ゴダールがなぜ、商業映画と決別し、第3時代の「毛沢東の時代」(1968~73)に変貌したか?
「一人の女優と一緒に仕事をし、その女優を映画に出演させ、しかもその女優と一緒に暮らしていた」(ゴダール全評論・全発言Ⅰ)。それがゴダールの映画へのこだわりだった。それは、傍からみれば、傲慢、奔放、苛酷で、悲痛なものだったが、商業的には映画は成功した。ゴダールは生きる伝説というべき不動のレベルになった。
ゴダールの「愛の映画」、「感情の映画」、「通読的なメロドラマ」と総括(自他共に)することもできる。
しかし、五月革命を契機に、政治の映画へと傾倒する。映画の内にいたゴダールが映画の外に出ていく。映画以外の主題、映画で取り扱わない主題で映画を撮った。 「思想の映画」とも称されるが、単なる前衛でもない。もう、観客すらも意識になく、破産してしま、自主映画製作に没頭した。アンダーグラウンドに自ら降りていった。
映画の仲間たちとも縁を切って、孤独だったろうなと思うが、なぜか、パートナーの女は傍にいた。アンヌ・ヴィアゼムスキーである。
アンヌとの出会いは、1966年、「カイエ・デュ・シネマ」の編集部気付で、ゴダールに届いた一通の手紙。
19歳の女子大生からで、「気狂いピエロと「男性・女性」を見て、監督に恋をしてしまった」というファンレター。 この差出人アンヌ・ヴィアゼムスキーは半年前にずぶの素人のまま、ロベール・ブレッソン監督「バルタザールどこへ行く」のヒロインを演じた。
バルタザールはロバの名前。
バルタザールどこへ行くの
アンヌは、1947年生まれ。ロシア貴族の末裔で、一家はロシア革命を避けて亡命し、パリに落ち着いた。無国籍の窮乏生活の後、父親の代になってフランス国籍を取得。父親は、国際機関に勤め、ノーベル文学賞作家モーリアックの娘と結婚したが、不仲だったと言われている。母方の祖父の慈愛のもと、文学的雰囲気のなかで育った。
ゴダールと知り合った当時、アンヌはパリ・ナンテール大学の学生で、哲学はフランシス・ジャクソンにに学んだ。友人のひとりは、後に五月革命の学生運動の指導者のダニエル・コーン・バンディット。ゴダールはナンテールに通いつめた。 やがてアンヌは、ナンテールに通わなくなり、ゴダールから映画の個人レッスンを受けることによって、だんだんゴダールに感化され、「中国女」のヒロインとなった。
「中国女」でのヒロインは彼女自身。ナンテールで哲学を学ぶ女子大生。筋は、夏休みに4人の大学生と1人のメイドが、バカンスで不在のブルジョワのアパートを借りて、毛沢東思想の勉強会合宿をする。ブルジョワのお遊びで、プロレタリア解放といいながら、ひたすら学生の世話をしてくれているベトナム人のメイドの存在は眼中にない。やがて夏休みは終り、毛沢東思想など忘れてしまったかのように合宿を終える。
映画のなかでは、新左翼思想家たちやマルクス=レーニン主義の著書がそのまま引用され、ジャクソン教授は実名で特別出演。毛沢東派の黒人の学生も実名で。
中国女 撮影風景
「中国女」の撮影を終えて、7月にアンヌとゴダールは結婚した
映画は、1967年に公開されるやいなや、「監督はゴダールという大銀行家の息子で新左翼、ヒロインのアンヌはロシア貴族という最右翼。ブルジョワ出身のくせに、プロレタリアぶっている。中国の文化大革命に影響を受けて激化する学生運動をあざとく風俗化しただけの軽薄な映画」などと散々。
新左翼の政治団体からは「バカにするな」、映画界からも「芸術は死んだ。ゴダールはもう何もできまい」。
それに対して、ゴダールは「そのことは映画のなかで明確に語られている」と相手にしなかった。
この映画のエンドロールは「ひとつのはじまりの終わり」というもの。
目指していたものは、映画による革命か?
その後、毛沢東派の活動家と「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成し、革命的闘争映画をとりつつ、政治的商業映画にも手を出すが、惨敗。「ジガ・ヴエルトフ集団」も解散。
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アンヌは、もうついていけなかった。ゴダールの元を逃げ出す。
次の作品は、ベェネチア映画祭で知り合ったパゾリーニの「テオレマ」。
そして「豚小屋」。いい関係だったが、結婚はしなかった。パゾリーニは同性愛者だからね。
その後、フェリーニやガレルなど監督には恵まれて、70年代を送ったが、40歳になった時には、映画女優にはすっかり興味がなくなった。映画女優は若気の至りと割り切り、作家業に転身する。 ゴダールとはずっと離婚状態だったが、作家としても成功した79年にゴダールと離婚。
後に、アンヌとゴダールとの関係を書いた自伝の原作から映画が作られた。
グッバイゴダール
私は、ゴダールと離れた後、女たちがどのような人生を送ったが、きになるが、アンヌ・ヴィアゼムスキーは、みごと自立して長生きしていったので、ほっとする。
ゴダール第4の時代は「ビデオ時代」。(197~80)。
これ以後、第7の時代まで、ゴダール映画のミューズは、女優などとして表にはでてこないが、いる。アンヌ・マリ・メルヴィル。
これまでの女には、4~5年で逃げられていたが、40年も連れ添った理想的な同伴者で、決して人前には現れず、謎の存在。
ゴダールの映画も商業映画に回帰し…というか、時代がゴダールに追いついた? ジャンプ・カットなんて、普通にやってるし、ゴダールのほうが古典的だとおもうこともある。
近年、ヌーベルバーグの立役者が次々と亡くなるなか、ゴダールはしぶとく生きていた。
フランスは、レガシーであれ、新人であれ、映画や映画人をリスペクトしている。 ユニフランスという機関は、海外にフランス映画を広めるために、主要な外国に、支部をおき、日本でも、毎年、フランス映画祭を開いたり、日本のミニシアターの支援までやっている。
私は、ミニシアターのアメリカ以外の外国映画が大好きだ。フランス、ドイツ、イタリア、その他のヨーロッパ。アジア、中国、韓国、東南アジア、南アジア、南米…。
ゴダールも商業映画しか見ることができないが、大好きだ。
映画というジャンル、日本ほど粗末にする国はない。自国の監督すら応援することができない。
最後になりましたが、次回はあまり情報がないですが、ゴダールの最後のパートナーを紹介して、ゴダールを追悼したい。
晩年のアンヌ・ヴィアゼムスキー