相手の条件
月9のフジテレビドラマ、視聴率は低迷だそうですが、私自身は面白く見ています。
中居正宏演じる主人公の人の良さに、なんとも共感を感じます。
最後はどうなるんでしょうかね?
釈由美子演じるコンカツ中の女性がこんな台詞を吐きました
「結婚相手の条件は、①身長175cm以上、②顔、人並み以上、③年収600万円以上」
ふむふむ、私の場合、クリアしている条件は、2つですかね。
悪くないじゃん!(笑
たまに思います。
地球上のすべての人間が同じ背格好、顔形をしていたら、どうなるかな?って。
そのとき、人を惹きつける最大の要素はなんになるかな?って。
社会主義、共産主義の社会なら、年収はみな同じか。
そんな社会だったら、どうなるんだろう?
そして思うのです。
人はみな、ひとりひとりが違うからこそ、努力するんだろうなって。
みんな同じ境遇だったら、俺は、その境遇に安穏として、きっとさぼっちゃうな。
血は争えない
最近よく母親と電話で話しをする。
コンカツのことこは、結局誰にも相談できないので、勢い母親に愚痴的なこともこぼしたくなるからだ。
そんな折、父親の若いころの話を聞くことができた。
どうやら父親は、若いころ、今の私と同じような男だったようだ。
曰く、女性の友達は大勢?いるのだが、だれとも恋愛関係にはなれない人。
たとえば、父親が女性の友達を含めてキャンプにいったとき、他の男性は当然女性のテントで寝ることなどできなかったが、父親だけはそれが許されたそうな。
まったく同じことが私にも起こったわけではないが、結局、女性にとって人畜無害的な男という立ち居地は、今の私と同じだ。
血は争えない。
そんな父親も母親と結婚した。
正直、母親は父親のどこに魅力を感じたのかいまだに私にはわからない。
でも、父親は母親をちゃんと見つけて、結婚までこぎつけた。
母親は、父親の人畜無害性を共有している集団には所属していなかったので、その属性を知らなかったようだが、私も結局、そういう人とめぐり合う必要があるのだろう。
つまり、私の人畜無害性を知らない人に。
とすると・・・・
今の私のコンカツというやり方は、方向性としては間違いではなさそうだ。
それにしても・・・
占いに行ってみたい。
名言
先日、ある人の言葉を偶然に目にしました。
本当にたまたまの偶然だったのですが、今の私の心境にマッチして、心にキーンと響きました。
「過去の日記を眺めるよりも、未来のカレンダーを見つめなさい」
本格的にコンカツをはじめて以来、私は失敗ばかりしてきました。
よりによってどうして!と叫びたくなるような不可抗力的な不運もありましたが、基本的に私の私たる故の失敗ばかりです。
欲しいな、手に入れたいなと思ったものを、すべて、すべて失ってきました。
そんな失敗の数々を、私はとても後悔しています。
後悔して、後悔して、後悔しつくしています。
でも、後悔ばかりしていても仕方がないんですよね。
失敗から、なにも得なければ、いつまでも失敗を繰り返すだけかもしれませんが、失ったものはどんなにもがいても元には戻ってこないんだし。
今年もすでに1/3が終わろうとしています。
今年の正月、綺麗な富士山を見ることができたとき、なんとなく今年はいいことがあるかなとウキウキした気分でいたのですが、現実はそうではありませんでした。
あと8ヶ月。
相談所に入っている女性は平均6ヶ月くらいで相手を見つけるという話を聞いたことがあるような気がします。
現実に6ヶ月そこそこで結婚を決めた女性を見たこともあります。
私は女性ではないので、この基準を当てはめて何かの目安にすることはナンセンスですが、でも自分がその女性の相手になればいいんですよね!
いずれにしても、長くやるよりも、一日も早くお相手を見つけたいです。
今日見た映画「レインフォール」
予想通り駄作でしたが、ラストシーンで、「過去よりも未来を!」的な言葉が出てきました。
神様からのなにかの暗示でしょうか。
マルチメディア
私が大学を卒業するころ、だから、今から12、3年前、
「マルチメディア」という言葉がはやり、そして、それをタイトルにした本がベストセラーになった。
マルチメディア。
言葉どおりの解釈ならば、単に、複数の媒体といった意味なのだろうか。
当時は、インターネットが産声をあげ、日増しにその存在感が増していたころ。
そして、携帯電話とPHSが爆発的に普及してきたころ。
山一証券が倒産し、経済が大混乱している中、電子立国日本を立て直すけん引役として、そういったメディア技術にいやがうえにも期待がもたれていたころだ。
私も、80年代からPCに親しんでいた人間だったので、そういった、いわば秋葉原的な世界のお話、もしかすると幻想に、こころを躍らせた人種の一人であった。
が、当時の私は、ときあたかも就職活動中。
今年の学生も大変だろうが、私の世代は、ベビーブーマーでもあり、そして、山一倒産に象徴されるようなバブル崩壊後の大経済混乱期。
超、超、超、超、就職氷河期だった。
そのころ私は、マルチメディア時代、というものは何を指し示しているのか、自分なりに考えていた。
PCにしろ、携帯にしろ、それらは単に人間の意志を遠隔地の人間に伝達するツールに過ぎない。
そこで営まれている、意思の伝達という行為そのものは、太古の昔からなにも変わってはいない。
だから、そのツールをどんなに使ってたとしても、それが「○○時代」といわれることは常識的にいってありえない。
とたえば、電話が一気に家庭に普及した時代を人類はすでに経験しているにもかかわらず、だからたといって「電話時代」なんて言葉は一切発せられなかった。
それと同じはずである。
でも、現実は違う。
マルチメディア時代という言葉が発せられ、新たらしい時代が到来することを、私を含め多くの人が期待していた。
学生時代に、私が考えたマルチメディア時代とは・・・
たとえば、メディアを使った人間の挨拶が、実際に面と向かって行った挨拶と同価値になる時代
と、考えた。
電話で挨拶をすること、それと、わざわざ足を運んで挨拶すること、今の世の中では、当然後者の方に重きを置く。
たとえば、お詫びに行く場合、電話ですましてしまうような人と、実際に会いにくる人がいたならば、お詫びされる側としては、どうしても後者の方に好印象を持ってしまう。
でも、もしこれが同価値と捉えられるような時代になったならば、そのときこそ、マルチメディア時代だと思ったのです。
同価値と思え!という強制的な規範が確立されることではなく、あるいは、電話でなにが悪いの?と開き直った人間を認めるということではなく、ごくごく普通に生活している人々が、自分の誠意をこめたお詫びという行為であっても、メディアを使うことに何の躊躇も感じない時代。
そして、お詫びされる方もまた、メディアを使われることになんの抵抗も感じない時代。
そんな時代こそが、マルチメディア時代だと思ったのです。
とはいえ、最近、マルチメディアなんて言葉はまったく目にしなくなりましたが。。。。
主体と客体
地球とか宇宙とか、人間にとっては当事者として関わっているこれら世界も、
きっと人間以外の誰かにとっては、単に観察すべき客体にすぎないのではないのか。
子供のころからそんなことをときどき考える。
そして、その「誰か」というのが、おそらくは創造主なのだろうと。
天界から下界を見下ろす神様。
実験室で、シャーレの中の宇宙を顕微鏡で観察している創造主。
そんな感じだ。
この発想は、なにも私のオリジナルではない。
おそらく、どんな子供でも、一度は想像するファンタジーだろう。
でも、それがウソなのか本当なのかは、いまのところだれも証明していない。
だから、私は今でもそのファンタジーを信じている。
だって、もし地球や宇宙というもをの認知する主体としての人間が存在しなかったら、地球や宇宙は、まったくもって無意味になるから。
それでも存在するということは、人間以外に、人間とは別の次元で、人間に代わる認知の主体が存在するからなのではないか。
人間という認知主体がいない宇宙って、なんのために存在するんだ?
人間という認知主体があって、はじめて「宇宙」っていうものの存在が認知されるんだし。
それをおこがましいというなら、人間をも客体としている、さらに上のレベルの認知主体があるってことでしょ。
たぶんそれが、創造主なんだよ。
エリートは、非エリートを必要としている。
昔、朝まで生テレビでだらかが発言していた言葉。
確かにそうだ。
社会の構成員がすべてエリートだったら、もはやその人たちはエリートではない。
「アクションとリアクション」の関係と同じだろう。
客体は、主体があってこそのもの。
さて、この主体と客体を自分に当てはめると。。。。
私という客体は、どんな主体によって認識されるのか。
一般的に考えて、私は、主体は3つくらいあるのではないかと思っている。
1つは、配偶者以外の家族。
2つは、会社。
3つは、配偶者。
そして今の私にとって、もっとも重要な主体は配偶者である。
配偶者がいなかったら・・・・
私という客体を認識する主体がいないということであり、それはつまり、私という客体の存在意義がないというこになる。
存在意義のない存在。
それが、配偶者を見つけられない今の私のまぎれもない姿。
高校の現代文で紹介された黒井千次の随筆「であることとすること」
あの随筆が、いつも頭に浮かんでくる。
配偶者以外の家族において、私の客体としての価値は「であること」で完結する。
そこにいれば、それだけでいい。
でも、会社や配偶者は、「すること」に価値を求められる。
なにができるか、なにをしてくれるか。
なんでもできて、なんでもしてくれる人を、主体は客体として認知してくれる。
そんな、「客体となための生存競争」が、コンカツなのだろう。
それは、競争である以上、強いものしか勝ち得ない。
ショック
昨日の夜、ショッキングな出来事にまた遭遇してしまいました。
どうしようもないことなのですが、どうしようもないことなのですが。。。
コンカツは、本当につらいことばかりです。
はやく、一日でもはやく、お相手を見つけたいです。
苦しい。。
奇蹟
天文学的な確率で二人は出会い、天文学的な偶然が重なって、二人は結婚へ。
両親も、そのまた両親も。。。
私という存在そのものは、そんな奇蹟のような出会いの上に成り立っている。
出会いの奇蹟。結婚という奇蹟。
コンカツは、いよいよブームになっちゃいましたね~
NHKとフジテレビですか。。
結婚が奇蹟なら、奇蹟でも起こらない限り、俺の結婚は ないか。。。。
運命
の人は、いるのでしょうか?
手相を見てもらった占い師は、結婚できる、といってくれましたが
ただ、いつできるか、は明言してなかったしな。
40歳過ぎちゃうのかなぁ。
それとも、やっぱり俺には運命の人はいないのかな。
だったら、教えくれないかな。
「お前には運命の人はいないよ」って。
教えてくれたら、変な期待などせず、もっとさっぱり生きられるのに。
この歳でひとりか。
もしこれが何かに対する天からの罰なら、もう許してくれないかなぁ。
もういいでしょ。。。。
ムダなこと
世の中にはムダなものなど一切ないと、素朴に、単純に信じています。
二つの意味で。
この世の中は神様、あるいは、神様的な存在が創造したのではないかと素朴ながら信じているのですが、だとしたら、全知全能の神様が、わざわざムダなものなど作るはずがないから
そして
ムダなこと、ムダなものは反面教師として、有益なものを顕在化するから
そんな意味合いで、私は「ムダなものはない」と信じています。
だって、ムダというのは、ある一定の基準を当てはめて初めて判定される結果にすぎないのであり、その基準が、世間的にも、そして、ひとりの人間の中にも多元的に存在する以上、少なくとも「絶対的なムダ」は、論理的にはありえないはずですから。
翻って私の人生。
失敗は多々ありました。
そのときは成功に向かって突き進んでいるつもりなのですが、なにかの原因で失敗し、元も子もなくてしてしまう。
そんな失敗の経験が、これまでの人生にはたくさんありました。
そんなとき、私はいつも決まってこう考えてしまいます。
「どうして神様は、(当初、成功するのではないかと思わせた)この出来事を、私の前に現出したのか?」
「神様は、失敗するという結論を知りながら、なぜに私にこの経験をさせたか?」
「失敗するというムダを、どうして神様はわざわざつくったのか?」
と。
そう考えていると、これまた決まって私は、以下のように考えをめぐらしてしまうのです。
「失敗はきっと、神様からのなにかの暗示、メッセージなのではないか」と。
しかしながら、ことここに至って、致命的な問題が発生します・・・・
それは、私が「失敗」によって暗示された神様からのメッセージをちゃんと理解していない、すぐに忘れてしまうということです。
だから、同じような失敗を、何度も何度も繰り返す。。。。
失敗から教訓を得るて、次の成功につなげることができないのです。
失敗は成功の母
私の「失敗」は、本当の意味で「ムダ」になっているようです。
気のせい
だと、人は言うが、やはり気のせいではなく、そういう巡り会わせなのだと思う。
なんのことかというと、お店の客足のことだ。
大抵、混雑しているお店に私が入り、席に着くと、しばらくして混雑は解消され、逆に、席が空きだす。
そのことに気がついて久しい。
そのことを同席している人に伝えると、「気のせい」「単なるタイミングの問題」と一笑に付すのだが、
私に言わせればそれはまったく持って説得力のない言い分に過ぎない。
基本的に、私の自意識過剰な風を察知して、冷淡に返答するのだろうが、
その中の何人かは、その後「私は逆に、人がいっぱい来るようになる」と発言する。
やはり人間の行動は、アクションよりもリアクションの方に、より高い比重が置かれているのであろう。
「自分のことを棚にあげて」とは、よく言った台詞である。
そんな憎まれ口をたたくからこそ、私の気分は好転しないのだが。。
コンカツが首尾よく運ばない理由に心当たりがないわけではない。
もちろん現実的な理由、たとえば、ルックスがよくないとか、そういった次元のお話ではなく、
人知の及ばない次元、いわば神の見えざる手的な領域における思い当たる節のことなのだが。。。
これ以上のことをここに書くのはやめよう。
今日は、細かい点でいろいろ不首尾の多かった日だった。