龍一・顕子・美雨が語る 過ぎ去りし坂本家の日々 〜坂本美雨編~ | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

 

龍一・顕子・美雨が語る

~矢野顕子編~

から続く

 

 

 

 

 

 

週刊文春
2022年6月16日号
阿川佐和子のこの人に会いたい
坂本美雨
「音楽をやりたいと親に言うのは怖かった」

 

抜粋


阿川 美雨さんとは今回が初対面なんですけど、ご両親にはこの対談に出ていただいたことがありまして。

坂本 あら。お世話になりました。
阿川 美雨さんが映画「鉄道員」の主題歌を歌って話題になってた時に、お母様の矢野顕子さんに「お嬢さんすごいですねえ」って水を向けたら「私とは歌の方向性が違うので」ってぴしゃり。お母さん厳しいのね。
坂本 母は昔から厳しいんです(笑)。
阿川 歌手デビューは「鉄道員」の前ですよね。
坂本 1997年、16歳の頃です。父の坂本龍一に歌手として使ってもらったんですが、フィーチャリングシンガーの「Sister M」という思い付きでつけた名義で……。
阿川 フフフ。怪しい名前。
坂本 美雨のMなんですけど、本当にその場の思い付きだったんです。どっちにしろ、その一曲だけのつもりでしたから。
阿川 歌手を目指してたんじゃなかったの?
坂本 歌は好きでした。9歳でニューヨークに移住したんですけど、転入先の学校にコーラス部があって、ハーモニーをつくる喜びに目覚めたりはしてました。だけど、親を見ていて、自分は表に立つような人間じゃないなあって思ってました。
阿川 なんで?
坂本 スター性とか、環境とか。みんなの力があって当人が輝けるわけなんですけど、自分がそのスポットライトを浴びるっていうのはどうしてもイメージが湧かなかったですね。だけど、音楽と関わっていたいとは思っていたので、両親とは違うアプローチで行こうかなと考えてました。レコーディングエンジニアだったり、スタジオミュージシャンだったり。CDジャケットのデザインもいいなと思って、デザイン学校に行こうかなとか。でも、16歳で思わぬチャンスがあって、実際に歌ってみると、ヘッドフォンの中で自分の声と音楽が混じり合う、自分が音楽の一部になってるって初めての経験ができたんです。その感覚に溺れてしまいましたね。そのデビュー曲がたまたまヒットしたので、大人の方から次も出そうよとお誘いがあったりして、これはいよいよ覚悟を決めなくちゃいけないぞ、と。
阿川 ご両親に歌手になりますって宣言したんですか?
坂本 「音楽をやりたいです」って言うのはすごく怖かったです。家族でテーブルを囲んで話し合いました。父は私を音楽の世界に引き込んだ本人なので、仕方なく味方するという感じで、教授(坂本龍一の愛称)と私VS矢野さんという形でした(笑)。
阿川 やっぱりお母様は厳しかったですか?
坂本 たぶん、何してくれちゃってんの?って感じだったんじゃないかと。デビュー時にレコード会社が作ってくれたポスターがあるんですけど、そこに母がコピーを寄せてくれたんです。「私は反対でした」って。
阿川 アハハ。それはウケ狙いじゃなくて本気で?
坂本 面白おかしくしてくれたんですけど、あれは心からの反対だったんですよ。
阿川 なんでそんなに強硬に反対なさったのかしら?
坂本 う~ん。甘い世界じゃない、才能がないと生き延びられない、ということはずっと言われてきました。だけど去年、NHKの朝ドラの音楽をやったり、パラリンピック開会式で歌わせてもらったりしたのを矢野さんがたまたま目にしたみたいで、SNSで「あれっ娘が出てる」ってつぶやいたりしてくれて。直接じゃないんですけど、「まあ、よかった」「いいんじゃない」って言ってくれたらしいんです。デビュー25年にして、ようやく(笑)。
阿川 お~よかったねえ!、お父様は?
坂本 自分がデビューのきっかけをつくってしまったからしょうがないかという感じで、1枚目のアルバムまではプロデュースしてくれました。でもその後は放任。広い海原に投げ出して「行ってらっしゃい」と。
阿川 お二人とも放牧するのがお好きなのね。1人で25年もやってきて、時には挫折するようなことはなかったんですか。
坂本 29歳の頃に大きく躓いたことがありました。長期間、新曲をリリースしない状態だったのと、自分の音楽をまだ確立できてない、二十代最後の年。もう、音楽をやめたほうがいいかなあと思ったことがあったんです。
阿川 どうしてですか。
坂本 自己満足の音楽しかやれてない気がしてました。音楽をやることが、誰かほかの人の役に立つってことを信じ切れてなかったんだと思います。たとえば一杯のコーヒーを売ることで、買った人のやる気が出たり、結果的にいい仕事ができたり、そういう直接的に人の役に立つ仕事をしたほうがいいんじゃないかと思って、転職しようかなと思いましたね。
阿川 そこまで!?
坂本 よっぽど追い詰められてたと思うんですけど、そこで初めて母に相談しました。ちょうどクリスマスの時期だったかな、「次、つくりたい音楽が思い当たらないんだけど、どうしたらいいかな」って。もしかしたら、母が心を開いて優しい言葉をかけてくれるかもってちょっと期待もしてたんですけど、「やめれば?」と言われました。
阿川 アッハッハ。矢野さん、ホントにストレートなのね(笑)。
坂本 ガ~ンですよね。言われた通り、やっぱりやめようと思って話を続けてたら、「私だって作りたい音楽が次々浮かんでくるわけじゃない」「あなたはなんのために音楽をやってるの?」「人を幸せにする音楽とか、そういうことを考えてないわけ?」って鋭くツッコんでくるんです。そのひとつひとつが自分に響いたんですよね。
阿川 そういうことをあんまり考えずにやってらしたんですか。
坂本 カッコいいもの、美しいものを作りたいとは思っていましたけど、作ったものを受け取る側のことまで考えてなかったんですね。誰に歌いかけるのか、聞いた人にどういう気持ちになって欲しいか、そういうことをしっかり考えなきゃと思うようになりましたね。だから、自分でニューヨークのプロデューサーにメールを出して、誰かの役に立ったり、人を励ませるような作品を志しました。
阿川 ご両親が有名な音楽家だということは、あらためて美雨さんにとってどうですか? 散々聞かれてきたでしよ? 今の私みたいに。
坂本 出始めの頃は親の十四光りだと言われてましたね。でもまあ、それも事実だしなあとずっと思ってきたので、人からの評価で思い悩むってことは実はそんなになかったです。親は変えられないし、顔だって親にそっくりですから。
阿川 口元なんか特にねえ。
坂本 鼻の下の溝なんかもう教授にそっくりで…って、まじまじ見ないでください(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただ、一緒に生きている」
(2022年刊)
坂本美雨 著


「生い立ち」から、父・坂本龍一を語る箇所を抜粋


 私は1980年、母の故郷、青森の県立病院で生まれた。帝王切開だったそうだ。美雨という名前から、生まれた時雨か降っていたんですか? とよく聞かれるがそんなことはないらしい。声は低く、ほげえ~ほげえ~と泣いていたよと言われる。「風太」という5歳上の兄の名から、風の次には雨がくるから、という説が有力だ。ちなみに、風の次には雲がくるから、「雲子」と名付けられるところだったらしい……もちろん、音読みで。そのままだったら、きっと全く違った人生だっただろう。結局は、世界中の人が発音しやすいようにという想いも込めて、「みう」となりました、ほっつ。また、父がミュータント(突然変異)という言葉から付げたという説もあり、一瞬かっこいい気もするが、突然変異する子どもって、どうなのかしら。

 9歳までは、東京は杉並区高円寺に住んでいた。今はなき家だが、思い返しても心地よい家だった。コの字型の建物で、コの上の部分は父の書斎とレコード部屋、コの縦線の部分は灰色のカーペットの長い廊下とバスルーム、角が子ども部屋、下の部分にはグランドピアノが置かれたリビングとキッチン。その部分だけが2回建てで、中2階に和室の客間、2階にはマスターベッドルームともうひとつのバスルーム。中庭には立派な桜の木があった。

(中略)

 禁断の部屋、それは主不在の父の書斎。そこはいつも仄暗くミステリアスで、奥の部屋には壁一面のレコードと楽器か積まれ、映画「ネバーエンディング・ストーリー」の屋根裏部屋のように、じんわりと挿し込む光か埃の舞を照らしていた。そっと忍び込んでは、外の世界から遮断された沈黙に耳を澄ませた。時おり大貫妙子さんのカセットを再生し小声でメロディーを口ずさみ、それから膨大な本かぎっちりと並んでいる壁の本棚から、サブカル雑誌やほんのり性的なもの、なるべく怪しそうな本を見つけ出してはめくった。物心ついた時には好奇心の方向かダークでマイナーなものへと向かっていたのは不思議だ。

(中略)

 とにかく父は年中家にいなかった。海外出張も多く、それでなくとも生活のリズムがめちゃくちゃでたまにしか顔を合わすこともなかった。私が学校から帰ると事務所の運転手さんが待っていて、その時点で2時間ほど待だされている、しばらくして父がのそっと起きて出かけると、帰るのは次の朝。すれ違いだ。この頃の父はまだ血の気が多かったため、たまに家にいるとかえって緊張してしまうのだった。父の前でピアノの練習をするのは特に恐ろかった。

 若い頃の教授がバーで暴れたとか、とんでもなくモテて彼が通ったあとは跡形もないとか(なにが?)、あらゆる武勇伝(……と呼ぶとこのご時世ではふさわしくないのかもしれないが)は仕事を始めてから周囲の大人からたくさん聞かされ、子としては苦笑いの連続。夜中までスタジオで作業し、朝まで飲む、の繰り返し。知的で、ミステリアスで、美しい旋律を弾いたと思えば少年のような顔もあり、破天荒で色っぽい……そんなの娘から見たって魅力的だ。飛び抜けた才能を持つ人はどこか致命的に欠けていることか多く、その人間的、社会的にいびつな部分に惹かれてしまう私の性分は完全に父のせいだろう。責任とってほしい!

(中略)

 1990年、9歳の時に家族でニューヨークに引っ越した。

 

(中略)

 ニューヨークでは父の書斎も一応あったのだが、引っ越して一緒に住んだのはとても短い期間でほとんど記憶になく、書斎には引っ越しの段ボール箱が置かれたままになっていた。(今だから言えるけど、その中にぎしっと詰め込まれた日記をこっそりとめくったこともある・・・ごめんなさい!)東京にいた時から父は帰ったり帰らなかったりだったので、気づいたらいつのまにか家庭から存在が消えていたという感じで、なんというか見事なフェードアウトだった。家は郊外だったため、父はマンハッタンにあるスタジオに寝泊まりしてたまに帰ってきていると思っていたのだけど、スタジオとは別にもう一つの住居があったのだった。さらにそこにはもう一つの家庭があった。

 それを知ったのは、13歳の時。ある日珍しく私たち兄妹が登校する時間に家にいた父から、「今日はまっすぐ家に帰って来てね、話があるから。」と呼び止められた。母に聞いても、なんだろうね?と濁され、絶対になにか叱られるに違いないと一日びくびくしながら過ごして学校から帰ると、兄と2人で書斎に呼ばれた。私たちを座らせると父は、意を決したようにはっきりした声で(いつもはぼそぼそしゃべるのに)「君たちには弟がいるんだよね」といっきに本題に入った。え、怒られるんじゃないんだ、と拍子抜けしたのと、驚きと、なるほどそういうことか、という妙な納得がまぜこぜになって、へ~と間の抜けた声が出た。

 話によると、弟はまだ小さかった。それでね、と父は続けた。「お姉さんもいるんだ。」。ええ? あとから誕生するのはわかるけど、上に?と思わず笑いそうになってしまった。姉とのこれまでの関係を少し説明され、全く別の人生を歩んできたお姉さんをぼんやりと思い描いた。うん、それで、明日このことか雑誌に載ってしまうのか、なるほど、だから今言ってくれたのか。「でね、僕は明日、マドンナとの仕事でLAに行く予定なんだけど、こんな話をしたあとだから本当なら君たちと一緒にゆっくり過ごしたほうがいいと思うんだけど、どう思う?君たちに決めてほしい。」。え~そんな大事なこと、決めていいと言われても……しかし一緒に過ごすと言っても、なにを話したらいいのかわからないし……と困惑して、ちらりと隣を見ると、兄は狼狽えて今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 その瞬間、よしここはわたしにまかせて、と冷静になった。「明日、雑誌に載ってみんなに知られるんだよね?そしたら、お父さんかちゃんと仕事してるっていうところ見せたほうかいいから、マドンナとの仕事に行ったほうかいいと思う。」と父に伝えた。できるだけなんでもないことみたいに、クールに。ほんと?と父が兄にも聞くと、うんとうなずく。わかったありかとうと言って、ホッとしたように小さく息を吐いた。特にそのことについてその後家族で話し合った記憶はない。キッチンにいた母の顔を見て、全部知っていたんだなとわかった。そしてマドンナとの仕事は無事行われ、しばらくして「Rain」という曲の Music VideoがMTVで流れたのを観た。

 打ち明け話の次の日、ふと学校でぼんやりと、これから人生が変わるのかな?なんてよぎったげれど、特に日常は変わらなかったし人生はめちゃくちゃにもならなかった。親族のいがみ合いも起きなければ、心の中に憎しみか生まれることもなかった。普通ドラマとかだともう一つの家庭を恨んだりするのに、そんな気もいっさい起きてこず、自分は冷めてておかしいのかな?と思ったほど。のちに弟に会った時も、やっぱりかわいいもんだなあ……と感じたし、弟のお母さんの凛とした佇まいにも好意を抱き、むしろ自分の母への後ろめたい気持ちのほうが重苦しいのだった。父をとられた、とも感じなかった。そもそも、父は私のものではなかったから。

 父とは定期的にメールでコミュニケーションを取り合い、時おりスタジオに遊びに行った。父への心理的な距離が縮まったきっかけになったのは、1994年、彼が滞在していたロンドンと、コンサートがあったパリに一人で遊びに行った時のこと。生まれてはじめて一週間ほど行動を共にするなかで、こんなにおもしろい人だったのか!と、出会いなおしたような感覚があった。町を歩いていてなにか尋ねれば、なんでも答えか返ってくる。かと思えば、映画音楽の制作に打ち込みながら「また監督からのダメ出しが出てさ……」とぐったりしている。普段見ることのない姿。

 パリでは、母が大好きな文房具屋さんにお土産を買いに行くついでに、私にもなにか洋服を買ってあげるから選びなよと言われ、あまりにそのシチュエーションに慣れておらず恥ずかしかった私は、がんばってお父さんぽくしてくれてる気がするからここは甘えなくては!と考えすぎ、早く選ばなきや!と焦ったことをよく覚えている(未だに誰かになにかを買ってもらうのが得意ではない)。今思い返すとなんとぎこちない父娘パリデートなんだろう(笑)。その時、当てずっぽうに入ったお店で内心焦りながら一番最初に目に入ったものを手に取り「これがいい!」と買ってもらったグレーの分厚いセーターは、10年以上着てから、ぬいぐるみ作家の金森美也子さんにリメイクしてもらい、ミェルという名前のネコとしてまだ一緒に暮らしている。

 その旅のあと、もっと父を知りたいという気持ちはますます膨らんだ。かっこ悪いと思われたくなくて本当の自分はなかなか出せずにいたけれど、もっとつながっていたいと思っていた。次はいつ会えるのかわからない、頻繁に会いに行ったら迷惑かな?なんて、今思うと片思いのようだ。いつだったか、当日になって教授のライブに行けなくなったことがあった。純粋にライブを楽しみにしていたのか、ただ父に会いたかったのか、それはいつも混ざり合っていたからわからない。でも行かなげればつながりか途切れてしまう気がした。胸がずきずきして、布団に潜ってわんわん泣いた。たまにこうして、ちゃんと大好きなんだと突きつけられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

龍一・顕子・美雨が語る

坂本家の過ぎ去りし日々


 

 

 

 

あとがき

 お読みいただきお気づきになられたと思いますが、坂本龍一・矢野顕子の稿は、「月刊カドカワ」なくして構成できませんでした。自分が、今は廃刊となったこの雑誌の存在を知ったのは、今年3月半ばのことです。上京した折、立ち寄った神田の古書店で見つけ、好きなミュージシャンの特集号を何冊も買い求めました。この中に当時の坂本夫妻が互いを語りあっていた号があり、時を置かずして坂本が亡くなり、また矢野が哀切あふれる追悼を公表したことから、当稿を構成したいと思い立ちました。

 これは推測ですが、坂本夫妻にとって「月刊カドカワ」への寄稿は特別なことだったと思われます。当誌の編集長は見城徹だったのですが、坂本はこの著名な出版界の大物と連日連夜飲み歩くなど、公私とも深い付き合いがありました。この関係性から手記の依頼があったはずで、その意味で引用の寄稿文は、夫妻の往時を知る資料として唯一無二なのかもしれません。
 
 とはいえ自分としては正直なところ、その記述は全体として無難にまとめたものとの印象を受けました。毎日顔をつきあわせている夫婦の機微を文字にして公表するのですから、お互いどこまで書いていいのやら、筆が鈍るのは当然のことです。

 ですが、坂本が書いた「平手打ち」には驚きました。矢野から平手打ちを食らったと告白したのです。それも「成田で」とありますから、成田空港でだったのでしょう。大勢の面前だった可能性もあるわけで、しかもこのときすでにYMOで顔は知られていた。男として著名人として面目丸つぶれです。それでもこのあと坂本龍一は矢野顕子と結婚した。度量の大きさというか、人間性においても凄い人物だったのだと改めて感じてしまいました。

 それにしても、自伝にある結婚の理由は、普通の感覚では考えられないことです。端的に言えば、矢野顕子の才能ゆえに結婚したことなります。この点について、その傍証というか、坂本の興味深い発言があります。自伝が発刊される2年前の2007年ことですが、坂本はフジテレビ系の『ボクらの時代』に出演しました。作家の村上龍と、先述の見城徹の三人による鼎談であり、坂本はこう語っています。

「仕事と女性ということで言うと、ものすごく印象深いのは、(村上)龍が言ってたんだけれど、「自分の恋人を温泉とかに連れていって、まぁ、三日もつかどうか。やんなっちゃう、すぐ。だけど小説だったら、一ヶ月でも温泉でも籠もることができる。飽きはしない。恋人だったら三日で飽きちゃう」。ものすごくよくわかる。でも偉いなと思う。俺、三日もたない。一日で追いかえしちゃう。作曲だったら三ヶ月地道に書いたりできるから、好きか嫌いかっていうのはないんだけれど、なぜかそうなんだ」

 「一日で追いかえす」とは、何とも乱暴な話です。坂本龍一という人は、たとえ好みの女性であってもすぐ飽きてしまう性分なのです。ですが、続けてのことば、「作曲だったら三ヶ月…」からあえて深読みすれば、相手に音楽的才能があれば長続きするという意味にもとれる。女性にもリスペクトも求めるゆえ、矢野顕子との結婚は必然であったといえるのかもしれません。

 その坂本も、結局は他の女性の元へ去ってしまった。矢野は東京に居たときこう綴っています。「夫が窮地に陥った時、妻はどうするのか? いつでも、ヤクルトをのせて自転車をとばしたり、黙々と西友ストアで冷凍食品をそろえたり・・・」と。ニューヨークに移った後にも、「もし彼が重度の身体障害者にでもなったら、私はもっと違った仕事する・・・」と語っています。

 さんざん夫には女性問題で苦しめられ、おそらく移住の時点で結婚生活の帰趨は見えていたはずです。にもかかわらず、インタビューにおける、夫を思いやることばや写真の柔和な表情は何を物語っているのか。他人がその胸の内をうかがい知ることはできませんが、その後も今日に至るまで、彼への恋慕の情はずっと変わることはなかったように思われます。

 さて、引用からは外しましたが、坂本美雨の著書には、実は興味深い一節があります。

「とある出版社の社長さんに幼い頃、『教授の伝記を書くのはきみだからね』とずしりと肩に手を置かれたことがある」

 この「社長さん」とは誰なのか。あるいは見城徹かもしれないと自分は推察します。見城が角川書店から独立して出版会社を興し「社長」となったのは、美雨が13歳あたりのことですから、「幼い頃」ではありません。しかし「伝記」の意味を理解するにはこの年齢あたりとも思われます。

 この推察があたっているとすれば、美雨はもうアプローチされているはずです。見城徹という人の、狙いを定めた作家への猛烈なアタックはそれはもうすさまじいもので、すでに彼女は受諾させられているかもしれません。娘が語る、偉大な音楽家の知られざる人となりが明かされる日はそう遠くないかもしれません。