宗教と経済の一致
新しき村の理想について考える時、私は松井浄蓮(1899-1992)の次のような言葉を思い浮かべます。
お互ひ人間同士の間で、一類は神に祈り仏を憶ふに専らのゆゑに尊しとし、他類は生産の業に追われてゐる俗物なりとするが如き、無邪気な今までの通念はもはや論外として、この際、なんとしても人類の誇りにかけてやってみねばならぬものに、宗教と経済の一致、神と生産の自己同一ということがある。
松井浄蓮は農禅一味を実践した「百姓菩薩」ですが、その一生は「自ら耕して食ふは邪命食」(農耕など食うための労働は悟りを開く修行の妨げになる)という公案に対する反逆だったと言えるでしょう。周知のように、古代においては労働を蔑視する思想が支配的であり、新約聖書においてもイエスは自分をもてなすために忙しく働くマルタよりも何もしないで一心にイエスの話に耳を傾けるマリアの方を正しいとしました。確かに人はパンのみにて生くるにあらず、肉体の糧をめぐる俗事に忙殺される生活は人間にとって決して望ましいものではないでしょう。やはりパン以上のもの、すなわち魂の糧を専一に求める生活こそ人間として本当に生きることだと思われます。
しかし、だからと言って、肉体の糧を得るための労働を単純に否定することはできないでしょう。少なくとも浄蓮は、その求道を深めるにつれて、労働の否定が正しいものとは到底思えなくなりました。かくして「宗教と経済の一致、神と生産の自己同一」を求めることになるわけですが、私はそこに「新しき村の精神」に通底するものを見ます。肉体の糧を得るための「労働」と魂の糧を満たすための「仕事」との大調和――そこにこそ我々の求めるべき「新しき生活」があると私は思っています。
お互ひ人間同士の間で、一類は神に祈り仏を憶ふに専らのゆゑに尊しとし、他類は生産の業に追われてゐる俗物なりとするが如き、無邪気な今までの通念はもはや論外として、この際、なんとしても人類の誇りにかけてやってみねばならぬものに、宗教と経済の一致、神と生産の自己同一ということがある。
松井浄蓮は農禅一味を実践した「百姓菩薩」ですが、その一生は「自ら耕して食ふは邪命食」(農耕など食うための労働は悟りを開く修行の妨げになる)という公案に対する反逆だったと言えるでしょう。周知のように、古代においては労働を蔑視する思想が支配的であり、新約聖書においてもイエスは自分をもてなすために忙しく働くマルタよりも何もしないで一心にイエスの話に耳を傾けるマリアの方を正しいとしました。確かに人はパンのみにて生くるにあらず、肉体の糧をめぐる俗事に忙殺される生活は人間にとって決して望ましいものではないでしょう。やはりパン以上のもの、すなわち魂の糧を専一に求める生活こそ人間として本当に生きることだと思われます。
しかし、だからと言って、肉体の糧を得るための労働を単純に否定することはできないでしょう。少なくとも浄蓮は、その求道を深めるにつれて、労働の否定が正しいものとは到底思えなくなりました。かくして「宗教と経済の一致、神と生産の自己同一」を求めることになるわけですが、私はそこに「新しき村の精神」に通底するものを見ます。肉体の糧を得るための「労働」と魂の糧を満たすための「仕事」との大調和――そこにこそ我々の求めるべき「新しき生活」があると私は思っています。