新・ユートピア数歩手前からの便り -231ページ目

新しき村の魅力

曲がりなりにも村で生活している私が言うのも変ですが、現在の新しき村には魅力がありません。おそらく長い失業状態に疲れ果て「とにかく最低限安定した生活がしたい」という人以外は今の村で暮らしたいなどと思わないでしょう。

村の農業労働は必ずしも楽ではありませんが、さりとて重労働というほどでもなく、規定の時間内の労働さえ果せば「食うに困らぬ生活」を確保することができます。敢えて今の村に魅力を探せば、その程度のことしか見当たらないのが現状です。これは実に情けないことだと思います。言うまでもなく、こんなものが新しき村本来の魅力である道理がありません。

新しき村の精神、もしくはその理念は人間(特に若者)の根源的情熱を鼓舞するものであり、そこにこそ新しき村本来の魅力があると私は思っています。何故、今の村ではその魅力が失われてしまったのか。その原因を過去に遡って詳細に分析することも必要ですが、今の私はむしろ前向きに新しき村本来の魅力を取り戻すことに力を注ぎたい。すなわち全ての人間が「そこで生活したい!」と心から思うような村づくりです。

これが極めて困難なプロジェクトであることは言うまでもありません。しかし決して不可能だとは思いません。確かに今の村は閉塞的で活気がありませんが、情熱溢れる人々が結集すれば必ず道は開けます。私はその道を「新生会」の活動によって切り開こうと思っているわけですが、「一から新しき村をつくってやろう!」という気概のある人はいないでしょうか。「きっといる!」と私は信じています。

祝祭というドラマについて

人間が生きる。それは他の生物が生きるのと全く質を異にしています。言うまでもなく、優劣の差ではありません。端的に次元が違うのです。

人間が生きる。するとそこにドラマが生れます。言い換えれば、人間として生きる限り、その生がドラマと化すことから逃れることはできないのです。勿論、地味で平凡なドラマもあれば、多くの人達に注目される華やかなドラマもあります。しかし、誰からも注目されなくても、それが一つのドラマであることに変わりはありません。そして人生がドラマであるならば、世界は一つの劇場と化すでしょう。

私にとって、その自覚が生の出発点になります。それは言わばフォーマットです。すなわち生そのもの=自然を劇場にフォーマットして初めて、人はそこにドラマとしての生を書きこむことができるのです。

ただし、ここで留意すべきことは、「世界=劇場」という自覚を個人に限定することは面白くないということです。尤も、個々の小劇場でも素晴らしいドラマは可能でしょう。しかし私はむしろ、個々のドラマが統合されていく大劇場を望みます。そこにおいてこそ、本当に面白いドラマが実現されると思うからです。一人芝居も面白いですが、多くの人間が渦巻くドラマの方が遥かに面白いのではないでしょうか。それは全ての人間が出演者であると同時に観客でもあるような祝祭のドラマに他なりません。

祝祭共働態とエリート主義

先日或る女性から、「新しき村でない人々は本当の人間として生きていない」と言っているような感じがする、という批判的意見を戴きました。言うまでもなく、それは誤解であり、私は以下のような弁明をしました。

私は「新しき村」を決して閉鎖的に考えておらず、「人間として本当に生きる」ことを求める全ての人達に開かれた場にしたいと思っています。ですから、「新しき村でない人々の生き方を否定する」というようなことは決してありません。…新しき村の外でも人間として本当に生きようと懸命に頑張っている人はたくさんいるでしょう。私はそれを認めます。ただ、もしそうした人達が一つの連帯の輪を築くならば、そこが「新しき村」になると思っています。つまり、「新しき村」とは埼玉の村に限定されるものではないのです。勿論、世界各地に生れるであろう連帯の輪を「新しき村」と名付ける必要はありません。私にとって「新しき村」とは、「人間として本当に生きることを求める人達が連帯する場」の一つの象徴にすぎません。

実際、私の夢見るユートピアとしての祝祭共働態は全ての人間の生が輝く連帯の輪に他なりません。しかし生の輝きは人それぞれです。それは主観的なものですから、客観的にその優劣を比較することには意味がないでしょう。とは言え、例えば「草野球を楽しんでいる人の生の輝き」と「プロ野球選手の生の輝き」には明らかに質的な違いがあります。私はこの差異を「全ての人がナンバー・ワンの輝きを求めなくてもいい。それぞれの生の輝きがオンリー・ワンなのだ」と言うことで御茶を濁したくありません。むしろ私は敢えて「祝祭共働態では全ての人間がナンバー・ワンの生の輝きを求めるべきだ」と主張したいと思います。そもそもそれぞれの人間がオンリー・ワンであることは当然のことであり、そんな次元に安住していては到底生を輝かせることなどできないでしょう。勿論、全ての人間がナンバー・ワンになれる道理はありません。勝者がいれば必ず敗者がいます。しかし、そこにそれぞれのオンリー・ワンのドラマが生れてくるのではないでしょうか。私はナンバー・ワンを求めることなくしてオンリー・ワンはあり得ないと思っています。

何れにせよ、私は全ての人間が「最高の生の輝き」を求めることを期待しています。ただ先述したように、「何が最高の生の輝きか」ということは客観的に決められる(優劣の)問題ではありません。しかし、それぞれの人間が「最高の生の輝き」を主体的に求めるということは祝祭共働態に不可欠です。少なくとも「最高の生の輝き」を断念し、中途半端な次元で妥協している人達との連帯はあり得ないでしょう。その点、祝祭共働態はエリート主義に基くものだと誤解される可能性があります。弱者切捨のようなことは決して本意ではありませんが、やはりそれぞれの人間の求める「生の輝き」には質的な差異があることは認めざるを得ないと思います。祝祭共働態は全ての人間に開かれていますが、それを本当に求める人は自ずと限られてくるでしょう。

公益法人としての新しき村

新しき村は公益法人(財団法人)です。そして公益とは公共の利益、すなわち「世のため、人のためになること」でしょう。では、新しき村の目的とすべき公益とは何か。それは「寄付行為」に明記されているように、「理想社会の実現」に他なりません。しかし、今の村の現状において、果してその目的を達成するための活動がなされているでしょうか。私は甚だ疑問に思わざるを得ません。もし今の村は公益活動をしていると言う人がいるなら、それは一体何か。そのことを確かめることが、今度の戦いにおける論点の一つになると思います。

おそらく想定される反応の一つは、「新しき村が理想社会の実現という公益事業を目的としていることについては異論の余地はなく、改めて問う必要はない。しかし一気にそうした観念的もしくは抽象的な目的を成就することなどできない。現実になすべきことは、先ず村を経済的に安定させることだ。その結果、村の経済が磐石なものになって初めて、現実的な公益事業に着手できるだろう」というものだと思われます。しかし、こうした所謂二段階論は正しいでしょうか。

確かに人助けをするためには、先ず人助けができるだけの力をつけなければなりません。人助けする力もないくせに人助けしようとすることは無謀、というより滑稽でしょう。しかし、だからと言って、人助けを棚上げすることは許されるでしょうか。「善きサマリア人の譬え」を引き合いに出すまでもなく、少なくとも人助けを目的(存在理由)とする公益法人にとって、それは致命的なことだと思われます。それは言わば家を建てることを目的とする大工が、今はその能力がないという理由で家を建てないのに等しいでしょう。そもそも未だ家を建てる力のない者を大工と呼ぶことはできません。同様に、もし今の村に未だ人助けをするだけの力がないのなら、それは実質上公益法人の名に値しないと言わざるを得ません。

勿論、今は無力でも、将来その力をつけていくことはできます。現在公益法人としての機能を果していない村であっても、真に公益的な活動をしていく村に生長していくことは可能でしょう。しかし,それは「先ず経済的な力をつけてから」というような二段階論的なことではないと思います。問題は、経済的な発展もさること乍ら、今の村にそうした生長への可能性があるか、ということです。果して今の村に公益法人としての自覚があるか――残念乍ら、それさえ疑わしいのが偽らざる現状です。

宣戦布告

「財団法人 新しき村」には年2回(12月・3月)の評議員会があります。

以前の便りでお知らせしたように、私は昨年末の評議員会において、「新生会」の設立というかたちで新しき村の変革を提案しました。それは結果的に認められませんでしたが、来たる3月20日の評議員会でもう一度戦ってみようと思っています。下記の拙文は、機関誌「新しき村 3月号」に掲載された評議員会の案内です。


新しき村会員大会・評議員会
  
  日時 評議員会 三月二十日(日)
  場所 新しき村・公会堂 

 いつも空回りに終始してしまいますが、今度の評議員会こそ「大激論」の場にしたいと思います。新しき村の使命並びにその本来の活動について徹底的に議論したいのです。すなわち、具体的な論点を挙げれば、次のような問題です。

・新しき村はこのまま農業生産を黙々としているだけでいいのか。
・新しき村は公益法人としての使命を果しているのか。
・新しき村に「新体制」が必要だとすれば、それは如何なるものか。

 私は敢えて挑発的に「今の村は新しき村になっていない」と述べていますが、この点に関して未だ有効な議論が一度もなされておりません。「君は君、我は我也」と言って本格的な「対決」を避けていては真に「されど仲よき」と言える境地に達することはできないでしょう。それ故、私は「退場宣告」を覚悟で会に臨みたいと思っています。多くの方が参加され、真剣に話し合えることを心より願っております。

私はこの文章を、「新しきこと」を始めることに抵抗している人達に対する「宣戦布告」のつもりで書きました。おそらく、これが村における私の最後の戦いになると思います。

もし皆さんの中に私の戦いに興味のある方がおられるなら、是非3月20日に御来村下さい。別に村の会員でなくても、参加は自由です。心よりお待ちしております。

自立学校(?)としての新しき村

全ての求道者、すなわち「人間として本当に生きる道」を摸索している全ての人々の集う場――私は新しき村をそのような場にしたいと思っています。それは或る意味で一つの「理想の学校づくり」の試みだと言えるかもしれません。しかし、そこで何を教えるのか。

この点に関しては根源的な発想の転換が必要になってくると思います。すなわち理想の学校は「何かを教える場」ではなく、生徒が主体的に「何かを学ぼうとする場」であるべきだということです。尤も生徒に主体的に学ぶ意志があるならば、もはや学校など必要ないのかもしれません。むしろ、それ以前の段階において主体性や自立する力を育むところにこそ学校の存在理由はあると言えるでしょう。つまり人を真に自立させるための学校――しかし、ここには大きな矛盾があります。

人を自立させるというのは、どう考えてみてもおかしい。人は自立するのであって、自立させられるものではありません。自立を強制することはできないし、またできたとしても、強制された自立は真の自立とは言えないでしょう。従って、「自立(させる)学校」という理念には根源的な矛盾があると思います。

しかし自立できない人間(殊に若者)、もしくは人間としての真の自立を求めて摸索している人がいるというのは厳然たる事実です。そして、そうした人達と「理想の共働態」を形成していくところにこそ新しき村の使命(もしくは存在理由)があると私は思っています。それは広い意味での「教育」と言えますが、決して「自立するノウ・ハウ」を教えるということではないでしょう。おそらくそんなものはないだろうし、また今の新しき村に自立を教えるだけの力などありません。

何れにせよ、私自身が未だ真の自立を求めて苦闘している者に他なりません。そのような私にとって教育は、「共に学ぶこと」に近い。ただ私にもそれなりの経験の蓄積があるので、何らかの「導き」(と言っては、おこがましいですが)は可能でしょう。そこに「学校」というカタチも生れてくるかもしれません。しかし、それは学校と言うよりも、「求道の場=道場」(何かスパルタ式のような感じになってしまいますが)と言った方がいいでしょう。共に「真の自立」という理想を目指して様々な摸索のできる場――それが私の夢見る「新しき村」のヴィジョンです。

人間として本当に生きる

私は思耕する。「人間として本当に生きる」とは如何なることか。

尤も、この問いの立て方には異論があるかもしれません。「人間として」という限定、そして「本当に」という条件。すなわち人間であるからといって他の生物と異なる生き方を求める必要はなく、また生きることに「本当」を求めることは一つの倒錯にすぎない(もしくは、人間は自由だから「本当に生きる」ことさえ強制されることはあり得ない)、と考えることも可能だということです。こうした見解からすれば、「本当の生」は人間が勝手に捏造した観念でしかなく、むしろ「人間として本当に生きる」ことを求めれば求めるほど、生そのものから遠ざかっていくことになるでしょう。

確かに「人間として本当に生きる」ことは一つの虚構かもしれません。しかし、だからと言って、人間は生そのものに即して生きられるでしょうか。たといできたとしても、生そのものに即して生きる者はもはや人間ではないと私は思います。言い換えれば、生そのものに即して生きる自然のイキモノが「本当に生きる」という観念を抱く時、幸か不幸かそのイキモノは人間になるのです。

人間の生は生そのもの=自然ではないと思います。勿論、自然を拒絶して生きられないことは言うまでもありません。人間は自然に根ざして思耕し、「本当の生」を結実させるのです。それは虚構と言うよりも、一つのドラマだと言うべきでしょう。

自他共生

新しき村の理念の一つに自他共生がありますが、その本質は祝祭にあると私は考えています。一般的に自他共生と言うと、何か他者を生かす、もしくは他者のために奉仕するといった倫理的なもののように理解されがちですが、それは明らかに誤解です。

自他共生は「他者のために生きること」が目的ではありません。共生である以上、それは当然のことと思われるかもしれませんが、真の共生は自己と他者を平均的(もしくは平等)に生かすことではないのです。むしろ、その目的はあくまでも「自己を生かす」ことにあると言うべきでしょう。

勿論、自己だけを生かそうとするエゴイズムでは自己を真に生かすことはできません。「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福もあり得ない」という宮澤賢治の言葉のように、他者を含む世界全体が生きなければ自己もまた生きることはないでしょう。すなわち自己を真に生かすことにおいて、他者を生かすことは必要条件になるということです。そして自己が生き、他者も生きるという理想は祝祭においてこそ実現するでしょう。そこでは自己と他者が一つの全体を形成しますが、さりとてその全体において自己と他者の区別がなくなってしまうわけではありません。祝祭は自己と他者が共にその生を輝かせる饗宴なのです。

「楽しいこと」と「楽なこと」

理想の生活とは如何なるものか。或る人は一生遊んで暮らすことのできる生活だと言うかもしれません。しかし一般的には不可能です。また、たとい可能だとしても、遊びで生が輝き続けるとは思えません。少なくとも私は遊んで暮らせることを自らの理想の生活とは見做せないと思います。おそらく私の場合、楽なことでは理想の生活を実現できないでしょう。とは言え、別に殊更苦しみたいわけではありません。

問題は苦楽ではなく、あくまでも「如何にして生を輝かせるか」ということです。そして、もし遊びを純粋な消費活動だとするならば、それだけで生を輝かせることは不可能だと思います。私はむしろ生産(創造)活動を中心に生きていきたい。更に言えば、肉体の糧を生産する労働もさること乍ら、できれば魂の糧を創造する仕事に集中したいと思っています。従って私の理想とする生活は、仕事によって生を輝かせることだと言えるでしょう。遊びも必要ですが、それは所詮息抜きにすぎません。それは決して生の目的にはならないと思います。

何れにせよ、真に楽しいことは楽なことではありません。楽しいことと楽なこと、それらは或る程度重なる部分もありますが、究極的には質を異にしています。むしろ真に楽しいことを実現するためには苦しいことを余儀なくされるのが現実でしょう。また苦しいことがそのまま楽しいことになる場合もあります。例えば一般的に嫌なこととされているトイレ掃除でも、自分が苦労して開いた店のトイレ掃除なら苦しくても楽しいことになるのではないでしょうか。

逆に言えば、何もしないでいることは楽なことではありますが、長くその状態が続けばやがて苦痛に変わるでしょう。すなわち肉体的に楽なことでも精神的には苦しいこともあるということです。従って真に楽しいことを求めるならば、肉体的にも精神的にも楽な状態を脱し、敢えてプレッシャーがかかるような状態に自分を追いこむ必要があります。気楽な傍観者は生きることの真の楽しさを味わうことができないと思います。

カイラクとケラク

この便りを読んで戴いている皆さんは、「人間として本当に生きる」ことを熾烈に求めている私を非常にストイックな人間だと思われているかもしれません。しかし、それは誤解です。むしろ私はエピキュリアンだと自認しています。と言うのも、「人間として本当に生きる」ことが私にとって最高の快楽だからです。しかし一口に快楽と言っても、武田泰淳の言葉を借りれば、カイラクとケラクの二種類があるでしょう。

私はその区別を、肉体の求めるカイラクと魂の求めるケラクというように理解していますが、「人間として本当に生きる」快楽はカイラクとケラクの矛盾的自己同一にあると思います。それは具体的に如何なるものでしょうか。

先ずカイラクとケラクを二元論的に理解すべきではないと考えます。その差異は生の根源的力の現象面でのことにすぎません。従って或る種の修行者のように、カイラクを滅却することによってケラクを得ようとするのは根本的に間違っています。少なくとも私はカイラクを否定するつもりはありません。すなわち私は如何なる意味においても禁欲主義者ではないということです。

しかし、カイラクのみに溺れるつもりもありません。またカイラクを中途半端に抑制してケラクを得ようとする姑息な道も私の本意ではありません。あくまでもカイラク全開によるケラクの全開をこそ望むのです。こうした私の快楽追求は一種のフーリエ主義だと言えるのかもしれません。