新しき人について
本日は一昨日言及した「新しき人」に関して、やはり宗教哲学的な見地から考察した拙論をお送りします。相変わらず生硬な文章で恐縮ですが、忍耐強くお読み戴ければ幸いに存じます。
新しき人について
日比野英次
はじめに
祝祭共働態としての新しき村に生きる人間は「新しき人」でなければならない。しかし残念乍ら現代人は未だ「新しき人」になることができないでいる。そこに新しき村が実現しない最大の理由があると言えるだろう。現代人は「古き人」と「新しき人」の中間にいる。ここで「古き人」というのは archaic man のことであり、それは単に古代に生きていた人間という通時的な意味だけではなく、人間実存の「祖型」(archetype)を体現している人間という共時的な意味も含む。現代人はそうした「古き人」から出発して現代社会を築き上げた。しかしそれは人間が本当に人間らしく生きられるものでは未だない。それ故最近は「田舎暮らし」に象徴されるような自然回帰的志向が目立ち始めているが、いくら現代社会が絶望的なものであるとは言え、後向きに自然に戻ってみたところで仕様がないだろう。それは何ら問題の究極的な解決にはならない。確かに「古き人」の社会には人間生活の「祖型」がある。しかしそれはあくまでも人間の出発点であって到達点ではない。そもそも私は、人間が本当に人間らしく生きる生き方は自然に生きることではないと思っている。と言うのは、人間の自然性は反自然性にあるからだ。勿論、反自然性に徹して生きていくことが不可能であることは言うまでもない。人間は自然と反自然の稜線上を生きる者であり、言わば反自然的自然性を満たす生活こそ人間の本来的生であると思われる。そうした逆説的な生を実現する者こそ「新しき人」なのだ。では、「新しき人」とは如何なる人間なのか。それについて考える前に、先ず「古き人」について考えてみたい。
一 古き人
人生というテクストは実存の垂直的次元と水平的次元で織られている。それらは人生というテクストの経(たていと)と緯(よこいと)に他ならない。現代人の生は、拡張された緯(水平的次元)のために、その経(垂直的次元)が擦り切れつつあるようなテクストだと言えよう。従って現代人は意味に溢れる生のテクストを得るためには、現在の強い緯に耐えるべく経を強化しなければならない。この文脈において、「古き人」の生は現代人にとって一つの理想的な生のテクストだと見なされ得ることだろう。何故なら、それは強い経を持っているからだ。エリアーデによれば、古代社会は俗なる活動について何も知らず、全ての活動――狩猟や農耕、更には性の交わりに至るまで――は何らかの形で聖なるものに参与することを意味する。すなわち現代人の生が俗なるものに浸透しているとすれば、「古き人」の生は聖なるものに身も心も浸っているということだ。
こうした「古き人―現代人」という対照において我々は、現在虚無的な現代人も古代の聖なるものとの接触を通じて生まれかわることができるという「エリアーデの希望」に注目することができる。エリアーデは世俗化によって今や虚無的な世界に陥っている現代人を人間実存がその本質を見出し得る古代の楽園に導こうとしているからだ。そうしたプログラムにおいて、エリアーデは意識的かつ主体的に歴史をつくろうとしている現代人を、歴史に対して否定的な態度をとって伝統を重視する「古き人」と対立させているが、ここで我々が見出すのは決定的な「あれか―これか」、すなわち「古き人」の聖なるもの(始源的祖型の宇宙的反復)か現代人の世俗性(絶対精神の究極的顕現に向けての歴史的発展)か、に他ならない。この「あれか―これか」を通じて、エリアーデは現代人を「古典的な神秘神学の否定の道( via negativa)、すなわち俗なるものの絶対的な否定によってのみ聖なるものを知り得るという弁証法的な道」に導こうとしている。要するにエリアーデによれば、祖型もしくは宇宙論の反復(これは歴史を定期的に廃絶することによって歴史的出来事に超歴史的意味を与えることに他ならない)という伝統的な地平に生きる「古き人」の生き方にのみ絶望を免れる唯一の道があるということだ。果して本当にそうだろうか。
確かに「古き人」の生を反復することによって現代人はその擦り切れつつある経を強化し、それによってニヒルの淵から脱け出ることができるだろう。しかし、それは事実上現代人の生の放棄であり、単に現代人の生というテクストを「古き人」のそれに取り替えたにすぎない。その取り替えにおいて現代人は歴史(世俗的な地平)のみならず自身の現代性をも廃棄することを余儀なくされるに違いない。成程、現代人の生のテクストにおける経はその取り替えによって間違いなく強化されるだろう。しかし、それと同時に今度は緯を擦り切れさせてしまうに違いない。「古き人」の生のテクストにおいては経が強いかわりに緯が弱い。現代人の生のテクストはその逆だ。しかし我々には強い経と強い緯を同時にもつ全く新しい生のテクストが必要なのだ。それは「古き人」の生も現代人の生も超克したものでなければならない。もし人生に意味があるとすれば、そのようなテクストにこそ織り込まれ得るだろう。では我々は如何にしてそのようなテクストを得ることができるだろうか。
二 新しき人
サルは自然の一部だ。ヒトも自然の一部であることに変わりはないが、人間は自然を一歩踏み出している。その一歩こそニヒリズムの根源だが、それが人間の原事実だと言えよう。「古き人」はそうした原事実に原罪を意識し、自然の楽園(アルカディア)への回帰を求めてきた。それに対して「新しき人」は自然を超えた楽園(ユートピア=未だないもの)を求める。正にその楽園こそ「強い経と強い緯を同時にもつテクスト」であり、それはラディカルに聖なるものとラディカルに俗なるものとの Coincidentia Oppositorum (対立者の一致)に他ならない。尤もエリアーデが描く「古き人」の生における「始源の全体性」の中心にもCoincidentia Oppositorum という象徴が見出される。しかし、それは非弁証法的な同一性にすぎず、「新しき人」が実現すべき真のCoincidentia Oppositorum とは質的に異なっている。すなわち非弁証法的な同一性としての「始源の全体性」においては聖なるものと俗なるものの対立が全く解消されており、もはや聖なるものも俗なるものもその弁証法的な意味を持ち得ないのだ。ヘーゲルなら「全ての牛を黒くしてしまう暗闇」だと言うような「始源の全体性」は歴史において具体化され、真に現実的な全体性にならねばならない。
こうした観点からすれば、「古き人」の生に表現された Coincidentia Oppositorum (始源の全体性)は単に「ラディカルに聖なるもの」と「去勢された俗なるもの」との一致にすぎず、事実上「全ての俗なるものを聖なるものにしてしまうお祓い」だと言えよう。「新しき人」が実現すべきものは、そのような聖なるものの圧倒的な力による俗なるものの内包ではなく、あくまでも「ラディカルに聖なるもの」と「ラディカルに俗なるもの」との弁証法的なCoincidentia Oppositorum でなければならない。ここで注意すべきことは、こうした「新しき人」の試みは「古き人」の生の単なるアンチ・テーゼではないということだ。「新しき人」が実現すべきラディカルな世俗化は俗なるものの圧倒的な力によって聖なるものを内包せんとする一方的な運動ではなく、ましてや聖なるものの完全なる否定を目指すものでもない。むしろそれはラディカルな聖化なのだ。弁証法的に言えば、聖なるものはラディカルに世俗化されることによってのみ自らをラディカルに実現し得る。聖化は世俗化の根源的な推進力であり、聖化なしでは世俗化もラディカルに実現され得ないだろう。
しかし乍ら、たといその究極の目的が世界のラディカルな聖化であろうとも、その歴史における運動はあくまでもラディカルな世俗化として意識されなければならない。もし聖化として意識されれば、我々の意識は聖なるものの運命、すなわち神聖なものの罠に陥ることになる。世俗化をラディカルに実現するとは、同時に聖なるものの運命を克服することに他ならない。その意味において、「新しき人」とは決して実定化されぬ聖なるものを俗なる世界の真只中で体現する者だと言えよう。彼は孤高の聖者ではない。人々との「祝祭空間」において日々静かに笑っているデクノボオなのだ。
おわりに
現代人は「古き人」の祖型と「新しき人」のヴィジョンの間で引き裂かれている。前者は自然楽園であるアルカディアに、後者は人工楽園であるユートピアにそれぞれ通じている。何れを選ぼうと自由だが、新しき村は後者を目指すべきだと私は思う。さもなければ、新しき村の存在理由がなくなるからだ。新しき村の「真の新しさ」という理想を実現するためには「新しき人」がどうしても必要になる。言い換えれば、新しき村と「新しき人」は不可分であり、ともに「真の新しさ」が求められているのだ。
確かに「古き人」のように自然に生きること、すなわち人間生活の祖型は我々の「魂のふるさと」と言える。しかし「かえるところにあるまじきもの」だ。我々がニヒリズムを真に克服するためには「新しき人」にならねばならない。後向きに「古き人」に戻ろうとするのではなく、あくまでも前向きに「新しき人」になろうとすべきだ。そこにこそ新しき村における生活の真髄があると私は思っている。
新しき人について
日比野英次
はじめに
祝祭共働態としての新しき村に生きる人間は「新しき人」でなければならない。しかし残念乍ら現代人は未だ「新しき人」になることができないでいる。そこに新しき村が実現しない最大の理由があると言えるだろう。現代人は「古き人」と「新しき人」の中間にいる。ここで「古き人」というのは archaic man のことであり、それは単に古代に生きていた人間という通時的な意味だけではなく、人間実存の「祖型」(archetype)を体現している人間という共時的な意味も含む。現代人はそうした「古き人」から出発して現代社会を築き上げた。しかしそれは人間が本当に人間らしく生きられるものでは未だない。それ故最近は「田舎暮らし」に象徴されるような自然回帰的志向が目立ち始めているが、いくら現代社会が絶望的なものであるとは言え、後向きに自然に戻ってみたところで仕様がないだろう。それは何ら問題の究極的な解決にはならない。確かに「古き人」の社会には人間生活の「祖型」がある。しかしそれはあくまでも人間の出発点であって到達点ではない。そもそも私は、人間が本当に人間らしく生きる生き方は自然に生きることではないと思っている。と言うのは、人間の自然性は反自然性にあるからだ。勿論、反自然性に徹して生きていくことが不可能であることは言うまでもない。人間は自然と反自然の稜線上を生きる者であり、言わば反自然的自然性を満たす生活こそ人間の本来的生であると思われる。そうした逆説的な生を実現する者こそ「新しき人」なのだ。では、「新しき人」とは如何なる人間なのか。それについて考える前に、先ず「古き人」について考えてみたい。
一 古き人
人生というテクストは実存の垂直的次元と水平的次元で織られている。それらは人生というテクストの経(たていと)と緯(よこいと)に他ならない。現代人の生は、拡張された緯(水平的次元)のために、その経(垂直的次元)が擦り切れつつあるようなテクストだと言えよう。従って現代人は意味に溢れる生のテクストを得るためには、現在の強い緯に耐えるべく経を強化しなければならない。この文脈において、「古き人」の生は現代人にとって一つの理想的な生のテクストだと見なされ得ることだろう。何故なら、それは強い経を持っているからだ。エリアーデによれば、古代社会は俗なる活動について何も知らず、全ての活動――狩猟や農耕、更には性の交わりに至るまで――は何らかの形で聖なるものに参与することを意味する。すなわち現代人の生が俗なるものに浸透しているとすれば、「古き人」の生は聖なるものに身も心も浸っているということだ。
こうした「古き人―現代人」という対照において我々は、現在虚無的な現代人も古代の聖なるものとの接触を通じて生まれかわることができるという「エリアーデの希望」に注目することができる。エリアーデは世俗化によって今や虚無的な世界に陥っている現代人を人間実存がその本質を見出し得る古代の楽園に導こうとしているからだ。そうしたプログラムにおいて、エリアーデは意識的かつ主体的に歴史をつくろうとしている現代人を、歴史に対して否定的な態度をとって伝統を重視する「古き人」と対立させているが、ここで我々が見出すのは決定的な「あれか―これか」、すなわち「古き人」の聖なるもの(始源的祖型の宇宙的反復)か現代人の世俗性(絶対精神の究極的顕現に向けての歴史的発展)か、に他ならない。この「あれか―これか」を通じて、エリアーデは現代人を「古典的な神秘神学の否定の道( via negativa)、すなわち俗なるものの絶対的な否定によってのみ聖なるものを知り得るという弁証法的な道」に導こうとしている。要するにエリアーデによれば、祖型もしくは宇宙論の反復(これは歴史を定期的に廃絶することによって歴史的出来事に超歴史的意味を与えることに他ならない)という伝統的な地平に生きる「古き人」の生き方にのみ絶望を免れる唯一の道があるということだ。果して本当にそうだろうか。
確かに「古き人」の生を反復することによって現代人はその擦り切れつつある経を強化し、それによってニヒルの淵から脱け出ることができるだろう。しかし、それは事実上現代人の生の放棄であり、単に現代人の生というテクストを「古き人」のそれに取り替えたにすぎない。その取り替えにおいて現代人は歴史(世俗的な地平)のみならず自身の現代性をも廃棄することを余儀なくされるに違いない。成程、現代人の生のテクストにおける経はその取り替えによって間違いなく強化されるだろう。しかし、それと同時に今度は緯を擦り切れさせてしまうに違いない。「古き人」の生のテクストにおいては経が強いかわりに緯が弱い。現代人の生のテクストはその逆だ。しかし我々には強い経と強い緯を同時にもつ全く新しい生のテクストが必要なのだ。それは「古き人」の生も現代人の生も超克したものでなければならない。もし人生に意味があるとすれば、そのようなテクストにこそ織り込まれ得るだろう。では我々は如何にしてそのようなテクストを得ることができるだろうか。
二 新しき人
サルは自然の一部だ。ヒトも自然の一部であることに変わりはないが、人間は自然を一歩踏み出している。その一歩こそニヒリズムの根源だが、それが人間の原事実だと言えよう。「古き人」はそうした原事実に原罪を意識し、自然の楽園(アルカディア)への回帰を求めてきた。それに対して「新しき人」は自然を超えた楽園(ユートピア=未だないもの)を求める。正にその楽園こそ「強い経と強い緯を同時にもつテクスト」であり、それはラディカルに聖なるものとラディカルに俗なるものとの Coincidentia Oppositorum (対立者の一致)に他ならない。尤もエリアーデが描く「古き人」の生における「始源の全体性」の中心にもCoincidentia Oppositorum という象徴が見出される。しかし、それは非弁証法的な同一性にすぎず、「新しき人」が実現すべき真のCoincidentia Oppositorum とは質的に異なっている。すなわち非弁証法的な同一性としての「始源の全体性」においては聖なるものと俗なるものの対立が全く解消されており、もはや聖なるものも俗なるものもその弁証法的な意味を持ち得ないのだ。ヘーゲルなら「全ての牛を黒くしてしまう暗闇」だと言うような「始源の全体性」は歴史において具体化され、真に現実的な全体性にならねばならない。
こうした観点からすれば、「古き人」の生に表現された Coincidentia Oppositorum (始源の全体性)は単に「ラディカルに聖なるもの」と「去勢された俗なるもの」との一致にすぎず、事実上「全ての俗なるものを聖なるものにしてしまうお祓い」だと言えよう。「新しき人」が実現すべきものは、そのような聖なるものの圧倒的な力による俗なるものの内包ではなく、あくまでも「ラディカルに聖なるもの」と「ラディカルに俗なるもの」との弁証法的なCoincidentia Oppositorum でなければならない。ここで注意すべきことは、こうした「新しき人」の試みは「古き人」の生の単なるアンチ・テーゼではないということだ。「新しき人」が実現すべきラディカルな世俗化は俗なるものの圧倒的な力によって聖なるものを内包せんとする一方的な運動ではなく、ましてや聖なるものの完全なる否定を目指すものでもない。むしろそれはラディカルな聖化なのだ。弁証法的に言えば、聖なるものはラディカルに世俗化されることによってのみ自らをラディカルに実現し得る。聖化は世俗化の根源的な推進力であり、聖化なしでは世俗化もラディカルに実現され得ないだろう。
しかし乍ら、たといその究極の目的が世界のラディカルな聖化であろうとも、その歴史における運動はあくまでもラディカルな世俗化として意識されなければならない。もし聖化として意識されれば、我々の意識は聖なるものの運命、すなわち神聖なものの罠に陥ることになる。世俗化をラディカルに実現するとは、同時に聖なるものの運命を克服することに他ならない。その意味において、「新しき人」とは決して実定化されぬ聖なるものを俗なる世界の真只中で体現する者だと言えよう。彼は孤高の聖者ではない。人々との「祝祭空間」において日々静かに笑っているデクノボオなのだ。
おわりに
現代人は「古き人」の祖型と「新しき人」のヴィジョンの間で引き裂かれている。前者は自然楽園であるアルカディアに、後者は人工楽園であるユートピアにそれぞれ通じている。何れを選ぼうと自由だが、新しき村は後者を目指すべきだと私は思う。さもなければ、新しき村の存在理由がなくなるからだ。新しき村の「真の新しさ」という理想を実現するためには「新しき人」がどうしても必要になる。言い換えれば、新しき村と「新しき人」は不可分であり、ともに「真の新しさ」が求められているのだ。
確かに「古き人」のように自然に生きること、すなわち人間生活の祖型は我々の「魂のふるさと」と言える。しかし「かえるところにあるまじきもの」だ。我々がニヒリズムを真に克服するためには「新しき人」にならねばならない。後向きに「古き人」に戻ろうとするのではなく、あくまでも前向きに「新しき人」になろうとすべきだ。そこにこそ新しき村における生活の真髄があると私は思っている。