真に新しきもの
新しき村の運動=新しき生活の運動。私は「新しきもの(の実現)」に憑かれています。これに対して「新しきものが必ずしも良いとは限らない。むしろ古きものの方が良いが場合もある」という意見があるでしょう。確かに「古きものの方が安心できる」ということはあります。しかし私は敢えて「古きものの全否定」を目指したいと思います。これは戦略的に選び取られた一つの態度に他なりません。
古きものの徹底した抹殺! 私の考えでは、「古きものの方が良い」などということは原理的にあり得ません。例えば長年に渡って安心して使用しているものは、厳密に言えば「古きもの」にはならないのです。むしろ、それは常に新しいと言うべきでしょう。すなわち常に新しいものは決して古くならぬものであり、それは永遠的なものだと思われます。所謂「古典」(classic)というものがそうです。音楽の分野で言えば、モオツァルトやベートーベンなど、その作品が生み出されたのはかなり昔ですが、それは決して古くならず常に新しい感動を与え続けます。そのように真に新しきものは永遠に他なりません。そこが核心です。
「古き村-近代都市-新しき村」という弁証法は決して古くなることのない「真に新しきもの=永遠」の実現を目的にしています。しかし、もはやそうした理念的なことを問題にしている段階ではありません。問題は「真に新しきもの=永遠」とは具体的にどういうものであり、それを如何にして実現していくかということでしょう。すなわち「これが人間の本当の生活か! さればもう一度!」と言えるような永遠に新しき生活のヴィジョンを明確に示し、それを具体化することです。私はその問題に全てを賭けたいと思っています。
古きものの徹底した抹殺! 私の考えでは、「古きものの方が良い」などということは原理的にあり得ません。例えば長年に渡って安心して使用しているものは、厳密に言えば「古きもの」にはならないのです。むしろ、それは常に新しいと言うべきでしょう。すなわち常に新しいものは決して古くならぬものであり、それは永遠的なものだと思われます。所謂「古典」(classic)というものがそうです。音楽の分野で言えば、モオツァルトやベートーベンなど、その作品が生み出されたのはかなり昔ですが、それは決して古くならず常に新しい感動を与え続けます。そのように真に新しきものは永遠に他なりません。そこが核心です。
「古き村-近代都市-新しき村」という弁証法は決して古くなることのない「真に新しきもの=永遠」の実現を目的にしています。しかし、もはやそうした理念的なことを問題にしている段階ではありません。問題は「真に新しきもの=永遠」とは具体的にどういうものであり、それを如何にして実現していくかということでしょう。すなわち「これが人間の本当の生活か! さればもう一度!」と言えるような永遠に新しき生活のヴィジョンを明確に示し、それを具体化することです。私はその問題に全てを賭けたいと思っています。