吉田拓郎が語る「LOVELOVEあいしてる」顛末記&旧友断捨離記 | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 6月、吉田拓郎の、最後となるアルバムが発売されました。7月には、あるいは見納めになるかもしれないテレビ出演もありました。その『LOVE LOVEあいしてる』最終回で拓郎さんは、KinKi Kidsのふたりに感謝のことばを述べました。1996年からはじまったこの番組は、拓郎さんにとって音楽人生の後半生に踏み込む、大きな転機となったのです。

 ですが、古くからの拓郎ファンにとって、番組への出演はショッキングなできごとだったはずです。実は自分もその一人でした。なぜ我らがカリスマが、あのような若造たちとチャラチャラはしゃいでいるのか、理解できなかった。正直、今回見ても、その複雑な思いは未だ消えていませんでした。それほどかつての拓郎さんの存在は大きかったのです。

 しかし、出演は本人にとっても苦しい葛藤の末の決断でした。自著『もういらない』(2002年)では、その経緯や問題を縷々述べています。今回出演した明石家さんまが暴露したように、拓郎さんはとてもワガママな人です。なのに忍耐に忍耐を重ねて番組をつくっていった。オールドファンはその苦渋を理解しなければならないようです。自戒の念を込め、同著から吉田拓郎が語るところの舞台裏を引用させてもらいます。

 

 

 

 

 

 

 

人生の転機は50歳の誕生日だった

 俺にとって、人生の転機は50歳の誕生日だった。40代後半から、「ついに俺も50を迎えるんだな」って、50代に確実に距離が近づいてきたときに、すごくイヤだった。50になりたくない抵抗があった。

 50歳というと、俺の中でカッコいい人物は高倉健とショーン・コネリーぐらいで、他の50代って全然カッコよくなかったんだよ。俺が50になっても高倉健になれるわけがないんだし、彼はある種の遠い存在だからね、映画の中の、憧れではあるけど、俺は間違いなく高倉健にはなれないな、って結論だった。

 50過ぎになったら、果たして俺は、いったいどんなミュージシャンになるのか、って範例を探したって、こっちはドメスティクだし、世界ツアーをやってるわけでもないしね。すごく不安だった。50歳を迎えることには非常に抵抗があったんだ。

 50歳の誕生日に、ある人が「イベントを武道館でやらないか」って言ってくれた。「吉田拓郎も、もう50歳だ」って企画が立ち上がったんだけど、俺はいまいち乗り気になれなかった。それは、楽しいような悲しいような気分だった。50歳の誕生日は、やっぱり区切りとしてなんかやるのかな、とは思ってた。20歳の頃から一緒にやってきた仲間……いろんなものを築いた、ともに成功も失敗もして、一緒に青春を過ごした仲間たちと……ミュージシャンも業界人もいて、その人たちを恒例のように呼んでパーティでもするのかな、つてボンヤリと思ってた。

 で、俺はハワイが好きだったから、ハワイでパーティやってみたいな、って思いついた。50からは一日一日をマジに真剣に取りくんで、日常を一生懸命生きてみよう、ってね。しっかりしないと、大嫌いな50になっちゃう、俺の嫌いな50にね。

 そこへ俺が向かっているのは間違いないから、20代のときとか、30代のときとは違う、もっと一生懸命さが必要だって。俺がもっと一生懸命やらないと、いい50代は迎えられないんじやないか、50歳以降の人生が送れないんじやないか、と思った。

 まあ、なかなかうまく言えないんだけど、ひとつのとっかかりとして、青春時代を送った人間関係とか、友人関係、音楽関係が、50歳を過ぎて俺にどれくらい影響があって、どれくらい役に立ったり、みんなと助け合ったりできるか、って考えたときに……俺の中ではゼロだったのね。「青春は青春でおしまいだ、いいや」と。

 20代の成功とか失敗とかいろいろ含めて、それは過去に置いていこう、と。友人とも別れよう、と。それは非常にいけない、俺のご都合主義なんだけど。で、パーティをやって、50歳以降の俺を支えてくれるような……笑顔でね「あの頃はよかった」とかじやなくて、「これからの俺」を一緒に考えてもらえる人を、俺が……生意気なんだけど、俺なりに考えて、そういう人を集めて50歳のパーティをやったんだ。

 自分で料理長になって、ハワイまで行って「こういう料理を出せ」って指示して「こういう食事で、こういうワインでいこう」って全部決めた。そのパーティは、俺としてはあまり体験したことのない、とても楽しいもので「頑張ろう、これから」って、思い直せるような感じで成功したと思う。だから、ハワイで結論を出したんだ。「前のことはいいや」「昔は、もういい」と。過去へ話題が行こうとしたら、なるべく避けていこう、と。「過去のことは俺自身がよく知ってるんだ、俺がその中にいたんだから」ってことだったんだよね、あの時代を説明する役割というか「そういう役回りはやめよう」と。「過去をふり返るだけの企画にも乗らない、過去をふり返るだけの番組にも出ない」って、そこで決めた。

 50歳以降、ゼロとして……ゼロってのはありえないんだけど、気分はそういう感じだった。昔のことがメインになってるようなことには参加しないと決めた。「それが、自分が長生きする秘訣だ」と思ったんだ。もし、ずっとやっていたとしたら「そりゃあ年中同窓会じゃねえか」って思ったんだよな。年1回くらいならいいけど、月に何回もあるとなると……飽きるよ。そこで俺は決断した。

 それで、そのときたまたま『LOVELOVEあいしてる』という番組が始まって、KinKi Kids(堂本剛・光一のふたり組人気タレント)という、当時17~18歳の若者と出会ったんだ。

 きっかけとしては、とんでもないスタートだった。それこそ”清水の舞台から飛び降りる”というような気持ちで始めちゃったからね。テレビの現場へ行ったら、そこは、俺のまったく知らない世界でね。まず俺はテレビを知らない、若者を知らない、17~18歳の人が何を考えてるかわからない。むしろ子供は嫌いだったしね。

 そこに放り込まれたことによって、逆に開き直って「じいさんばあさんと話してるんじゃないんだゾ!」って俺の中で肯定できたから、助かった。KinKiと出会ったってことは、俺の中でスムーズに新しいスイッチが入った感じがしたんだ。あれ、俺ひとりじゃ難しいよ。「過去はいらん!」とか言っても、難しい。周りが「過去」ばっかりだったから。俺も含めてね。それが急に周りが「未来」ばっかりの人に変わったから、それですんなり移行できた。ラッキーだったよ。50歳を迎えるときかな、そこから変わっていったね。あからさまに。

 ある種のファンと音楽関係者たちは「拓郎は変わった」、むしろ「裏切りやがった」くらいの勢いでね。50歳から先は、俺のきわめてパーソナルなことだから、つまりは俺の幸せが優先されるわけだから、言うなればそういう人たちの言うことなんてどうでもいい。「いかに自分が50歳以降、幸せに生きるか?元気に明るく行けるか?」というのが大前提にあった。

 「俺が楽しくなかったら、いい曲も作れないんだよ!」っていうことだからね。俺が明らかに元気で、明るく生活していないと、曲作りもイヤになる。非常に自分のことが大事になってきたよね。「自分を幸せな環境にもっていくにはどうするか」……50歳前後は絶望的だったからね。「そうじゃない、50歳は楽しいじゃないか」と思えるようになったのは、若い連中と出会ってからだよ。

 50歳の転機以前は「人生こんなもんだ」という諦めがあった。「50になるって、こういうもんだろう、しょうがないな」という諦め……囗癖だったもんね「こんなもんだろう」が。俺自身、過去にはいろんなことがあって、いろんなイベントも開催して、いろんなムーブメントだってあったけどさ。

 50歳の誕生日以降の自分は、俺なりにはうまくいってるはずなんだ。反面、それなりに友人も失ってはいるんだけど……相手がどう思っているかはいまだに聞いたことないんだよね。そこは問わないし、けっして言うまいと思っていたんだ。自分で選んだ道だからさ。ただ、50代になるのがイヤで、すごく不安だったのが、すっかり払拭されて、いま、面白い。「毎日面白いじゃないか」と思えるようになったことは事実だから、40代後半から不安に思っていたことは、きっぱり吹っ切れたね。

(後略)


「LOVELOVEあいしてる」秘話

 『LOVELOVE~』の最初とか「自分の立ち位置はここだ」って、自分なりに考えていたわけじゃない。何にもわからなくて、予想外の展開ばかりで、テレビの恐さとかを思い知らされた。毎週、ふところに辞表を持ってたな。「辞めさせてくれ」ってのが本音だった。

 でもね、テレビ局の体質は『LOVELOVE~』の頃には、昔とは全然変わってたよ。「テレビ局、こんなに変わっちゃったんだ」と思った。テレビを見てる側の人間だった俺でも、あきらかに昔とは違う、というのは察知していたけどね。まさかこんなに……正直言ってテレビ局内とかで若い人が力を持って……30代とかがね、任されてやってるとは思わなかったし、相当上にはその道の人みたいにゴールドの指輪をはめたようなのがいそうかな、って思ってたけど、いなかったんでね。それにはビックリして「ああ、いいことだな」と思った。「俺らの時代の悲哀はもうねえんだな」と。それはすごくいいことだと思うよ。

 ま、俺は音楽の人間だから音楽をどう表現できるか、そこはテレビ局の人とは話が合わない。それはずーっと最後の方まであったけどね。「もうちょっと演奏しっかりしない?」とか、俺は話がそういう方面にいっちゃうんだけど、局側は「いや、もっとトークを濃くしよう」とかさ。でもKinKi とのかかわり合いも、番組内で次第に変わっていったよね。それはあのふたりが、飛びぬけていいヤツらだったから。非常にリスペクトとか、よくわかってるアーティストなんだよね。この出会いは偶然なんだけど、でも俺にとってはめちゃめちゃ大きいよ。

 当時、彼らはデビュー前で、これから大きくなっていこうってふたりだった。そんな頃から付き合ってて、CDを出すたんびにガンガン売れて、超人気が出てきてさ。そういうのを俺はすぐそばで、週―のペースで見てたわけだ。そうして、俺なりにふたりの成長を見てるのは楽しかったね。「次の新曲、あんまりよくねえな~」って冗談で言えるようになったし。楽しかったよな、あいつらといると。

 俺が『LOVELOVEあいしてる』を引き受けた、決定的な理由ってのは……40代の頃から、フジテレビに限らずプロデューサーとか制作の人と会うときにはいつもテーマがあって、俺は要するに”音楽番組が作りたい”と。どうしてもね。

 ライブで演奏するとか、セッションを楽しむ場とか、テレビにないからね。俺は世代的に言うと『ザ・ヒットパレード』とかを観て育ったクチだから、それが非常に楽しいものだという認識があった。俺のアマチュア時代も良質なポップスをやっている番組があったし、たとえば『スマイリー小原とスカイライナーズ』が番組に出てる、っていうのはすごい魅力だったね。

(中略)

 で、ことあるごとにいろんなテレビプロデューサーと話してたんだ。それでたまたまフジテレビの菊地くんっていうのが俺に話を持ってきた。

 彼は『HEY!HEY!HEY!』って番組もやっていて、彼から「ゲストに出てくれ」ってアプローチが来たんだ。俺はツアーで日本中あちこち回ってるときだったんだけど「頼むから出てくれ」と。昔から俺のシンパだったらしくて、俺に出てもらうことが、彼にとってのひとつの使命だったみたい。

 俺はそのとき、正直に『HEY!HEY!HEY!』はヒッ卜曲を持ってるヤツが出る番組じゃないか」って言ったんだ。「俺にはヒッ卜曲がないよ」と。そんな俺が「昔の名前で出ています」ってのは、ちょっと……釈然としないし、気持ちもよくないしね。大御所が出てくるみたいに扱うわけでしよ? 矢沢永吉はヒッ卜曲があるからいいけど、俺にはないから。それは立場的に辛いしね。正直、胸をはって出られない。シングルヒッ卜とかね……レコード出しつづけるんで、俺がチャートインするまで待っててくれ」と彼に言ってね。

 曲がヒッ卜して、チャートをにぎわしている人がずらりと出ている番組に俺が入っていくのは……それこそ大御所扱いされて終わりだな、ってミエミエだったからね。それじゃ、あんまりよくないやって、ずっと断っていたんだ。

 そうこうしているうちに、菊地くんが今度はまた違うものを持ってきた。「深夜で枠がとれそうなんだけど」と。今度はそっちに話がいって、俺が以前から思っていたショー感覚のものがそこでできそうだった。当初はトークがメインになる番組だなんて思っていなくて、演奏がメインの音楽番組だと思ってたからね。

 その話をしたときに「どんなバンドを作りたいですか?」みたいな話になって、あんなのこんなのって挙げたら「それは面白いですね」と。「可能なのかね?」って聞いたら……辛いんだけど、フジテレビの菊地くんの立場から言えば、「吉田拓郎だけじゃ番組ができないんだ」って言われた。「数字(視聴率)をとらないとダメなんですよ」と。「拓郎さんひとりじゃ数字がとれない。半年は続くかもしれないけど、それじゃあ、やってても意味ないでしょう」って。

 で、「数字をとるためにはどうしたらいいの?」って聞いたら、実はKinKi Kidsっていうのがいて、まだCDデビューはしてないけど、今後はメジャーな展開を考えているから「その相手として吉田拓郎さん、どうでしょう?」ということを彼に提案された。

 目が点だったね。それ以外は、俺が理想としているミユージシャンたちが集まって、セッションバンドを組んで、俺もその中に入っていろんな曲を毎週演奏する。で、ゲストが来てそこに入って……って、まあ、俺の狙いと近いよね。『ヒットパレード』だなと。だからちょっと俺的には食指が動いていたんだ。

 だけど、KinKiKidsってところに戸惑いがあった。なにしろ彼らは10代の若者だったからね。それで、いろんな人に相談したり、うちの奥さんにもいろいろ聞いたよ。「KinKiKidsって何者だ?」と。当時SMAPは知ってたけど、KinKiはよく知らなかった。「吉本の若手か?」とか(笑)。彼らはまだ歌ってなかったからね、よくわからなかったんだ。だから俺は、正直「KinKiKidsとは違うだろう、菊地~」と言った。だけど、テレビってものの説明を菊地くんからいろいろされてね。「拓郎さんはテレビのことをあまりよくわかってらっしやらない。テレビってものをよくわかってほしい」と。「スポンサーの立場があって、プロダクションとかいろんな芸能事務所があって、番組の枠があって、それでやっていくんです。やっていくうちに数字が定着すれば勝ちなんです」と。

 で、KinKiを持ってくれば必ず番組はブレイクする、という菊地くんの読みがあった。「KinKiKidsがブレイクするのは間違いないんですから、そのときに番組をやってる立場は非常に評価されるんです。その一員になりましょうよ」と。言わば「KinKiが育った番組、そこにずっといたミュージシャンとして名を連ねるのはいいんじゃないでしょうか?」って説得された。

 彼からそういう提案があって、結果的に俺は承諾した。だけど、俺的にも考えていたような音楽ショー番組……いろんなミュージシャンが来て、その曲にまつわるミュージシャンも出てきて、そこにゲストミュージシャンが、現在ヒッ卜してる歌手とはまた別に来てくれることになった。かなり俺の狙い通りに、豪華なラインナップで番組ができることになったんだ。

 番組が始まった当初は、トーク部分以外はなかなかオシャレになったな、って思った。ミュージシャンだちとの親睦も、おじさんたちのほうで作れてるなと。「なんでこんなに収録まで待たされて~」とか、毎週グチこばしながら、収録後も俺ら酒飲みながら話し合いつつやってた。番組がスタートしたんだからみんなで元気付けあってね。ベーシストの吉田建とか、ギタリストの高中正義とかと、終わるたんびに酒飲んで、慰めあってね。「いい番組にしよう」と。

 当初俺は、自分がしゃべったりするのは難しいな、って思っていたけど、面白い番組が始まったな、っていう感じはつかめてた。40代の頃から俺が他人に話していた夢が叶った。それはかなり変わった形になったけど、とにかく嬉しかった。結果論だけど、KinKiKidsがいたからそういうのも叶ったんだろうなと思うしね。

 篠原ともえは……彼女がテレビに出てるのを見てるときから嫌いでさ(笑)。嫌いっていうの……その頃は俺、若者はみんな嫌いだったからさ。若いってだけで毛嫌いしてるの。「若者の茶髪はなんだ!」と。その中で、もっとも軽いヤツじゃないか、篠原ってヤツは。彼女がレギュラーだなんて、顔合わせまで知らなかった。テレビ局に行ったら「拓郎さん~!」って。「なんだこいつ」と思ったら「来週から私もレギュラーです~!」「うっそだろ」と(笑)。ま、いろいろ菊地くんにはハメられたよね。

 でもね、高中というギターの名手がいて「ああいう人が番組にいるんだ」って思えば、ゲスト出演者もやりやすい、っていうのがあるじやない? そこが最初の俺の大テーマというか、KinKiは別のところに置いておいて……彼らはメインのスターなんだけど、俺たちがあそこにいてゲストのミュージシャンが出づらいと思われるとマズい。「ああいうヤツとやりたくない」と思われるのもマズい。

 「あそこだったら僕も私も行って演りたいな」と俺たちが思わせないとダメなんだっていうのが、毎週俺らの、番組が終わったあとの、親睦会でのテーマだった。だからみんなに「あんまりワガママ言うなよ」とね。建だって、高中だって、お山の大将でさ。ワガママな連中ばっかりだよ。そいつらに「ワガママ言うな」「俺を含めて、どんなミュージシャン来ても、イヤな顔すんなよ」と言ったんだ。

 俺たちは確かに多少はイヤな顔をすることもあったよ。菊地的には「こいつ呼びたい」といっても、ミュージシャン的には「こいつとは演りたくない」ということがあるんだよ。そこから、よく言えばみんな大人になって「楽しくやれば楽しいんだ」というのが出演者に少しずつ浸透していって、いろんなミュージシャンが来てくれるようになった。それも俺的には狙いが的中した。

 リハーサルもテレビ局がわざわざ演奏用のスタジオをとってくれたしね。バンド側のリハーサルは毎週あった。「ちゃんとリハーサルをやろう」という姿勢もよかったし、ミュージシャンはちゃんと参加してくれてたからね。それは非常に嬉しいことだった。音楽をないがしろにしないというところがね。

 『LOVELOVE~』が終わったときは「またこういう番組やろうね」って話で終わったんじゃなくて、いきなり終わってしまった。そんな話をする余裕すらなかった。あれには政治が動いたね。間違いない。ウワサはいっぱいあった。だけど、誰ひとり真実に触れている出演者はいない。永遠の謎なんだけど……謎っていうからには政治が動いてるとしか思えない。でもある種、俺が描いたものは形になって、視聴率を含め、認知度も含め、内容も含めてできたな、という実感は持てた。

 おまけにKinKiKidって大スターが生まれたことも含めて、すごい番組になっちゃたよね。始まった当初は巷で言われてましたよ、「3ヵ月もちゃいいだろう」と。異口同音にみんなが言ってた。「吉田拓郎とKinKi? 違和感がある!」と。

 それが5年近く続くなんて誰も思ってなかった。数字なんてとれるハズないと思われてたのが、フジテレビの看板的番組になったからね。本当に不思議な展開だった。お茶の間的に言うと、親子で見れる番組だったんだな。

 俺のしゃべりの、ちょっとはにかんだ感じがよかったって、よくみんなに言われるんだけど、あれはね、はにかんでるんじやなくて、若者の話がわからなかったのさ。だって子供たちの会話って本当にわからないんだ。チンプンカンプン。それは無理もないだろ? 俺は子供が嫌いだったんだ。小僧嫌いで過ごしてきたおじさんがあそこに座って、ジャニーズが好きな女の子が観客……。

 で、KinKiが取り組んでるテーマなんて子供のものでしょう? まだ17歳のテーマだよ。それが50を迎えようとしてるおじさんと接点があるわけがない。ゲストの子だって、みんな若いしね。そりゃね、沢田研二とかがゲストに来てくれれば、こっちだって話を持っていけるけど、第1回目のゲストはなにしろ安室奈美恵だったからね。彼女は10代の若者でしょ? よくわからない。「ああ、俺はこういうことをずっと続けていくんだ」……って思った瞬間「ダメだ、降りよう」と思ったもんな。菊地くんには何度か辞表出した。「俺やれない」と。番組中は、最初弾けなかったギターをKinKiが弾けるようになっていく過程を見れた、っていうのも非常に嬉しかったよね。彼らはとても一生懸命だった。そういう姿を俺が若い連中から教わった気がする。そして、向こうから胸を開いてもらった、っていう嬉しさが、俺らオヤジ連中なんかにはあった。それがなかったらチンプンカンプンなままでいるしかなかったからね。

 そりゃあ「みんなでやめようや」って、ケツまくりそうな雰囲気だって確かにあったさ。でも、若い彼らの方から近づいてきてくれて、向こうから「ギター、どうやって弾くんですか?」とか、俺たちに飛び込んできてくれた。それで、「それは坂崎(アルフィー)に聞けよ」「それは高中に聞けよ」ってことになっていった。つまり彼らが音楽に対して、積極的に俺たちに接してきたんだよね。そういう姿がリハーサルでだんだん見られるようになっていった。

 番組の収録を撮り終えるといつもみんなで食事してたんだけど、そこでもKinKiは必ず音楽のことを俺たちに聞いてきた。すると、高中とかも嬉しそうに「僕は速弾きはあんまりうまくないんだよな~」とか言っちゃったりしてね(笑) ほほえましい雰囲気がありましたね。

 番組にジョイント感が出てきた。セッション……俺は後から気付いていったんだけど「音楽もトークもセッションだな」と思う。だからセッションを楽しむということで、音楽ショーではなく、音楽バラエティ番組と呼ばれてもしょうがないだろうな。


17歳の子供たちに教わったこと

 KinKiのふたりと一緒に番組やる前までは、俺が17~18歳の連中と接点があるわけない。初めて彼らに会って、17~18歳とはいえ、選ばれた17~18歳だからね、その辺の渋谷とかを歩いてるヤッらとは違うんだろうとは思っていたけど、それにしてもふたりが何を考えているのか、最初は全然わからなかった。

 だけど、日常的に話していれば、彼らのことがだんだんわかってくるし、興味の対象もおじさんとは違うんだ、というのがわかってきた。自分たちが持っている興味の対象を、ふたりは包み隠さず教えてくれるしね。「こんなこと面白いから、やってみなはれ」と言われたら、俺は「なんだなんだ」ってなる。毎週彼らと話すのが嬉しくてさ。ふたりも俺に教えようなんて思ってないんだけど、そういう話にいちいち俺がカルチャーショックを受けてるわけ。[へえ~なにそれ!」ってね。

 それが楽しみなんだよね。嬉しかったな、毎週楽屋でいろんなことを教わるの。日を追うごとに若者文化に詳しくなって、評論家みたいになってさ。頭の中ではハズカシさもいっぱいあったんだけどね。そうやっていくうちに、俺は若い子だちと”ツテ”ができて、その人たちとの付き合いがあって、その付き合いが続いていて、若い子たちに支えられている。若い人だちから「頑張れオヤジー!」って言われてる感じがする。

 光一や剛から「拓郎さん、いつまでもカッコよくいてください」と言われることは非常に嬉しい。頑張ろうと思うよ。俺の頑張るエネルギーになってる。たとえば俺が70年代のヒーローだったとして、それをずっと財産にしていてもしょうがない。KinKiのふたりは、昔、俺がヒーローだったことを話として聞いてるわけ。だけど実際に見たことはないわけだよね。だから本当はよくわからないわけでしよ。

 でも「拓郎さん、そこが楽しいですよね」と。昔はヒーローだったかもしれないけれども、いまこうやって付き合ってるときに、たとえば光一と剛が「いまの拓郎さんすごい素敵ですよ」という、過去はどうあれ「いまの拓郎さんが好きなんです」っていう彼らの言葉に、俺は素直に応えたい。

 彼らが俺の昔の曲を聴いたりして「拓郎さんあの曲いい曲ですね」とか言ってくれると、それはまた新しい。俺自身はどこかで心外だけど、どこかで嬉しい。それはとても俺にとってはカルチャーショックなんだよ。俺と同年代の連中から「やっぱり拓郎のあの曲はいいんだよね」と言われるのには聞き飽きたからね。

 やっぱり若い子供たちが言ってくれてるのは嬉しい。それはまあ、俺の勝手な言い分だけど、俺はそう思ってるんだ。おそらく、ほとんどの大人はそういう発想には立ち入っていけないと思うよ。俺はだから、繰り返すけど、ああいう連中と付き合えてラッキーだと思う。俺の人生は、すごくラッキーだね。

 

 

 

吉田拓郎が語る
「LOVELOVEあいしてる」
顛末記&旧友断捨離記

 

 

あとがき

 冒頭触れたように、自分は拓郎さんのファンです。しかし熱心に聴いていたのは、アルバムでいえば『元気です。』(1972年)から『明日に向かって走れ』(1976年)までで、以降はその熱量は徐々に下がっていきました。そして1980年の『アジアの片隅で』を最後にレコード店に走ることもなくなりました。

 ですが今回のラストアルバムは、CDどころか、プレーヤーもないのにアナログ盤まで手に入れてしまいました。最終回の『LOVE LOVE あいしてる』も、テレビはニュース以外録画でしか見ないのに、心持ち居住まいを正し、リアルタイムで見てしまいました。半世紀ほど前の青春期、素晴らしい数多くの傑作を聴かせてくれた感謝の念と、そして幾ばくかの寂寥感がそうさせてしまったようです。

 しかしそれにしても、テレビの映った拓郎さんはとても老けてしまっていた。ショックだ。あの二十代三十代のときとは、まるで別人です。2019年の最後のライブを浜松で観たのですが、そのときは遠目でわからなかった。間近で見た、今回スタジオで久しぶりに再会した出演者はさらに驚いたことだと思います。作詞家の阿木燿子がかつて、「何人分もの人生を生きてきた」と、吉田拓郎を評したことがあります。単なる一ファンがエラそうに言うことではありませんが、きっと積年の疲れが、ここにきて一気に押し寄せてしまった感があります。

 さて、繰りかえしになりますが、自分は『LOVE LOVEあいしてる』という番組は、開始当初から違和感しかありませんでした。カリスマだったあの吉田拓郎が、テレビを頑なに拒否していたあの吉田拓郎が、若者に媚びを売ってテレビに出させてもらっているようで、見ていられなかった。事実、出演に至った経緯はその通りだったようです。しかし拓郎さん自身が語ったように、結果としてこの番組はとても意味深いものになりました。


 アルバム『青春の詩』でデビューしたのが1970年で、『LOVE LOVE あいしてる』が始まったのが1996年です。そして今回のラスト・アルバムが2022年ということは、拓郎さんの音楽人生において、ちょうど折り返し点がKinKiKidsとの出会いだったことになります。52年にもわたる音楽人生を全うできたのも、彼らが存在してこそだったのかもしれません。
 
 一方、上の引用で拓郎さんは、人間関係の「断捨離」について語っています。断捨離とは自分が勝手に名付けただけですが、「青春時代を送った人間関係とか、友人関係、音楽関係」の人たちとの交際交流を断ったのです。何とも過激な話です。自分が聴いていた当時の音楽は、まさにその人たちの協力・関係性から成り立ったろうに、そう思うと複雑な思いがします。拓郎さんの自由気ままさの極地のようにも感じます。

 人間関係といえば、今回の放送では、ケンカ別れしたという、泉谷しげるがビデオ出演していました。また拓郎さんは井上陽水のことをディスっていました。他方、ラジオの「オールナイトニッポンゴールド」では、小田和正とは今でも仲がよく、ふたりで人の悪口を言うのが楽しいと語っています。これらミュージシャンとの交流を、かつて間近で見てきた人たちの証言がネット記事(週刊女性)に載っています。本稿と関連していておもしろい記事です。勝手ながらそのリンクを紹介させていただきます。

 

お読みいただきありがとうございました。

週刊女性2022年7月26日・8月2日号