主体と客体
地球とか宇宙とか、人間にとっては当事者として関わっているこれら世界も、
きっと人間以外の誰かにとっては、単に観察すべき客体にすぎないのではないのか。
子供のころからそんなことをときどき考える。
そして、その「誰か」というのが、おそらくは創造主なのだろうと。
天界から下界を見下ろす神様。
実験室で、シャーレの中の宇宙を顕微鏡で観察している創造主。
そんな感じだ。
この発想は、なにも私のオリジナルではない。
おそらく、どんな子供でも、一度は想像するファンタジーだろう。
でも、それがウソなのか本当なのかは、いまのところだれも証明していない。
だから、私は今でもそのファンタジーを信じている。
だって、もし地球や宇宙というもをの認知する主体としての人間が存在しなかったら、地球や宇宙は、まったくもって無意味になるから。
それでも存在するということは、人間以外に、人間とは別の次元で、人間に代わる認知の主体が存在するからなのではないか。
人間という認知主体がいない宇宙って、なんのために存在するんだ?
人間という認知主体があって、はじめて「宇宙」っていうものの存在が認知されるんだし。
それをおこがましいというなら、人間をも客体としている、さらに上のレベルの認知主体があるってことでしょ。
たぶんそれが、創造主なんだよ。
エリートは、非エリートを必要としている。
昔、朝まで生テレビでだらかが発言していた言葉。
確かにそうだ。
社会の構成員がすべてエリートだったら、もはやその人たちはエリートではない。
「アクションとリアクション」の関係と同じだろう。
客体は、主体があってこそのもの。
さて、この主体と客体を自分に当てはめると。。。。
私という客体は、どんな主体によって認識されるのか。
一般的に考えて、私は、主体は3つくらいあるのではないかと思っている。
1つは、配偶者以外の家族。
2つは、会社。
3つは、配偶者。
そして今の私にとって、もっとも重要な主体は配偶者である。
配偶者がいなかったら・・・・
私という客体を認識する主体がいないということであり、それはつまり、私という客体の存在意義がないというこになる。
存在意義のない存在。
それが、配偶者を見つけられない今の私のまぎれもない姿。
高校の現代文で紹介された黒井千次の随筆「であることとすること」
あの随筆が、いつも頭に浮かんでくる。
配偶者以外の家族において、私の客体としての価値は「であること」で完結する。
そこにいれば、それだけでいい。
でも、会社や配偶者は、「すること」に価値を求められる。
なにができるか、なにをしてくれるか。
なんでもできて、なんでもしてくれる人を、主体は客体として認知してくれる。
そんな、「客体となための生存競争」が、コンカツなのだろう。
それは、競争である以上、強いものしか勝ち得ない。