格差社会、人はちょっとしたことで「不幸」になり、回復できないほど痛手を受ける。
シモ―ヌ・ヴェイユは、片頭痛と手足のマヒに悩まされていた。 頭の痛みは、のたうち回るほどの激しいもので、慢性的なものだった。食べることも寝ることも思うようにいかない。このことを「不幸だ」と嘆いて一生を過ごすというのもアリだが、本人はこの身体的な苦痛を「半ー不幸」と位置付けて、活動のさまたげとしなかった。強靭なメンタルに驚くが、周辺には、エキセントリックに思われたことだろう。
「不幸」で、人は心理的な影響を受ける。たとえば、「あ~ぁ、クビになっちゃった」、それだけでは済まない。「なんでオレをくびにするんだよぉ」と反発する、悲しむ。それが内面化し、傷つけられ、自己破壊や外への攻撃に変化することもある。
「不幸」は、繰り返されると、人を呪縛する。 過去をグチュグチュ言って現在を汚染している老人を、私は介護士のときに毎日みていたよ。
「不幸」の多くは社会的なものだ。 不幸は「落ちこぼれ」をつくる。葬りさられることもある。 そして、孤独に陥り、さらに不幸が増幅する。
最近は「親ガチャ」などという、どうしようもない不幸の連鎖を政治が作り出している。
順調な人間には、転落した人間は見えない。 見えたとしても、軽蔑や嫌悪感から「無縁なもの」と切り捨てられる。だれでもちょっとした不運で「不幸」になるというのに…ね。山上くんの「不幸」は、詳しく報じられているから、多額の献金で「不幸」を作り出したカルトの統一教会、その統一教会の金で票を買い、モリカケ桜、アベノミクスで政権を維持した安倍政治。現在の「不幸」について考えている人も多い。
シモ―ヌ・ヴェイユの「不幸」は、身体的なものだけではない。ユダヤ人の生まれもこの時代のヨーロッパにおいては、「不幸」の極み。女であるというのも「不幸」。高等師範学校で同級生のうち、女性は、シモ―ヌ・ヴェイユとシモ―ヌ・ヴォーボワールとあと一人だけ。だから「アカの乙女」なんてニックネーム。ただの「アカ」ではない。
ヴェイユが教職をクビになってから亡くなるまでの4年近くは、収入は失業手当だけ。お金がないという「不幸」も経験した。
でも、シモ―ヌ・ベイユのすごいのは、「不幸」でも自分をつまらないものだと思わなかったことである。
「不幸」を他人に説明することはむずかしい。たとえば、ワーキングプアは、毎日毎日、働くことでエネルギーを使い果たし、他人に伝えるために考えをまとめることすらできない。だから、同じ「不幸」な同僚をいじめて刹那的なうっぷん晴らしをする。呟き以上の言語化する機会というのが、労働者には与えられていない。今も昔も。
労働組合というのは、「沈黙するな!立て飢えたる者よ!」と上から目線でいう前に、労働者に、しっかりこの社会のしくみを学んでもらい、言語化する訓練をしたらどうだ。 不幸に寄り添っていない。
社会的な「不幸」を社会的に克服できるか? ある程度は、知識人や活動家の力を借りて改善できるかもしれない。貧困をなくし、民衆が権力をもつようにしくみを変えればいい。シモ―ヌ・ベイユは、教職時代にマルクス主義に傾倒して、労働組合運動にコミットした。しかし、こういう上昇志向の運動は歴史的に挫折している。ローマに対するキリスト教の勝利、ブルジョワジーに対するレーニンの勝利…。指導者では解決できない。 だから、シモ―ヌは知識人はもっと現場に身を置くべきだと、労働者に溶け込むために自ら望んで工場労働に従事した。しかし、体調がすぐれないでしょっちゅうぶっ倒れる出来の悪い労働者の味方はいなかった。 孤独でもその孤独に負けることはなかったが、奴隷の卑屈とも思える感受性が彼女の中に内面化するという「不幸」が彼女を襲った。
その「不幸」を救ったのが、療養先のポルトガルの静養先の漁民たち。
何の権利もないことは、民衆は納得している。それは奴隷の宗教であるキリスト教を信じているからだと、シモ―ヌは神の憐れみに初めて出会った。
「知性で捉えられぬものは知性でとらえうるもの以上に実在的であることを、われわれは知性を酷使して知っている」(重力と恩寵)
そして、神の愛は「愛は慰めではない。光である」。
私は、統一教会の神がどのようなものであるかは全く知識がない。キリスト教の神は聖書にたっぷりと書いてある。長いけど、知識を得るのはむずかしくない。超ビギナー向けに、簡単に、旧訳聖書と新約聖書のイエスの復活以前まで、20行で書いてみよう。
この世にあるものは、全てもともと、神がつくったのだよ。旧約聖書 創世記第一章 「はじめに神は天と地とを創造された」、天地創造だね。
人間も創った。「土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。」
神がなんで人間を創ったのか? 神は愛だけのために人間を創った。そして神は人間を自由で自律的な環境において、人間から遠ざかり、沈黙した。
人間が自由で自律的であるというのは神の最高のギフト。
でも、神は決して人間を見捨てたわけではない。自分の「愛するひとり子」、イエスという人間を地上に遣わした。イエスは神から離され「不幸」を背負った。貧乏な家に生まれ、放浪と流転の末、人間としての尊厳を剥ぎ取られ、罪もないのに犯罪人として裸で刑場に磔にされて、血を流し、神に向かって叫んだ。
「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」。
最後には、「父よ。私の霊を御手にゆだねます」と言って、息絶えた。
ダリ 「磔刑と神の空間」 上から見た磔刑図はこれしか知らない。
私は、十字架上でイエスが神に向かって叫んだときに、天上の神もまた愛する者を救えない沈黙の苦しみにあったのだと考える。
シモ―ヌ・ベイユもまた、
「苦しみ、それは神に対する人間の優越である。この優越がつまずきの石とならぬためには、受肉(イエスが人間として生まれたこと)が必要だった」と理解する。
彼女は、不幸と神の憐れみについて
「神の憐れみは不幸そのものにおいて輝きます。慰めのない苦しみの中心で、その奥底で輝きを放つのです。愛のうちに耐え忍び、魂が「わたしの神よ。なぜわたしを見棄てられたのですか」という叫びを押さえられなっくなるまで墜ちていくなら、苦しみのうちにとどまりつつも、なお愛することをやめずにいるなら、ついには不幸ではないなにかにふれます。それは歓びではなく、本質的で、純粋で、感覚にもとづかない。歓びににも苦しみにも共通した根源的な要因というべきものです。それこそ神の愛なのです。」(神を待ち望む)
苦しみ(不幸)も歓び(幸福)も、それぞれ味わなければならないのである。それが神の憐れみ、愛だから。
「他人の苦しみをとおして神を愛することは、自分自身の苦しみをとおして神を愛するより、はるかにむずかしい」(雑記帳)
自分の不幸は、神を愛することによって、どうにでもなると、彼女はいいたかったのかも知れない。
信仰は不条理に満ち満ちている。 しかし、第一次大戦と第二次大戦の混迷した時代を駆け抜けていったシモ―ヌ・ベイユという一人の女性は、最後はすべてを神の手にゆだねて死んでいった。
錯乱したり、餓死を望んで死んだわけではないと思う。 自殺をすることは考えられない。神の御手にゆだねて召されたのだと思う。イエスのように。
統一教会というキリスト教のニセモノに、あっけなく騙されないようにするためにも、キリスト教の神とイエス・キリストの「不幸」について理解してほしいと思って、このおまけの回を書きました。
最後に、私は山上容疑者の逮捕の瞬間の身のこなしの美しさが気になっている。直前のアベさんと比べてみてください。誤りの行動であれ、自分が取るべき行動に真摯である人間は美しい。
神でもないものに、神のレッテルを貼って、それを愛してはならない。
「恩寵でないものはすべて放棄すること。しかも恩寵をほしがってはならない」(重力と恩寵)
人生、楽になるよ。
これは、山上くんのおかあさんに言いたいな。
安倍さんは、ちゃんとみれば「悪相」なんだよ。 私はこれも人をだましてやろうという表情に思える。 政治家として、人々に訴えようという顔じゃない。
まるで映画のシーンのようだ。