龍一・顕子・美雨が語る 過ぎ去りし坂本家の日々 〜矢野顕子編~ | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

龍一・顕子・美雨が語る

坂本家の過ぎ去りし日々

~坂本龍一編~

から続く

 

 

 

『月刊カドカワ』86年10月号
やのは愛の出前持ちです
インタビューと文 田家秀樹

(抜粋)


 矢野顕子が坂本龍一に出会ったのは、デビューした直後、76年のことだった。横浜の中華街の同発という中華料理屋で、テレビ中継を兼ねたコンサートがあった。彼女は、細野晴臣のバンドと、ピアノを弾いて一緒に歌うことになっていた。その時、予定されていた松任谷正隆が来れなくなり、”臨時雇いの芸大の学生さん”が来た、というのが最初の出会いだった。


矢野 譜面はちゃんと読めるみたいだけど、汚いのね。なんかにおうのね(笑)。ジーパンなんかあまりの汚さで、ニシマった(原文ママ)感じね(笑)。それで始まったんですけど、好きなようにガチャガチャ弾くわけ。全然、バンド全体のアンサンブルを考えていないんです。というのは、彼、経験がないからね。それでちょっと驚いて、何だろうって思っていたのね。その後、みんなで食事ね。円卓囲んでね。その隣に偶然か故意か座ったわけね。私は「イヤだなッ」と思ったから、細野さんとばかり話してたんだけど、彼は何か食べると、「おいしいね」と話しかけるのね(笑)。とにかく、不潔、イヤだッという印象が強かったんですけど、それが第一印象です。

 ーその次までかなり時間があった。 

矢野 78年。私の『ト・キ・メ・キ』というアルバムが出た時に、コンサートをしたんです。その頃はシンセサイザーをたくさん使っていて、ピアノの他にも、その当時ムーグ・ⅢCという桐箪笥みたいなのがあった。そこにキーボードをおいたりしてたから、もう完全にお部屋になっていたわけです。それを一人でやって、しかも歌わなくちゃいけないでしょ。とてもじやないけど忙しくて忙しくて。でも、下手なキーボード入れるのいやだったからどうしようって細野さんに言ったら、坂本君というのがいて、今度三人でバンド始めたからと言うんですね。それで、エ~ッ、汚いから嫌だと言ったんだけど、細野さんが言うんだったら、と、そしたら、きれいになっていたわけ(笑)。

 ーこれなら、いい、と。

矢野 まだいい、と(笑)。

 -やってみて、才能ある男だと思った?

矢野 それは前から思っていましたけどね。

 ー その汚かった時から?

矢野 うん。だけど、アンサンブル、バンドアレンジとかは、その当時は、私のほうがキャリアが上だったので、79年に会った時も、ずいぶん、「そこはそういうふうに弾かないで」とか「それはだめ」とか言ってたの。

 ー 当時、YMOはご覧になってました?

矢野 その時、もうファースト・アルバムのレコーディングしていたの。〈ト・キ・メ・キ〉のコンサートで、「この人たちはイエロー・マジック・オーケストラというバンドを組んで、今度レコードが出ますので、皆さんよろしくね。買ってあげてね」と言ってたわけ。それで、しばらくしたら、今度は、私のほうが、後ろになっていたわけ(笑)。おかしいな、って(笑)。

 -でも、結婚しよう、ここを踏み越えようと思ったのは。

矢野 どうだろうね。結婚したこと自体は、わりと最近だからね。彼の言うには、最初に中華街で会った時から、オレとつきあいたいと思っていただろうと言うから(笑)。

 -それはすごい!

矢野 直接のきっかけというのは、よくわからないです。

 -でも、才能を認め合った上で成り立っている関係と見える。

矢野 そうですね。最初は(笑)。この頃は才能だけじゃなくて、いろいろ付加的な価値もあるし、なくなっちゃった価値もあるし。

 -そういう意味じゃ、結婚制度、みたいなものに対しては、奔放だった、という言い方もできる。

矢野 そういうふうに見られるけど、けっこう、そうでもないんですけどね。両方とも、結婚するより先に子供ができたということで。たまには結婚してから子供ができたというのをやってみたいと思ってますけど(笑)。よくあるじゃない、奥さんが一人で婦人科へ行って会社にいる夫に電話をかける。

-あなたできたみたいよ(笑)。

矢野 そうそう(笑)。あれがやってみたいです(笑)。でも、本人は、大胆だとか全然思ってないから。他人から自分がどうみえるかということを全く考えてこなかったんで、平気だったんだと思いますけどね。この頃は少し気にするからね。

 -今の二人の持ち場みたいなものってあるわけでしょう。

矢野 そうですね。彼が外でかせいできて、わたしが家を守る。そのわりにはよく出ますけど(笑)。カルチャー・センター行くみたいにスタジオに行く(笑)。

 

 

 

 

 

 

『月刊カドカワ』86年4月号
早く帰ってきてね!
矢野顕子


 鉄則として、”主人”をバカにしてはいけません。前の結婚というのがそれで失敗していますら。”だんなさま″とまではいかなくとも、「うちの亭主は……」「うちの宿六は……」というのはキライです。そこさえ、ちゃんとしていれば、もし夫に収入がなくて、妻が稼ぎ手であってもいいんじゃないでしょうか。

 坂本さんは、音楽家であることが、ほとんどすべてのヒトです。同じ音楽家として、わかり合える部分がたくさんあるので(だいたいわかりやすいヒトですが)、それはとても有利だといえます。でも、お互い違う人間ですし、私の音楽と彼の音楽も違います。そのものに価値があるという点では同じだと思うのですが。

 彼はよく私の作ったものをほめてくれるのですが、彼の作ったものを私が批評する時、批判的になってしまうのがいけない点だと思っています。なぜか、ほめられない。もっと、もののいい方を考えればいいのですけれど……。やっぱり、彼、傷つきますよね。「……そうか、いっしょうけんめい作ったのに、ダメだったのか……」。立場的にも実際的にも、彼の作るものに対して音楽的に助言できるのは、私がいちばんだと思うので、もう少し優しくいってあげられればいいな、ほめる技術を身につけたいな、と思うわけです。

 経済面に関しては、結婚後しばらくは私が月給制でお金を頂いて、それに自分の収入を加えてやっていたのですが、どうもうまくいかなくなって、今は、彼におこづかいをもらう側になってもらっています。決して私に管理能力があるわけではないのですが、彼はやはり日常の経済状態を治めるところまで手がまわらないだろうと思って、そうしました。まあ、法外なムダ使いを防ぐためでもありますが。ここ三年ぐらい、このパターンで、けっこうスムーズにいっています。

 彼は仕事で家を空けることが多いのですが、私は仕事日を月、水、金の三日間と決めてあります。個人的な用を優先させたいと思ったので、私一人で決めました。子どものこと、家のこと、自分のこと……たくさんやることがあって、もっともっと、うまく時間が使えたらなと思います。やっぱり仕事は面白いし、つい夢中になってしまう。子どもをほったらかしてもいい、って思えてしまうので、それを防ぎたい気もあってのことです。

 ほんとは子どもの宿題をみてあげたいけれど、仕事があれば出かけるし、実際に何箇所も同時に存在できないのがとても残念です。その時、何を優先させるか? これが結局、生き方を決めちゃうみたいなところがありますから。でも、母親が仕事をしてキャーキャー喜んでいる姿を子どもにみせられやすいこと、多くの人が母親の仕事を支持してくださっているのをみれることは、子どもにとってもほこりだと思います。

 だからといって、彼に家のことを手伝ってもらおうとは思いませんが、具合の悪い時や、突然「今日はごはん作りたくない!」という時には、「やって」というと、手伝ってくれます。たまに手伝っていただくよりは、もう少し飲みに行く時間をこちらに回してくれたほうが私は嬉しい。「何してたんだよゥ、どこでェ?だれとォ?」ってチクチクきくのですが、どのくらい効いてることか。門限が朝の六時半だなんて、とんでもないと思いません? 子どもが学校に行く前に帰ってくるのは当り前です。これは絶対不公平です。

 私自身は小さい時から時間に異常に関心があって、とにかく流れていった時間は一つも取り戻すことはできないから、今、この時間をどう使うかというのが、最大の関心事なのです。何か有益なものを生み出すためにボケッといているのはいいのですが、無為に過ごすというのは、もったいなくてしかたありません。ところが、彼はそういうふうに育ってこなかった。みんなとバカ騒ぎして、女の子にチヤホヤされるのをストレス解消だと思っているらしいのです。一見、そうかなって思いましたが、やっぱり私にはそう思えません。ほんとのストレス解消はもっと違うところにある、と私は信じているわけです。で、それを人に押しつけるきらいがありますので、夫にも、そうしてもらいたいと、チクチク、いってしまいます。

 それに、若い時と違いますから健康も気になりますし……。私のいっていることはほんとにまっとうなことばかりですから、彼が一番よくわかっていて、人からいわれるのはイヤなのでしょう、きっと。家を出がちな夫ですから、電話連絡など秘書的な役割を私がしなくてはいけませんので、仕事面でも日常の行動でも、彼のスケジュールはだいたい把握しています。

 お互い、レコーディングが重なったり、ツアーが始まったりすると、すれ違いがさらにひどくなります。ですから、一緒にいる時はとにかくしゃべくります。話さなければわかりませんから。思っていること(といっても、歳とりましたから少しは加減がききますが)は、全部いいます。彼もそうしているのではないでしょうか。100パーセント、何でも共有しあえるというのは異常だと思います。”同床異夢”ということばがあるように、個人のプライバシーもありますし。記念日にどうこうするということは、やりません。

 もし、その人のことをほんとうに気にしているとしたら、自分が忙しくても手伝ってあげるとか、たくさんチャンスがあると思います。そういう大事な時は見て見ぬふりをして、誕生日に食事に連れていってチャラにするというのは、すごいご都合主義のような気がします。いちばん忙しい時、いちばん困っている時、いちばん状態が悪い時、そばにいてあげられる器量がほしいですね。お互い忙しいから、よけいにそう思います。

 たとえば、現実に可能かどうかわかりませんが、奥さんが倒れたら、会社休んで看病してくれたほうが、どんなプレゼントよりも現実的で私は嬉しいのです。何はともあれ、早く帰ってきてね!

 

 

 

 

 

 

『月刊カドカワ』88年3月号

教授と姫のスイートホーム・エッセイ
~坂本を夫にする方法~

文と絵 矢野顕子

 そんなものあったらおしえてほしいよお、というのがその答えです。できれば、ポール・ニューマンを夫にする方法とか小田和正を……なんていうのもあれば知りたいものですよねえ、皆さん。

 いったいこのタイトルの裹にはどんな意図が隠されているのでしょうか。ちなみに、去年の12月に発売されたFOCUS誌の『矢野顕子の最後のステージ』というタイトルをもつページは、こういう出だしで始まっていました。『芸術家の夫婦の生活にはうかがい知れぬものがある云々』。これではまるで、矢野と坂本は、狂気をはらんだ危険な生活をしているかのようではないですか。確かにうちには複数の芸術家がおるわけですが、平和な生活を愛し、法律を遵守し、回覧板をまわし、健全な都民として喜んで特別区民税をも納めさせていただいているのです。

 なかなか本題にはいれないのにはテレもあるんでしょうね、これは。そうです。矢野は非常にテレ屋なので、今、とても恥ずかしい。恥ずかしくて穴がなかったら掘ってでもはいりたいというのが本音です。坂本について話すとなると、とても尋常ではいられない。そんなわけでつい心にもなく、けなして言ってみたりもする。ううむ、これでは小学生と同じではないか。好きな娘をわざと泣かしたりする幼児性を未だに受け継ぐ自分に驚きます。

 夫と妻になったのが約6年前ですが、既に子供が二人生存していたので、一日にして、四人家族が出来上がったのでした。坂本龍一は当初、他の三人の成員についてはあまり詳しい情報を持っていなかったようです。要するに、関心がなかったというわけです。が、しかし、せっせと働き、新築された二階建ての家のローンを返済し、おかげで三人は何不自由ない生活を楽しむことが出来ました。未だにそれは続いています。まだ矢野は当分の間、ヤクルトの配達はしなくてもよいと言われているし(このことについては後ほどくわしく言及することにします)、子供たちも鉛筆とノートはふんだんに使えているのであります。

 家族としての創世紀を経て後、彼は新しい方向を見出します。実のところ、これについては矢野にも同じことがいえるのですが……。当家における方針の決定には聖書が述べていることが大きく関係しています。″新しい方向″は、この言葉からインスパイアされたのです。『自分に属する人々、ことに自分の家の者に必要な物を供えない人がいるなら、その人は(中略)信仰のない人より悪いのです。』 ーテモテヘの第一の手紙五章八節。

 この”必要な物”の中には食べるもんとか着るもんはもちろんのこと、実は、精神的な充足ということも含まれるということなんですね、ええ。というわけで彼(と彼女)は、生まれてはじめての経験をすることを選びました。本当の意味で家族を養いはじめたのでした。

 しかしながら、悲しむべきは水商売。芸術家とはいえど、人様からの適当な支持がなければ固定資産税だって、払うことは出来ない。夫が窮地に陥った時、妻はどうするのか? いつでも、ヤクルトをのせて自転車をとばしたり、黙々と西友ストアで冷凍食品をそろえたりできるようにしていたいと思います。なあに、矢野顕子にそんなことできるもんかよ、という声が今もきこえてこないわけではありませんが、坂本龍一を夫にするためには、こんな秘かな決意も必要だったりするのよね。

 

 

 

 

 記事掲載の写真

 

週刊文春
1990年12月7日号
「お父さんの仕事が第一」
矢野顕子


(坂本一家がニューヨークへ移住した後、矢野顕子へのインタビューをもとに構成された記事で、夫・坂本龍一を語る箇所を抜粋した)



 呆然としながら8ヵ月が過ぎまして、やっと生活にも慣れてきたところです。毎朝7時ごろ、私が車を運転して子供たちを学校に送って、マンハッタンのスタジオに行く主人を駅まで乗せて、お買い物とか、忙しいですね。夜はライブハウスにジャズを聴きに行ったり。子供たちを寝かせて夜の12時ぐらいからピアノを弾き始めるんです。

 話は、前からぼちぼちしていたんです。主人がアカデーミー賞を貰ってから、いよいよ海外での仕事のほうが多くなりまして、家族がなるべく一緒にいられるようにするにはニューヨークに住んだほうがいいと。家族のかしらは主人なので。お父さんの仕事がしやすいようにというのが我が家では第一なんです。

 坂本と私に共通するのは、良質な音楽を作ろうという姿勢ですね。それから、主義主張のために音楽はやらない。軍歌とか、個人を讃美するための音楽は作らない。主人からの影響は、あるかもしれないけれど、ミュージシャンとしての個性はそれぞれ違います。何年か前までは一緒にやりましたが、いまは全然別なことをやって楽しんでいます。将来また一緒に音楽をやるかもしれない。でも、音楽的主従関係はまったくありません。

 主人は日本人としては、世界のホップソングのフィールドでやっていく最初の人ですから、前例がないので、本当に大変だと思います。契約したレコード会社は、アメリカの攻撃的なイメージそのままの、どんどん売っていくというタイプ。私が契約したのはニューヨークならではの会社で、アーティストの良心を尊重してくれて、過大評価も過小評価もしない。そのかわりおカネをたくさん稼ぐことはできない。

 マネージャーやレコード会社を選ぶときに考えたのは、私は坂本顕子として、家族との時間を犠牲にしたくない、音楽を作るのが人生のすべてではないということです。それができるのも、こんなきれいなオベベを着ていられるのも、主人が荒波をかぶってくれるからだって感謝しています。だから、もし彼が重度の身体障害者にでもなったら、私はもっと違った仕事するでしょう。売れる曲をやるか、クラブでピアノを弾くか。できること、それしかありませんから。

 

 

 

龍一・顕子・美雨が語る
坂本家の過ぎ去りし日々
~矢野顕子編~

 

 

~坂本美雨編~
へ続く