ユートピアのリアリティについて | 新・ユートピア数歩手前からの便り

ユートピアのリアリティについて

毎日夢のようなことばかり書いておりますが、ユートピアは私にとってリアリティのあるものです。そしてユートピアのリアリティとは「理念の実定性(positivity)」の問題だと考えています。例えばキリスト教に関して言えば、「イエスの教えに共鳴すること」(その理念に主体的に関係すること)と「キリスト教徒になること」(その実定性である教会に客観的に所属すること)との間には質的な断絶があります。ニーチェはアンチ・キリストの代表のように見做されていますが、本質的にはイエスの言葉に共鳴して次のように言っています――「最初にキリスト教徒になった者は最初にイエスを裏切った者だ」。

ルターの「宗教改革」、比較的身近なところでは内村鑑三の「無教会主義」、また禅の方では「殺仏殺祖」というものがありますが、それらは全て「理念の実定性」を克服する試みに他なりません。私にとっての「新しき村の運動」も同様のものです。言うまでもなく、新しき村は宗教ではありませんが、その「新しさ」はユートピア(もしくは理想のコミューン)という「理念の実定性」の克服にこそ見出されねばなりません。

問題はその克服の仕方です。克服は単なる否定ではありません。実定性は理念が堕落する根源的要因であり、確かに実定性を否定すれば理念は純粋に維持されるでしょう。しかしそうした純粋な理念は決して現実化されぬものであり、言わば画餅にすぎません。それは、変な譬えですが、聖なる処女が子どもを産まないのと同じです。私はそのような穢れなき純粋性に意味を見出すことができません。むしろ、たとい穢れても、理念を現実化することに意味を見出したいと思います。従って、私は実定性を逆説的に肯定することを選びます。実定性は一つの運命であり、現実に生きる人間はこれを避けることができないからです。その意味において、純粋理念の楽園は永久に失われたと思い知るべきでしょう。しかし私は理念の堕落に妥協するつもりはありません。実定性が真に克服された現実――そこにこそ真の楽園としての「新しき村」があると信じています。