岡本おさみと吉田拓郎 2 旅の宿・花嫁になる君に 創作エピソード&上弦の月の夜を推理する | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 9月に入ると、まもなく中秋の名月です。今年は10日だそうです。満月ではありませんが、今日のお題である吉田拓郎の『旅の宿』でも月が歌われています。「上弦の月だっけ ひさしぶりだね 月見るなんて~」。お月見なんて風情はもちあわせていませんが、たまには夜空を見上げてみたくなります。

 この歌が発売されたのは1972年。ちょうど50年前になります。吉田拓郎が作曲し岡本おさみが作詞しました。今年は岡本の著書『旅に唄あり』の復刻版が出版され、元の本にはなかったインタビューが載っています。ここで語られている、拓郎とコンビを組むことになったいきさつや、最初の曲『花嫁になる君に』や『旅の宿』の創作エピソードが自分にはとても興味深かった。以下の一文は、この本と他の資料を加え構成したものです。

 自分は高校生のとき、『結婚しようよ』で拓郎ファンになったのですが、次作『旅の宿』は居酒屋風の歌のようで違和感の方が強かった。同世代であり、同じ拓郎ファンだったコラムニスト泉麻人氏も、一杯飲み屋の有線放送で流れる歌のようだと自著で書いています。

 

 それから半世紀、泉氏も自分も高齢者の仲間入りし、『旅の宿』は少なくとも自分には心にしみる歌となりました。拙文はそんな感慨もあって書いたものです。例によって相当マニアックな内容ですが、古くからの拓郎ファンのお目にとまれば幸いです。



引用および参考資料
『旅に唄あり 復刻新版』岡本おさみ著
『吉田拓郎・大いなる人』八曜社

 

 

 

 

『ハイライト』 『花嫁になる君に』


 『花嫁になる君に』

収録アルバム 『人間なんて』

 

 

 岡本おさみ作詞・吉田拓郎作曲作品である『花嫁になる君に』は、1971年11月、アルバム『人間なんて』に収録され、ふたりの作詞作曲の歌として初めて世に出た。『ハイライト』も同時期の作品であり、同年8月中旬の東京渋谷ジャンジャンでの3日間ライブで披露された。

 岡本は放送作家だった。主にラジオの構成台本を書いていた。アメリカでフォークソングが盛んになり、その影響で日本でもギターで自作の歌を歌う学生が増えていた。66年、ニッポン放送が「フォーク・ビレッジ」という番組を始めることになった。午後11時から20分間、月曜~金曜日までの帯番組で、アマチュアがつくった歌を収録して放送する。その構成をスタートから一人で担った。

 71年10月、フォーク・ビレッジの4代目のDJとして拓郎が就くことになった。これが岡本と拓郎との出会いとなった。岡本が拓郎に詞を提供するようになったのは、依頼があったからではない。作詞を仕事にする気持ちはなく、放送の仕事を続けると思っていた。二人はラジオ番組での、放送作家とDJの関係であったにすぎない。

 契機となったのは、渋谷ジャンジャンだった。この小劇場はアンダーグラウンドな作品を生みだす拠点で、実験的なプログラムが次々と上演され、刺激を求めて岡本はよく顔を出していた。その経営者との雑談から、吉田拓郎のライブをやってみないか、という話になった。

 渋谷ジャンジャンでの吉田拓郎ライブといえば、初期の拓郎ファンならご存じだと思う。71年8月7日~9日の3日連続でおこなわれた。その音源を二枚組LPとしてエレック・レコードが拓郎の許可を得ずに発売したという、曰く因縁あるライブである。しかし当時のファンはこのライブ盤のおかげで、ブレイクする前の彼の隠れた名曲に接することができた。

 自分もいまも愛聴している。『準ちゃんが吉田拓郎に与えた偉大なる影響』、『静』、『来てみた』、『ゆうべの夢』など、よくぞエレックは世に出してくれたと、聴く度に思う。だから今回、実は岡本がジャンジャン・ライブを生みだしたことを知り、とても驚いた。自分は彼の詞が好きだ。それのみならず、ライブ盤も岡本あってこそだったのだ。

 さて、このライブは7月に始まり、毎月継続しておこなうことになっていた。ところが拓郎人気に火がついて、切符が即売状態となり、手に入らない人が路上にあふれて整理が不可能になった。それで8月の3回連続公演で、以降は打ち切りになった。ジャンジャンの客席は100席ほどで、第1回から立ち見ありのぎっしり満員だった。最前席の客は、見上げると1メートルほど先に拓郎の顔があった。すばらしい熱気だったという。

 にも関わらず、当日の岡本は複雑な気分だった。ライブは日を決めると、企画者はもうやることがない。音響や照明は劇場に備え付けられていて、運ぶ必要がない。歌う曲目や順番は拓郎がその日の気分で決める。喋りの内容も彼のアドリブだ。つまり、岡本の役目は1回目で終わったようなものだった。しかし、一応責任があるので劇場に足をはこばなければならない。拓郎の歌を聴くのが楽しみだったので、イヤなことはなかったが、しかしやることがなにもない。

 そこで思った。歌詞を書いてみようと思った。拓郎が歌ってくれるかもしれない。なぜそんなふうに思ったか。岡本は当時を回想しても正確な気持ちを思い出せない。ただむしょうに「書きたかった」のかもしれない。まわりに日本語の歌が沢山生まれ、刺激を受けていた。誰もが自らのことばで書きたかった。そういう時代だったのかもしれない。

 当時洋楽の歌が洪水のようにあふれ始め、岡本も聴いたり、歌詞を読んだりしていたが、書く歌詞はそういう影響を避けたかった。放送をやっていて、耳で聴いてわかることばのトレーニングをしていたので、歌詞も、耳で聴いてわかることばで書いてみようと思った。

 一ヶ月ほどで、ノート一冊分の歌詞を書いた。そしてライブが終わったジャンジャンの楽屋で、ノートごと拓郎に渡した。「気に入ったら使って」と言ったが、はたして拓郎はメロディーをつけて歌うだろうか。試験の答案用紙を提出したような気分だった。

 岡本の記憶では、ノートを渡した次のライブで二篇の詞、『ハイライト』と『花嫁になる君に』を歌った。「メロディーをつけたよ、歌うよ」。そんなことは言わなかった。楽屋で会っていても素振りさえも見せないで、突然自分の詞を歌い出したことに岡本は驚いた。

 しかし実は、『ハイライト』は気に入らなかった。客が笑った。この歌詞はさらっとしたユーモアで書いたつもりだった。ところが客が大声を出して笑ってる。拓郎は高田渡風のブルース進行で、茶化して歌っていた。「そういうふうに歌われたんじゃかなわない、そういう詞ではない。おまえの解釈はちがっている」と文句を言った。

 だが一方では、『花嫁になる君に』は素晴らしかった。岡本の耳に、あのメロディーとあの歌い方でことばがストレートに飛び込んできた。心が一気に熱くなった。感動した。歌の詞というのは、こうやって大胆に動くという驚きがあった。拓郎はこの歌をアルバム『人間なんて』に収め、作詞家岡本おさみのデビュー作となった。

 

 ちなみに、この歌の当初タイトルは『花嫁になるルミに』だった。岡本はノートに書いた一連の詞のいくつかに、女性の名として「ルミ」を使っていた。同曲もそのひとつだった。拓郎はそれを変えて歌った。


 こうして岡本おさみ・吉田拓郎の、作詞家作曲家としての関係がはじまった。岡本が新たに詞を提供し作品となったのは、その名を世に知らしめることになる大ヒット曲、『旅の宿』であった。

 

 

 

 

 『 旅の宿 』

 

 

 

蔦温泉

 『旅の宿』が発売されたのは72年の6月だった。岡本おさみは、その数年前、青森県蔦温泉に新婚旅行に行った際の、宿の思い出から曲想を得た。

 以下の、蔦温泉での夫婦の描写は、『旅に唄あり』の復刻版で岡本が記したものを元にしている。岡本自身の一人称で書かれたものを三人称に改めたが、情緒的な雰囲気はそのままにしている。

 蔦温泉はいわゆる温泉町の名称ではなく、一軒だけある宿の名前である。現在はリニューアルされたが、その頃は木造の古い建物だけの、ブナ林につつまれたひっそりした宿だった。妻は自然が好きで、大学時代には東北の山にも重い荷物を担いで登ったりしていた。岡本も東北の秋を旅したかった。山でもよかったが、それはいつでも行ける。軽装で気軽に出かけたかった。旅行関係の会社に勤めている盛岡の友人に相談するとスケジュールを組んでくれた。蔦温泉は岡本が選んだ宿ではなかった。

 蔦温泉は十和田湖の騒がしさから、身を隠すような一軒だけの温泉宿だった。すこし割高だったが、新婚としてぜいたくをした。部屋に通されると火鉢しかなかった。十月末でふるえた。窓をあけても陽の光が樹にさえぎられてとどかない。年配の物腰のやわらかい女中に尋ねると、部屋の電灯は電力不足で夜までつけないのだと言われた。火鉢の炭火に向かいあって両手を温めたが身震いがとまらない。まだ夕方だったが蒲団を敷いてもらった。長風呂を浴びて、ふたりで蒲団にはいり、岡本は酒を飲み、妻は浴衣の襟を合わせ、躯をよせていた。

 「あ、月よ」。窓の樹のあいだの枝にひっかかるようにして月が光っていた。岡本がほおづえをつくと、彼女もほおづえをついた。四つの肘をならべながら月を見ていた。月は半円で、寒い光だった。中学校時代の理科の天文の教科書をおもいだしながら、岡本は、あれは上弦だったか下弦だったかなと思っていた。

 妻は中学校時代からひまがあると星を見るのがいちばんの楽しみだった。家の外にゴザを持ちだし、仰向けにねっころがって流星をかぞえながら、流れてゆく位置を、白い宇宙の地図に赤鉛筆で書いていた。だから結婚したときに彼女の荷のなかに「天文ガイド」という雑誌と、沢山の星に関する本、そして天体望遠鏡がはいっていて、彼女のそういう楽しみを知らない岡本は驚いたものだった。

 岡本はずっと後になり、蔦涓泉での夜をおもいだし、『旅の宿』の詞を書いた。レコードになると、それを聴いた彼女が、「上弦の月だって、わかったのね。月のことだってわかるじゃない」と言った。「いや上弦の月だったっけ? ってわからないまま書いたんだ」と応えると、「下弦じゃなくてよかったわ」。「下弦じゃことばの響きもよくないからさ」。「あのね、あの季節のあの時刻には、下弦の月ってでないのよ」。

 

 以上が、岡本が記すところの蔦温泉の体験である。しかし、巷間伝えられている『旅の宿』創作エピソードでは、妻は宿の部屋で「上弦の月よ」と教えたことになっている。実際、歌からもそのような会話が想起されるが、歌詞は脚色されたのであって、エピソードもそれに沿った形で流布されているように思える。



詞作

 岡本が大学を卒業して初めて書いた放送台本が、ニッポン放送の「暮らしの歳時記」だった。朝の7時から15分間の帯番組(月~金)だった。働く人たちの一日の仕事が始まる前に、明るい歳時記風の話題を提供する。

 番組が放送された1年間ほどは、資料を集め図書館にこもって調べ物をした。古い俳句や短歌や川柳もかなり読んだ。すべて仕事のためだったが、たまに「読み人知らず」として俳句らしきものをひねって、台本に入れたこともあった。「暮らしの歳時記」をやった経験が『旅の宿』に影響した。

 『旅の宿』では、難しい漢字が使われている。「ゆかた」は「浴衣」、「すすき」は「尾花」、「かんざし」は「簪」、「あつかん」は「熱燗」、「とっくり」は「徳利」などだ。ひらがなやカタカナで書くと、日本語の味わいや小道具の形、風景が見えてこなくて味気ないと思った。そこで、久しぶりに歳時記や辞書をひらいて、漢字選びをしてみた。

 当時岡本は、洋楽ばかり聴く日々を送っていた。放送局の仕事をしていると、新作もいち早く聴けるなど音楽情報が豊富だった。だが拓郎への提供詞として、蔦温泉への旅を思いだすと、秋の風景と空気を身体が覚えていた。高校を卒業するまで山陰に居た当時の感覚が自然と戻ってきた。

 岡本がこの詞を拓郎に伝えたのは、電話でだった。拓郎はこう回想している。「『旅の宿』の詩を電話でさ、いい詩があるから書きとめてくれって言われて受けとった時はね、とにかく最初の”ゆかたの君は、尾花(ススキ)のかんざし”」というところだけで、いや~、これはすごいんじゃないかって体にブルッときたもん」。



レコーディング

 『旅の宿』のレコーディングは、ソニーのスタジオでおこなわれた。この歌はアルバム盤用とシングル盤用の2パターンある。岡本が立ち会ったシングル盤のレコーディングはユニークだった。ドラムの音がのんびりとした雰囲気とはほど遠く、うるさく聴こえた。そこで拓郎やアレンジ担当の石川鷹彦らがさまざまなものの音を試し工夫を凝らす。その様子を岡本は、半ば心配げに見つめていた。

 みなの意見が一致したのが、ダンボールの音だった。ダンボールの箱の中に薄く毛布を入れてスティックで叩くと、のどかな音がした。『旅の宿』シングル・バージョンの音色のひとつはダンボールの音である。拓郎はこの瞬間、『旅の宿』は売れると確信した。岡本はミュージシャンというのは尊敬に値する人々だと思った。そして自分の領域じゃないとも思った。


大ヒット

 『旅の宿』が最初にこの世に出たのは、コンサートでだった。当時拓郎は、歌が出来るとレコーディング前にステージで歌い始めていた。お金を払ってライブに足を運んでくれた客が一番先に新曲を聴くことができた。すると反応がすこぶる良かった。岡本にとっては、思いもかけないことだった。自分の歌に観客が反応してくれている。

 次が深夜放送だった。弾き語りだが、フォーク・ビレッジの番組収録用か、あるいは別番組の公開録音か、その何れかが放送で流れた。すると局にリクエストが殺到した。まだレコーディングもしていない。新曲のキャンペーンでもない。なのにリクエストが殺到していると、岡本は放送局のスタッフから教えられた。それほど反響があるのならと、当初は新しいアルバムの一曲でしかなかったが、シングル盤として発売されることになった。

 前作『結婚しようよ』はオリコンシングルチャート3位を記録していたが、『旅の宿』は、拓郎のシングルとしては唯一オリコンチャート1位になった。吉田拓郎のみならず、岡本おさみの名を世に知らしめる、最初の歌となった。

 

 

岡本おさみと吉田拓郎 2
旅の宿 ・ 花嫁になる君に 
知られざる創作エピソード

 

 

あとがき

 それにしても、岡本おさみの奥さんという人は、今で言う、リケジョにあたるのでしょうか。相当な天文学の知識を有する方のようです。ですが、岡本は月の形状について妻に尋ねることなく『旅の宿』を書いた。あやふやな知識のまま上弦の月ということばを使ったのです。もし響きがよいと感じたなら、下弦の月としたかもしれません。

 詞というのはフィクションですから、実際見た月でなくても構わないのですが、下弦の月は、満月が次第に欠けゆく過程の月です。カップルが見る月としてはふさわしくありません。岡本がもし下弦の月としていたら、レコード化されたあと妻は愕然としたかもしれない。そして『旅の宿』は天文知識を欠いた、恋愛の歌としてふさわしくない歌と評されたかもしれません。当時の吉田拓郎の人気は、そんな些細なことは吹き飛ばす勢いでしたから影響はなかったでしょうが、ケチがついた可能性はあります。名作『旅の宿』は、偶然生まれたと言えるのかもしれません。

 かように上弦の月は、この歌のキーワードになっています。自分は、この月の夜はいつであったのか、知たいと思いました。岡本おさみ夫婦の新婚旅行の、何年何月何日の夜だったか、をです。以下の通り、その特定を試みてました。

 お気づきになられたでしょうか。上の引用文で岡本は、蔦温泉の宿で「十月末でふるえた」と書いています。この10月は何年のか、そして10月の何日であったのか。その情報をネットに求めることにしました。

 すると、あっさり見つかりました。年が書かれているサイトが見つかったのです。ただしその年は二つあり、食い違っていました。ひとつはBS朝日のサイトであり、もうひとつは個人の方と思しきサイトです。前者には、岡本が蔦温泉を訪れたのは「1968年」とあり、後者には、「1969年」と書かれていたのです。

 実はこの二つのサイトは、新聞の記事を元にしてつくられていました。朝日新聞土曜別刷り「うたの旅人」から引用されていました。食い違っている理由は、転記の際の単純ミスだと思われます。どちらが誤っているのか。それはBS朝日サイトだと思われます。両サイト共、当時の岡本の年齢なども記されていて、蔦温泉の年との整合性がチェックできるのです。結果、BS朝日の「1968年」が誤りであると結論できます。

 つまり原本である朝日新聞が『旅の宿』を特集し、岡本夫婦が蔦温泉に宿泊したのは1969年としているはずです。よって、1969年10月の何日かを特定すればいいわけです。

 そこで「月齢カレンダー」のサイトを開きました。1969年10月の上弦の月の日はいつなのか検索するためです。すると18日と表示されました。しかしこれでは都合が悪い。岡本が記した「十月末」ではないからです。

 それでも一応18日の青森県の天気を「過去の天気」サイトで調べました。夜間ではなく午後3時の天候しか表示されないものの、この日は晴になっていた。岡本は10月中旬を10月末だと勘違いしたのでしょうか。

 こうなると、BS朝日サイトの1968年が気になってしまいます。この年ではないと知りつつ(あるいは万が一BS朝日の方が正しいとして)、1968年10月の上弦の月の日を探すことにします。

 すると、28日だという。「十月末」に近い。 しかし天気は残念、 雨でした。ですが、より月末に近い翌日、29日は晴となっていました。岡本の「十月末」を信ずるならば、上弦の月の翌日ではあるものの、1968年10月29日が『旅の宿』で歌われた夜だった可能性が出てきました。

 しかしそもそも、このようなことを調べる意味はどこにあるのかと、いぶかる方もおられるかと思います。実は、ロック・バンド、はっぴいえんどの名曲『12月の雨の日』は、実際にあった雨の日を松本隆が詞にしました。ファンでしょうか、その年月日を特定した人がいて、松本は驚いたという。自分もそのひそみにならって、『旅の宿』の夜を特定しようとガンバってみたということです。

 というわけで、ここまでやったのですから一応整理してみますと、岡本の「十月末」を信ずるならば、1968年10月29日ということになり、あるいは「十月中旬」の勘違いであれば、1969年10月18日が上弦の月の夜だったことになります。自分としては岡本の記憶「十月末」を信じたいところですが、しかしこれだと弦が膨らんでいる、上弦の月ではないことになってしまう・・・・・・

 お読みいただき、ありがとうございました。