変革と逃避
私は恰も新しき村の代表であるかのような感じでこの便りを書いていますが、事実は全く異なります。むしろ次第に私の居場所がなくなりつつあるというのが現状です。従って早晩、村を離れることになるのは間違いありません。しかし「新しき村の実現」を自らの究極的関心とする私が離村するとは如何なることでしょうか。明らかに論理的に矛盾しています。論理的に言えば、離村は逃避以外のなにものでもないでしょう。
新しき村を実現するために離村する――しかし、これは論理の問題ではありません。現実の問題です。村内にいては私の考える「新しき村」の活動ができないという現実、すなわち今の村は未だ「新しき村」になっていないという現実です。裏を返して言えば、現在の体制を根源的に変革すべきだと思っている村人は殆どいないということです。それ故、自分の理想とする「新しき村」を実現するためには離村するしかないと思うわけです。
これを逃避と言うならば、ルターもまた逃避者だと言わざるを得ないでしょう。果してルターはカトリック教会の内部に留まって「宗教改革」を実現することができたでしょうか。後にカトリック内部からの改革がなされましたが、それはルターの外部からの一撃があって初めて可能になったものに他なりません。確かに内部からの変革(内部告発も含めて)こそ理想だと言えます。しかし、たといそれが成立するにしても、極めて長い時間が必要とされます。気の短い私にはとても待てません。また変革の同志を内部に結集するにしても、内部にいては実際的なことは何もできないでしょう。今の私にとっては外部からの変革が唯一の可能性のように思えます。勿論、ルターが破門されたように、私も村から追放されるまで内部からの変革に努めることは言うまでもありません。
新しき村を実現するために離村する――しかし、これは論理の問題ではありません。現実の問題です。村内にいては私の考える「新しき村」の活動ができないという現実、すなわち今の村は未だ「新しき村」になっていないという現実です。裏を返して言えば、現在の体制を根源的に変革すべきだと思っている村人は殆どいないということです。それ故、自分の理想とする「新しき村」を実現するためには離村するしかないと思うわけです。
これを逃避と言うならば、ルターもまた逃避者だと言わざるを得ないでしょう。果してルターはカトリック教会の内部に留まって「宗教改革」を実現することができたでしょうか。後にカトリック内部からの改革がなされましたが、それはルターの外部からの一撃があって初めて可能になったものに他なりません。確かに内部からの変革(内部告発も含めて)こそ理想だと言えます。しかし、たといそれが成立するにしても、極めて長い時間が必要とされます。気の短い私にはとても待てません。また変革の同志を内部に結集するにしても、内部にいては実際的なことは何もできないでしょう。今の私にとっては外部からの変革が唯一の可能性のように思えます。勿論、ルターが破門されたように、私も村から追放されるまで内部からの変革に努めることは言うまでもありません。
拒否と創造
若者は純粋であればあるほど、不純なものに対して強い拒否反応を示します。それは言わば若者の特権であり、無限に正しいものです。しかし私はその純粋性が往々にして拒否に止まっていることを非常に残念に思います。
例えば今の腐った学校を拒否して不登校になる――それは、逃避でさえなければ、基本的に正しい反応です。しかし重要なことはその拒否からの一歩、すなわち自分の理想とする学校(学びの場)を「つくる」ことではないでしょうか。「さがす」のではなく「つくる」のです。それは理想の社会を求める場合でも同じだと思います。
新しき村にせよ、他の様々なコミューンの試みにせよ、自分の理想とするものに完全に一致するものなどあり得ません。「理想がすでに実現しているもの(場所)」を「さがす」のは無意味です。ユートピアは「さがす」ものではなく、あくまでも自分で「つくる」しかないものです。この文脈において、私は「理想の実現」をつくろうとしている人々との連帯を切に求めているわけです。
例えば今の腐った学校を拒否して不登校になる――それは、逃避でさえなければ、基本的に正しい反応です。しかし重要なことはその拒否からの一歩、すなわち自分の理想とする学校(学びの場)を「つくる」ことではないでしょうか。「さがす」のではなく「つくる」のです。それは理想の社会を求める場合でも同じだと思います。
新しき村にせよ、他の様々なコミューンの試みにせよ、自分の理想とするものに完全に一致するものなどあり得ません。「理想がすでに実現しているもの(場所)」を「さがす」のは無意味です。ユートピアは「さがす」ものではなく、あくまでも自分で「つくる」しかないものです。この文脈において、私は「理想の実現」をつくろうとしている人々との連帯を切に求めているわけです。
ユートピアのリアリティについて
毎日夢のようなことばかり書いておりますが、ユートピアは私にとってリアリティのあるものです。そしてユートピアのリアリティとは「理念の実定性(positivity)」の問題だと考えています。例えばキリスト教に関して言えば、「イエスの教えに共鳴すること」(その理念に主体的に関係すること)と「キリスト教徒になること」(その実定性である教会に客観的に所属すること)との間には質的な断絶があります。ニーチェはアンチ・キリストの代表のように見做されていますが、本質的にはイエスの言葉に共鳴して次のように言っています――「最初にキリスト教徒になった者は最初にイエスを裏切った者だ」。
ルターの「宗教改革」、比較的身近なところでは内村鑑三の「無教会主義」、また禅の方では「殺仏殺祖」というものがありますが、それらは全て「理念の実定性」を克服する試みに他なりません。私にとっての「新しき村の運動」も同様のものです。言うまでもなく、新しき村は宗教ではありませんが、その「新しさ」はユートピア(もしくは理想のコミューン)という「理念の実定性」の克服にこそ見出されねばなりません。
問題はその克服の仕方です。克服は単なる否定ではありません。実定性は理念が堕落する根源的要因であり、確かに実定性を否定すれば理念は純粋に維持されるでしょう。しかしそうした純粋な理念は決して現実化されぬものであり、言わば画餅にすぎません。それは、変な譬えですが、聖なる処女が子どもを産まないのと同じです。私はそのような穢れなき純粋性に意味を見出すことができません。むしろ、たとい穢れても、理念を現実化することに意味を見出したいと思います。従って、私は実定性を逆説的に肯定することを選びます。実定性は一つの運命であり、現実に生きる人間はこれを避けることができないからです。その意味において、純粋理念の楽園は永久に失われたと思い知るべきでしょう。しかし私は理念の堕落に妥協するつもりはありません。実定性が真に克服された現実――そこにこそ真の楽園としての「新しき村」があると信じています。
ルターの「宗教改革」、比較的身近なところでは内村鑑三の「無教会主義」、また禅の方では「殺仏殺祖」というものがありますが、それらは全て「理念の実定性」を克服する試みに他なりません。私にとっての「新しき村の運動」も同様のものです。言うまでもなく、新しき村は宗教ではありませんが、その「新しさ」はユートピア(もしくは理想のコミューン)という「理念の実定性」の克服にこそ見出されねばなりません。
問題はその克服の仕方です。克服は単なる否定ではありません。実定性は理念が堕落する根源的要因であり、確かに実定性を否定すれば理念は純粋に維持されるでしょう。しかしそうした純粋な理念は決して現実化されぬものであり、言わば画餅にすぎません。それは、変な譬えですが、聖なる処女が子どもを産まないのと同じです。私はそのような穢れなき純粋性に意味を見出すことができません。むしろ、たとい穢れても、理念を現実化することに意味を見出したいと思います。従って、私は実定性を逆説的に肯定することを選びます。実定性は一つの運命であり、現実に生きる人間はこれを避けることができないからです。その意味において、純粋理念の楽園は永久に失われたと思い知るべきでしょう。しかし私は理念の堕落に妥協するつもりはありません。実定性が真に克服された現実――そこにこそ真の楽園としての「新しき村」があると信じています。
祝祭共働と賃労働
祝祭共働としての労働は賃労働ではありません。むしろ賃労働の止揚にこそ祝祭共働の本質があると言えるでしょう。労働力を商品として資本家(雇用者)に売り、その代価として賃金を得る――この構造そのものを打破したいのです。どういう影響によるものか、私は幼い頃から「金のために働く」ということを蔑視してきました。更に言えば、お金(の力)を何か穢れたものと見做してきました。しかし現実にはお金は必要不可欠なものであり、如何に自給自足の生活を求めてみても、お金を稼ぐことなくして生活を維持していくことはできません。すなわち現実の生活は否応なくお金を稼ぐことを基本とせざるを得ない構造になっているということです。この構造から如何にして脱するか――ここに「新しき生活」の問題があると思います。
賃労働という構造、並びに雇用-被雇用という関係の超克! 私のヴィジョンとしては、賃労働から解放される時、そこに祝祭が現出します。祝祭=共働にこそ真に人間らしい生活があると思います。
さて現実の新しき村の生活は、一応「賃労働という構造・雇用-被雇用という関係」を超えています。我々は日々労働しておりますが、別に村に雇用されているわけではなく、従って給料なるものも得ていません。(尤も月々3万5千円が支給されますが、それは個人費といって、40年以上村で生活している人も入村したばかりの人も一律です。)しかし、それは率直に言って、未だカタチばかりのものです。つまり実質的には依然としてお金の力に束縛されているということです。勿論、この状況の克服は一朝一夕に達成されるものではありませんが、我々は連帯してその理想を実現したいという見果てぬ夢に駆られている次第です。
賃労働という構造、並びに雇用-被雇用という関係の超克! 私のヴィジョンとしては、賃労働から解放される時、そこに祝祭が現出します。祝祭=共働にこそ真に人間らしい生活があると思います。
さて現実の新しき村の生活は、一応「賃労働という構造・雇用-被雇用という関係」を超えています。我々は日々労働しておりますが、別に村に雇用されているわけではなく、従って給料なるものも得ていません。(尤も月々3万5千円が支給されますが、それは個人費といって、40年以上村で生活している人も入村したばかりの人も一律です。)しかし、それは率直に言って、未だカタチばかりのものです。つまり実質的には依然としてお金の力に束縛されているということです。勿論、この状況の克服は一朝一夕に達成されるものではありませんが、我々は連帯してその理想を実現したいという見果てぬ夢に駆られている次第です。
生活と生存
「生活(live)するということは、この世において稀有のことである。大抵の人は生存(exist)している。そしてそれがすべてである」(オスカア・ワイルド)
「大抵の人は生きている。滅多に飢え死にすることはない。しかし、ただ生きているということだけで、その生き方は鳥や獣がただ生きているから生きているというのと異ならない。生きているということの悦びを享受するのでなければ本当に生きているとは云えない。それはただワイルドの所謂生存することであって生活することではない」(本間久雄)
自然に流されて、ただ生きて在るだけでは人間として本当に生きることにはなりません。生を輝かせること、すなわち生活の芸術化にこそ人間として本当に生きることの意味があると思います。生存より生活、自然の楽園より芸術の人工楽園。生きることの真の快楽は自然には存在しないものを創造することにあるのではないでしょうか。おそらく、こうした私の考えには異論が多く、全ての人がこうした生活観を受容するわけではないと思われます。生存段階で満足して生きられる人はそれでいいでしょう。こんな言い方をすれば悪しきエリート主義のように誤解されるかもしれませんが、生存以上の生活を求める私の気持には切実なものがあります。そして、そこにこそ「新しき生活」の本質があるとも思っています。皆さんはどうお考えでしょうか。
「大抵の人は生きている。滅多に飢え死にすることはない。しかし、ただ生きているということだけで、その生き方は鳥や獣がただ生きているから生きているというのと異ならない。生きているということの悦びを享受するのでなければ本当に生きているとは云えない。それはただワイルドの所謂生存することであって生活することではない」(本間久雄)
自然に流されて、ただ生きて在るだけでは人間として本当に生きることにはなりません。生を輝かせること、すなわち生活の芸術化にこそ人間として本当に生きることの意味があると思います。生存より生活、自然の楽園より芸術の人工楽園。生きることの真の快楽は自然には存在しないものを創造することにあるのではないでしょうか。おそらく、こうした私の考えには異論が多く、全ての人がこうした生活観を受容するわけではないと思われます。生存段階で満足して生きられる人はそれでいいでしょう。こんな言い方をすれば悪しきエリート主義のように誤解されるかもしれませんが、生存以上の生活を求める私の気持には切実なものがあります。そして、そこにこそ「新しき生活」の本質があるとも思っています。皆さんはどうお考えでしょうか。
宗教と経済の一致
新しき村の理想について考える時、私は松井浄蓮(1899-1992)の次のような言葉を思い浮かべます。
お互ひ人間同士の間で、一類は神に祈り仏を憶ふに専らのゆゑに尊しとし、他類は生産の業に追われてゐる俗物なりとするが如き、無邪気な今までの通念はもはや論外として、この際、なんとしても人類の誇りにかけてやってみねばならぬものに、宗教と経済の一致、神と生産の自己同一ということがある。
松井浄蓮は農禅一味を実践した「百姓菩薩」ですが、その一生は「自ら耕して食ふは邪命食」(農耕など食うための労働は悟りを開く修行の妨げになる)という公案に対する反逆だったと言えるでしょう。周知のように、古代においては労働を蔑視する思想が支配的であり、新約聖書においてもイエスは自分をもてなすために忙しく働くマルタよりも何もしないで一心にイエスの話に耳を傾けるマリアの方を正しいとしました。確かに人はパンのみにて生くるにあらず、肉体の糧をめぐる俗事に忙殺される生活は人間にとって決して望ましいものではないでしょう。やはりパン以上のもの、すなわち魂の糧を専一に求める生活こそ人間として本当に生きることだと思われます。
しかし、だからと言って、肉体の糧を得るための労働を単純に否定することはできないでしょう。少なくとも浄蓮は、その求道を深めるにつれて、労働の否定が正しいものとは到底思えなくなりました。かくして「宗教と経済の一致、神と生産の自己同一」を求めることになるわけですが、私はそこに「新しき村の精神」に通底するものを見ます。肉体の糧を得るための「労働」と魂の糧を満たすための「仕事」との大調和――そこにこそ我々の求めるべき「新しき生活」があると私は思っています。
お互ひ人間同士の間で、一類は神に祈り仏を憶ふに専らのゆゑに尊しとし、他類は生産の業に追われてゐる俗物なりとするが如き、無邪気な今までの通念はもはや論外として、この際、なんとしても人類の誇りにかけてやってみねばならぬものに、宗教と経済の一致、神と生産の自己同一ということがある。
松井浄蓮は農禅一味を実践した「百姓菩薩」ですが、その一生は「自ら耕して食ふは邪命食」(農耕など食うための労働は悟りを開く修行の妨げになる)という公案に対する反逆だったと言えるでしょう。周知のように、古代においては労働を蔑視する思想が支配的であり、新約聖書においてもイエスは自分をもてなすために忙しく働くマルタよりも何もしないで一心にイエスの話に耳を傾けるマリアの方を正しいとしました。確かに人はパンのみにて生くるにあらず、肉体の糧をめぐる俗事に忙殺される生活は人間にとって決して望ましいものではないでしょう。やはりパン以上のもの、すなわち魂の糧を専一に求める生活こそ人間として本当に生きることだと思われます。
しかし、だからと言って、肉体の糧を得るための労働を単純に否定することはできないでしょう。少なくとも浄蓮は、その求道を深めるにつれて、労働の否定が正しいものとは到底思えなくなりました。かくして「宗教と経済の一致、神と生産の自己同一」を求めることになるわけですが、私はそこに「新しき村の精神」に通底するものを見ます。肉体の糧を得るための「労働」と魂の糧を満たすための「仕事」との大調和――そこにこそ我々の求めるべき「新しき生活」があると私は思っています。
ディズニーランドよりも楽しい村づくり
村は今、大きな転機を迎えています。拡大か、縮小か。全世界に発展していく外向的な村か、自給自足の内向的な村か。しかし厳密に言えば、こうした「あれか―これか」の問いは適切ではありません。何故なら、全世界に発展していく村を実現するためには完璧な「自給自足のシステム」が必要になるでしょうし、逆に真に自給自足を実現しようとすれば「全世界にひろがるネットワーク」が不可欠になるからです。ここには自給自足という理想に関する絶対的な逆説があります。そもそも自給自足というものは本来内向的なものであり、原理的にはネットワークを拒絶するものだと言えるでしょう。従って純粋な自給自足は極めてスケールの小さなものになる他はなく、理想的社会には程遠いものと言わざるを得ません。と言うより、それは社会を必要とはしないでしょう。従って問題は、そうした閉鎖的な自給自足状態を果して理想と見做し得るか、ということになります。この点に関しては様々な見解があると思われますが、少なくとも私は閉鎖的な自給自足に対して否定的な立場をとります。そのような状態は一種の「引きこもり」にすぎないからです。むしろ私は常に外部に開かれた「共働態」を理想としたい。尤も「自給自足」という理念自体は決して棄てるべきではないとも思っています。ただし、それは地球規模の「自給自足」でなければなりません。孤立した自給自足ではなく、共働による自給自足――これは矛盾にしか聞こえないかもしれませんが、この逆説にこそ我々の目指すべき理想があると思っています。
要するに、あくまでも理想の「共働態」を求めるならば、それはもはや限定された場所での内向的自給自足では実現できないということです。従って、結果的に拡大は不可避だと思われます。勿論無益な巨大化は避けなければなりませんが、理想の「共働態」は地球規模の「外向的自給自足ネットワーク」としてしか成り立たないと思われます。それは「一国社会主義」というものは原理的にあり得ず、社会主義の理想を実現しようとすれば、否応なく世界的にならざるを得ないのと同断でしょう。
何れにせよ、八十六年に及ぶ新しき村の歴史を「農業現実派と藝術理想派との関係」を軸に弁証法的に読み解けば、今やその統合の時を迎えつつあることは間違いありません。その意味において、今こそ村内・村外の力を結集して「新しき体制」を確立すべきだと思います。
では「新しき体制」とは何でしょうか。今、私の念頭にあるものは「デイズニーランドよりも楽しい村づくり」という想念です。多くの人々は楽しさを求めてデイズニーランドに足を運びます。そして実際に楽しい時間を過ごしているのでしょう。しかしそれは受動的な娯楽による楽しさにすぎません。勿論、娯楽であろうと楽しさには違いないのですから、それはそれでいいでしょう。しかし私はそこに人間として生きることの本当の楽しさはないと思います。むしろ自分に関心のあることに主体的に取り組み、それを実現していくことにこそ真の楽しさがあるのではないでしょうか。言うまでもなく、「娯楽の場」であるデイズニーランドと「生活の場」である新しき村を同列に論じるわけにはいきませんが、後者にこそ人間が本当に楽しく生きられる可能性があると私は信じています。
要するに、あくまでも理想の「共働態」を求めるならば、それはもはや限定された場所での内向的自給自足では実現できないということです。従って、結果的に拡大は不可避だと思われます。勿論無益な巨大化は避けなければなりませんが、理想の「共働態」は地球規模の「外向的自給自足ネットワーク」としてしか成り立たないと思われます。それは「一国社会主義」というものは原理的にあり得ず、社会主義の理想を実現しようとすれば、否応なく世界的にならざるを得ないのと同断でしょう。
何れにせよ、八十六年に及ぶ新しき村の歴史を「農業現実派と藝術理想派との関係」を軸に弁証法的に読み解けば、今やその統合の時を迎えつつあることは間違いありません。その意味において、今こそ村内・村外の力を結集して「新しき体制」を確立すべきだと思います。
では「新しき体制」とは何でしょうか。今、私の念頭にあるものは「デイズニーランドよりも楽しい村づくり」という想念です。多くの人々は楽しさを求めてデイズニーランドに足を運びます。そして実際に楽しい時間を過ごしているのでしょう。しかしそれは受動的な娯楽による楽しさにすぎません。勿論、娯楽であろうと楽しさには違いないのですから、それはそれでいいでしょう。しかし私はそこに人間として生きることの本当の楽しさはないと思います。むしろ自分に関心のあることに主体的に取り組み、それを実現していくことにこそ真の楽しさがあるのではないでしょうか。言うまでもなく、「娯楽の場」であるデイズニーランドと「生活の場」である新しき村を同列に論じるわけにはいきませんが、後者にこそ人間が本当に楽しく生きられる可能性があると私は信じています。
oxymoronとしての新しき村
新しき村の精神は人間の主体的情熱を掻き立てます。キルケゴール的に言えば、その精神が求める理想は「そのために生きかつ死ぬことができるようなイデー」に他なりません。すでに八十六年の歳月を閲していながら、そのインパクトは常に新しい。しかしその「真の新しさ」がどれだけ理解されているでしょうか。勿論その理解は一様ではなく、様々な見解があるに違いありません。例えば私は最近、新しき村の「村」という語に抵抗を覚えるという意見に二度接する機会を得ました。すなわち新しい社会の実現を目指す運動に「村」という古臭い語は相応しくないというのです。しかし私はこうした見解に新しき村の「真の新しさ」に関する根本的誤解の典型を見出します。
確かに「新しき村」という言葉は矛盾を孕んでいます。それは英語で言うoxymoron(矛盾形容法。例えば「冷たい炎」など)に他なりません。すなわち村に相応しい形容は「古い」であり、それを否定する(近代)都市にこそ「新しい」という形容が適していると言えるでしょう。しかし乍ら、「古き村」は言うに及ばず、「新しい都市」にも「真の新しさ」はないと私は思います。それらは共に我々の究極的な理想にはなり得ません。
何故でしょうか。「新しい都市」における個人主義では「生の充実」が得られないからです。ここには人間として本当に生きることの絶対的な逆説があります。言うまでもなく、それは新しき村の精神が理想とする主体的真理ですが、「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福もあり得ない」という宮澤賢治の言葉にも通底しています。すなわち全体の幸福と個人の幸福は密接に関係しており、それらは弁証法的に統合されなければならないということです。更にその統合を村と都市の関係において考えるならば、前者の公的領域と後者の私的領域が問題になるでしょう。そして現代人のニヒリズムの根源が個々バラバラに切り離された孤立感にあるとすれば、その克服の可能性は村における全体的結びつき=連帯感にこそ見出されるに違いありません。尤も、その全体的結びつきは往々にして悪しき全体主義の「古き村」へと堕する傾向にあります。そこに近代都市が出現しなければならぬ必然性もあるわけですが、さりとて我々の本来的実存が育まれる「魂のふるさと」としてのムラ(原郷)をも否定することはできないでしょう。勿論、我々は後向きに「古き村」に還ろうとするのではありません。あくまでも前向きに「新しき村」を実現したいのです。では、「古き村」と「新しき村」の違いは何でしょうか。実に難しい問題ですが、今後も諦めることなく思耕を深めていきたいと思います。
確かに「新しき村」という言葉は矛盾を孕んでいます。それは英語で言うoxymoron(矛盾形容法。例えば「冷たい炎」など)に他なりません。すなわち村に相応しい形容は「古い」であり、それを否定する(近代)都市にこそ「新しい」という形容が適していると言えるでしょう。しかし乍ら、「古き村」は言うに及ばず、「新しい都市」にも「真の新しさ」はないと私は思います。それらは共に我々の究極的な理想にはなり得ません。
何故でしょうか。「新しい都市」における個人主義では「生の充実」が得られないからです。ここには人間として本当に生きることの絶対的な逆説があります。言うまでもなく、それは新しき村の精神が理想とする主体的真理ですが、「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福もあり得ない」という宮澤賢治の言葉にも通底しています。すなわち全体の幸福と個人の幸福は密接に関係しており、それらは弁証法的に統合されなければならないということです。更にその統合を村と都市の関係において考えるならば、前者の公的領域と後者の私的領域が問題になるでしょう。そして現代人のニヒリズムの根源が個々バラバラに切り離された孤立感にあるとすれば、その克服の可能性は村における全体的結びつき=連帯感にこそ見出されるに違いありません。尤も、その全体的結びつきは往々にして悪しき全体主義の「古き村」へと堕する傾向にあります。そこに近代都市が出現しなければならぬ必然性もあるわけですが、さりとて我々の本来的実存が育まれる「魂のふるさと」としてのムラ(原郷)をも否定することはできないでしょう。勿論、我々は後向きに「古き村」に還ろうとするのではありません。あくまでも前向きに「新しき村」を実現したいのです。では、「古き村」と「新しき村」の違いは何でしょうか。実に難しい問題ですが、今後も諦めることなく思耕を深めていきたいと思います。
新しき人について
本日は一昨日言及した「新しき人」に関して、やはり宗教哲学的な見地から考察した拙論をお送りします。相変わらず生硬な文章で恐縮ですが、忍耐強くお読み戴ければ幸いに存じます。
新しき人について
日比野英次
はじめに
祝祭共働態としての新しき村に生きる人間は「新しき人」でなければならない。しかし残念乍ら現代人は未だ「新しき人」になることができないでいる。そこに新しき村が実現しない最大の理由があると言えるだろう。現代人は「古き人」と「新しき人」の中間にいる。ここで「古き人」というのは archaic man のことであり、それは単に古代に生きていた人間という通時的な意味だけではなく、人間実存の「祖型」(archetype)を体現している人間という共時的な意味も含む。現代人はそうした「古き人」から出発して現代社会を築き上げた。しかしそれは人間が本当に人間らしく生きられるものでは未だない。それ故最近は「田舎暮らし」に象徴されるような自然回帰的志向が目立ち始めているが、いくら現代社会が絶望的なものであるとは言え、後向きに自然に戻ってみたところで仕様がないだろう。それは何ら問題の究極的な解決にはならない。確かに「古き人」の社会には人間生活の「祖型」がある。しかしそれはあくまでも人間の出発点であって到達点ではない。そもそも私は、人間が本当に人間らしく生きる生き方は自然に生きることではないと思っている。と言うのは、人間の自然性は反自然性にあるからだ。勿論、反自然性に徹して生きていくことが不可能であることは言うまでもない。人間は自然と反自然の稜線上を生きる者であり、言わば反自然的自然性を満たす生活こそ人間の本来的生であると思われる。そうした逆説的な生を実現する者こそ「新しき人」なのだ。では、「新しき人」とは如何なる人間なのか。それについて考える前に、先ず「古き人」について考えてみたい。
一 古き人
人生というテクストは実存の垂直的次元と水平的次元で織られている。それらは人生というテクストの経(たていと)と緯(よこいと)に他ならない。現代人の生は、拡張された緯(水平的次元)のために、その経(垂直的次元)が擦り切れつつあるようなテクストだと言えよう。従って現代人は意味に溢れる生のテクストを得るためには、現在の強い緯に耐えるべく経を強化しなければならない。この文脈において、「古き人」の生は現代人にとって一つの理想的な生のテクストだと見なされ得ることだろう。何故なら、それは強い経を持っているからだ。エリアーデによれば、古代社会は俗なる活動について何も知らず、全ての活動――狩猟や農耕、更には性の交わりに至るまで――は何らかの形で聖なるものに参与することを意味する。すなわち現代人の生が俗なるものに浸透しているとすれば、「古き人」の生は聖なるものに身も心も浸っているということだ。
こうした「古き人―現代人」という対照において我々は、現在虚無的な現代人も古代の聖なるものとの接触を通じて生まれかわることができるという「エリアーデの希望」に注目することができる。エリアーデは世俗化によって今や虚無的な世界に陥っている現代人を人間実存がその本質を見出し得る古代の楽園に導こうとしているからだ。そうしたプログラムにおいて、エリアーデは意識的かつ主体的に歴史をつくろうとしている現代人を、歴史に対して否定的な態度をとって伝統を重視する「古き人」と対立させているが、ここで我々が見出すのは決定的な「あれか―これか」、すなわち「古き人」の聖なるもの(始源的祖型の宇宙的反復)か現代人の世俗性(絶対精神の究極的顕現に向けての歴史的発展)か、に他ならない。この「あれか―これか」を通じて、エリアーデは現代人を「古典的な神秘神学の否定の道( via negativa)、すなわち俗なるものの絶対的な否定によってのみ聖なるものを知り得るという弁証法的な道」に導こうとしている。要するにエリアーデによれば、祖型もしくは宇宙論の反復(これは歴史を定期的に廃絶することによって歴史的出来事に超歴史的意味を与えることに他ならない)という伝統的な地平に生きる「古き人」の生き方にのみ絶望を免れる唯一の道があるということだ。果して本当にそうだろうか。
確かに「古き人」の生を反復することによって現代人はその擦り切れつつある経を強化し、それによってニヒルの淵から脱け出ることができるだろう。しかし、それは事実上現代人の生の放棄であり、単に現代人の生というテクストを「古き人」のそれに取り替えたにすぎない。その取り替えにおいて現代人は歴史(世俗的な地平)のみならず自身の現代性をも廃棄することを余儀なくされるに違いない。成程、現代人の生のテクストにおける経はその取り替えによって間違いなく強化されるだろう。しかし、それと同時に今度は緯を擦り切れさせてしまうに違いない。「古き人」の生のテクストにおいては経が強いかわりに緯が弱い。現代人の生のテクストはその逆だ。しかし我々には強い経と強い緯を同時にもつ全く新しい生のテクストが必要なのだ。それは「古き人」の生も現代人の生も超克したものでなければならない。もし人生に意味があるとすれば、そのようなテクストにこそ織り込まれ得るだろう。では我々は如何にしてそのようなテクストを得ることができるだろうか。
二 新しき人
サルは自然の一部だ。ヒトも自然の一部であることに変わりはないが、人間は自然を一歩踏み出している。その一歩こそニヒリズムの根源だが、それが人間の原事実だと言えよう。「古き人」はそうした原事実に原罪を意識し、自然の楽園(アルカディア)への回帰を求めてきた。それに対して「新しき人」は自然を超えた楽園(ユートピア=未だないもの)を求める。正にその楽園こそ「強い経と強い緯を同時にもつテクスト」であり、それはラディカルに聖なるものとラディカルに俗なるものとの Coincidentia Oppositorum (対立者の一致)に他ならない。尤もエリアーデが描く「古き人」の生における「始源の全体性」の中心にもCoincidentia Oppositorum という象徴が見出される。しかし、それは非弁証法的な同一性にすぎず、「新しき人」が実現すべき真のCoincidentia Oppositorum とは質的に異なっている。すなわち非弁証法的な同一性としての「始源の全体性」においては聖なるものと俗なるものの対立が全く解消されており、もはや聖なるものも俗なるものもその弁証法的な意味を持ち得ないのだ。ヘーゲルなら「全ての牛を黒くしてしまう暗闇」だと言うような「始源の全体性」は歴史において具体化され、真に現実的な全体性にならねばならない。
こうした観点からすれば、「古き人」の生に表現された Coincidentia Oppositorum (始源の全体性)は単に「ラディカルに聖なるもの」と「去勢された俗なるもの」との一致にすぎず、事実上「全ての俗なるものを聖なるものにしてしまうお祓い」だと言えよう。「新しき人」が実現すべきものは、そのような聖なるものの圧倒的な力による俗なるものの内包ではなく、あくまでも「ラディカルに聖なるもの」と「ラディカルに俗なるもの」との弁証法的なCoincidentia Oppositorum でなければならない。ここで注意すべきことは、こうした「新しき人」の試みは「古き人」の生の単なるアンチ・テーゼではないということだ。「新しき人」が実現すべきラディカルな世俗化は俗なるものの圧倒的な力によって聖なるものを内包せんとする一方的な運動ではなく、ましてや聖なるものの完全なる否定を目指すものでもない。むしろそれはラディカルな聖化なのだ。弁証法的に言えば、聖なるものはラディカルに世俗化されることによってのみ自らをラディカルに実現し得る。聖化は世俗化の根源的な推進力であり、聖化なしでは世俗化もラディカルに実現され得ないだろう。
しかし乍ら、たといその究極の目的が世界のラディカルな聖化であろうとも、その歴史における運動はあくまでもラディカルな世俗化として意識されなければならない。もし聖化として意識されれば、我々の意識は聖なるものの運命、すなわち神聖なものの罠に陥ることになる。世俗化をラディカルに実現するとは、同時に聖なるものの運命を克服することに他ならない。その意味において、「新しき人」とは決して実定化されぬ聖なるものを俗なる世界の真只中で体現する者だと言えよう。彼は孤高の聖者ではない。人々との「祝祭空間」において日々静かに笑っているデクノボオなのだ。
おわりに
現代人は「古き人」の祖型と「新しき人」のヴィジョンの間で引き裂かれている。前者は自然楽園であるアルカディアに、後者は人工楽園であるユートピアにそれぞれ通じている。何れを選ぼうと自由だが、新しき村は後者を目指すべきだと私は思う。さもなければ、新しき村の存在理由がなくなるからだ。新しき村の「真の新しさ」という理想を実現するためには「新しき人」がどうしても必要になる。言い換えれば、新しき村と「新しき人」は不可分であり、ともに「真の新しさ」が求められているのだ。
確かに「古き人」のように自然に生きること、すなわち人間生活の祖型は我々の「魂のふるさと」と言える。しかし「かえるところにあるまじきもの」だ。我々がニヒリズムを真に克服するためには「新しき人」にならねばならない。後向きに「古き人」に戻ろうとするのではなく、あくまでも前向きに「新しき人」になろうとすべきだ。そこにこそ新しき村における生活の真髄があると私は思っている。
新しき人について
日比野英次
はじめに
祝祭共働態としての新しき村に生きる人間は「新しき人」でなければならない。しかし残念乍ら現代人は未だ「新しき人」になることができないでいる。そこに新しき村が実現しない最大の理由があると言えるだろう。現代人は「古き人」と「新しき人」の中間にいる。ここで「古き人」というのは archaic man のことであり、それは単に古代に生きていた人間という通時的な意味だけではなく、人間実存の「祖型」(archetype)を体現している人間という共時的な意味も含む。現代人はそうした「古き人」から出発して現代社会を築き上げた。しかしそれは人間が本当に人間らしく生きられるものでは未だない。それ故最近は「田舎暮らし」に象徴されるような自然回帰的志向が目立ち始めているが、いくら現代社会が絶望的なものであるとは言え、後向きに自然に戻ってみたところで仕様がないだろう。それは何ら問題の究極的な解決にはならない。確かに「古き人」の社会には人間生活の「祖型」がある。しかしそれはあくまでも人間の出発点であって到達点ではない。そもそも私は、人間が本当に人間らしく生きる生き方は自然に生きることではないと思っている。と言うのは、人間の自然性は反自然性にあるからだ。勿論、反自然性に徹して生きていくことが不可能であることは言うまでもない。人間は自然と反自然の稜線上を生きる者であり、言わば反自然的自然性を満たす生活こそ人間の本来的生であると思われる。そうした逆説的な生を実現する者こそ「新しき人」なのだ。では、「新しき人」とは如何なる人間なのか。それについて考える前に、先ず「古き人」について考えてみたい。
一 古き人
人生というテクストは実存の垂直的次元と水平的次元で織られている。それらは人生というテクストの経(たていと)と緯(よこいと)に他ならない。現代人の生は、拡張された緯(水平的次元)のために、その経(垂直的次元)が擦り切れつつあるようなテクストだと言えよう。従って現代人は意味に溢れる生のテクストを得るためには、現在の強い緯に耐えるべく経を強化しなければならない。この文脈において、「古き人」の生は現代人にとって一つの理想的な生のテクストだと見なされ得ることだろう。何故なら、それは強い経を持っているからだ。エリアーデによれば、古代社会は俗なる活動について何も知らず、全ての活動――狩猟や農耕、更には性の交わりに至るまで――は何らかの形で聖なるものに参与することを意味する。すなわち現代人の生が俗なるものに浸透しているとすれば、「古き人」の生は聖なるものに身も心も浸っているということだ。
こうした「古き人―現代人」という対照において我々は、現在虚無的な現代人も古代の聖なるものとの接触を通じて生まれかわることができるという「エリアーデの希望」に注目することができる。エリアーデは世俗化によって今や虚無的な世界に陥っている現代人を人間実存がその本質を見出し得る古代の楽園に導こうとしているからだ。そうしたプログラムにおいて、エリアーデは意識的かつ主体的に歴史をつくろうとしている現代人を、歴史に対して否定的な態度をとって伝統を重視する「古き人」と対立させているが、ここで我々が見出すのは決定的な「あれか―これか」、すなわち「古き人」の聖なるもの(始源的祖型の宇宙的反復)か現代人の世俗性(絶対精神の究極的顕現に向けての歴史的発展)か、に他ならない。この「あれか―これか」を通じて、エリアーデは現代人を「古典的な神秘神学の否定の道( via negativa)、すなわち俗なるものの絶対的な否定によってのみ聖なるものを知り得るという弁証法的な道」に導こうとしている。要するにエリアーデによれば、祖型もしくは宇宙論の反復(これは歴史を定期的に廃絶することによって歴史的出来事に超歴史的意味を与えることに他ならない)という伝統的な地平に生きる「古き人」の生き方にのみ絶望を免れる唯一の道があるということだ。果して本当にそうだろうか。
確かに「古き人」の生を反復することによって現代人はその擦り切れつつある経を強化し、それによってニヒルの淵から脱け出ることができるだろう。しかし、それは事実上現代人の生の放棄であり、単に現代人の生というテクストを「古き人」のそれに取り替えたにすぎない。その取り替えにおいて現代人は歴史(世俗的な地平)のみならず自身の現代性をも廃棄することを余儀なくされるに違いない。成程、現代人の生のテクストにおける経はその取り替えによって間違いなく強化されるだろう。しかし、それと同時に今度は緯を擦り切れさせてしまうに違いない。「古き人」の生のテクストにおいては経が強いかわりに緯が弱い。現代人の生のテクストはその逆だ。しかし我々には強い経と強い緯を同時にもつ全く新しい生のテクストが必要なのだ。それは「古き人」の生も現代人の生も超克したものでなければならない。もし人生に意味があるとすれば、そのようなテクストにこそ織り込まれ得るだろう。では我々は如何にしてそのようなテクストを得ることができるだろうか。
二 新しき人
サルは自然の一部だ。ヒトも自然の一部であることに変わりはないが、人間は自然を一歩踏み出している。その一歩こそニヒリズムの根源だが、それが人間の原事実だと言えよう。「古き人」はそうした原事実に原罪を意識し、自然の楽園(アルカディア)への回帰を求めてきた。それに対して「新しき人」は自然を超えた楽園(ユートピア=未だないもの)を求める。正にその楽園こそ「強い経と強い緯を同時にもつテクスト」であり、それはラディカルに聖なるものとラディカルに俗なるものとの Coincidentia Oppositorum (対立者の一致)に他ならない。尤もエリアーデが描く「古き人」の生における「始源の全体性」の中心にもCoincidentia Oppositorum という象徴が見出される。しかし、それは非弁証法的な同一性にすぎず、「新しき人」が実現すべき真のCoincidentia Oppositorum とは質的に異なっている。すなわち非弁証法的な同一性としての「始源の全体性」においては聖なるものと俗なるものの対立が全く解消されており、もはや聖なるものも俗なるものもその弁証法的な意味を持ち得ないのだ。ヘーゲルなら「全ての牛を黒くしてしまう暗闇」だと言うような「始源の全体性」は歴史において具体化され、真に現実的な全体性にならねばならない。
こうした観点からすれば、「古き人」の生に表現された Coincidentia Oppositorum (始源の全体性)は単に「ラディカルに聖なるもの」と「去勢された俗なるもの」との一致にすぎず、事実上「全ての俗なるものを聖なるものにしてしまうお祓い」だと言えよう。「新しき人」が実現すべきものは、そのような聖なるものの圧倒的な力による俗なるものの内包ではなく、あくまでも「ラディカルに聖なるもの」と「ラディカルに俗なるもの」との弁証法的なCoincidentia Oppositorum でなければならない。ここで注意すべきことは、こうした「新しき人」の試みは「古き人」の生の単なるアンチ・テーゼではないということだ。「新しき人」が実現すべきラディカルな世俗化は俗なるものの圧倒的な力によって聖なるものを内包せんとする一方的な運動ではなく、ましてや聖なるものの完全なる否定を目指すものでもない。むしろそれはラディカルな聖化なのだ。弁証法的に言えば、聖なるものはラディカルに世俗化されることによってのみ自らをラディカルに実現し得る。聖化は世俗化の根源的な推進力であり、聖化なしでは世俗化もラディカルに実現され得ないだろう。
しかし乍ら、たといその究極の目的が世界のラディカルな聖化であろうとも、その歴史における運動はあくまでもラディカルな世俗化として意識されなければならない。もし聖化として意識されれば、我々の意識は聖なるものの運命、すなわち神聖なものの罠に陥ることになる。世俗化をラディカルに実現するとは、同時に聖なるものの運命を克服することに他ならない。その意味において、「新しき人」とは決して実定化されぬ聖なるものを俗なる世界の真只中で体現する者だと言えよう。彼は孤高の聖者ではない。人々との「祝祭空間」において日々静かに笑っているデクノボオなのだ。
おわりに
現代人は「古き人」の祖型と「新しき人」のヴィジョンの間で引き裂かれている。前者は自然楽園であるアルカディアに、後者は人工楽園であるユートピアにそれぞれ通じている。何れを選ぼうと自由だが、新しき村は後者を目指すべきだと私は思う。さもなければ、新しき村の存在理由がなくなるからだ。新しき村の「真の新しさ」という理想を実現するためには「新しき人」がどうしても必要になる。言い換えれば、新しき村と「新しき人」は不可分であり、ともに「真の新しさ」が求められているのだ。
確かに「古き人」のように自然に生きること、すなわち人間生活の祖型は我々の「魂のふるさと」と言える。しかし「かえるところにあるまじきもの」だ。我々がニヒリズムを真に克服するためには「新しき人」にならねばならない。後向きに「古き人」に戻ろうとするのではなく、あくまでも前向きに「新しき人」になろうとすべきだ。そこにこそ新しき村における生活の真髄があると私は思っている。
Coincidentia Oppositorumとしての新しき村
本日は宗教哲学的な観点から「新しき村」を考察した拙論を御笑覧下さい。
Coincidentia Oppositorumとしての新しき村
日比野英次
はじめに
私は先の拙文「新しき村の実現について」において、「古き村―近代都市―新しき村」という弁証法に則して新しき村の真の「新しさ」について考えてみた。そして古き村の抑圧性(個を全体に統一する共同体)と近代都市のニヒリズム(根無し草の個人主義)を止揚するものとして祝祭共働態というヴィジョンを新しき村に同定した。私はそれが個を真に活かす全体(個即全・全即個の統合体)の成就に他ならず、そこにおいてこそ人間は本当に生きられると信じている。しかし乍ら、前回はそうしたことを充分説得的に語り得なかった嫌いがある。そこで今回はその点を反省し、「人間が本当に生きること」に焦点を絞って、新しき村を実現することの必然性について更に徹底的に考えてみたいと思う。
「人間が本当に生きること」と新しき村
私は本当に生きようとする人間にとって新しき村は不可避だと思っている。言い換えれば、人が本当に生きることを成就する時、そこに新しき村は実現するのだ。従って本当に生きることに自覚的でない人間にとって、新しき村は永久に無縁のものだろう。確かに人は新しき村を知らなくても生きていくことはできる。しかし、それは本当の生ではない。ここまで断言するからには、人間の本当の生と新しき村の関係を明確に示さねばならぬ。人間が本当に生きるとは如何なることか。
しかし人間にとって「何が本当の生か」などということは一概に決められるものではない。サルトルの言うように、人間の実存が本質に先立つものならば、「本当の生」はそれぞれの人間が自由に創造していくべきものだろう。少なくとも「本当の生」を客観的に全ての人間に妥当するものとして示すことはできない。それ故、私としては自分が本当だと主体的に信じる生き方を示す他はないだろう。そこで先ずは私自身が求めている「生の意味」を近代の世俗化との関係において示すことから始めたいと思う。
一、生の意味と世俗化
「真に重要な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断すること、それが哲学の根本問題に答えることだ」―アルベール・カミュはそう言っている。しかし我々は如何にして人生が生きるに値するか否かを判断し得るのか。おそらくそうした判断は生きるに値する意味が果たして人生にあるかどうかによるであろう。こうして人は生の意味を追求し始めるわけであるが、その際あらゆる意味の追求は常にその意味が織り込められたテクストの存在を前提していることに留意しなければならない。すなわち人生の意味の追求とは人生を一つのテクストと見做し、それを解釈することに他ならないのだ。
勿論、人生というテクストが一応一冊の本を成してはいるものの甚だ落丁の多い不条理なものであることは言うまでもない。私の人生は間違いなく私自身のものだが、そのテクストの著者が間違いなく私自身かどうかということになると実に心許ない。私は今自分の人生というテクストを意識的に書こうと努めているものの、常に書かされているという不快感から逃れることができない。果たして自分の人生というテクストを完全に主体的に書いていると言い切れる人がいるだろうか。それは自分が生まれた時の光景を見た記憶があると言い張るような人でも不可能ではないか。何故なら、人生というテクストは「私」が生まれる以前から書き始められているからだ。出来ることなら私はのっぺらぼうで生まれ、その後そこに自分の望む顔を描いてみたかったと思う。しかしそのようなことは私の誕生以前に書かれたDNAが許さない。一体誰が私のDNAを書いたのか。私としては私の承諾なしにそれが書かれたことを遺憾に思うが、覆水盆に返らず、今更嘆いてみても仕方がない。それは常に書かれているのであり、書いている本人は決して姿を現すことはない。私はのっぺらぼうで生まれてきたかったと言ったが、私がのっぺらぼうになるのを禁じている者は常にのっぺらぼうなのだ。
さて、そんなわけで人生というテクストは先ず「私」が生まれる以前に殆ど既にのっぺらぼうによって書かれ、生まれてからも親によって書かれ、環境によって書かれ、様々な交友関係によって書かれていき、「私自身が書いている!」と自信をもって言い得る部分は極めて限られていると言わざるを得ない。では、このように自分自身の人生でありながら自分自身が絶対的な著者であるとは言い切れぬ不条理なテクストを如何にして解釈すればいいのか。私はここで解釈学上の議論に深入りするつもりはない。勿論、人生の意味の追求にとって、それを人生というテクストに織り込んだと思われるのっぺらぼうの認識可能性あるいはその意図の解釈論―それが著者の意図を単に再構築するという次元を超えたものであることは言うまでもない―は重要な問題だ。しかしここで私が検討したいと思っていることは、もし我々の人生に意味があるのなら、そしてその意味が我々にとって生きるに値するものであるのなら、それを書いたのっぺらぼうは聖なるものでなければならぬということだ。もしのっぺらぼうが単なるのっぺらぼうにすぎないのなら、我々はDNAの奴隷、もしくは食欲、性欲、支配欲―要するに自然における傾向性の奴隷にすぎず、一切が他律的に規定された生物であることになる。もしかしたら、それが人間の真実であるかもしれない。しかし断じて人間の真理ではあり得ない。ニーチェは言っている―「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができない類の誤謬である。生にとっての価値が最後に決定を下す」と。人生という不条理なテクストの解釈はこうした認識の遠近法によるしかないと思われる。すなわち私は聖なるものという「生にとっての価値」を梃子にして人生という不条理なテクストをこじあけ、それによって人生の意味を書き取りたいのだ。
そこで人生というテクストを解釈するにあたって、私は次のようなテーゼを以て始めたいと思う。
「人生の意味は聖なるものの現前と密接に関係している。人は聖なるものなしに有意味(義)に生きることはできない」
おそらくこうしたテーゼに基く私の解釈は、聖なるものなしで充分有意味に生きられると思っている人々、更には聖なるものは自分の自由にとって邪魔なものだと思っている多くの現代人には全く無意味なものであろう。しかしそのように全く世俗化された人間がこの世に実在し得るものだろうか。私は疑わしく思っている。ミルチャ・エリアーデが言うように、自分は非宗教的だと思っている現代人もその実カムフラージュされた神話や堕落した儀式にしがみついている場合が多いのではないか。「人間はいずれにせよ何かを崇拝せざるを得ない。神をしりぞけると今度は偶像を拝み出す」とはドストエフスキィの言葉である。しかしながら現代人が神を殺してしまったということ、近代における世俗化の過程を通じて聖なるものを喪失してしまったということは否定し得ぬ事実であろう。現代人は明らかにニヒリズムに陥っている。聖なるものの不在、そして生の絶対的な意味の欠如―我々の歴史は今やのっぺらぼうの行進にすぎず、そこで我々は意味もなく生まれ、意味もなく死んでいく。人生の意味は近代に始まる世俗化の波に洗われてしまったかのようだ。しかし、もし私のテーゼが正しいのなら、何故近代人は聖なるものを失ってしまったのか。近代化=世俗化の方向は根本的に間違ったものだったのであろうか。私はそうは思わない。むしろ世俗化は聖なるものの真の現前にとって不可欠の歴史的契機だと思っている。というのは、近代における世俗化の本質は聖なるものそれ自体の否定にではなく、あくまでも聖なるものの実定性(positivity)の否定に在るからだ。我々の生の絶対的な意味に密接に関係している聖なるものは不幸なことに実定的なものと化してしまう運命にある。私はこの実定的な聖なるものを「神聖なもの」と呼び、聖なるものそれ自体と区別したいと思う。
二、聖なるものと神聖なもの
神聖なものは聖なるものの力によって生み出される。ヘーゲル的に言えば、聖なるものは「生ける実体」であり、神聖なものはその実定化されたものだということになろう。こうした聖なるものの自己疎外態としての神聖なものは、具体的に言えば我々の宗教経験の祖型(archetype)だと言える。我々はこうした実定性の肯定的な形態を否定することはできない。それなしでは聖なるものは経験され得ないからだ。従って、この第一段階における実定性(神聖なものの誕生)は嘆かわしいものでは全くなく、むしろ我々の宗教経験にとって不可避なものだと考えられる。聖なるものが我々の宗教経験に顕現する際、それは実定的なもの(神聖なもの)にならざるを得ない。神聖なものの誕生は聖なるものと我々の宗教経験の相互的な運動に因るものだからである。しかし、こうした肯定的な実定性は残念ながら長続きしない。どんなに純粋な現象でも、その表象における肯定的な実定性はやがて否定的な実定性へと転化せざるを得ないからだ。聖なるものという現象(epiphany)といえども、その運命を免れることはできない。例えば、イエスの教えがキリスト教と化し、やがて大審問官の宗教へと転化・堕落していったように。イエスという男に受肉した聖なるものが腐敗した教会の神聖なものとなり、それに対する反抗が近代の世俗化を引き起こしたのだ。
しかし、こうした聖なるものの現象学的運命は何も宗教のみに限られたものではなく、人間が求めている理想的社会についても言えるだろう。すなわち、もし近代の世俗化は「古き村」の神聖なパラダイムに対する不満から発していると言い得るのなら、それは近代的な意識がそのようなパラダイムと相容れなくなったことを示している。近代人はもはや「古き村」の神聖さを受け容れることができない。何故なら、それは他律的なもの(the heteronomous)として機能するからだ。しかしムラは初めから「古き村」として生まれるわけではない。厳密に言えば、人間がその歴史において最初に経験する共同体=ムラは決して否定的なものではなかったに違いない。ムラは聖なるものを核として形成される。従って人間が最初に経験するムラは本来「垂直的な共働体」だと言えよう。それは始原の楽園であり、封建主義的な「古き村」以前に未だ貧富の差のない相互扶助的な理想状態、言わば原始共産制社会があったと考えられる。しかし乍ら、ムラの核であるべき聖なるものはやがて神聖なものへと堕落する運命にある。その運命において、たといムラの精神が本来他律的なものではなく、むしろ聖なるものであったとしても、ムラは他律的な神聖なものを核とする「古き村」へと転化・堕落することを避け得ない。ムラから「古き村」へ―それは聖なるものを核とする「垂直的な共働体」から神聖なものを核とする「水平的な共同体」への移行を意味する。たといどんなに平和で長閑なムラでも、やがては「古き村」と化してしまう。所謂「楽園喪失」は人間の運命なのだ。ただ人間以外の生物のみがそのような楽園に留まることができる。何故か。人間は自然そのものに対して完全に受動的であり続けることはできないからだ。おそらく始原の楽園は牧歌的田園のアルカディアとして経験されると思われるが、自然は人間に対してそのように甘美なものであり続けることはできない。むしろ苛酷なものであることの方が多いだろう。その時、自然は人間にとって一つの壁となる。制御の対象となる。かくしてアルカディアとしての楽園は失われ、人間の真の楽園はユートピアとして求められることになる。
では、ユートピアとは何か。それは「古き村」以前のアルカディア(始原の楽園としてのムラ)の対極に、近代の世俗化を経て実現されるべきものだ。「近代都市」に発する現代の閉塞状況を打開するためには、後向きに「古き村」以前の理想的状態(アルカディア)に戻ろうとするのではなく、あくまでも前向きに「新しき村」(ユートピア)を実現する他はないだろう。すなわち「古き村」の他律的なパラダイムを世俗化することによって真に自律的(autonomous)足らんとした「近代のプロジェクト」を成就することだ。しかし、残念乍ら、このプロジェクトは未だ完成していない。というのは近代の世俗化は聖なる次元の喪失をもたらしたからだ。ここに近代意識の二律背反(antinomy)がある。近代人は神聖なパラダイムから脱出することによって自律的足らんとしたが、その試みは聖なるものまで無に帰し、結果的に彼自身をニヒリズムへと追いやってしまった。汚れた盥の湯水は流してしまってもいいが、それと一緒に赤ん坊まで流してはいけない。近代の世俗化は両方とも流してしまった。何れにせよ、こうした世俗化の帰結は次のような重要な点を示していると思われる。
人は聖なるものの現前への関係においてのみ有意味に生きられる。もしそうなら、「古き村」の神聖なパラダイムは他律的なものであり、聖なるものの堕落した形態であったに違いない。それ故、我々は決して他律的なものとはならぬ聖なるものを実現せねばならぬ。正にそのような聖なるものの実現においてのみ世俗化はラディカルに完成するものと思われる。
しかし乍ら、決して他律的なものとはならぬ聖なるものとは如何なるものか。もしそれを神律的なもの(the theonomous)と考えるなら、そこにおける神的なものは我々人間の自律的理性と矛盾するものであってはならない。すなわち神律的な聖なるものとは、神的なものと人間的なもの、要するに聖と俗の「対立の一致」(coincidentia oppositorum)でなければならないだろう。
聖と俗のcoincidentia oppositorum としての新しき村―私はそこに祝祭共働態というヴィジョンを見る。それは谷川雁の言う「存在の原点」から咲いた花だと言えるが、もはやその詳述は後日に譲る他はない。
おわりに
我々が「新しき村」として求めている理想的社会の「理想」とは、言うまでもなく「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」に他ならない。すなわち「全世界の人間が天命を全うする事」と「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」という二つが満たされる社会こそ理想的社会と言えるのだ。そして私は、前者は肉体の糧によって、後者は魂の糧によって、それぞれ満たされるものと考える。便宜上、水平の次元において肉体の糧を得るための活動を労働、垂直の次元において魂の糧を得るための活動を仕事とするならば、労働と仕事の大調和にこそ「人間の本当の生」があると言えるだろう。そうした大調和はまた、聖なるものと俗なるものの「対立の一致」に他ならない。武田泰淳の言葉を借りて言えば、肉体の快楽(カイラク)と魂の快楽(ケラク)を共に得て、我々は人間として本当に生きることになる。或る種の求道者(出家者)はカイラクを滅却することによってケラクを得んとするが、それは間違った道だと思う。本当の求道はケラクとカイラクの「対立の一致」を成就する新しき村においてこそ満たされるものと信じている。
Coincidentia Oppositorumとしての新しき村
日比野英次
はじめに
私は先の拙文「新しき村の実現について」において、「古き村―近代都市―新しき村」という弁証法に則して新しき村の真の「新しさ」について考えてみた。そして古き村の抑圧性(個を全体に統一する共同体)と近代都市のニヒリズム(根無し草の個人主義)を止揚するものとして祝祭共働態というヴィジョンを新しき村に同定した。私はそれが個を真に活かす全体(個即全・全即個の統合体)の成就に他ならず、そこにおいてこそ人間は本当に生きられると信じている。しかし乍ら、前回はそうしたことを充分説得的に語り得なかった嫌いがある。そこで今回はその点を反省し、「人間が本当に生きること」に焦点を絞って、新しき村を実現することの必然性について更に徹底的に考えてみたいと思う。
「人間が本当に生きること」と新しき村
私は本当に生きようとする人間にとって新しき村は不可避だと思っている。言い換えれば、人が本当に生きることを成就する時、そこに新しき村は実現するのだ。従って本当に生きることに自覚的でない人間にとって、新しき村は永久に無縁のものだろう。確かに人は新しき村を知らなくても生きていくことはできる。しかし、それは本当の生ではない。ここまで断言するからには、人間の本当の生と新しき村の関係を明確に示さねばならぬ。人間が本当に生きるとは如何なることか。
しかし人間にとって「何が本当の生か」などということは一概に決められるものではない。サルトルの言うように、人間の実存が本質に先立つものならば、「本当の生」はそれぞれの人間が自由に創造していくべきものだろう。少なくとも「本当の生」を客観的に全ての人間に妥当するものとして示すことはできない。それ故、私としては自分が本当だと主体的に信じる生き方を示す他はないだろう。そこで先ずは私自身が求めている「生の意味」を近代の世俗化との関係において示すことから始めたいと思う。
一、生の意味と世俗化
「真に重要な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断すること、それが哲学の根本問題に答えることだ」―アルベール・カミュはそう言っている。しかし我々は如何にして人生が生きるに値するか否かを判断し得るのか。おそらくそうした判断は生きるに値する意味が果たして人生にあるかどうかによるであろう。こうして人は生の意味を追求し始めるわけであるが、その際あらゆる意味の追求は常にその意味が織り込められたテクストの存在を前提していることに留意しなければならない。すなわち人生の意味の追求とは人生を一つのテクストと見做し、それを解釈することに他ならないのだ。
勿論、人生というテクストが一応一冊の本を成してはいるものの甚だ落丁の多い不条理なものであることは言うまでもない。私の人生は間違いなく私自身のものだが、そのテクストの著者が間違いなく私自身かどうかということになると実に心許ない。私は今自分の人生というテクストを意識的に書こうと努めているものの、常に書かされているという不快感から逃れることができない。果たして自分の人生というテクストを完全に主体的に書いていると言い切れる人がいるだろうか。それは自分が生まれた時の光景を見た記憶があると言い張るような人でも不可能ではないか。何故なら、人生というテクストは「私」が生まれる以前から書き始められているからだ。出来ることなら私はのっぺらぼうで生まれ、その後そこに自分の望む顔を描いてみたかったと思う。しかしそのようなことは私の誕生以前に書かれたDNAが許さない。一体誰が私のDNAを書いたのか。私としては私の承諾なしにそれが書かれたことを遺憾に思うが、覆水盆に返らず、今更嘆いてみても仕方がない。それは常に書かれているのであり、書いている本人は決して姿を現すことはない。私はのっぺらぼうで生まれてきたかったと言ったが、私がのっぺらぼうになるのを禁じている者は常にのっぺらぼうなのだ。
さて、そんなわけで人生というテクストは先ず「私」が生まれる以前に殆ど既にのっぺらぼうによって書かれ、生まれてからも親によって書かれ、環境によって書かれ、様々な交友関係によって書かれていき、「私自身が書いている!」と自信をもって言い得る部分は極めて限られていると言わざるを得ない。では、このように自分自身の人生でありながら自分自身が絶対的な著者であるとは言い切れぬ不条理なテクストを如何にして解釈すればいいのか。私はここで解釈学上の議論に深入りするつもりはない。勿論、人生の意味の追求にとって、それを人生というテクストに織り込んだと思われるのっぺらぼうの認識可能性あるいはその意図の解釈論―それが著者の意図を単に再構築するという次元を超えたものであることは言うまでもない―は重要な問題だ。しかしここで私が検討したいと思っていることは、もし我々の人生に意味があるのなら、そしてその意味が我々にとって生きるに値するものであるのなら、それを書いたのっぺらぼうは聖なるものでなければならぬということだ。もしのっぺらぼうが単なるのっぺらぼうにすぎないのなら、我々はDNAの奴隷、もしくは食欲、性欲、支配欲―要するに自然における傾向性の奴隷にすぎず、一切が他律的に規定された生物であることになる。もしかしたら、それが人間の真実であるかもしれない。しかし断じて人間の真理ではあり得ない。ニーチェは言っている―「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができない類の誤謬である。生にとっての価値が最後に決定を下す」と。人生という不条理なテクストの解釈はこうした認識の遠近法によるしかないと思われる。すなわち私は聖なるものという「生にとっての価値」を梃子にして人生という不条理なテクストをこじあけ、それによって人生の意味を書き取りたいのだ。
そこで人生というテクストを解釈するにあたって、私は次のようなテーゼを以て始めたいと思う。
「人生の意味は聖なるものの現前と密接に関係している。人は聖なるものなしに有意味(義)に生きることはできない」
おそらくこうしたテーゼに基く私の解釈は、聖なるものなしで充分有意味に生きられると思っている人々、更には聖なるものは自分の自由にとって邪魔なものだと思っている多くの現代人には全く無意味なものであろう。しかしそのように全く世俗化された人間がこの世に実在し得るものだろうか。私は疑わしく思っている。ミルチャ・エリアーデが言うように、自分は非宗教的だと思っている現代人もその実カムフラージュされた神話や堕落した儀式にしがみついている場合が多いのではないか。「人間はいずれにせよ何かを崇拝せざるを得ない。神をしりぞけると今度は偶像を拝み出す」とはドストエフスキィの言葉である。しかしながら現代人が神を殺してしまったということ、近代における世俗化の過程を通じて聖なるものを喪失してしまったということは否定し得ぬ事実であろう。現代人は明らかにニヒリズムに陥っている。聖なるものの不在、そして生の絶対的な意味の欠如―我々の歴史は今やのっぺらぼうの行進にすぎず、そこで我々は意味もなく生まれ、意味もなく死んでいく。人生の意味は近代に始まる世俗化の波に洗われてしまったかのようだ。しかし、もし私のテーゼが正しいのなら、何故近代人は聖なるものを失ってしまったのか。近代化=世俗化の方向は根本的に間違ったものだったのであろうか。私はそうは思わない。むしろ世俗化は聖なるものの真の現前にとって不可欠の歴史的契機だと思っている。というのは、近代における世俗化の本質は聖なるものそれ自体の否定にではなく、あくまでも聖なるものの実定性(positivity)の否定に在るからだ。我々の生の絶対的な意味に密接に関係している聖なるものは不幸なことに実定的なものと化してしまう運命にある。私はこの実定的な聖なるものを「神聖なもの」と呼び、聖なるものそれ自体と区別したいと思う。
二、聖なるものと神聖なもの
神聖なものは聖なるものの力によって生み出される。ヘーゲル的に言えば、聖なるものは「生ける実体」であり、神聖なものはその実定化されたものだということになろう。こうした聖なるものの自己疎外態としての神聖なものは、具体的に言えば我々の宗教経験の祖型(archetype)だと言える。我々はこうした実定性の肯定的な形態を否定することはできない。それなしでは聖なるものは経験され得ないからだ。従って、この第一段階における実定性(神聖なものの誕生)は嘆かわしいものでは全くなく、むしろ我々の宗教経験にとって不可避なものだと考えられる。聖なるものが我々の宗教経験に顕現する際、それは実定的なもの(神聖なもの)にならざるを得ない。神聖なものの誕生は聖なるものと我々の宗教経験の相互的な運動に因るものだからである。しかし、こうした肯定的な実定性は残念ながら長続きしない。どんなに純粋な現象でも、その表象における肯定的な実定性はやがて否定的な実定性へと転化せざるを得ないからだ。聖なるものという現象(epiphany)といえども、その運命を免れることはできない。例えば、イエスの教えがキリスト教と化し、やがて大審問官の宗教へと転化・堕落していったように。イエスという男に受肉した聖なるものが腐敗した教会の神聖なものとなり、それに対する反抗が近代の世俗化を引き起こしたのだ。
しかし、こうした聖なるものの現象学的運命は何も宗教のみに限られたものではなく、人間が求めている理想的社会についても言えるだろう。すなわち、もし近代の世俗化は「古き村」の神聖なパラダイムに対する不満から発していると言い得るのなら、それは近代的な意識がそのようなパラダイムと相容れなくなったことを示している。近代人はもはや「古き村」の神聖さを受け容れることができない。何故なら、それは他律的なもの(the heteronomous)として機能するからだ。しかしムラは初めから「古き村」として生まれるわけではない。厳密に言えば、人間がその歴史において最初に経験する共同体=ムラは決して否定的なものではなかったに違いない。ムラは聖なるものを核として形成される。従って人間が最初に経験するムラは本来「垂直的な共働体」だと言えよう。それは始原の楽園であり、封建主義的な「古き村」以前に未だ貧富の差のない相互扶助的な理想状態、言わば原始共産制社会があったと考えられる。しかし乍ら、ムラの核であるべき聖なるものはやがて神聖なものへと堕落する運命にある。その運命において、たといムラの精神が本来他律的なものではなく、むしろ聖なるものであったとしても、ムラは他律的な神聖なものを核とする「古き村」へと転化・堕落することを避け得ない。ムラから「古き村」へ―それは聖なるものを核とする「垂直的な共働体」から神聖なものを核とする「水平的な共同体」への移行を意味する。たといどんなに平和で長閑なムラでも、やがては「古き村」と化してしまう。所謂「楽園喪失」は人間の運命なのだ。ただ人間以外の生物のみがそのような楽園に留まることができる。何故か。人間は自然そのものに対して完全に受動的であり続けることはできないからだ。おそらく始原の楽園は牧歌的田園のアルカディアとして経験されると思われるが、自然は人間に対してそのように甘美なものであり続けることはできない。むしろ苛酷なものであることの方が多いだろう。その時、自然は人間にとって一つの壁となる。制御の対象となる。かくしてアルカディアとしての楽園は失われ、人間の真の楽園はユートピアとして求められることになる。
では、ユートピアとは何か。それは「古き村」以前のアルカディア(始原の楽園としてのムラ)の対極に、近代の世俗化を経て実現されるべきものだ。「近代都市」に発する現代の閉塞状況を打開するためには、後向きに「古き村」以前の理想的状態(アルカディア)に戻ろうとするのではなく、あくまでも前向きに「新しき村」(ユートピア)を実現する他はないだろう。すなわち「古き村」の他律的なパラダイムを世俗化することによって真に自律的(autonomous)足らんとした「近代のプロジェクト」を成就することだ。しかし、残念乍ら、このプロジェクトは未だ完成していない。というのは近代の世俗化は聖なる次元の喪失をもたらしたからだ。ここに近代意識の二律背反(antinomy)がある。近代人は神聖なパラダイムから脱出することによって自律的足らんとしたが、その試みは聖なるものまで無に帰し、結果的に彼自身をニヒリズムへと追いやってしまった。汚れた盥の湯水は流してしまってもいいが、それと一緒に赤ん坊まで流してはいけない。近代の世俗化は両方とも流してしまった。何れにせよ、こうした世俗化の帰結は次のような重要な点を示していると思われる。
人は聖なるものの現前への関係においてのみ有意味に生きられる。もしそうなら、「古き村」の神聖なパラダイムは他律的なものであり、聖なるものの堕落した形態であったに違いない。それ故、我々は決して他律的なものとはならぬ聖なるものを実現せねばならぬ。正にそのような聖なるものの実現においてのみ世俗化はラディカルに完成するものと思われる。
しかし乍ら、決して他律的なものとはならぬ聖なるものとは如何なるものか。もしそれを神律的なもの(the theonomous)と考えるなら、そこにおける神的なものは我々人間の自律的理性と矛盾するものであってはならない。すなわち神律的な聖なるものとは、神的なものと人間的なもの、要するに聖と俗の「対立の一致」(coincidentia oppositorum)でなければならないだろう。
聖と俗のcoincidentia oppositorum としての新しき村―私はそこに祝祭共働態というヴィジョンを見る。それは谷川雁の言う「存在の原点」から咲いた花だと言えるが、もはやその詳述は後日に譲る他はない。
おわりに
我々が「新しき村」として求めている理想的社会の「理想」とは、言うまでもなく「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」に他ならない。すなわち「全世界の人間が天命を全うする事」と「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」という二つが満たされる社会こそ理想的社会と言えるのだ。そして私は、前者は肉体の糧によって、後者は魂の糧によって、それぞれ満たされるものと考える。便宜上、水平の次元において肉体の糧を得るための活動を労働、垂直の次元において魂の糧を得るための活動を仕事とするならば、労働と仕事の大調和にこそ「人間の本当の生」があると言えるだろう。そうした大調和はまた、聖なるものと俗なるものの「対立の一致」に他ならない。武田泰淳の言葉を借りて言えば、肉体の快楽(カイラク)と魂の快楽(ケラク)を共に得て、我々は人間として本当に生きることになる。或る種の求道者(出家者)はカイラクを滅却することによってケラクを得んとするが、それは間違った道だと思う。本当の求道はケラクとカイラクの「対立の一致」を成就する新しき村においてこそ満たされるものと信じている。