祝祭と傍観者
「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿呆なら踊らねば損」というのは実に深い哲学だと思います。祝祭に観客は必要ありません。と言うより、観客になってはならないのです。ただ観ているだけでは祝祭にはなりません。参加なくして祝祭なし。これが原則だと思います。
しかし乍ら、観客は単なる傍観者ではないと言えるかもしれません。例えば素晴らしい選手に心から声援を送ることで一体化すれば、その観客はその選手とともにゲームに参加していると言えるでしょう。そう考えれば、祝祭には様々な参加の「かたち」があることを認めざるを得ません。選手としての参加だけではなく、観客としての参加もあり得るということです。
勿論、「かたち」が違えば、その意味もまた違ってくるでしょう。あくまでも祝祭に観客は必要ないというのが原則ですが、観客としての祝祭もあり得ます。ただし選手の参加がなければ観客の祝祭は始まらないという意味で、それはやはり二次的なものだと言うべきでしょう。
何れにせよ、私自身は観客にはなりたくありません。あくまでも「踊る阿呆」として祝祭空間を創造し、その輪の中に入りたいと思っています。そうした祝祭空間にこそ「ユートピア」も現出するのではないでしょうか。
しかし乍ら、観客は単なる傍観者ではないと言えるかもしれません。例えば素晴らしい選手に心から声援を送ることで一体化すれば、その観客はその選手とともにゲームに参加していると言えるでしょう。そう考えれば、祝祭には様々な参加の「かたち」があることを認めざるを得ません。選手としての参加だけではなく、観客としての参加もあり得るということです。
勿論、「かたち」が違えば、その意味もまた違ってくるでしょう。あくまでも祝祭に観客は必要ないというのが原則ですが、観客としての祝祭もあり得ます。ただし選手の参加がなければ観客の祝祭は始まらないという意味で、それはやはり二次的なものだと言うべきでしょう。
何れにせよ、私自身は観客にはなりたくありません。あくまでも「踊る阿呆」として祝祭空間を創造し、その輪の中に入りたいと思っています。そうした祝祭空間にこそ「ユートピア」も現出するのではないでしょうか。
破壊と創造
「破壊は創造の情熱だ」というバクーニンの言葉が次第に私の中で大きくなっていきます。先ずぶち壊せ! 論理的に言えば、破壊の後に如何なる創造を試みるかというヴィジョンが必要でしょう。確かに創造のヴィジョンなしに破壊することは無謀だと言えます。しかし本当にそうでしょうか。
現実には、創造のヴィジョンについて考え始めると、いつまで経っても破壊に着手できなくなります。それ故、先ずぶち壊せ! これが正解なのかもしれぬ、と思い始めています。ヴィジョンは必要ですが、完璧なヴィジョンなどというものはあり得ません。それは罠です。
完璧なヴィジョンを求めれば、研究もしくは思耕の域を超えることができなくなります。尤も思耕=研究も一つの実践であると言えますが、私の求めている真の実践は違います。やはり「初めに行動(Tat)ありき」だと思いますが、如何でしょうか。
現実には、創造のヴィジョンについて考え始めると、いつまで経っても破壊に着手できなくなります。それ故、先ずぶち壊せ! これが正解なのかもしれぬ、と思い始めています。ヴィジョンは必要ですが、完璧なヴィジョンなどというものはあり得ません。それは罠です。
完璧なヴィジョンを求めれば、研究もしくは思耕の域を超えることができなくなります。尤も思耕=研究も一つの実践であると言えますが、私の求めている真の実践は違います。やはり「初めに行動(Tat)ありき」だと思いますが、如何でしょうか。
真に新しきもの(2)
真に新しきものはラディカルなものであり、その本質は所謂「型破り」です。ただし、これはよく言われることですが、型がしっかり身についていない者に「型破り」はできません。型を伝統によって築かれたものだと解するならば、単なる伝統否定からは真に新しきものは生れないでしょう。そもそも伝統という型を破ることは並大抵のことではありません。伝統は「古典」を形成します。そして「古典」は現象的には「古きもの」ですが、昨日述べたように、その本質は「新しきもの」だと言えます。すなわち「古典」が生み出す感動は常に新しいのです。それは永遠の今に他なりません。
「古典=伝統」は水平に流れる時間を超越した垂直の次元に生きています。それはすでに一つの完成態だと言ってもいいでしょう。しかし、そこに安住することはできません。たとい「古典=伝統」による感動がどんなに安定(安心確実)なものであっても、今に生きる我々にはその型を破って「新しきもの」を創造していく使命(と言うと大袈裟に聞こえるかもしれませんが)があると私は思っています。
尤もこの点については大いに議論の余地があるでしょう。生き方の問題として伝統的なものに安住すること は決して悪いことではありません。しかし少なくとも「新しき村の精神」に共鳴する者の生き方だとは言えないと思います。新しき村における生き方は常に「新しきもの」を生み出していくものです。不断の型破り――ここにこそ「新しき生活」の神髄があると私は信じています。
「古典=伝統」は水平に流れる時間を超越した垂直の次元に生きています。それはすでに一つの完成態だと言ってもいいでしょう。しかし、そこに安住することはできません。たとい「古典=伝統」による感動がどんなに安定(安心確実)なものであっても、今に生きる我々にはその型を破って「新しきもの」を創造していく使命(と言うと大袈裟に聞こえるかもしれませんが)があると私は思っています。
尤もこの点については大いに議論の余地があるでしょう。生き方の問題として伝統的なものに安住すること は決して悪いことではありません。しかし少なくとも「新しき村の精神」に共鳴する者の生き方だとは言えないと思います。新しき村における生き方は常に「新しきもの」を生み出していくものです。不断の型破り――ここにこそ「新しき生活」の神髄があると私は信じています。
真に新しきもの
新しき村の運動=新しき生活の運動。私は「新しきもの(の実現)」に憑かれています。これに対して「新しきものが必ずしも良いとは限らない。むしろ古きものの方が良いが場合もある」という意見があるでしょう。確かに「古きものの方が安心できる」ということはあります。しかし私は敢えて「古きものの全否定」を目指したいと思います。これは戦略的に選び取られた一つの態度に他なりません。
古きものの徹底した抹殺! 私の考えでは、「古きものの方が良い」などということは原理的にあり得ません。例えば長年に渡って安心して使用しているものは、厳密に言えば「古きもの」にはならないのです。むしろ、それは常に新しいと言うべきでしょう。すなわち常に新しいものは決して古くならぬものであり、それは永遠的なものだと思われます。所謂「古典」(classic)というものがそうです。音楽の分野で言えば、モオツァルトやベートーベンなど、その作品が生み出されたのはかなり昔ですが、それは決して古くならず常に新しい感動を与え続けます。そのように真に新しきものは永遠に他なりません。そこが核心です。
「古き村-近代都市-新しき村」という弁証法は決して古くなることのない「真に新しきもの=永遠」の実現を目的にしています。しかし、もはやそうした理念的なことを問題にしている段階ではありません。問題は「真に新しきもの=永遠」とは具体的にどういうものであり、それを如何にして実現していくかということでしょう。すなわち「これが人間の本当の生活か! さればもう一度!」と言えるような永遠に新しき生活のヴィジョンを明確に示し、それを具体化することです。私はその問題に全てを賭けたいと思っています。
古きものの徹底した抹殺! 私の考えでは、「古きものの方が良い」などということは原理的にあり得ません。例えば長年に渡って安心して使用しているものは、厳密に言えば「古きもの」にはならないのです。むしろ、それは常に新しいと言うべきでしょう。すなわち常に新しいものは決して古くならぬものであり、それは永遠的なものだと思われます。所謂「古典」(classic)というものがそうです。音楽の分野で言えば、モオツァルトやベートーベンなど、その作品が生み出されたのはかなり昔ですが、それは決して古くならず常に新しい感動を与え続けます。そのように真に新しきものは永遠に他なりません。そこが核心です。
「古き村-近代都市-新しき村」という弁証法は決して古くなることのない「真に新しきもの=永遠」の実現を目的にしています。しかし、もはやそうした理念的なことを問題にしている段階ではありません。問題は「真に新しきもの=永遠」とは具体的にどういうものであり、それを如何にして実現していくかということでしょう。すなわち「これが人間の本当の生活か! さればもう一度!」と言えるような永遠に新しき生活のヴィジョンを明確に示し、それを具体化することです。私はその問題に全てを賭けたいと思っています。
労働の止揚
理想社会において人は労働から解放され得るでしょうか。今のところ労働は義務です。人は皆、生活を維持するために労働を余儀なくされます。「働かざる者、食うべからず!」というのが依然として基本原則です。しかし、これはあくまでも過渡的な原則ではないでしょうか。
確かに人間は食わなければ生きていけませんが、さりとて食うためだけに生きているのでもないでしょう。そもそも食うためだけなら、殊更働く必要などありません。人間のみが食うために働いています。他の生物は単にあるものを食べているだけです。しかし人間は違います。人間は食うこと以上の何かを求めます。人間にとって食うことは、その何かをするための前提ではないでしょうか。そして人間はその前提を合理的かつ確実なものにするために働く(共働)のです。もし働かなければ、一日の大半を食うことを満たすために忙殺されるに違いありません。
労働の目的は食うためですが、それは少なければ少ないほど望ましいと思われます。すなわち労働からの解放は労働それ自体の目的でもあると言えるでしょう。「働かないでも食っていける社会」は原理的に無理がありますが、「最小限の労働で食っていける社会」の実現は可能だと思います。労働は人間の究極的な目的ではありません。
何れにせよ、古くはポール・ラファルグの「怠ける権利」や比較的最近ではボブ・ブラックの「労働廃絶論」など、労働の止揚はユートピアの実現にとって核心的な問題に他なりません。今後も更なる思耕を続けていきたいと思います。
確かに人間は食わなければ生きていけませんが、さりとて食うためだけに生きているのでもないでしょう。そもそも食うためだけなら、殊更働く必要などありません。人間のみが食うために働いています。他の生物は単にあるものを食べているだけです。しかし人間は違います。人間は食うこと以上の何かを求めます。人間にとって食うことは、その何かをするための前提ではないでしょうか。そして人間はその前提を合理的かつ確実なものにするために働く(共働)のです。もし働かなければ、一日の大半を食うことを満たすために忙殺されるに違いありません。
労働の目的は食うためですが、それは少なければ少ないほど望ましいと思われます。すなわち労働からの解放は労働それ自体の目的でもあると言えるでしょう。「働かないでも食っていける社会」は原理的に無理がありますが、「最小限の労働で食っていける社会」の実現は可能だと思います。労働は人間の究極的な目的ではありません。
何れにせよ、古くはポール・ラファルグの「怠ける権利」や比較的最近ではボブ・ブラックの「労働廃絶論」など、労働の止揚はユートピアの実現にとって核心的な問題に他なりません。今後も更なる思耕を続けていきたいと思います。
変革と逃避
私は恰も新しき村の代表であるかのような感じでこの便りを書いていますが、事実は全く異なります。むしろ次第に私の居場所がなくなりつつあるというのが現状です。従って早晩、村を離れることになるのは間違いありません。しかし「新しき村の実現」を自らの究極的関心とする私が離村するとは如何なることでしょうか。明らかに論理的に矛盾しています。論理的に言えば、離村は逃避以外のなにものでもないでしょう。
新しき村を実現するために離村する――しかし、これは論理の問題ではありません。現実の問題です。村内にいては私の考える「新しき村」の活動ができないという現実、すなわち今の村は未だ「新しき村」になっていないという現実です。裏を返して言えば、現在の体制を根源的に変革すべきだと思っている村人は殆どいないということです。それ故、自分の理想とする「新しき村」を実現するためには離村するしかないと思うわけです。
これを逃避と言うならば、ルターもまた逃避者だと言わざるを得ないでしょう。果してルターはカトリック教会の内部に留まって「宗教改革」を実現することができたでしょうか。後にカトリック内部からの改革がなされましたが、それはルターの外部からの一撃があって初めて可能になったものに他なりません。確かに内部からの変革(内部告発も含めて)こそ理想だと言えます。しかし、たといそれが成立するにしても、極めて長い時間が必要とされます。気の短い私にはとても待てません。また変革の同志を内部に結集するにしても、内部にいては実際的なことは何もできないでしょう。今の私にとっては外部からの変革が唯一の可能性のように思えます。勿論、ルターが破門されたように、私も村から追放されるまで内部からの変革に努めることは言うまでもありません。
新しき村を実現するために離村する――しかし、これは論理の問題ではありません。現実の問題です。村内にいては私の考える「新しき村」の活動ができないという現実、すなわち今の村は未だ「新しき村」になっていないという現実です。裏を返して言えば、現在の体制を根源的に変革すべきだと思っている村人は殆どいないということです。それ故、自分の理想とする「新しき村」を実現するためには離村するしかないと思うわけです。
これを逃避と言うならば、ルターもまた逃避者だと言わざるを得ないでしょう。果してルターはカトリック教会の内部に留まって「宗教改革」を実現することができたでしょうか。後にカトリック内部からの改革がなされましたが、それはルターの外部からの一撃があって初めて可能になったものに他なりません。確かに内部からの変革(内部告発も含めて)こそ理想だと言えます。しかし、たといそれが成立するにしても、極めて長い時間が必要とされます。気の短い私にはとても待てません。また変革の同志を内部に結集するにしても、内部にいては実際的なことは何もできないでしょう。今の私にとっては外部からの変革が唯一の可能性のように思えます。勿論、ルターが破門されたように、私も村から追放されるまで内部からの変革に努めることは言うまでもありません。
拒否と創造
若者は純粋であればあるほど、不純なものに対して強い拒否反応を示します。それは言わば若者の特権であり、無限に正しいものです。しかし私はその純粋性が往々にして拒否に止まっていることを非常に残念に思います。
例えば今の腐った学校を拒否して不登校になる――それは、逃避でさえなければ、基本的に正しい反応です。しかし重要なことはその拒否からの一歩、すなわち自分の理想とする学校(学びの場)を「つくる」ことではないでしょうか。「さがす」のではなく「つくる」のです。それは理想の社会を求める場合でも同じだと思います。
新しき村にせよ、他の様々なコミューンの試みにせよ、自分の理想とするものに完全に一致するものなどあり得ません。「理想がすでに実現しているもの(場所)」を「さがす」のは無意味です。ユートピアは「さがす」ものではなく、あくまでも自分で「つくる」しかないものです。この文脈において、私は「理想の実現」をつくろうとしている人々との連帯を切に求めているわけです。
例えば今の腐った学校を拒否して不登校になる――それは、逃避でさえなければ、基本的に正しい反応です。しかし重要なことはその拒否からの一歩、すなわち自分の理想とする学校(学びの場)を「つくる」ことではないでしょうか。「さがす」のではなく「つくる」のです。それは理想の社会を求める場合でも同じだと思います。
新しき村にせよ、他の様々なコミューンの試みにせよ、自分の理想とするものに完全に一致するものなどあり得ません。「理想がすでに実現しているもの(場所)」を「さがす」のは無意味です。ユートピアは「さがす」ものではなく、あくまでも自分で「つくる」しかないものです。この文脈において、私は「理想の実現」をつくろうとしている人々との連帯を切に求めているわけです。
ユートピアのリアリティについて
毎日夢のようなことばかり書いておりますが、ユートピアは私にとってリアリティのあるものです。そしてユートピアのリアリティとは「理念の実定性(positivity)」の問題だと考えています。例えばキリスト教に関して言えば、「イエスの教えに共鳴すること」(その理念に主体的に関係すること)と「キリスト教徒になること」(その実定性である教会に客観的に所属すること)との間には質的な断絶があります。ニーチェはアンチ・キリストの代表のように見做されていますが、本質的にはイエスの言葉に共鳴して次のように言っています――「最初にキリスト教徒になった者は最初にイエスを裏切った者だ」。
ルターの「宗教改革」、比較的身近なところでは内村鑑三の「無教会主義」、また禅の方では「殺仏殺祖」というものがありますが、それらは全て「理念の実定性」を克服する試みに他なりません。私にとっての「新しき村の運動」も同様のものです。言うまでもなく、新しき村は宗教ではありませんが、その「新しさ」はユートピア(もしくは理想のコミューン)という「理念の実定性」の克服にこそ見出されねばなりません。
問題はその克服の仕方です。克服は単なる否定ではありません。実定性は理念が堕落する根源的要因であり、確かに実定性を否定すれば理念は純粋に維持されるでしょう。しかしそうした純粋な理念は決して現実化されぬものであり、言わば画餅にすぎません。それは、変な譬えですが、聖なる処女が子どもを産まないのと同じです。私はそのような穢れなき純粋性に意味を見出すことができません。むしろ、たとい穢れても、理念を現実化することに意味を見出したいと思います。従って、私は実定性を逆説的に肯定することを選びます。実定性は一つの運命であり、現実に生きる人間はこれを避けることができないからです。その意味において、純粋理念の楽園は永久に失われたと思い知るべきでしょう。しかし私は理念の堕落に妥協するつもりはありません。実定性が真に克服された現実――そこにこそ真の楽園としての「新しき村」があると信じています。
ルターの「宗教改革」、比較的身近なところでは内村鑑三の「無教会主義」、また禅の方では「殺仏殺祖」というものがありますが、それらは全て「理念の実定性」を克服する試みに他なりません。私にとっての「新しき村の運動」も同様のものです。言うまでもなく、新しき村は宗教ではありませんが、その「新しさ」はユートピア(もしくは理想のコミューン)という「理念の実定性」の克服にこそ見出されねばなりません。
問題はその克服の仕方です。克服は単なる否定ではありません。実定性は理念が堕落する根源的要因であり、確かに実定性を否定すれば理念は純粋に維持されるでしょう。しかしそうした純粋な理念は決して現実化されぬものであり、言わば画餅にすぎません。それは、変な譬えですが、聖なる処女が子どもを産まないのと同じです。私はそのような穢れなき純粋性に意味を見出すことができません。むしろ、たとい穢れても、理念を現実化することに意味を見出したいと思います。従って、私は実定性を逆説的に肯定することを選びます。実定性は一つの運命であり、現実に生きる人間はこれを避けることができないからです。その意味において、純粋理念の楽園は永久に失われたと思い知るべきでしょう。しかし私は理念の堕落に妥協するつもりはありません。実定性が真に克服された現実――そこにこそ真の楽園としての「新しき村」があると信じています。
祝祭共働と賃労働
祝祭共働としての労働は賃労働ではありません。むしろ賃労働の止揚にこそ祝祭共働の本質があると言えるでしょう。労働力を商品として資本家(雇用者)に売り、その代価として賃金を得る――この構造そのものを打破したいのです。どういう影響によるものか、私は幼い頃から「金のために働く」ということを蔑視してきました。更に言えば、お金(の力)を何か穢れたものと見做してきました。しかし現実にはお金は必要不可欠なものであり、如何に自給自足の生活を求めてみても、お金を稼ぐことなくして生活を維持していくことはできません。すなわち現実の生活は否応なくお金を稼ぐことを基本とせざるを得ない構造になっているということです。この構造から如何にして脱するか――ここに「新しき生活」の問題があると思います。
賃労働という構造、並びに雇用-被雇用という関係の超克! 私のヴィジョンとしては、賃労働から解放される時、そこに祝祭が現出します。祝祭=共働にこそ真に人間らしい生活があると思います。
さて現実の新しき村の生活は、一応「賃労働という構造・雇用-被雇用という関係」を超えています。我々は日々労働しておりますが、別に村に雇用されているわけではなく、従って給料なるものも得ていません。(尤も月々3万5千円が支給されますが、それは個人費といって、40年以上村で生活している人も入村したばかりの人も一律です。)しかし、それは率直に言って、未だカタチばかりのものです。つまり実質的には依然としてお金の力に束縛されているということです。勿論、この状況の克服は一朝一夕に達成されるものではありませんが、我々は連帯してその理想を実現したいという見果てぬ夢に駆られている次第です。
賃労働という構造、並びに雇用-被雇用という関係の超克! 私のヴィジョンとしては、賃労働から解放される時、そこに祝祭が現出します。祝祭=共働にこそ真に人間らしい生活があると思います。
さて現実の新しき村の生活は、一応「賃労働という構造・雇用-被雇用という関係」を超えています。我々は日々労働しておりますが、別に村に雇用されているわけではなく、従って給料なるものも得ていません。(尤も月々3万5千円が支給されますが、それは個人費といって、40年以上村で生活している人も入村したばかりの人も一律です。)しかし、それは率直に言って、未だカタチばかりのものです。つまり実質的には依然としてお金の力に束縛されているということです。勿論、この状況の克服は一朝一夕に達成されるものではありませんが、我々は連帯してその理想を実現したいという見果てぬ夢に駆られている次第です。
生活と生存
「生活(live)するということは、この世において稀有のことである。大抵の人は生存(exist)している。そしてそれがすべてである」(オスカア・ワイルド)
「大抵の人は生きている。滅多に飢え死にすることはない。しかし、ただ生きているということだけで、その生き方は鳥や獣がただ生きているから生きているというのと異ならない。生きているということの悦びを享受するのでなければ本当に生きているとは云えない。それはただワイルドの所謂生存することであって生活することではない」(本間久雄)
自然に流されて、ただ生きて在るだけでは人間として本当に生きることにはなりません。生を輝かせること、すなわち生活の芸術化にこそ人間として本当に生きることの意味があると思います。生存より生活、自然の楽園より芸術の人工楽園。生きることの真の快楽は自然には存在しないものを創造することにあるのではないでしょうか。おそらく、こうした私の考えには異論が多く、全ての人がこうした生活観を受容するわけではないと思われます。生存段階で満足して生きられる人はそれでいいでしょう。こんな言い方をすれば悪しきエリート主義のように誤解されるかもしれませんが、生存以上の生活を求める私の気持には切実なものがあります。そして、そこにこそ「新しき生活」の本質があるとも思っています。皆さんはどうお考えでしょうか。
「大抵の人は生きている。滅多に飢え死にすることはない。しかし、ただ生きているということだけで、その生き方は鳥や獣がただ生きているから生きているというのと異ならない。生きているということの悦びを享受するのでなければ本当に生きているとは云えない。それはただワイルドの所謂生存することであって生活することではない」(本間久雄)
自然に流されて、ただ生きて在るだけでは人間として本当に生きることにはなりません。生を輝かせること、すなわち生活の芸術化にこそ人間として本当に生きることの意味があると思います。生存より生活、自然の楽園より芸術の人工楽園。生きることの真の快楽は自然には存在しないものを創造することにあるのではないでしょうか。おそらく、こうした私の考えには異論が多く、全ての人がこうした生活観を受容するわけではないと思われます。生存段階で満足して生きられる人はそれでいいでしょう。こんな言い方をすれば悪しきエリート主義のように誤解されるかもしれませんが、生存以上の生活を求める私の気持には切実なものがあります。そして、そこにこそ「新しき生活」の本質があるとも思っています。皆さんはどうお考えでしょうか。