Coincidentia Oppositorumとしての新しき村
本日は宗教哲学的な観点から「新しき村」を考察した拙論を御笑覧下さい。
Coincidentia Oppositorumとしての新しき村
日比野英次
はじめに
私は先の拙文「新しき村の実現について」において、「古き村―近代都市―新しき村」という弁証法に則して新しき村の真の「新しさ」について考えてみた。そして古き村の抑圧性(個を全体に統一する共同体)と近代都市のニヒリズム(根無し草の個人主義)を止揚するものとして祝祭共働態というヴィジョンを新しき村に同定した。私はそれが個を真に活かす全体(個即全・全即個の統合体)の成就に他ならず、そこにおいてこそ人間は本当に生きられると信じている。しかし乍ら、前回はそうしたことを充分説得的に語り得なかった嫌いがある。そこで今回はその点を反省し、「人間が本当に生きること」に焦点を絞って、新しき村を実現することの必然性について更に徹底的に考えてみたいと思う。
「人間が本当に生きること」と新しき村
私は本当に生きようとする人間にとって新しき村は不可避だと思っている。言い換えれば、人が本当に生きることを成就する時、そこに新しき村は実現するのだ。従って本当に生きることに自覚的でない人間にとって、新しき村は永久に無縁のものだろう。確かに人は新しき村を知らなくても生きていくことはできる。しかし、それは本当の生ではない。ここまで断言するからには、人間の本当の生と新しき村の関係を明確に示さねばならぬ。人間が本当に生きるとは如何なることか。
しかし人間にとって「何が本当の生か」などということは一概に決められるものではない。サルトルの言うように、人間の実存が本質に先立つものならば、「本当の生」はそれぞれの人間が自由に創造していくべきものだろう。少なくとも「本当の生」を客観的に全ての人間に妥当するものとして示すことはできない。それ故、私としては自分が本当だと主体的に信じる生き方を示す他はないだろう。そこで先ずは私自身が求めている「生の意味」を近代の世俗化との関係において示すことから始めたいと思う。
一、生の意味と世俗化
「真に重要な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断すること、それが哲学の根本問題に答えることだ」―アルベール・カミュはそう言っている。しかし我々は如何にして人生が生きるに値するか否かを判断し得るのか。おそらくそうした判断は生きるに値する意味が果たして人生にあるかどうかによるであろう。こうして人は生の意味を追求し始めるわけであるが、その際あらゆる意味の追求は常にその意味が織り込められたテクストの存在を前提していることに留意しなければならない。すなわち人生の意味の追求とは人生を一つのテクストと見做し、それを解釈することに他ならないのだ。
勿論、人生というテクストが一応一冊の本を成してはいるものの甚だ落丁の多い不条理なものであることは言うまでもない。私の人生は間違いなく私自身のものだが、そのテクストの著者が間違いなく私自身かどうかということになると実に心許ない。私は今自分の人生というテクストを意識的に書こうと努めているものの、常に書かされているという不快感から逃れることができない。果たして自分の人生というテクストを完全に主体的に書いていると言い切れる人がいるだろうか。それは自分が生まれた時の光景を見た記憶があると言い張るような人でも不可能ではないか。何故なら、人生というテクストは「私」が生まれる以前から書き始められているからだ。出来ることなら私はのっぺらぼうで生まれ、その後そこに自分の望む顔を描いてみたかったと思う。しかしそのようなことは私の誕生以前に書かれたDNAが許さない。一体誰が私のDNAを書いたのか。私としては私の承諾なしにそれが書かれたことを遺憾に思うが、覆水盆に返らず、今更嘆いてみても仕方がない。それは常に書かれているのであり、書いている本人は決して姿を現すことはない。私はのっぺらぼうで生まれてきたかったと言ったが、私がのっぺらぼうになるのを禁じている者は常にのっぺらぼうなのだ。
さて、そんなわけで人生というテクストは先ず「私」が生まれる以前に殆ど既にのっぺらぼうによって書かれ、生まれてからも親によって書かれ、環境によって書かれ、様々な交友関係によって書かれていき、「私自身が書いている!」と自信をもって言い得る部分は極めて限られていると言わざるを得ない。では、このように自分自身の人生でありながら自分自身が絶対的な著者であるとは言い切れぬ不条理なテクストを如何にして解釈すればいいのか。私はここで解釈学上の議論に深入りするつもりはない。勿論、人生の意味の追求にとって、それを人生というテクストに織り込んだと思われるのっぺらぼうの認識可能性あるいはその意図の解釈論―それが著者の意図を単に再構築するという次元を超えたものであることは言うまでもない―は重要な問題だ。しかしここで私が検討したいと思っていることは、もし我々の人生に意味があるのなら、そしてその意味が我々にとって生きるに値するものであるのなら、それを書いたのっぺらぼうは聖なるものでなければならぬということだ。もしのっぺらぼうが単なるのっぺらぼうにすぎないのなら、我々はDNAの奴隷、もしくは食欲、性欲、支配欲―要するに自然における傾向性の奴隷にすぎず、一切が他律的に規定された生物であることになる。もしかしたら、それが人間の真実であるかもしれない。しかし断じて人間の真理ではあり得ない。ニーチェは言っている―「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができない類の誤謬である。生にとっての価値が最後に決定を下す」と。人生という不条理なテクストの解釈はこうした認識の遠近法によるしかないと思われる。すなわち私は聖なるものという「生にとっての価値」を梃子にして人生という不条理なテクストをこじあけ、それによって人生の意味を書き取りたいのだ。
そこで人生というテクストを解釈するにあたって、私は次のようなテーゼを以て始めたいと思う。
「人生の意味は聖なるものの現前と密接に関係している。人は聖なるものなしに有意味(義)に生きることはできない」
おそらくこうしたテーゼに基く私の解釈は、聖なるものなしで充分有意味に生きられると思っている人々、更には聖なるものは自分の自由にとって邪魔なものだと思っている多くの現代人には全く無意味なものであろう。しかしそのように全く世俗化された人間がこの世に実在し得るものだろうか。私は疑わしく思っている。ミルチャ・エリアーデが言うように、自分は非宗教的だと思っている現代人もその実カムフラージュされた神話や堕落した儀式にしがみついている場合が多いのではないか。「人間はいずれにせよ何かを崇拝せざるを得ない。神をしりぞけると今度は偶像を拝み出す」とはドストエフスキィの言葉である。しかしながら現代人が神を殺してしまったということ、近代における世俗化の過程を通じて聖なるものを喪失してしまったということは否定し得ぬ事実であろう。現代人は明らかにニヒリズムに陥っている。聖なるものの不在、そして生の絶対的な意味の欠如―我々の歴史は今やのっぺらぼうの行進にすぎず、そこで我々は意味もなく生まれ、意味もなく死んでいく。人生の意味は近代に始まる世俗化の波に洗われてしまったかのようだ。しかし、もし私のテーゼが正しいのなら、何故近代人は聖なるものを失ってしまったのか。近代化=世俗化の方向は根本的に間違ったものだったのであろうか。私はそうは思わない。むしろ世俗化は聖なるものの真の現前にとって不可欠の歴史的契機だと思っている。というのは、近代における世俗化の本質は聖なるものそれ自体の否定にではなく、あくまでも聖なるものの実定性(positivity)の否定に在るからだ。我々の生の絶対的な意味に密接に関係している聖なるものは不幸なことに実定的なものと化してしまう運命にある。私はこの実定的な聖なるものを「神聖なもの」と呼び、聖なるものそれ自体と区別したいと思う。
二、聖なるものと神聖なもの
神聖なものは聖なるものの力によって生み出される。ヘーゲル的に言えば、聖なるものは「生ける実体」であり、神聖なものはその実定化されたものだということになろう。こうした聖なるものの自己疎外態としての神聖なものは、具体的に言えば我々の宗教経験の祖型(archetype)だと言える。我々はこうした実定性の肯定的な形態を否定することはできない。それなしでは聖なるものは経験され得ないからだ。従って、この第一段階における実定性(神聖なものの誕生)は嘆かわしいものでは全くなく、むしろ我々の宗教経験にとって不可避なものだと考えられる。聖なるものが我々の宗教経験に顕現する際、それは実定的なもの(神聖なもの)にならざるを得ない。神聖なものの誕生は聖なるものと我々の宗教経験の相互的な運動に因るものだからである。しかし、こうした肯定的な実定性は残念ながら長続きしない。どんなに純粋な現象でも、その表象における肯定的な実定性はやがて否定的な実定性へと転化せざるを得ないからだ。聖なるものという現象(epiphany)といえども、その運命を免れることはできない。例えば、イエスの教えがキリスト教と化し、やがて大審問官の宗教へと転化・堕落していったように。イエスという男に受肉した聖なるものが腐敗した教会の神聖なものとなり、それに対する反抗が近代の世俗化を引き起こしたのだ。
しかし、こうした聖なるものの現象学的運命は何も宗教のみに限られたものではなく、人間が求めている理想的社会についても言えるだろう。すなわち、もし近代の世俗化は「古き村」の神聖なパラダイムに対する不満から発していると言い得るのなら、それは近代的な意識がそのようなパラダイムと相容れなくなったことを示している。近代人はもはや「古き村」の神聖さを受け容れることができない。何故なら、それは他律的なもの(the heteronomous)として機能するからだ。しかしムラは初めから「古き村」として生まれるわけではない。厳密に言えば、人間がその歴史において最初に経験する共同体=ムラは決して否定的なものではなかったに違いない。ムラは聖なるものを核として形成される。従って人間が最初に経験するムラは本来「垂直的な共働体」だと言えよう。それは始原の楽園であり、封建主義的な「古き村」以前に未だ貧富の差のない相互扶助的な理想状態、言わば原始共産制社会があったと考えられる。しかし乍ら、ムラの核であるべき聖なるものはやがて神聖なものへと堕落する運命にある。その運命において、たといムラの精神が本来他律的なものではなく、むしろ聖なるものであったとしても、ムラは他律的な神聖なものを核とする「古き村」へと転化・堕落することを避け得ない。ムラから「古き村」へ―それは聖なるものを核とする「垂直的な共働体」から神聖なものを核とする「水平的な共同体」への移行を意味する。たといどんなに平和で長閑なムラでも、やがては「古き村」と化してしまう。所謂「楽園喪失」は人間の運命なのだ。ただ人間以外の生物のみがそのような楽園に留まることができる。何故か。人間は自然そのものに対して完全に受動的であり続けることはできないからだ。おそらく始原の楽園は牧歌的田園のアルカディアとして経験されると思われるが、自然は人間に対してそのように甘美なものであり続けることはできない。むしろ苛酷なものであることの方が多いだろう。その時、自然は人間にとって一つの壁となる。制御の対象となる。かくしてアルカディアとしての楽園は失われ、人間の真の楽園はユートピアとして求められることになる。
では、ユートピアとは何か。それは「古き村」以前のアルカディア(始原の楽園としてのムラ)の対極に、近代の世俗化を経て実現されるべきものだ。「近代都市」に発する現代の閉塞状況を打開するためには、後向きに「古き村」以前の理想的状態(アルカディア)に戻ろうとするのではなく、あくまでも前向きに「新しき村」(ユートピア)を実現する他はないだろう。すなわち「古き村」の他律的なパラダイムを世俗化することによって真に自律的(autonomous)足らんとした「近代のプロジェクト」を成就することだ。しかし、残念乍ら、このプロジェクトは未だ完成していない。というのは近代の世俗化は聖なる次元の喪失をもたらしたからだ。ここに近代意識の二律背反(antinomy)がある。近代人は神聖なパラダイムから脱出することによって自律的足らんとしたが、その試みは聖なるものまで無に帰し、結果的に彼自身をニヒリズムへと追いやってしまった。汚れた盥の湯水は流してしまってもいいが、それと一緒に赤ん坊まで流してはいけない。近代の世俗化は両方とも流してしまった。何れにせよ、こうした世俗化の帰結は次のような重要な点を示していると思われる。
人は聖なるものの現前への関係においてのみ有意味に生きられる。もしそうなら、「古き村」の神聖なパラダイムは他律的なものであり、聖なるものの堕落した形態であったに違いない。それ故、我々は決して他律的なものとはならぬ聖なるものを実現せねばならぬ。正にそのような聖なるものの実現においてのみ世俗化はラディカルに完成するものと思われる。
しかし乍ら、決して他律的なものとはならぬ聖なるものとは如何なるものか。もしそれを神律的なもの(the theonomous)と考えるなら、そこにおける神的なものは我々人間の自律的理性と矛盾するものであってはならない。すなわち神律的な聖なるものとは、神的なものと人間的なもの、要するに聖と俗の「対立の一致」(coincidentia oppositorum)でなければならないだろう。
聖と俗のcoincidentia oppositorum としての新しき村―私はそこに祝祭共働態というヴィジョンを見る。それは谷川雁の言う「存在の原点」から咲いた花だと言えるが、もはやその詳述は後日に譲る他はない。
おわりに
我々が「新しき村」として求めている理想的社会の「理想」とは、言うまでもなく「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」に他ならない。すなわち「全世界の人間が天命を全うする事」と「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」という二つが満たされる社会こそ理想的社会と言えるのだ。そして私は、前者は肉体の糧によって、後者は魂の糧によって、それぞれ満たされるものと考える。便宜上、水平の次元において肉体の糧を得るための活動を労働、垂直の次元において魂の糧を得るための活動を仕事とするならば、労働と仕事の大調和にこそ「人間の本当の生」があると言えるだろう。そうした大調和はまた、聖なるものと俗なるものの「対立の一致」に他ならない。武田泰淳の言葉を借りて言えば、肉体の快楽(カイラク)と魂の快楽(ケラク)を共に得て、我々は人間として本当に生きることになる。或る種の求道者(出家者)はカイラクを滅却することによってケラクを得んとするが、それは間違った道だと思う。本当の求道はケラクとカイラクの「対立の一致」を成就する新しき村においてこそ満たされるものと信じている。
Coincidentia Oppositorumとしての新しき村
日比野英次
はじめに
私は先の拙文「新しき村の実現について」において、「古き村―近代都市―新しき村」という弁証法に則して新しき村の真の「新しさ」について考えてみた。そして古き村の抑圧性(個を全体に統一する共同体)と近代都市のニヒリズム(根無し草の個人主義)を止揚するものとして祝祭共働態というヴィジョンを新しき村に同定した。私はそれが個を真に活かす全体(個即全・全即個の統合体)の成就に他ならず、そこにおいてこそ人間は本当に生きられると信じている。しかし乍ら、前回はそうしたことを充分説得的に語り得なかった嫌いがある。そこで今回はその点を反省し、「人間が本当に生きること」に焦点を絞って、新しき村を実現することの必然性について更に徹底的に考えてみたいと思う。
「人間が本当に生きること」と新しき村
私は本当に生きようとする人間にとって新しき村は不可避だと思っている。言い換えれば、人が本当に生きることを成就する時、そこに新しき村は実現するのだ。従って本当に生きることに自覚的でない人間にとって、新しき村は永久に無縁のものだろう。確かに人は新しき村を知らなくても生きていくことはできる。しかし、それは本当の生ではない。ここまで断言するからには、人間の本当の生と新しき村の関係を明確に示さねばならぬ。人間が本当に生きるとは如何なることか。
しかし人間にとって「何が本当の生か」などということは一概に決められるものではない。サルトルの言うように、人間の実存が本質に先立つものならば、「本当の生」はそれぞれの人間が自由に創造していくべきものだろう。少なくとも「本当の生」を客観的に全ての人間に妥当するものとして示すことはできない。それ故、私としては自分が本当だと主体的に信じる生き方を示す他はないだろう。そこで先ずは私自身が求めている「生の意味」を近代の世俗化との関係において示すことから始めたいと思う。
一、生の意味と世俗化
「真に重要な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断すること、それが哲学の根本問題に答えることだ」―アルベール・カミュはそう言っている。しかし我々は如何にして人生が生きるに値するか否かを判断し得るのか。おそらくそうした判断は生きるに値する意味が果たして人生にあるかどうかによるであろう。こうして人は生の意味を追求し始めるわけであるが、その際あらゆる意味の追求は常にその意味が織り込められたテクストの存在を前提していることに留意しなければならない。すなわち人生の意味の追求とは人生を一つのテクストと見做し、それを解釈することに他ならないのだ。
勿論、人生というテクストが一応一冊の本を成してはいるものの甚だ落丁の多い不条理なものであることは言うまでもない。私の人生は間違いなく私自身のものだが、そのテクストの著者が間違いなく私自身かどうかということになると実に心許ない。私は今自分の人生というテクストを意識的に書こうと努めているものの、常に書かされているという不快感から逃れることができない。果たして自分の人生というテクストを完全に主体的に書いていると言い切れる人がいるだろうか。それは自分が生まれた時の光景を見た記憶があると言い張るような人でも不可能ではないか。何故なら、人生というテクストは「私」が生まれる以前から書き始められているからだ。出来ることなら私はのっぺらぼうで生まれ、その後そこに自分の望む顔を描いてみたかったと思う。しかしそのようなことは私の誕生以前に書かれたDNAが許さない。一体誰が私のDNAを書いたのか。私としては私の承諾なしにそれが書かれたことを遺憾に思うが、覆水盆に返らず、今更嘆いてみても仕方がない。それは常に書かれているのであり、書いている本人は決して姿を現すことはない。私はのっぺらぼうで生まれてきたかったと言ったが、私がのっぺらぼうになるのを禁じている者は常にのっぺらぼうなのだ。
さて、そんなわけで人生というテクストは先ず「私」が生まれる以前に殆ど既にのっぺらぼうによって書かれ、生まれてからも親によって書かれ、環境によって書かれ、様々な交友関係によって書かれていき、「私自身が書いている!」と自信をもって言い得る部分は極めて限られていると言わざるを得ない。では、このように自分自身の人生でありながら自分自身が絶対的な著者であるとは言い切れぬ不条理なテクストを如何にして解釈すればいいのか。私はここで解釈学上の議論に深入りするつもりはない。勿論、人生の意味の追求にとって、それを人生というテクストに織り込んだと思われるのっぺらぼうの認識可能性あるいはその意図の解釈論―それが著者の意図を単に再構築するという次元を超えたものであることは言うまでもない―は重要な問題だ。しかしここで私が検討したいと思っていることは、もし我々の人生に意味があるのなら、そしてその意味が我々にとって生きるに値するものであるのなら、それを書いたのっぺらぼうは聖なるものでなければならぬということだ。もしのっぺらぼうが単なるのっぺらぼうにすぎないのなら、我々はDNAの奴隷、もしくは食欲、性欲、支配欲―要するに自然における傾向性の奴隷にすぎず、一切が他律的に規定された生物であることになる。もしかしたら、それが人間の真実であるかもしれない。しかし断じて人間の真理ではあり得ない。ニーチェは言っている―「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができない類の誤謬である。生にとっての価値が最後に決定を下す」と。人生という不条理なテクストの解釈はこうした認識の遠近法によるしかないと思われる。すなわち私は聖なるものという「生にとっての価値」を梃子にして人生という不条理なテクストをこじあけ、それによって人生の意味を書き取りたいのだ。
そこで人生というテクストを解釈するにあたって、私は次のようなテーゼを以て始めたいと思う。
「人生の意味は聖なるものの現前と密接に関係している。人は聖なるものなしに有意味(義)に生きることはできない」
おそらくこうしたテーゼに基く私の解釈は、聖なるものなしで充分有意味に生きられると思っている人々、更には聖なるものは自分の自由にとって邪魔なものだと思っている多くの現代人には全く無意味なものであろう。しかしそのように全く世俗化された人間がこの世に実在し得るものだろうか。私は疑わしく思っている。ミルチャ・エリアーデが言うように、自分は非宗教的だと思っている現代人もその実カムフラージュされた神話や堕落した儀式にしがみついている場合が多いのではないか。「人間はいずれにせよ何かを崇拝せざるを得ない。神をしりぞけると今度は偶像を拝み出す」とはドストエフスキィの言葉である。しかしながら現代人が神を殺してしまったということ、近代における世俗化の過程を通じて聖なるものを喪失してしまったということは否定し得ぬ事実であろう。現代人は明らかにニヒリズムに陥っている。聖なるものの不在、そして生の絶対的な意味の欠如―我々の歴史は今やのっぺらぼうの行進にすぎず、そこで我々は意味もなく生まれ、意味もなく死んでいく。人生の意味は近代に始まる世俗化の波に洗われてしまったかのようだ。しかし、もし私のテーゼが正しいのなら、何故近代人は聖なるものを失ってしまったのか。近代化=世俗化の方向は根本的に間違ったものだったのであろうか。私はそうは思わない。むしろ世俗化は聖なるものの真の現前にとって不可欠の歴史的契機だと思っている。というのは、近代における世俗化の本質は聖なるものそれ自体の否定にではなく、あくまでも聖なるものの実定性(positivity)の否定に在るからだ。我々の生の絶対的な意味に密接に関係している聖なるものは不幸なことに実定的なものと化してしまう運命にある。私はこの実定的な聖なるものを「神聖なもの」と呼び、聖なるものそれ自体と区別したいと思う。
二、聖なるものと神聖なもの
神聖なものは聖なるものの力によって生み出される。ヘーゲル的に言えば、聖なるものは「生ける実体」であり、神聖なものはその実定化されたものだということになろう。こうした聖なるものの自己疎外態としての神聖なものは、具体的に言えば我々の宗教経験の祖型(archetype)だと言える。我々はこうした実定性の肯定的な形態を否定することはできない。それなしでは聖なるものは経験され得ないからだ。従って、この第一段階における実定性(神聖なものの誕生)は嘆かわしいものでは全くなく、むしろ我々の宗教経験にとって不可避なものだと考えられる。聖なるものが我々の宗教経験に顕現する際、それは実定的なもの(神聖なもの)にならざるを得ない。神聖なものの誕生は聖なるものと我々の宗教経験の相互的な運動に因るものだからである。しかし、こうした肯定的な実定性は残念ながら長続きしない。どんなに純粋な現象でも、その表象における肯定的な実定性はやがて否定的な実定性へと転化せざるを得ないからだ。聖なるものという現象(epiphany)といえども、その運命を免れることはできない。例えば、イエスの教えがキリスト教と化し、やがて大審問官の宗教へと転化・堕落していったように。イエスという男に受肉した聖なるものが腐敗した教会の神聖なものとなり、それに対する反抗が近代の世俗化を引き起こしたのだ。
しかし、こうした聖なるものの現象学的運命は何も宗教のみに限られたものではなく、人間が求めている理想的社会についても言えるだろう。すなわち、もし近代の世俗化は「古き村」の神聖なパラダイムに対する不満から発していると言い得るのなら、それは近代的な意識がそのようなパラダイムと相容れなくなったことを示している。近代人はもはや「古き村」の神聖さを受け容れることができない。何故なら、それは他律的なもの(the heteronomous)として機能するからだ。しかしムラは初めから「古き村」として生まれるわけではない。厳密に言えば、人間がその歴史において最初に経験する共同体=ムラは決して否定的なものではなかったに違いない。ムラは聖なるものを核として形成される。従って人間が最初に経験するムラは本来「垂直的な共働体」だと言えよう。それは始原の楽園であり、封建主義的な「古き村」以前に未だ貧富の差のない相互扶助的な理想状態、言わば原始共産制社会があったと考えられる。しかし乍ら、ムラの核であるべき聖なるものはやがて神聖なものへと堕落する運命にある。その運命において、たといムラの精神が本来他律的なものではなく、むしろ聖なるものであったとしても、ムラは他律的な神聖なものを核とする「古き村」へと転化・堕落することを避け得ない。ムラから「古き村」へ―それは聖なるものを核とする「垂直的な共働体」から神聖なものを核とする「水平的な共同体」への移行を意味する。たといどんなに平和で長閑なムラでも、やがては「古き村」と化してしまう。所謂「楽園喪失」は人間の運命なのだ。ただ人間以外の生物のみがそのような楽園に留まることができる。何故か。人間は自然そのものに対して完全に受動的であり続けることはできないからだ。おそらく始原の楽園は牧歌的田園のアルカディアとして経験されると思われるが、自然は人間に対してそのように甘美なものであり続けることはできない。むしろ苛酷なものであることの方が多いだろう。その時、自然は人間にとって一つの壁となる。制御の対象となる。かくしてアルカディアとしての楽園は失われ、人間の真の楽園はユートピアとして求められることになる。
では、ユートピアとは何か。それは「古き村」以前のアルカディア(始原の楽園としてのムラ)の対極に、近代の世俗化を経て実現されるべきものだ。「近代都市」に発する現代の閉塞状況を打開するためには、後向きに「古き村」以前の理想的状態(アルカディア)に戻ろうとするのではなく、あくまでも前向きに「新しき村」(ユートピア)を実現する他はないだろう。すなわち「古き村」の他律的なパラダイムを世俗化することによって真に自律的(autonomous)足らんとした「近代のプロジェクト」を成就することだ。しかし、残念乍ら、このプロジェクトは未だ完成していない。というのは近代の世俗化は聖なる次元の喪失をもたらしたからだ。ここに近代意識の二律背反(antinomy)がある。近代人は神聖なパラダイムから脱出することによって自律的足らんとしたが、その試みは聖なるものまで無に帰し、結果的に彼自身をニヒリズムへと追いやってしまった。汚れた盥の湯水は流してしまってもいいが、それと一緒に赤ん坊まで流してはいけない。近代の世俗化は両方とも流してしまった。何れにせよ、こうした世俗化の帰結は次のような重要な点を示していると思われる。
人は聖なるものの現前への関係においてのみ有意味に生きられる。もしそうなら、「古き村」の神聖なパラダイムは他律的なものであり、聖なるものの堕落した形態であったに違いない。それ故、我々は決して他律的なものとはならぬ聖なるものを実現せねばならぬ。正にそのような聖なるものの実現においてのみ世俗化はラディカルに完成するものと思われる。
しかし乍ら、決して他律的なものとはならぬ聖なるものとは如何なるものか。もしそれを神律的なもの(the theonomous)と考えるなら、そこにおける神的なものは我々人間の自律的理性と矛盾するものであってはならない。すなわち神律的な聖なるものとは、神的なものと人間的なもの、要するに聖と俗の「対立の一致」(coincidentia oppositorum)でなければならないだろう。
聖と俗のcoincidentia oppositorum としての新しき村―私はそこに祝祭共働態というヴィジョンを見る。それは谷川雁の言う「存在の原点」から咲いた花だと言えるが、もはやその詳述は後日に譲る他はない。
おわりに
我々が「新しき村」として求めている理想的社会の「理想」とは、言うまでもなく「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」に他ならない。すなわち「全世界の人間が天命を全うする事」と「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」という二つが満たされる社会こそ理想的社会と言えるのだ。そして私は、前者は肉体の糧によって、後者は魂の糧によって、それぞれ満たされるものと考える。便宜上、水平の次元において肉体の糧を得るための活動を労働、垂直の次元において魂の糧を得るための活動を仕事とするならば、労働と仕事の大調和にこそ「人間の本当の生」があると言えるだろう。そうした大調和はまた、聖なるものと俗なるものの「対立の一致」に他ならない。武田泰淳の言葉を借りて言えば、肉体の快楽(カイラク)と魂の快楽(ケラク)を共に得て、我々は人間として本当に生きることになる。或る種の求道者(出家者)はカイラクを滅却することによってケラクを得んとするが、それは間違った道だと思う。本当の求道はケラクとカイラクの「対立の一致」を成就する新しき村においてこそ満たされるものと信じている。