祝祭共働と賃労働
祝祭共働としての労働は賃労働ではありません。むしろ賃労働の止揚にこそ祝祭共働の本質があると言えるでしょう。労働力を商品として資本家(雇用者)に売り、その代価として賃金を得る――この構造そのものを打破したいのです。どういう影響によるものか、私は幼い頃から「金のために働く」ということを蔑視してきました。更に言えば、お金(の力)を何か穢れたものと見做してきました。しかし現実にはお金は必要不可欠なものであり、如何に自給自足の生活を求めてみても、お金を稼ぐことなくして生活を維持していくことはできません。すなわち現実の生活は否応なくお金を稼ぐことを基本とせざるを得ない構造になっているということです。この構造から如何にして脱するか――ここに「新しき生活」の問題があると思います。
賃労働という構造、並びに雇用-被雇用という関係の超克! 私のヴィジョンとしては、賃労働から解放される時、そこに祝祭が現出します。祝祭=共働にこそ真に人間らしい生活があると思います。
さて現実の新しき村の生活は、一応「賃労働という構造・雇用-被雇用という関係」を超えています。我々は日々労働しておりますが、別に村に雇用されているわけではなく、従って給料なるものも得ていません。(尤も月々3万5千円が支給されますが、それは個人費といって、40年以上村で生活している人も入村したばかりの人も一律です。)しかし、それは率直に言って、未だカタチばかりのものです。つまり実質的には依然としてお金の力に束縛されているということです。勿論、この状況の克服は一朝一夕に達成されるものではありませんが、我々は連帯してその理想を実現したいという見果てぬ夢に駆られている次第です。
賃労働という構造、並びに雇用-被雇用という関係の超克! 私のヴィジョンとしては、賃労働から解放される時、そこに祝祭が現出します。祝祭=共働にこそ真に人間らしい生活があると思います。
さて現実の新しき村の生活は、一応「賃労働という構造・雇用-被雇用という関係」を超えています。我々は日々労働しておりますが、別に村に雇用されているわけではなく、従って給料なるものも得ていません。(尤も月々3万5千円が支給されますが、それは個人費といって、40年以上村で生活している人も入村したばかりの人も一律です。)しかし、それは率直に言って、未だカタチばかりのものです。つまり実質的には依然としてお金の力に束縛されているということです。勿論、この状況の克服は一朝一夕に達成されるものではありませんが、我々は連帯してその理想を実現したいという見果てぬ夢に駆られている次第です。