戦争の8月 劉連仁さん | あらかんスクラップブック

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60代の哀歓こもごも

日本は、1937年から、中国との全面戦争に入った。 その翌年1938年に国家総動員法、39年には国民徴用令。

徴用されるのは、日本国民だけでなく、朝鮮や中国の労務者を日本に移住させるために、現地での募集が始まった。

最初は募集による志願兵だったのが、1944年には徴用になり、日本へ労務動員された朝鮮人は約80万人と言われている。

今でいう強制労働、徴用工である。

日本に送られ、国から軍需会社の指定を受けた、日本製鉄、三菱重工業などの重化学工場、三井鉱山や三菱鉱業などの炭鉱に送られた。

詳しい事は、「韓国徴用工裁判とは何か」竹内康人(岩波ブックレット)がわかりやすい。

 

その実態はどのようなものであったか? 行政文書や裁判記録、人々の証言で知る事ができるが、私はひとつの長編詩をおすすめする。

 

茨木のり子「鎮魂歌」

 

この詩集に、「りゅうりえんれんの物語」という長編詩が収められている。

中国人の劉連仁(りゅうりぇんれん)さんは、中国のふるさとの村から日本軍によって拉致、強制連行され、船で運ばれ、炭鉱で強制労働を課せられたが、脱走し、北海道で穴ぐらで14年も潜伏した。そして発見されて、祖国に帰ることでできた。

隠れていた穴ぐら

「穴にかくれて14年」という聞き書きの記録は、Amazonで入手することができる。

 

 

この記録をもとに茨木のり子が詩を書いた。

詩人の茨木のりこは、1921年生まれ。戦中には、医学系の女子専門学校の生徒として、学徒動員し、工場に徴用される。

劉さんが逃げ回って頃に、茨木のり子は戦争は正しいものと信じて、挺身隊で励んでいたが、友人が空襲で死ぬ。 劉さんも共に脱走した仲間は捕まり、1人だけ逃げのびて、穴の中で戦後も知らず、14年も生き延び、1959年に発見される。

 

記録が詩となる。 詩は、劉さんの願いやふるさとへの追憶などが詩人によって表現される。

逃亡生活の日々のなかに夢のような一日が、詩人によって描かれる。

逃げている徴用工と開拓村の子どもの交流。

 

風がアカシヤの匂いを運んでくる
或る夏のこと
林を縫う小さなせせらぎに とっぷり躰を浸し
ああ謝々(シェシェ) おてんとさまよ
日本の山野を逃げて逃げて逃げ廻っている俺にも
こんな蓮の花のような美しい一日を
ぽっかり恵んで下されたんだね
木洩れ陽を仰ぎながら 
水浴の飛沫をはねとばしているとき
不意に一人の子供が樹々のあいだから
ちょろりと零れた 栗鼠のように
「男のくせに なんしてお下げの髪?」
「ホ  お前 いくつだ」
日本語と中国語は交叉せず いたずらに飛び交うばかり
えらくケロッとした餓鬼だな
開拓村の子供だろうか
俺の子供も生れていればこれ位のかわいい小孫(しょうはい)
開拓村の小屋からいろんなものを盗んだが
俺は子供のものだけは取らなかった
やわらかい布団は目が眩むほど欲しかったが
赤ん坊の夜具だったからそいつばかりは
手をつけなかったぜ
言葉は通じないまま
幾つかの問いと答えは受けとられぬまま
古く親しい伯父 甥のように
二人は水をはねちらした


 逃げ

劉連仁さんと茨木のり子、戦争を生きた人の言葉。

人々には戦争より大事なつながりがある。 中国残留孤児についても、日本人の子どもを引き取って育ててくれた中国の人々。

国家間の戦争なんて、なんて愚かなことか…。

 

ピート・シーガーは、茨木のり子の「私が一番きれいだったとき」という詩を歌にした。 一番の娘盛りを戦争に奪われたという有名な詩である。

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声 「非戦」を読む (haizara.net)