どうしたんだろうと思って、悲しいのかなと思って、「どうした、坂本さん」と言うと、「勝手に涙が出る」と。

 

 要するに耳がよすぎてですね、わたしたちには聞こえないんですよ。彼には聞こえていて、たぶん、それで涙が出ちゃうらしいですよね。感情ではなくて、生理的に。ということが若いときにありましたね。わたしたちの耳には聞こえなくても彼には聞こえていて、音が入っているということは、それだけ音域が大きいんです、やっぱり、世界が。だから耳で聞こえなくても皮膚で感じているのがあって、肌(感覚)がすごく大きな秘密なのではないか、もちろん音だけではなくて、つくりだすメロディや世界観も土台にあった上で、音がやっぱり素晴らしかった。

 

 (受けた)影響も何も、(わたしの)初期のファースト・アルバムから参加して、セカンド・アルバムもほとんど、それから何枚も彼にアレンジしていただいて、なかなか彼のような素晴らしいアレンジャーと・・・、(ほかに)いないわけではないと思うんですけれど、めぐり会うチャンスはもうないだろうということもあって、超忙しい方でしたから調整してもらいながら、できるときにということをお願いしましたけれども。

 

 でもとにかく要するに、アレンジをお願いするとしたら、「アレンジしてくれる?」という話の前に、まず、坂本さんがこっちを向いてくれる楽曲をわたしが書くということがわたしの仕事なんですよね。そのことを、そのことしか考えていなかったですね。つまらない、彼がその気にならないような曲を提示しても、いつまでたってもアレンジが仕上がらないし、それはそうですよね。イメージがわかないということだと思うんですけれど。なので、非常に真剣に取り組みました。

 

 こころの中ではそれはもう「ありがとう」って言ってますけれども、つぶやいてますけれども、まぁ、いつかどこかで、と思いますけれども、そのころにはふたりとも別のものになっているかもしれないので・・・。今現在はそんな心境です。

 

 実際にお亡くなりになった姿、荼毘に付される前にお別れしたときも会っていて、お亡くなりになったのを確認しているんですけれども、ほんとうにきれいな顔で、安らかな顔をなさっているんですけれど、それなのに、全然亡くなっていないんですよ、私の中では。それが不思議でしょうがない。

 

 「あ、そうか、亡くなったんだ」って、きょうも一回思いました。それぐらい、ず~っと、生きているんです。わたしの中に。これからも、ずっとそうだと思います。「ほんとうに心からありがとうございました、坂本さん」。そういうふうにいつも心の中でつぶやいています。

 

 

NHKラジオ  マイあさ!

23年4月30日NHKラジオ

大貫妙子

「追伸・ありがとう坂本龍一さん」

 

(文字おこし注:インタビュアーはNHKキャスターの渡辺ひとみで、オンラインでのインタビューと思われる)

 

今朝は音楽家・大貫妙子さんへのインタビューをお送りいたします。今月15日に放送いたしました大貫妙子さんの「サタデーエッセイ ありがとう坂本龍一さん」には多くの反響がありました。その際、時間の都合で放送できなかった未公開カットを今日はお届けいたします。

 

渡辺 お亡くなりと聞いたとき、一番最初に頭にのぼったのはどんなことでしたか。

 

大貫 具合が悪かったのは知っていたので、もうそのときはただただ絶句いたしました。いなくなってしまって、残念です。

 

渡辺 妙子さんは追悼のメッセージで、坂本さんは気骨ある人、なにより気骨ある人だったとありましたが、それはどういうときに感じましたか。

 

大貫 神宮の森を守れというのもそうですけれども、忙しい音楽の活動の合間に休みなく発信し続けて、実際現地に行き、活動を続けてましたので、それを引き継いでいかなければいけないと思っています。

 

渡辺 人なつっこいタイプの方だったのでしょうか。

 

大貫 難しいところですね。人に合わせるというところもありましたし、たとえば昔は低俗な話を笑いながら輪に加わっていて・・・、だからといって調子に乗ると爆弾が落ちるので、その辺は気をつけないと私は気がついていたので・・・、そういう感じです。素晴らしい才能と人間性というのかしら、懐の深いところも含めて、そういう方だったかどうかはわからない、若いときは。彼のすべてを生かせる音楽の環境をつくるのが、わたしとしては。

 

渡辺 おふたりの一番の思い出は何ですか、と問われれば何ですか。

 

大貫 (大きな声で)え~!、思い出ですか。一番ですか。考えたことないですね。いきなり質問されても・・・わからない。わたしと坂本さんは、坂本さんもそうなんですけれど、覚えていないんですよ、いろんなことを。今と先のことしか興味がないっていう・・・、ほんとにそうなんです。だからふたりでインタビューをうけたことが過去にあって、いろんなことを質問されたんですけれど、ふたりで目を合わせて、覚えてる?って。それで答えが結局出なかった。笑い話なんですけれど。坂本さんは天国に行かれて、声をかけても、「君だれだっけ」と思い出せないかもしれない。それでいいと思っているんですけれども。だた、音楽のことは思い出せなくても、社会的な難しいできごとに関わっていらして、膨大な量の本をお読みになっていて、半端ない知識が頭の中におありだったと思うので、そういうことの質問には応えられる思いますけれど。音楽以外のことは彼にとってはあまり重要でなかったといえると思います。

 

渡辺 初めて会ったときのことはおぼえていますか。

 

大貫 初めて会ったのは・・・、ファースト・アルバムのレコーディングのとき・・・、ちがう、え~っと、そのぐらいの時期に、京王線のある駅にマンションがあって、そこが事務所になっていて、ツアーに行くスタッフとか、PA(音響)関係の人たちがすごい出入りしていたんです。それでわたしも線路をはさんですぐそばに住んでいて、すごい散らかっているマンションのスタッフ部屋に顔を出していたんですよね。365日開けっぱなしなんですよ、扉が。誰も入りたくならないような、玄関に靴が山盛りに脱ぎ捨ててあるような、ひどい状態だったんですけれど、そこでお会いした、初めてが・・・。なぜかコタツがあって、そこに坂本さんが入っていらしたんですよね、ぽつんと。そのときに初めてお会いして、お話しすることができて、それからアルバムに参加してくださるようになった気がします・・・。印象はそうです・・・、コタツです(笑)。何年です。1970年代ですかね。

 

(文字おこし注:放送ではカットされているが、キャスターから「思い出の曲は?」と問われたと思われる)

 

大貫 思い出というか、わたしと坂本さんの中で、これは古くならないいい曲だなと思うのは『色彩都市』ですね。

 

~ 『色彩都市』が流れる ~ 

 

(曲の途中で)

 

渡辺 今日は長々とすみませんでした。

 

大貫 泣いてんの?(笑)

 

渡辺 ・・・ちょっとだけ。いや、妙子さん、このお話、してくれるかな、くれない・・・、いやだよなって、きのうからずっと思っていて・・・

 

大貫 途中から平気になっちゃった・・・。逆の立場だったらイヤでしょ。

 

渡辺 はい・・・、イヤです。

 

大貫 でも、坂本さんが聞いて、これ言ったのかよ、という話はしていないと思うので・・・、どうせ言っても忘れていると思う(笑)。もう天国に行ってしまったから、なにかあったらごめんねと謝っておきます。

 

~ ふたたび『色彩都市』が流れる ~