『上を向いて歩こう』を奏でたボブ・ディラン 86年公演を回想する 倉本一宏・坪内祐三・北中正和 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

 ボブ・ディランが4月に来日します。4年にも及ぶ世界ツアーの一環で、80歳をこえているというのに、日本でも2週の間に大阪・東京・名古屋で11もの公演をおこなうという。すごいバイタリティです。

 自分がこの名を知ったのは、吉田拓郎からでした。半世紀も前のこと、拓郎さんは自身に大きな影響を与えたディランを歌詞に取り入れていて、友人との訣別を歌った『親切』でのフレーズ、「あゝ きょうもまたボブ・ディランの話かい、やだね」に何故かシビれたものです。この歌で、ディランの存在を知った拓郎ファンも多いはずです。


 今回の来日記事を目にしたとき思い浮かんだのは、エッセイ「ボブ・ディランのスキヤキ」(文藝春秋2017年12月号)です。寄稿したのは歴史学者の倉本一宏氏で、ディランが86年の武道館公演において、前年に亡くなった坂本九さんの『上を向いて歩こう』(スキヤキ=アメリカ発売タイトル)を演奏したと綴っています。この歌が大好きな自分は、あのディランが演奏していたことを今さらながら知り、驚きました。

 

 武道館の観客の一人であった倉本氏は、ディランのみならず、『旅の宿』の舞台である青森の蔦温泉を訪れるなど、自称拓郎マニアでもあります。世のディランおよび拓郎ファンに読んでいただきたく、下にこの一文を引用させてもらいました。

 

 倉本氏の文をきっかけに、他にもこの公演を記したものがないかと探したところ、三冊の本にめぐり会うことができました。これらも貴重な資料として、引用させていただきます。


 まずはそのものズバリ、『上を向いて歩こう』(佐藤剛著)です。同曲について詳述した力作で、その一節に、忌野清志郎さんが自身のコンサートで『上を向いて歩こう』を歌い継いでいたこと、さらに他書からの引用としてディランの公演話も語られていて、これらの部分を引かせていただきました。

 

 そして次に、佐藤氏が引用した『靖国』(坪内祐三著)も紹介させてもらいます。タイトルの通り靖国神社に関するもので、公演の記述も、武道館あるいは靖国神社という、日本という国のシンボリックな存在にからめられていて難解です。とはいえ、氏が『スキヤキ』に感銘を受けたことは十分に伝わってきます。エピローグとして記していることからもそれはあきらかで、当然佐藤氏の引用と一部重なりますが、貴重なこの一文も引かせていただきました。


 また今回の来日に合わせてでしょうか、つい先日、北中正和著『ボブ・ディラン』が発刊され、ここにも86年公演が記されています。北中氏は音楽評論家として公演直後のディランに会い、『スキヤキ』について問い、含蓄あることばをみごと引き出しています。北中氏は本文の最後にこの一文を配し、坪内氏と同様、「スキヤキ体験」を特別なものとして読者に伝えたい意図を感じます。

 

 

 

 

 


2017年12月号

 

 

ボブ・ディランの「スキヤキ」
倉本一宏
国際日本文化研究センター教授


 あれはそう、もう四十年も前のこと。1978年というのは、私が何とか大学に入った年になる。その大学入学の前々月、ボブ・ディランが初めて来日した。「ボブ・ディランにあったら、よろしくと。」という大きなポスターがあらゆる駅に何枚も貼られていた。

 この頃、私は大きな悩みに苦しんでいた。ディランの武道館コンサートの日は、ちょうど入試の日にあたっていて、コンサートに行くか、入試を受けるコンサートに行くか、真剣に悩んでいたのである。もうディランは日本には来てくれないと言われていたので、この機会を逃すと、一生ディランを見ることはできないと思っていた。

 結局は、私は入試の方を選び、大学ではフォークソング研究会に入って、ディランの詞を訳したり、学園祭で歌ったりしていた。今でもその時のライブ盤 “Bob Dylan At Budokan” の最初の曲  “Mr.Tambourine  Man”(「ミスター・タンブリン・マン」)のイントロのギターを聞く度に、当時のことが思い出されて、ほろ苦い感慨に耽っている。

 ところが、それから十年近く経って、ディランは1986年に、トム・バティ&ザ・ハートブレイカーズをバックバンドとして、二度目の来日をしてくれた。もちろん、私は武道館に見に行った。その時のツアーは、78年のソフトな演奏とは異なり(それはそれで好きだが)、アメリカン・ロックの凝縮された濃密なもので、まことに感動した。

 武道館のコンサートでは、終わりに近付いた頃、ディランはかなり長いMCの後(その頃は私も英語力が退化していて、何を言っているのかわからなかった)、いきなりギター演奏を始めたのである。やがてその曲が坂本九の「上を向いて歩こう」であることがわかると、満員の観客は皆、歌いながら泣いた。ちょうど前年8月の日航機「事故」で坂本九さんが亡くなっていたからだ。

 「上を向いて歩こう」がつくられたのは、1961年7月であったが、62年にはヨーロッパで発売され、イギリスでは「スキヤキ」、ベルギーやオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」と改題された。アメリカでは63年に「スキヤキ」として発売され、6月15日付ビルボードのランキングで1位を獲得する大ヒットとなった。

 ディランの方は、この1963年5月にセカンド・アルバム(実質的にはデビューアルバム)“The Freewheelin’ Bob Dylan” をリリースし、7月にはピーター・ポール&マリーがカバーした “Blowin the Wind”(「風に吹かれて」)がビルボード2位のヒットを記録した。つまりその年はディランが「フォークの貴公子」としての地位を獲得した記念すべき年なのであった。「スキヤキ」と「風に吹かれて」がビルボードのトップを争っていたとは興味深い事実であるが、ディランにとっても「スキヤキ」は思い出深い曲だったのではないだろうか。

 なお、1986年の武道館の思い出は、私にとって一生忘れ得ないものとなったが、それから何年も経って、そのツアーの海賊版CDを見付けることができた。ドイツで制作された ” Positively Fareast” というもので、大阪城ホールの3月6日の演奏を収録したものである。Disc2の11曲目が ” Sukiyaki " となっている。このツアーでは、日本ではどこでも演奏していたのであろう。

 今回、日文研の同僚のジョン・ブリーンさんにこのCDのMCを解読してもらったところ、「我々は、これからこの歌を演奏しようとしている。1950年代の後半、この歌はたくさんラジオで流れていた。私はその時、それが我々にたくさんのことを意味していたことを知っている。私はとても歌詞を理解できなかった。しかし、私はこの歌がチャートのトップレコードになったと覚えている。決してそれを忘れていない。歌詞のなかのどれも記憶することができない。我々はとにかく、メロディーを演奏しようと思う」と言っているとのことであった(訳は私が行なった)。

 年代を間違えているのはご愛敬で、ディランはビルボードのトップを争っていたことは覚えていないようである。ディランと一緒にギターを弾いていたトム・ベティも、先日、亡くなってしまった。謹んでご冥福をお祈りする。

 

 

 

 

 

佐藤剛著(2011年)

 

 

忌野清志郎に歌い継がれた歌

 「ロックンロールというのは、要するに白人ティーンエイジャーのために書かれ、演奏されたリズム&ブルースのことだ」と言ったのは、1950年代から現在まで、常に第一線で活躍してきたブルース界の巨人B・B・キングである。そのR&Bを自らの原点にして、オリジナルの日本語のロックを創造した忌野清志郎は、RCサクセションのヴォーカリストとして、あるいはソロシンガーとして、機会あるごとに「上を向いて歩こう」を歌ってきた。


 坂本九がまだ活躍中だった時期の1979年から、自身が2009年に亡くなるまでの三十年間、忌野清志郎は♪一人ぽっちの夜と歌い続けてきた。この歌にリアルタイムで出会えなかった次世代に向かって、忌野清志郎は布教するかのごとくに歌い広めてきたのであった。


 ライブが最高潮に盛り上がったところ、終盤もしくはアンコールの場面で、忌野清志郎はリズム隊が叩き出すロック・ビートのイントロにのせて、その時ひと声、「日本の有名なロックンロールロール! ワン、トウー、ワン、トウー、サン、シー、」と叫んでから歌った。


 現在の二十代から四十代までの音楽ファンの大多数は、まず初めに忌野清志郎の「上を向いて歩こう」を聴き、それからオリジナルの坂本九の歌に出会うという体験をしているといっても過言ではない。最近のロック系イベントのアンコールでは、出演者全員が顔を揃えてセッションする際に、「上を向いて歩こう」が定番の曲として歌われるまでになっている。これは忌野清志郎が成し遂げた、大きな功績である。


 日本が生んだ忌野清志郎に歌い継がれてきた一方で、「上を向いて歩こう」はフォーク・ロックの巨人、世界のボブ・ディランにもそっと歌い継がれていた。評論家の坪内祐三は、その貴重なライブに居合わせた体験を、日本人の精神性を発見する痛快な評論『靖国』のエピローグで書いている。

 


 1986年3月9日、私は、ボブ・ディランの二度目の来日公演を見るために、日本武道館にいた。コンサートは大詰めを迎えていた。


 その日のディランは、とても機嫌良く、普段ステージの上で寡黙な彼が、珍しく饒舌だった。機嫌が良かったからなのか彼は、その頃コンサートであまり披露しなくなっていた彼の定番「風に吹かれて」をアンコール最初の曲として日本の聴衆の前で演奏し、盛り上り、歌い終わると、こんなことを語り始めた。
 

 次の曲を、去年の暮に飛行機事故で亡くなったリッキー・ネルソンに捧げます。その死に方は、とてもロックンローラーらしい死に方だった……。


 そして、ディランは、「ウラニウムロック」と題する曲を演奏した。〈略〉「ウラニウムロック」に続いてディランが演奏した曲は、さらに衝撃的だった。日本の皆さんのために、と言って、彼は、「スキヤキ」を、つまり、坂本九の「上を向いて歩こう」の英語バージョンを、歌ったのである。  (坪内祐三『靖国』新潮社)
 

 

 ロカビリーの全盛期にハイスクール時代を過ごしたボブ・ディランは、エルヴィスにあこがれてバンドを組み、演奏活動を始めた体験を持っていた。同じくエルヴィスにあこがれだ坂本九は高校二年の夏に、早くも日劇ウェスタンカーニバルの初舞台を踏んでいた。二人とも同じ1941年生まれである。


 エルヴィス・プレスリーとロックンロールに天啓を受けた少年たちが、海を越えて、同時代性を共有していたことがよくわかる話ではないか。このようにしてロックンロールは、世界中の少年少女たちに継承されていったのである。

 

 

 

 


坪内祐三著(2001年)

 

 

エピローグ
「SUKIYAKI」と「YASUKUNI」


 戦後日本の近代化はすなわちアメリカ化とイコールだった。アメリカ化の中で柳田國男が心配したように、日本の小さな神様たちは殆ど消えてしまった。そうだろうか。柳田の思う小さな神様は正力松太郎が日本武道館で守ろうとしたものに重なるのだろうか。

 1986年3月9日、私は、ボブ・ディランの二度目の来日公演を見るために、日本武道館にいた。コンサートは大詰めを迎えていた。その日のディランは、とても機嫌良く、普段ステージの上で寡黙な彼が、珍しく饒舌だった。機嫌が良かったからなのか彼は、その頃コンサートであまり披露しなくなっていた彼の定番「風に吹かれて」をアンコール最初の曲として日本の聴衆の前で演奏し、盛り上り、歌い終わると、こんなことを語り始めた。

 次の曲を、去年の暮に飛行機事故で亡くなったリッキー・ネルソンに捧げます。その死に方は、とてもロックンローラーらしい死に方だった……。そして、ディランは、「ウラニウムロック」と題する曲を演奏した。私は、ジョン・ウェイン主演の西部劇『リオ・ブラボー』などに出演していたアイドル俳優としてのリッキー・ネルソンは知っていても、歌手としての彼について知る所は少なかったから、その時初めて耳にした「ウラニウムロック」なる曲が、彼の曲であるのか、誰か他人の曲であるのかも、わからなかった。つまり、ディランが、なぜ、わざわざその曲を取り上げたのかが。

 ディラン特有のしわがれ声で歌われた「ウラニウムロック」の歌詞は、私のヒアリング能力では、まったく聴き取れなかった。にもかかわらず、私は、不思議な高揚感の中で、その演奏を聴いていた。高揚と言うと、大げさかもしれない。むしろ、動揺、と言うか、心の反応。気持ちの揺れ、の中で。ただの時代遅れのホップアイドルの飛行機事故死を、ロックンロ-ラーらしい死に方だと語り、追悼するボブ・ディラン。その姿に私は、ある実質を感じた。アメリカという国に宿る、ある実質を。いや、アメリカという国に宿る、ではない。アメリカ的世界の中で立ち上って来る、ある実質。ポップという名の、一瞬の、ある実質。を、私は体感した。しかも、それが、日本武道館という場所であったのだから。消え行く日本の小さな神様を懐しむ私は、また、外国産のポップという神を信奉する者でもある。

 「ウラニウムロック」に続いてディランが演奏した曲は、さらに衝撃的だった。日本の皆さんのために、と言って、彼は、「スキヤキ」を、つまり、坂本九の「上を向いて歩こう」の英語バージョンを、歌ったのである。坂本九も、また、前年の夏、飛行機事故でこの世を去っていたことなど、まったく知らずに。

 明治の文明開化と共に一般庶民たちが初めて囗にした牛肉料理「スキヤキ」には、ハイカラ、つまりモダニズムの香りがたちこめていた。その一方で、欧米人たちは、「スキヤキ」に、オリエンタリズム、日本的な物を感じ取る。柳田國男は、民俗学者の橋浦泰雄らとの対談「民間伝承について」で、「よく西洋を歩いていると、日本に一ペン(引用注:一遍?)きたことがあるというような人から、日本の料理としてはすき焼きが実に優美な習慣だ、なんて言われると、私らくすぐったくなる」と語っている。「スキヤキ」は西洋であり日本であり、そのどちらでもあり、どちらでもない。しかし、存在としての「スキヤキ」は確かにある。たかだか近代日本百三十年の伝統の中で築き上げられた、その実質が。

 坂本九の「スキヤキ」が全米ヒットチャートのN01に駆け上った1963年、つまり、日本のテレビ(言うまでもなく、それは、日本にアメリカ的生活感を植えつけた最大のメディアだ)の普及に一番貢献した力道山がヤクザの刃物で殺され、テキサス州ダラスを訪問したジョン・F・ケネディの勇姿が日本でも同時生中継されるはずだったその年、日本のアメリカ化、すなわちアメリカニズムの浸透は、かなりのレベルで行き渡っていた。けれど、日本的なものも、まだ、根強く残っていた。例えばロックミュージックの中に宿るポップという神は、まだそれほど日本に伝播していなかった。

 三年後、ビートルズが来日し、日本武道館で公演を行なう。いわゆるロックらしいロックが日本に登場するのは、それ以後のことである。何かを表現するものとしてのロックは。戦後に生まれ育った自分たちのリアリティーつまり実質感を表現するものとしてのロックは。

 ボブ・ディランの演奏する「スキヤキ」を耳にしながら、私は、突然、坂本九こそは、日本の最も先駆的なロックンローラーであったと体感した。それはとても奇妙な感じだった。私はそれまで坂本九という人物に特別の思い入れはなかった。「上を向いて歩こう」(「スキヤキ」)という曲に対してだって、ただ単に良い曲だなと思う以上の感想は抱いていなかった。

 だが、日本武道館でボブ・ディランが演奏したその「スキヤキ」は、そして、リッキー・ネルソンと重ねて、飛行機事故で亡くなったロックンローラー坂本九への連想は、私の中の何かを刺激した。リアルなものに対して、時に、自分で気がつかない内に反応してしまう、私の中の何かを(たとえ、そのリアルが「スキヤキ」的リアルにすぎなかったとしても)。

 「プロローグ」で述べたように、靖国神社の招魂斎庭(引用注:神霊を本殿に奉祀するに先立って予め御霊を招き奉る斎場)が駐車場へと変わったのは、そのコンサートの前の年、1985年のクリスマスのことである。つまり、「ヤスクニ」神社の招魂斎庭がアスファルトで固められ駐車場となった三ヵ月後、「ヤスクニ」神社と向かい合う日本武道館でボブ・ディランの二度目の来日公演が行なわれ、そのアンコールで演奏された「スキヤキ」に、私は、静かな、しかし強い衝撃を受けた。その衝撃は、はたして、のちに、招魂斎庭跡の立て札を目にした時のそれに、重なるものだろうか。「スキヤキ」と「ヤスクニ」さらに言えば「SUKIYAKI」と「YASUKUNI」はいつまでも私の頭の中で混乱している。

 

 

 

 

 

北中正和著(2023年)

 

 

『上を向いて歩こう』のハミング

 ボブ・ディランがトム・ペティのバンドと86年に来日したとき、短時間ですが、取材に同席する機会がありました。インタヴュアーは篠崎弘さんだったので、ぼくはその場をほぐすための露払いとして、彼がコンサートでリッキー・ネルソンの『ロンサム・夕ウン』をうたった理由をたずねました。尊敬しているからという返事しか戻ってこなかったのですが、その3か月前の85年12月に飛行機事故で亡くなったリッキーを追悼して演奏したことはまちがいないでしょう。

 後に『ボブ・ディラン自伝』を読んでなるほどと思いました。60年代初頭のニューヨークの思い出の中で、彼はリッキーのために異例の2ページも割いて、当時ティーン・アイドルとして人気者だった彼と無名の自分は対極の世界にいたのに、彼の歌声が感じさせる孤独に自分と共通するものを感じたと書いていたからです。

 コンサートでのもうひとつの驚きは、「上を向いて歩こう」を演奏したことでした。取り上げた理由を質問しても、好きだから、という言葉でかわされましたが、しばらく評論家のたわごとにまつわる話をした後、彼は「たとえばこの曲のように」と、「上を向いて歩こう」の冒頭部をハミングしてから、一呼吸おいてこう続けました。「評論家は一度聞いてすぐに判断しようとするが、歌が残るかどうかは20年、30年経ってみないとわからない」

 そのときは彼にしてはひねりのない言葉だと思って、聞き流してしまいましたが、月日の流れは早いもので、それから30余年。いま思い返すと、おっしゃるとおり、という他ありません。

 

 

 

『上を向いて歩こう』を奏でた

ボブ・ディラン


 

 

 

あとがき

 

 以下は、ボブ・ディランの『スキヤキ』について、上の引用文から勝手な推測をおこない、強引な、とある結論に至ったものです。あらかじめお断りしておきます。

 

 倉本一宏氏によると、ボブ・ディランが『スキヤキ』を演奏したとき、「満員の観客は皆、歌いながら泣いた」とあります。いい話です。ですが、坪内祐三氏の本には、「坂本九も、また、前年の夏、飛行機事故でこの世を去っていたことなど、まったく知らずに」とあります。てっきりディランは九ちゃんを追悼してくれたと思ったのに、そのような気持ちはなかったことになります。

 

 坪内氏はこの情報をどこから得たのでしょう。特別な情報源をお持ちだったのか、あるいは公になった話なのでしょうか。いずれにせよ、氏は武道館の観客の一人であり、その場では、九ちゃんを悼む演奏だと思ったはずです。であるなら、この記述は尻切れトンボというか、中途半端のように感じます。文脈とは関係ないと端折ったのかもしれませんが、何かしらのことばを継いでほしかったと思います。

 

 そして、こうも思います。引用文にもあるように、『スキヤキ』はアンコールのひとつとして演奏されましたが、アンコールといえどあらかじめ演目に挙げていたなら、ディランは九ちゃんが故人であることを関係者から聞いていたはずです。仮に公演初日は完全なアドリブであったとしても、終演後には知らされたはずです。

 

 この年の日本公演は3月5日の武道館にはじまり、大阪・名古屋をはさみ、最終日も10日の武道館でした。坪内氏は9日に観たとしていますが、この日に公演はなく、氏の記憶違いであるようです。もしこれが10日なら、ディランは九ちゃんの死を意識し演奏したとするのが自然でしょう。

 

 とはいえ、倉本氏が観た日は記されていないものの、その日のMCに追悼のことばはありません。北中氏はインタビューにおいて、日航機事故への言及を期待するも、ディランは口にしなかった。日本人の心情としては、九ちゃんを悼む演奏だと語ってほしかったところですが、それは叶わなかった。

 

 ではただ単に、日本のファン向けサービスをしてくれただけなのでしょうか。しかし今回これを書くにあたって関係本を斜め読みしたところ、この偉大なアーティストは、いや、偉大なアーティストゆえか、なかなか複雑な性格を有する方であるらしい。事はそう単純な動機ではないかもしれません。

 

 そこで自分としては、『上を向いて歩こう』を優れた歌だと認めたからこそだと思いたい。北中氏に答えた、「評論家は一度聞いてすぐに判断しようとするが、歌が残るかどうかは20年、30年経ってみないとわからない」は、この歌への最大級の賛辞だと捉えたい。

 

 ただMCでディランは、歌詞については「理解できない」としています。これが何を意味するのか、詩人としての矜持なのか、少なくとも肯定はしていない。であるなら、作曲へのリスペクトなのでしょうか。

 

 しかし実は九ちゃんは、レコーディングにおいて、譜面の通りには歌わなかったらしい。自らの感性で譜面を微修正し収録したのです。結果的にそれが奏功して、大ヒットにつながったという。つまりディランは、歌い手としての坂本九を認めたからこそ演奏したのではないかということです。

 

 ここでご紹介したいのが、2020年、NHKが放送した「“上を向いて歩こう”全米NO1の衝撃」です。この番組においてミュージシャンの大友良英氏が九ちゃんの歌唱法について解説していて、ディランはこの独特の歌い方にアメリカの音楽、ジャズやポップスやロックやスタンダードナンバーの匂いを認めたのかもしれません。

 

 また、佐藤氏の引用文にもあるように、ロカビリーの全盛期にハイスクール時代を過ごしたボブ・ディランは、エルヴィスにあこがれバンドをはじめました。坂本九も同じくエルヴィスにあこがれ歌手を志しました。図らずも大友氏はその名エルヴィスを挙げていて、ディランは九ちゃんに同じルーツを感じ取ったのかもしれません。だからこその『スキヤキ』だったのかもしれません。

 


これ、最初に坂本九さんに渡された譜面だということなんですけれど、だとすると、渡された時点では、今僕らが知っている『上を向いて歩こう』とは、ちょっと違うんですよね。僕らが知っているのは、「うえをむいて」と裏から入る。一拍目は休符で、二拍目から入る。これ(譜面)は「う」が頭から入って伸びているですよ。だけど当日の朝、坂本九さんはリハーサルしている中で変えたと思われる。これは画期的なことで、なぜかというと、僕はこの曲の最大の魅力はリズムにあると思っていて、日本のそれまでの歌謡曲って、ほとんどですけれど、頭にアクセントが来るんです。二拍目がアクセントになるっていうのは、すごく新しく聴こえたと思う。アメリカのジャズとか、ポップスは二拍目、四拍目がアクセント(になっている)。坂本九さんはプレスリーとかロカビリーの影響を受けたっていうけど、あの「うぉうぉう」っていう、歌い方の裏にもアクセントが入るように裏声を使うっていうのは、(あるいは)バックビートでポップスが作れるぞっていうのは、坂本九さんの歌い方がないと、できなかったと思う。で、そうやっておきながら、サビのところは「幸せは〜」って、頭から堂々と入る。アメリカのスタンダードナンバーですごくよくある手ですよね。Aメロは二拍目とか四拍目にアクセント置きながら歌っておいて、サビになると突然うわ~っていくという、その典型的なパターンを、ものすごくうまく日本の歌に入れていて、しかもそれが実現したのは坂本九さんだったからだと思う。あの歌い方があってこそだと僕は思います。