大貫妙子と坂本龍一 『新しいシャツ』はその別れの歌だった | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 坂本龍一は今年、文藝月刊誌「新潮」(8月号)で「告白」をおこないました。二十代の前半、音楽仲間である大貫妙子といっしょに暮らしていたというのです。大貫の一連の作品において、坂本が深く関与してきたことは周知の事実ですが、恋愛・同棲関係まであったとは驚きました。


 坂本の寄稿タイトルは、「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」です。同誌7月号から始まったこの連載では、ステージ4のがんに冒された闘病を語ると共に、自叙伝的にこれまでの歩みをふりかえっています。大貫の記述はその一部にすぎないのですが、大貫・坂本のファンのひとりとして、楽曲の向こうの人間模様に思いを致し、嘆息してしまいました。同時に、大貫、坂本、そして坂本の元妻・矢野顕子らの若き日々を書いた者として、早くに知りたかった情報でもありました。

 坂本曰く、その後の大貫とは、親戚のような関係になったという。男女の関係を超越したということなのでしょう。芸術家同士が恋に落ちるのは、才能を認め合うことからはじまるとすれば、恋が終われば、元のビジネス・パートナーに還る。これは互いの才能を余人をもって代えがたいとする、当然の帰結なのかもしれません。そこで以下では、当の大貫と坂本がこれまで互いを語り合ってきた文章をひとつにまとめてみました。恋愛関係を乗り越えた深淵が垣間見えるかもしれないと思ったからです。


 ファンならご存じのように、大貫の音楽は幾多の変遷を繰り返してきました。自分は「ター坊」と呼ばれていた、シュガーベイブ期の彼女に魅せられたものの、残念ながらソロになってからのそれらの多くは耳になじみませんでした。ですがソロ初期の『新しいシャツ』は、セルフカバーなどでアレンジが変わっても、素晴らしい歌だとその都度感じてきました。すると、坂本が今回の寄稿文でこの歌に言及していた。なんと大貫との別れの歌だというのです。これにも驚きました。そしてこの名曲の背景を知ったことが、拙文をつくるモチベーションとなりました。

 まぁ、当方の動機などどうでもいいことです。大貫妙子のファンなら、坂本龍一との共作関係に少なからず関心があるはずです。以下の引用は、冒頭に置いた新潮での坂本の告白を除き、公表の時系列で並べただけの能のないものですが、ひとりでも多くのター坊ファンに読んでいただくよう願っています。

 

 

 

 

 

新潮 2022年8月号
「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」 (抜粋)

坂本龍一  
〜 大貫妙子さんのこと 〜


 11月には大貫妙子さんとのコラボレーション・アルバム『UTAU』をリリースし、年末にかけて初めて2人でツアーを行いました。このアルバムは、ぼくがピアノを弾いて大貫さんが歌うというシンプルなコンセプトで作られ、もともとインストゥルメンタルだった「Tango」「3びきのくま」「Flower」といった曲には、彼女が自ら日本語の歌詞を付けてくれています。札幌郊外の芸森スタジオで、久々に合宿状態でのレコーディングをしました。

 一緒にアルバムを作ろうという話は前々からあったのに、ぼくが自分の仕事で忙しかったり、互いの音楽性が昔と比べて離れてしまったことが気になったりして逃げていた。だけど、還暦を目前にして、一度だけやってみようかな、と考えが変わってきたんです。若い頃から大貫さんにはいろいろと助けられてきて、なのにすごく迷惑をかけてもしまったから、恩返しをしたいという気持ちもありました。ぼくも獣から人間へと変わってきたしね。

 今だから明かしますが、ぼくは20代前半の一時期、大貫さんと暮らしていました。だけど、別の相手ができたぼくは、その部屋を出ていってしまった。本当に酷いことをしてしまいました。その後、大貫さんと親しくしていた母が、龍一がお世話になったと会いに行ったようです。「お母さまが、清楚な真珠のネックレスをくださいました」と、大貫さんから聞きました。

 そして、当時、大貫さんが発表したのが「新しいシャツ」で、この曲の歌詞を聴くとつい泣いてしまう。でも、泣いてしまうのは自分だけじゃなくて、2人のコンサートでぼくができるだけ感情を抑えながらこの曲のイントロを弾き始めると、なぜか客席からも嗚咽が聞こえるんですね。きっと、ぼくたちの昔の関係を知る人がいたのでしょう。だけど、あれから長い時間が経ち、今ではもう親戚のような付き合いになっていて、『UTAU』では大人のミュージシャン同士の新たな関係が築けたと思います。

 それにしても、昔のことを思い返すと本当に懐かしい。大貫さんと知り合った70年代の頃は、みんなまだ売れていないし、とにかく時間がありました。麻雀をやろうと思っても2人だけじゃできないので、仲の良かった山下達郎くんに電話で「来ない?」と誘うと、彼は練馬にあった実家のパン屋から、店の軽トラを運転してすぐにやってくる。もうひとり、近所に住んでいたギタリストの伊藤銀次くんも呼んで、4人でひたすら雀卓を囲んでいました。三徹だってザラでした。

 誰ひとり、ろくに仕事もしていないのに、どうやって食っていたんだろう。でも、ぼくはまだ藝大に籍があったから、授業こそサボっていたけど、腹が減ると、定期券で上野の大学まで行くことはできたんですよね。それで、学食の前で蜘蛛の巣を張るようにひたすら待ち、誰か見知った顔が来たら、「お前、金持ってない?」「ちょっと食わせてくれない?」と図々しくタカっていた。なにしろ、カツ丼も90円で食べられるような時代でしたから。

 

 

 

 

 

 

月刊ミュージック・ステディ
1983年10月号
徹底研究 大貫妙子
(抜粋)

「坂本能一さんとの出会いがものすごく自分にとって大きかった」


 シュガー・ベイブを離れて一人になったら、全く自信なかったのね。もう、このままやめるんじゃないかと思ったし……。でも、まわりの勧めにより、続けていこうと。いつも、山下くんの影にかくれてピアノ弾いてただけの存在だったけれど、そんな私にも何か可能性を感じてくれた人がいたんですね。話しを進めてくれたのは、後に『ロマンティーク』『アヴァンチュール』をプロデュースしてくださった牧村(憲一)さんです。そういう意味ではまわりの人に恵まれていた。

 乗り気ではなかったというか、不安は大いにありました。でも、シュガー・べイブが売れてたわけじゃないし、ソロになって初めの第一歩だから、そんなにプレッシャーは無かったけれど。それよりも、自分の好きな人とできるということで楽しかったですね。私が一緒にお仕事したいアレンジャー(アーティスト)が何人かおりまして、みんな頼んだらやってくれるというので。あの頃はスタジオに入ってヘッド・アレンジみたいな感じでワイワイっていう感じで作りました。でも、あんなにレコーディングで疲れたことはありませんでしたね。シュガー・ベイブの時っていうのは、自分のパートだけこなしてればよかったし、歌も数曲でよかったわけだし。でも、ソロでは、全部自分でやらなきゃいけなかった。だから、緊張しちゃって。で、つきあう人も初めての人が多かったし、気を使って、ものすごく疲れた。

 それでも、まだソロ・アルバム『グレイ・スカイズ』を出した時も半信半疑でした。これから、どうやっていくかも具体的に考えられませんでした。とにかく、これからは自分でやっていこうと思った時に、やっぱり音楽的パートナーが必要だった。今までは山下くんというパートナーがいたわけでしよ。その時にいろいろな人とソロ・アルバムで仕事した中で、坂本龍一さんとの出会いが、ものすごく自分にとって大きかったわけですね。まだ彼はそんなに有名ではなかったけれど、とても才能のある人だと思ったし、もう芽生え始めていましたから。その頃、新しいシンセサイザーが出だした頃で、いち早く取り入れて使っていました。随分、勉強熱心だったし、研究熱心だったから。『グレイ・スカイズ』の中でやってるんだけど、彼のアレンジで。坂本くんも、最初は私の仕事を通じて、いろいろ試しながらやってたようなところがある。でも、自分のやりたいものとは、すごく近いところを持ってたのね。最初っから。私のメロディーというのは、すごく器楽的なので、どこかクラッシックの要素が強く、その点、坂本くんは基本的なところで、よく理解してくれました。
 

 

 

 

 

 

 

『Bed & Breakfast』(1994年)
大貫妙子著
〜 New York の坂本さんのこと 〜


 ニューヨークでのレコーディングは91年の『DRAWING』以来だから、6年振りになる。さらに、坂本さんと一緒にレコードをつくるのは『コパン』以来だから、12年振りになる。シュガーベイブを解散して、ファースト・ソロ・アルバム『グレイ・スカイズ』『サンシャワー』『ミニヨン』『ロマンティーク』『アヴァンチュール』『クリシェ』『シニフィエ』『コパン』と8枚のレコードで一緒に仕事をした。その中で彼のアレンジによる曲は49曲にもなる。

 思い返せば、最後の『コパン』もニューヨーク・レコーディングだった。ニューヨークのギンギンに派手なホテルに、あの時、坂本さんはロンドンから、私はケニアから到着した。坂本さんは恰好よく、私は埃まみれだった。ホテルの部屋にエレクトリックピアノを入れ、二人でアレンジを練った。どんなに頑張っても、8枚も一緒にアルバムをつくったら、アイデアに新しい何かを見出すのは難しくなる。たとえば同じスタイルでずっと続けることもできるけれど、坂本さんも私も、同じことをやっていると飽きてしまうタイプの人間だった。飽きるというと語弊があるならば、音楽に喜びを見出せなくなる、と言い換えればいいかもしれない。

 『コパン』の中にもちょっとヒットした”ベジタブル″という曲があるように、そのアルバムがつまらないものになったとは思っていない。でも、二人の気持ちの中に、もうこれで一緒に仕事をしないだろうという、感触はあったと思う。もちろんそれから、まったく会わなかったわけではないけれど、しばらくは坂本ファンの一人として、彼の仕事を見て聞いていた。

 94年の坂本さんの『スウィート・リヴェンジ』に歌詞を依頼されたのをきっかけに、その後も彼のプロデュースするアーティストに歌詞を提供するうち、ほわほわと、ふたたび、関係が復活してきたのだった。坂本さんに限らず、70年代、共に仕事をしてきた人は、滅多に会わなくとも、会えば旧知の友という感じで、なんとなく甘酸っぱい。それは多分純粋に音楽だけで結びついていたからだと思う。

 というわけで、私の方から坂本さんに、スケジュールの都合がついたならば、アレンジして頂けるかどうかの打診をした。しかし、94年の段階では、すでに彼のスケジュールは2年先までいっぱいだった。ほんと、忙しい方なのだ。2年もあればゆっくりアイデアを考えられる、と思っていたが、その間にブラジルへ行って『チャオ!』という自分のアルバムをレコーディングしたりしているうちに、あっという間に2年が経ってしまった。

 96年9月のニューヨークはまだ夏の終わりの匂いがした。しかし、ひと雨ごとに冷たい風が秋を運んできた。着いた翌日から、坂本さんのKABスタジオでプリプロダクションに入る。「まあ、のんびりやりましょうよ」と坂本さんはコーヒーを飲みながら言った。東京で仕事をしていると、いつも頭の後ろをグイッと押されているようだし、ヒット曲を書かなきゃならないような強迫観念に苛まれる。「のんびりやりましょうよ」は「楽しくやりましょうよ」のことなのだ。

 東京を発つ前日のギリギリまで書いていた曲を持参し、先に送っておいたデモテープの中から2曲をボツにする。なんと言っても、ヤル気になる曲じゃなきやならない。曲にノラナイと退屈してくる。

 よくインタビューで、曲を書く時何を考えるかと聞かれるので、その答えのひとつとして私は、組む相手のことを考える。と言うと、え~っ、それは本末転倒なのではないかと、不満そうな顔をなさる方がいる。はじめに曲ありき、でしょう。と言いたいのでしょ?

 しかし、一人のアレンジャーがすべての要求に答えられるわけないと思う。優秀なアレンジャーは引き出しをたくさん持っているので、何でもできるけれど、やっぱり向き不向きっていうのはあるんです。逆に言えば、何でもソレ風にしてしまうことのほうが、それなりでつまらないと思う。私が坂本さんとはじめてアルバムをつくったのは二十代の頃だった。気がつくと……いや気がつかなくても私達は四十代になっていた。

 ファンレターの中にも、坂本さんとやってほしい、というリクエストがいくつもあった。でも、言い訳ではなく、ピーターラビット(『クリシェ』収録)のようなものを期待して下さっているのだとしたら、「ウサギもオトナになった」と思っていただきたい。そして近年で、もっとも楽しかったレコーディングだったことを、付け加えておきたい。


『Bed & Breakfast』(1994年)

大貫妙子著
〜 いまごろやっと。〜 (抜粋)


(前略)

 仕事場での私は「のりでやっちゃえ!」というほうでは全然ないし、最後の最後まで見届けないと気がすまないたちであるから、いらしていただいたミュージシャンに「そこまでやるか」と言われることもある。ということは、そこまでやらない人というのは、いったいどんな仕方でものをつくっているのであろうか。

 なんでそうなるかといえば、答えは簡単。人まかせにして「ああ、あの時ああしておけばよかった」と悔やみたくないのと、出来上がったものの評価がどうであろうと、その責任は自分にあると、堂々と言えることだ。

 そんな、仕事場での大貫さんを見て、「なんて魅力的な人なんだろう」と思う殿方が仮にいても(あくまで想像)、「つきあっても、こんな風に仕切られるのはかなわない」と同時に感じてしまうのだろうか……。

 かくして、私のおつきあいしてきた方は、仕事場の私を知らない、無防備な私と殼初に出会った方なのである。しかし現実的に、私は今の仕事を続けているかぎり、おうちにいて、いつも誰かを待っているわけにはいかないばかりか、何カ月も日本を留守にしたり、アフリカだ、南極だ、と連絡のとれないような所に行ってしまう。(今は、サバンナの真ん中からでも電話ができるようになったけれど。)まるで、男のようではないか。

 しかし、責任あるポジションで働く人にとって、それは女性も男性も関係なく、仕事に没頭せざるをえない時がある。そして、集中して働けば働くほど、誰だって誰かにあまえたり、ほっとできる時間や、単純な歓びを共有する相手がほしい、と思う。こんなこともあった、あんなこともあったヨ、ああ、疲れたな~、と。でも、神様はそんなになにもかも与えてはくれないのだ。

 「何故、結婚しないのか」と聞かれることがあるけれど、それではそれをそのままお返ししようと思う。「何故、結婚したのですか」と。好きであるから、その人と一生いたいと思うから。と言うのでは、あたりまえすぎて、なるほどと、納得できない。勿論、とてもとても大切な動機であると思う。では、結婚しないと、その人と一生一緒にいられないのでしょうか。多分そんなことはない。ないだろうけれども、ひとことで言ってしまえば、責任がない。結婚しないでつきあうことを、無責任と言っているのではない。しかし、あの単なる紙きれに見えるようなものが、けっこう重い意味を持つことは明白なのである。犬と一緒にしてはいけないのだろうけれど、家族になったら「あんたは、わがままだから、明日から一人で生きていきなさい」とは、いかないのだから。

 しかしそれ以前に、人は明示な結婚観を持ったうえで結婚などしているのであろうか。だから、まじめに考えれば考えるほど、そして、どんどんおとなになっていけばいくほど、それは遠ざかってしまった。

 私の結婚における第一条件は、結婚したら別れない、ということ。まあ、誰だってそう思ってるでしょうけれど。しかし、何故こうも、はいはい離婚するのだろうか。もちろん、当事者ははいはいどころか、当然苦しんでいるのですが。しかし、人は向上しようと思ったら、求めるもののレベルが変わっていくし、それを相手にも求めたりするでしょう。同じように喜びたいし、悲しいことは同じように悲しいと思いたい。共通する価値観を持つと同時に、同じように成長していかなくてはならないんだと思う。

 そういう努力を欠いてしまった、「結婚」にあぐらをかいているようなありかたは、好きにはなれない。そんなのは理想だと言われたとしても。でも、知らぬ同士が好きになって家族となり、何十年も過ごすというのは、多分、つまらない理想を掲げるより、重い事実なのかもしれないし、私にはもう時すでに遅く、それは自分の両親がそうであるように、夫婦となって五十年を越えることなどできない。

 私は、今のようなことをしないのであれば、次の人生で、それをしたい!結婚が私の乗る列車であるならば、駅に立つ私は、いったい幾つ列車を見送ったことだろう。けれど、自分も自分のレールを走る列車であるならば、飛び降りないかぎり、途中下車は出来ない。

 そうした二本のレールを走る列車が、隣あわせに走る時間があるように、相手を見つめながら、そうして走った時間もあり、でも、レールは行き先が同じではなかった、っていうことなのだ今までは。窓を突き破ってでも手を差し伸べてくれれば、自分の列車から飛び降りたかもしれないし、あるいは、それを望まなかったのかもしれない。

 旅をして、旅をして、旅をしても、すごろくみたいに、「あがり」はない。「ゴール」もない。引かれた道もない。ただ、いつまでもひとりぼっちで、とぼとぼ歩き続けるのはいやだなあ、と思う。いつ、どこで、誰と出会い、恋におちるか。これほど予測のつかないことはない。それを考えると、わくわくするけれど。

 今、自分が思ういちばん素晴らしい変化とは、今度出会った人とは、結婚しようかな~、と思っていること。やっと、そういう気持ちになれたことは、やっぱり素晴らしく素直なことだと思う。いまごろやっと。

 

 

 

 

 

 

ユリイカ臨時増刊 2009年.4月臨時増刊号
総特集 坂本龍一

大貫妙子
〜 ゴム草履の記憶 〜 (抜粋)


 裸足にゴム草履を履いて歩いていた。もっとも、裸足でなければゴム草履は履けないけれど。そのゴム草履の色は青で、先端はかじられたようになくなっていた。「ヘヘっ、ストーブに近づけてたら、先が焼けちやったんだよね」と言う。つまり、冬でもゴム草履を履いていたのか…。いったいいつ洗濯したかわからないジーパンの先から出ているその足のことばかりが、思い出すことの最初に浮かんでしまう。よほど強烈な印象があったのだろうか。人って不思議だと思う。まだ、アブちゃんと呼ばれていた時代の坂本さんだ。

 私が笹塚に住んでいた72年頃、その建物の線路をはさんだ向かいの白い建物にPAの事務所があり、とにかくいろいろな人が出入りをしていた。24時間ドアは開けっ放しで、玄関には脱ぎ捨てられたようなきたない靴が、いつも山のように散乱していた。いくつかある部屋のひとつに二段ベッドがあり、仕事明けの人が死んだように寝ていたり、炬燵のある部屋では誰かか飲んでいたり、どこかの部屋では音楽がガンガンかかっていたりした。ミュージシャンやスタッフや知り合いばかりなので、私も時々ふらりと遊びに行っては、暇そうな人を誘って食事に出かけたりもした。そんなある日、坂本さんはそこにやって来た。それ以前にも仕事の場で顔を合わすことはあったけれど、話したのはその時が最初だったと思う。

 私たちはまだ二十代だった。あの頃の坂本さんの関心事の優先順位を勝手に想像するならば、「女の子にもてたい」がランキングの1位から5位くらいまでを占めていただろう。若い男子たるや当然のことで健全な態度だと思う。普段は眠そうな顔をしていても、ここぞと思う時は、あの「目」からビームか発射される。その有効性を知ってか知らずか。鏡を見つけると、なにげなく近づき手櫛で髪を整えながら、めずらしいほどくっきりとした二重瞼をさらに深くして…。自分に気合いを入れていただけのことかもしれないけれど。そして最後に掌を合わせて指で鼻をはさむようにする。今でも変わらないそれが癖なのか。

 その頃の坂本さんは、「愛」だとか「情」のようなものを避けて歩いていた。心の内は量りかねるけれど、言葉として口に出すのもおぞましい、という感じだった。いつも何かを破壊したいという空気を纏っていて、それが内に向かう時もあれば、外に向いて噴火することも度々あった。レコーディング中であれ、コンサートのリハーサル中であれ、怒りが爆発すると近くの物がすごい勢いで空中を飛んでいた。しかし、70年代は坂本さんに限らずそこら中で噴火の火柱が立っていたし、怒ってそのまま帰ってしまう人もいた。そういう火の粉を浴び続けていた私には、最近の人が怒らないことの方を、むしろ不気味だと感じてしまう。

 三十数年の時を経て、眼盖しの向かう先は森へ未来へと進路を変えた。現在の穏和な坂本さんに会うと、ほんとに同じ人だろうかと疑ってしまうほどだが、実際YMOの激動期をきっかけとして、早い時期海外に出て暮らそうと思った決断は正しかった。「世界の坂本一と呼ばれるようになってからも、通常仕事場にはひとりでやってくる。いまだに大名行列のように人をともない仕事場に現れるアーティストと呼ばれている人たちの物々しさとは真逆のスタイル(仕事の仕方)だ。等身大の自分をそれ以上に誇示する必要がどこにあるだろう。生き方や生活態度そのものか美意識として問われる時代なのだ。

(中略)

 私たちがまだ二十代だった頃、坂本さんとパスタを食べていた時…いや、あの頃はパスタなんて言わなかった。スパゲティーを食べていた時、「あのさぁ、そうやって、音立てて食べるの、やめたほうかいいよ」と言われたことがある。つまりお蕎麦を食べる時のようにズズズッと。「イタリアじゃさぁ、そうやって食べないんだよ。こうやってフォークにクルクルまいてさ…音立てるとみっともないんだよ」。

 いまだに、スパゲティーを食べる度にその時のことを思い出してしまう。「お茶碗は手に持って食べること」とも言われた。仕事場では毎日カツ丼でも気にしない、その反面、坂本さんは意外と所作にはうるさいのだ。それが坂本さんの、カツ丼のようにわかりやすいメロディーでありながら、所作を大切にする美しいハーモニー(和音)に通じているのではないのかと勝手に思っている。カツ丼でも坂本さんにかかると美しいカツ丼になるということだ。時には涙の出るほどのカツ丼に。ちょっと、例えか悪かったかな…。でも坂本さんは美味しいものもよく知っている。

 ものを創り出す立場にとって最も大切にしなければならないのが、正直に評価してくれる身近な存在だ。知名度があがるほどその存在を見失っていく人は多い。よい仕事を続けるための条件は、マネージメントとスタッフの優秀さにかかると言われる通りで、坂本さんとの仕事がいつも気持がいいのは、すべてをオープンにして、制約のある中でもつねに前向きで、みんなか納得する方法を柔軟に見つけていこうとする頭の回転の速さと柔らかさである。さらに言うと、身近な理解者はひとりいればいい。作品が世に出る前に、最初にそれを耳にする人。作品の評価をしてもらいたいわけではなく「いいでしょ~?」と言って「素晴らしいですね~」と言ってもらうこと。とくに坂本さんのように、ひとりで作業をする人にとってはその一言が持続の糧となるだろうと思う。他人が求めるからといって、その時点で自分が興味をもてないものなど仏つくって魂入れず、と同じじゃないか。それは音楽ではない。だから坂本さんの音楽を聴けば、彼が骨身を削って創りあげたものであることがわかる。それは同じようにものを創る人たちへの励ましでもある。毎日聴くことはできないけどね。これからも、空さん(当稿注:パートナーとされる空里香さんか?)と二人三脚で!

 坂本さんと語らうのは楽しい。それはきっと誰もがそう思っていることだろう。茶飲み話というのはしないけれど、どんなことでもよく知っているし、言葉が熱い。話して熱い人というのは、ほんとに少なくなってしまった。魅力的な人はみな身体が温かい。自家発電しているから人にも温度を供給できるのだ。だからそういう人のところに人が集まってくるのはあたりまえなんだ。

 今宵も熱く語りながら、地球の、人も含むすべての命が平和に暮らせるという、壮大な夢を見てもいいじゃないの!と思う。

 

 

 

 

私の暮らしかた (2013年)
大瀧妙子著
〜 ツアーの日々 〜 (抜粋)


 旧知の仲である坂本龍一さんと、『UTAU』(歌う)というアルバムをつくった。彼とは13年ぶりのレコーディングになる。二十代の頃に出会い、70~80年代中期までのアルバム10作に参加していただいた。その後も映画音楽などもふくめ、彼に時間のあるときは、アレンジをしていただいている。

 数えてみると、私のオリジナル・アルバムも26作を超え、ほぼすべての詞と曲を自分で書いてきた。歌詞に関してはとくに、自分の言葉で歌いたいという気持ちから、そうしてきたが、曲は素晴らしいと思うメロディがあれば、それに歌詞をつけて歌うこともあったし、もともと自分でも、曲を先に書き歌詞をのせるというやりかたなので、人のメロディに歌詞をつけるのも苦にはならない。

 大手レコード会社との契約は、発表するアルバムの枚数に縛られるので、そろそろ自由になりたいと思っていた頃、レコード会社の再編が進み、音楽産業の様子が変わり始めた。私自身も、2006年に発売になったアルバムを最後に、長く在籍したレコード会社との契約を終了することになった。外資の持ち株が上回り、なにより売り上げ重視という方向に傾くようになってしまったからで、ともに音楽を作り続けてきたその会社のスタッフも、散り散りになった。

 その後はアルバムごとの単発契約をしながら、現在に至っている。『UTAU』というアルバムは、エイベックスのコモンズ(坂本さんのレーベル)から発売された。やりたいことのアイデアがいくつかあったなかで、思いがけずこの企画に取り組んでくださることになった。坂本さんの楽曲に歌詞をつけさせていただき、歌うというものだ。彼の曲はもともと歌のために書かれたものではなく、器楽的で、私の音域を超えるものもたくさんある。しかし私自身の曲も、もともと器楽的だから、歌えるのではないかと思ったのだ。実際はとても大変だったけれど。

 音楽はやはり美しいメロディとそのためのハーモニー(いわゆるコード)で決まるものだと思う。シンプルなメロディでも、ハーモニーによってそのメロディのもつ世界観はがらりと変わる。アレンジ(編曲)とは、どんな楽器を使うか以前に、メロディに対してどのようなコードをのせるかであり、それによって音楽の命か決まると言ってもいい。そこになにか決まりごとかあるわけではなく、その人の「センス」としかいえないのは、絵画にしても同じだと思う。坂本さんの並外れたセンスが、彼の音楽をつくってきた。

 レコーディングは今年(2010年)の8月、札幌にある「芸森スタジオ」で行われた。もともとは坂本さんが好きなロンドンのエアー・スタジオに決まっていたのだけれど、私の個人的な事情で急遽日本でのレコーディングに変えていただいた。そこから、大慌てて日本のスタジオ探しが始まった。

 今回のように歌とピアノだけ、という内容の場合、ピアノの響きが最重要になる。日本でのレコーディングやツアーは、坂本さん自身のピアノを使うため、そのピアノをスタジオに搬入できるかどうかが、まず最初の問題。都内のスタジオは、どこもビルの中にあるので、巨大なグランドピアノを乗せるエレベーターがない。選択肢は東京にはなかった。東京を出れば、河口湖や山中湖など他にも搬入可能なスタジオはあったが、どこもすでにスケジュールが入っていた。

 そこで出てきたのか、札幌の「芸森スタジオ」だった。坂本さんも私も聞いたことすらなかったが、坂本さんが信頼のおけるレコーディング・エンジニアにたずねたところ、音はいい、ということだった。賭というのは大げさかもしれないか、それに近い気持ちでここに決めた。

 「芸森スタジオ」は80年代につくられ、最初こそよく使われたものの、その後、あまり使われなくなり、オーナーも幾度か代わったそうだが、このスタジオをなくしてはならないという高瀬さんという方の熱意によって守られた。

 ファンハウスというレコード会社の好景気時代に建てられたスタジオで、こういうすばらしいものができるのならバブルにも大賛成というくらい、よくできたスタジオだ。明かりとりのある高い天井、よい材質で作られた床や壁、スタジオのナチュラルな響き。宿泊施設も完備され、レコーディング期間中は、南極料理人で有名になった西村淳シェフが朝昼晩と申し分のない料理をつくってくださった。なにより、広大な森にかこまれたその場所は、東京ではいつもストレスになる電波によるマイクのノイズに悩まされることもまったくなく、静かな時の中で仕事を続けることかできた。

 もうひとつ私たちを驚かせたのは、芸森スタジオをつくるときのアドバイザーがジョージ・マーティンだった、ということだった。レコーディングをするはずだったロンドンのエアー・スタジオは、ビートルズが使ったことでも有名なスタジオだが、ビートルズのプロデューサーだったのが、ジョージ・マーティンそのひとで、エアー・スタジオはジョージ・マーティンによって設立されている。しかも、芸森スタジオにあるSSLのレコーディング卓は、もともとエアー・スタジオにあったものだったのだ。北の地の、まったく知らなかったそのスタジオでレコーディングをする。それはよくある偶然のひとつかもしれないけれど、「結局、そういうことになるのだ」という確信にも満ちた出来事だった。

 そしてもうひとつ。今回のCDの歌詞には植物がたったひとつ出てきて、それが「ネムノ木」だったのだが、ニメートルほどに育った鉢植えが、行ってみるとそのスタジオにあったのだ。みんなの集まる、食堂と私の部屋に。スタジオの観葉植物や部屋の花を定期的に入れ替えてくださる方がおっしやった。「このネムノ木、みなさんかいらしたとたん、花、が開いたんです!驚きました」

 音楽と植物は関係か深いので、それもありうるかもしれないけれど、レコーディングが終わり、帰る日の朝、ネムノ木の花は、全部床に散っていた。だからどうだということではなく、そうした出来事の数々が、大変だったレコーディングの日々を力づけてくれたのだ。

 

 

 

 

大貫妙子デビュー40周年アニバーサリーブック(2014年)
〜 大貫さんに叱られながらちゃんと歌を聴けるようになってきました 〜
坂本龍一


 40周年おめでとうございます。ほぼ大貫さんがデビューした頃から僕は知ってるわけなんですけども、シュガーベイブのキーボードをたまに、お助けマンで私が弾いたりしてたんですよね。それでシュガーベイブが解散して、大貫さんがソロアルバムを作る時にお手伝いしたり、それが縁でソロのバックバンドのリーダー役をやったりしていたんですが、今その頃のことを思うと、本当に冷や汗が出ます。僕はその頃いろんな人に、歌もののアレンジやプロデュースをしてたんですけど、全然歌を聴いてないんですよね。歌を聴かないので有名だという、そんなことで有名になってどうするっていう感じですけども。なので、本当に歌いづらかったと思うんですよね、僕のアレンジは(笑)。「本当に坂本くん、歌を聴いてないわね」って何度も怒られて、「そうか、歌を聴かなきや」って、忘れるなっていう感じですけども。そうやって大貫さんに叱られながら、ちゃんと歌を聴けるようになってきたんじゃないかなと思うので、本当に感謝でいっぱいです。まあ40年やってきたわけですから、50年もお願いしますよ。50年になったら、本当にすごいですよね。ほとんど同じぐらいやってるわけですから、お互いさまですが。長いなあ、人に歴史ありだなあ。これからも頑張ってください。

 

 

 

 

 

 

週刊文春

2014.1.16号 
阿川佐和子のこの人に会いたい(抜粋)

ゲスト:大貫妙子

阿川 シュガー・ベイブ解散後は?

大貫 それからはソロで。何度もやめようと思ったことはありますけど。
阿川 やめて結婚しちゃおう、とか?
大貫 それが、イメージしたことすら一度も。子どもの頃からウェディングドレスを着たいと思ったこともないし。音楽と結婚しちゃったんですかね(笑)。
阿川 私、イメージだらけだった(笑)。恋愛はされたでしょ?
大貫 もちろん。今はないですね。ちょっと面倒(笑)。
阿川 今回、改めて大貫さんの曲を聴いて、これだけ深い詞は今の歌にはないと思いました。映像的に想像できる物語や、時間の経過があるでしょう。男女二人の関係も謎めいていて、考えさせられたり。
大貫 ありがとうございます。
阿川 最近の歌はほとんど、「そばにいるよ、大丈夫だ、元気を出して、涙流して一緒に歩こう」って……。その言葉を使わないでそういう感情を喚起させるのが歌ってもんじゃなかったのか!って。
大貫 自分の中でいちど消化したものではないんでしょうね。いつもそばにいる友だちに何か言われているみたい。あまり細かいこと言われると、お腹いっぱいになりますよね。
阿川 想像力をかき立てられないんだもん。
大貫 聴く人が想像を巡らせたり、どこかで見た心の景色だったり、言葉も音楽の一部であると思うんです。私の歌は基本的に不条理がテーマなんですね。男と女の関係が一番不条理だと思う。だからラブソングも、別れてもどっちが悪いというのはないし。
阿川 やっぱりご自分の経験は詞に出ますか。
大貫 経験がないと書けないでしょう(笑)。恋愛って学ぶことが多いです。ま、フラれることが多いので。
阿川 そうなの?
大貫 ほとんど。けっこう尽くすタイプなので、重くなるんですかね。自立型なのでもっとたよられたかったのかな、反省(笑)。
阿川 意外~。クールな印象ですけど。
大貫 歌詞の物語はすべて事実ではありませんが、いちばん伝えたい言葉は経験やそのとき見たものを書いてます。どんな風にあの人は去っていったか、とか。過去のディテールを思い出すのは辛いんですが、そこに戻ることでそのとき気づかなかったことがわかることもあるので。過酷な仕事だなぁと思うときもありますよ。

 

 

大貫妙子と坂本龍一

 『新しいシャツ』はその別れの歌だった


 

 

 

あとがき

 最初に紹介した新潮で坂本龍一は、「20代前半の一時期、大貫さんと暮らしていました」と語っています。この20代前半というのは具体的にはいつ頃のことなのでしょう。とある理由から自分はこの時期を絞りたいと思った。わずかな資料から憶測を重ねるだけですが、ちょっとした推察をおこなってみます。

 坂本龍一は、自著『音楽は自由にする』で、「大学3年の時、結婚しました」と書いています。これは知られている矢野顕子とではなく、一般の女性が相手です。坂本は東京藝大にはストレートで入りましたから、21歳あたりで最初の結婚をしたことになります。ですが、「けっこう長いこと付き合って、子どもが生まれて、結婚して、でも何か相性が良くなくて、まもなく別れてしまいました」とあります。この「まもなく」を1年後とするなら、22歳ぐらいで離婚したのでしょうか。つまり、大貫との同棲期間は、22歳以降のおよそ3年間にあったとの推測が成り立ちます。


 一方、大貫は坂本より1歳10ヶ月若い。坂本がふたたび独身となったその3年間、大貫の年齢はおよそ20歳から22歳だったことになります。実はこの期間は、シュガーベイブの活動期間とちょうど重なります。つまりふたりがいっしょに暮らしていたのは、大貫がシュガーベイブに在籍していた、その一時期だったと考えられるのです。

 それがどうしたと言われれば、返す言葉はないのですが、冒頭で触れたように、自分はシュガーベイブ期の大貫妙子のファンでした。この時期に彼女につらい別れがあったことが気になります。というのも、シュガーベイブは売れないバンドでした。大貫は『風都市伝説』という本で語っているのですが、当時はロックとブルースが全盛の時代で、イベントのステージに出ても客席から軟弱な音楽だと罵声を浴びせられ、バンド内の紅一点であっても大事にされなかったらしい。こういう仕事面での不遇は以前から知っていましたが、私生活でもつらい失恋を経験していたことになります。阿川佐和子との対談での失恋の告白でも、坂本のことが脳裏によぎったことでしょう。

 

 さてすこし脱線するようですが、その『風都市伝説』で大貫はこうも語っています。

 

音楽で多少なりともご飯が食べられるようになったのは、ソロになってからですよね。バンド時代なんて、月6000円くらいかな、手にしたのは。どうやって暮らしていたんだろう、ねえ。だから毎日、ナポリタン・スパゲティ、具なし(笑)。ピーマンくらいは入れようと思ってたけど、ウィンナ・ソーセージなんて入れられたらもう大変。でも、ケチャップだけのスパゲティ、意外とおいしいんだけどね。いまでも懐かしいもの、ナポリタン。

 

 先の引用でも、大貫はスパゲティの話をしていました。よほど印象深い食事であったのでしょう。それはともかく、坂本も語っていたように、当時はおカネの問題は切実な問題でした。住まいについても、大貫は自著『私の暮らしかた』でこう振り返っています。

 

 二十歳のときに家を出て、一人暮らしを始めてから三十数年が過ぎた。普段は自分の年齢を忘れているので、あらためてその年月をふり返るといささかぎょっとする。その頃はアマチュア・バンドに毛の生えたような音楽活動を始めていた。はじめての一人暮らし。トイレは共同、お風呂もない、おまけにお金もない。ないない尽くしの始まりだった。


 練馬区内の、畳の四畳半と、三畳ほどの台所がある、木造のアパートだった。庭付きの一軒家の二階をアパートにした、外階段がついているよくある建物だ。階下に住む大家さんは、おばあさんとその息子さん。おばあさんは、お耳がとおくなっていたのか、巨大な音で毎日テレビをかけていた。アパートの部屋は壁がとても薄く、深夜には隣の住人の新聞を開く音まで聞こえた。そんなありさまだから、音楽を聴く私の部屋の壁を、隣人はたびたび叩いていた。

 

 大貫が坂本と同棲したのは、さすがにこのアパートではないでしょう。ですが、ふたりともろくな収入がありません。大貫が家を出た二十歳の年は、かぐや姫の『神田川』が大ヒットしましたが、この歌と大差ない部屋でふたりは暮らしていたのかもしれません。なのに坂本は出て行ってしまった。『新しいシャツ』が発表されたのは1980年のことで、シュガーベイブ解散から4年も経ってからです。この収録アルバムはソロとして4枚目のアルバムであり、坂本との別れを歌に昇華するのに、これほどの時の経過が必要だったのでしょうか。

 いずれにせよ、当の本人らにとって恋愛関係は遠い遠い過去のことです。ここで他人が問題にしていること自体がバカみたいです。ですが、『新しいシャツ』の情感に思いを致しながら聴いていた者からすれば、作者の当時の状況を深掘りしてみたかったということです。本稿を構成した理由もそこにあります。不出来なものにお付き合いいただいたことに感謝します。

 最後になりましたが、自分は坂本龍一のファンでもあります。一般には知られていない曲かもしれませんが、1979年に発表された『ニューロニアン・ネットワーク』が大好きです。以来、この種の静かな調べに魅せられてきました。坂本は大貫の40周年での寄稿で、「50年目もよろしく」と語っています。それは再来年のことです。そのときまたター坊と元気に共演できるよう、病に打ち勝ってほしいと切に願っています。