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小金井喜美子『鷗外の思い出』

鴎外の思い出 (岩波文庫)  鴎外の思い出 (岩波文庫) 

 

森鷗外(1862-1922)の妹、小金井喜美子(1870・明治3-1956・昭和31)の随筆です。

 

祖父のものだった橘守部の『心の種』をもらったことをはじめ、

鷗外との思い出を中心に、家族のことや身の回りのことが

こまやかに書かれています。

 

料理に関する記述も多くて、楽しいです。

 

弁当の握飯のことはいつも話に出るのですが、毎朝母がそれを作られるのを見ますと、

炊き立のご飯を手頃の器に取って、ざっと握って皿に置きます。

それに味付けした玉子を入れるのですが、その玉子の中に花鰹を入れます。(中略)

握飯はいつも二つでした。一つには玉子を、今一つにはめそをいれます。

めそのことは人があまり知らずに小魚などといいますが、鰻のごく細いのです。(中略)

見ている私は浅草海苔をざっと焼いて、よいほどに切って、握飯を包むのでした。(p.62)

 

漬け物もよく上がりました。野菜の多い夏が重です。

茄子、胡瓜の割漬、あの紫色と緑色とのすがすがしさ。

それに新生薑を添えたのが出ると、お膳の上に涼風が立ちます。(p.65)

 

・・・・・・・・・・・・・

 

森家は代々、石見国津和野藩(島根県津和野町)の藩医を務めていましたが

廃藩置県によって収入の見通しが厳しくなってしまいます。

 

優秀だった長男の鷗外に期待する向きもあって、

一家は東京に移り住むことにしました。

1872年に父と10歳の鷗外が、翌年に残りの家族が引っ越しています。喜美子は3歳でした

 

はじめは向島、喜美子が11歳のときに北千住に移り

そこで父が橘井堂医院を開業しました。

 

鷗外は19歳で東京医学校(東大医学部の前身)を卒業して

(二歳逆鯖を読んで受験→合格したそうヽ(゚◇゚ )ノ

陸軍省に入り、軍医として働くことになります。

 

「人は泣いても(1871年)廃藩置県」、語呂合わせの暗記で通過した記憶しかないけれど;

士族の方々にとっては大事件だったというのを今頃実感しました…

 

家族は喜美子から見て、おばあさん+その娘のお母さん+婿養子のお父さん、

8つ上の兄が長男の鷗外(本名は林太郎)、

5つ上にもう一人のお兄さん、次男の篤次郎(1867-1908)、

そして9歳下に三男、弟の潤三郎(1879-1944)の四人きょうだいです。


喜美子は小学校を卒業後、漢学や和歌などの個人教授を受けたのち

東京女子師範学校附属女学校(お茶大の前身)に進み、

卒業後に19歳で解剖学者・人類学者の小金井良精(よしきよ)と結婚します。

 

良精は東京医学校で鷗外の一年先輩で、東大の教授でした。

首席で卒業して文部省派遣でドイツに5年半(1880-85年)留学しており、

その間(1884年)に陸軍省派遣留学生としてドイツにやってきた鷗外とも会っています。

当時医学部に在学中だった次兄の篤次郎も教わっていました。

 

鷗外が4年間のドイツ留学(1884-88)から帰った後は

喜美子は鷗外の主宰する新声社に加わって、詩や文学作品の翻訳をしたり、

千駄木の団子坂の自宅の、観潮楼と名付けられた鷗外の書斎で開かれた歌会に出席したりしていました。

 

 

いちばん印象に残ったのは

このあと、鷗外が東京を離れた時期に書かれた

喜美子の手紙に対する鷗外の返信です。

 

鷗外は1899(明32)年6月に、九州の小倉に転勤になりました(~1902年3月まで)。

陸軍省に務める傍ら文学活動をしていることなどがよく思われず、左遷された説もあります;

 

喜美子は四人の子どもに恵まれましたが、この年の5月に末っ子の男の子が生まれたばかり。

このとき長男9歳・長女6歳・次女3歳

 

小学生の上の二人は、夫の良精の日記によると皆勤賞で表彰+試験も上出来で

(後に男の子二人は医師になり、女の子二人は喜美子の母校の東京女子師範学校を卒業します)

端から見ると幸せな家庭に思えますが、

喜美子自身は夫の健康のことや将来のこと、同居していたお姑さんのことなどで

いろいろと悩むことも多かったようです。

 

さらに1900(明33)年6月から翌年3月までの9ヶ月間は

良精がパリの万国医事会議に出席するため渡欧しており、

喜美子は一人で留守を守らざるを得ませんでした。

医事会議&万国人類学考古学会議@パリ~かつての留学先ドイツで旧交を温めつつ

近隣諸国の大学を見学~アメリカを回って帰国。

 

そこで喜美子は

 

思ってはならぬ、いってはならぬと承知していることまでも、子供らの寝静まった夜などに、

書きに書いては送ったのでした。

読む人がなんと思うかなどということは考えもしませんかった。

ただ兄に手紙を書くということが、私の慰安なのでした。(p.177)

 

すると鷗外から、次のような返事が届きます。

 

1901(明34)年9月14日付の手紙は、母の峰子に宛てて書かれたものですが

峰子が「これはおまえの教科書だよ」と、喜美子のところへ持ってきてくれました。

 

家事(姑に仕へ子を育つるなど)のため何事(文芸など)も出来ぬよしかこち来候。

私なども同じ様なる考にて居りし時もありしが、これは少し間違かと存候。(中略)

何でもおのれの目前の地位に処する手段を工夫せねばならぬものに候。(pp.177-178)

 

そうろう文なのでかんたん姉訳(意訳とも;)をば。

 

 喜美子が、お姑さんに仕えたり、子育てをしたり、家事が忙しくて

 文学的な活動が何もできないことをなげいていました。

 私も同じように思うときもありますが、少し間違いかと思います。(中略)

 何においても、自分がいま置かれている立場で

 まわりのものごとに対処していく方法を工夫しないといけません。

 

また、同年12月29日付の手紙には

 

小供も次第に多くなりし為、文事にいとまなきよし承候。

これもまた似たることにていかなる境界にありても平気にて、出来る丈の事は決して廃せず、

一日は一日丈進み行くやう心掛くるときは、心も穏になり申者に候。(中略)

物書くこともあながち多く書くがよろしきには無之、

読む方を廃せざる限は休居候ても憂ふるに足らずと存じ候。(p.181)

 

 子どもが多くなるとそれだけ手間もかかり、文学活動にあてる時間がないこと、わかりました。

 これも(先ほど書いた、お姑さんに対する対応と)似ていますが

 どんな状況でも気持ちを平らかにして、その状況でできることは決してやめず、

 一日一日、少しずつでも進めようと心がけているときは、気持ちも自然と穏やかになるでしょう。(中略)

 ものを書くのも、たくさん書けばいいというものでもありません。

 読むことをやめない限りは、書く方は休んでいても悲観する必要はないと思います。

 

 

書くのはある程度まとまった時間とエネルギーが必要ですが、

読むのなら少しずつ、家事のあいまに入れ込んでいけます。

 

できる範囲でいいから工夫して諦めずに続けること、

書けなくても読むのをやめないこと、

こう言ってもらえたことで

喜美子はとても救われた気持ちになれたのではないかと思いました。

 

あいだがあく時期もありましたが、喜美子はその後も文学活動を続け

東京に戻った鷗外が創刊した雑誌『スバル』に随筆を載せたり、

与謝野晶子主催の『冬柏』に和歌を寄せたりしています。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

鷗外は60歳で亡くなりましたが、喜美子はそれから約三十年、

鷗外との思い出を大切にあたためて、折々に書いてきました。

 

この『鷗外の思い出』は

『日本古書通信』に連載されたものが

喜美子の最晩年にまとめられ、87歳で亡くなった直後に出版されました。

 

難しい言葉やふるった言い回しなどは一切ないのですが

すっきりと落ち着いた語り口の中に

一本筋の通った芯の強さと品のよさがあって、

明治の士族というものを改めて感じます。

 

「博士〔姉注:鷗外〕にそつくりで、何事につけても諧和し(①p.147)」ていた喜美子の目から見た

東京が江戸であった頃の自然や人々の生活ぶり、

そして家族ーーなかでも鷗外との日々が優しく描写されていて、

静かな温かな気持ちになれる随筆です。

 

アンティーク好きとして別枠で気になったのは

良精の唯一の趣味、根付の蒐集(渋い)でした。

喜美子が小3の時、主席を取ったご褒美に、鷗外が仲見世で買ってくれたお茶道具なども気になります

 

 

 

<余談>

 

良精と喜美子は千駄木の鷗外の家から歩いて15分ほどのところに住居を定め、

頻繁に鷗外の家を訪ねています。

鷗外の書斎の観潮楼を作ってくれた大工さんに、自宅の増築を頼んでいます。

良精は論文を発表する前、必ず鷗外に読んでもらっていました(贅沢すぎるネイティブチェック

 

子どもたちも近くに住み、集まって食事に行ったり頻繁に交流していて、

晩年も孫たちに囲まれてにぎやかだったようです。

 

中でも、次女の精子は結婚後も実家に同居していました。

鷗外に名付けを頼んだら「摩尼(まに)」という「恐しくむつかしい(②p.255)」名前が来て

さすがにびっくりした喜美子が、夫の良精から一字取って、せいこさんになったそう^^;

 

夫は星製薬の創業者である星一(はじめ)、

精子の長男が、小説家の星新一(1926-97)です。

 

星新一は20歳まで、喜美子と同じ家で暮らしました。

のちに、小さい頃のことを以下のように回想しています。

 

 祖父の室の西側に、祖母〔姉注:喜美子〕の書斎兼寝室があった。六畳の和室。

そこは私の寝室でもあった。幼児時代の私は、そこで祖母とともに寝ることになっていた。

〔三人きょうだいだったので、お母さんの精子は下の弟妹と一緒に寝ていました〕

(中略)

 夜の八時ごろになると、祖母と私はこの部屋の寝床につく。祖母も私も、寝床に入ってしばらく本を読んだ。

この部屋の壁にも書棚があり、本が並んでいた。「群書類従」とかいうのがたくさんあった。

一回のぞいてみて、二度と手にする気がしなかった。子供の私にはむずかしすぎた。

(中略)

 私が読むのは「少年倶楽部」という雑誌か「少年講談」という本のたぐいだった。

「少年倶楽部」の新刊を買った日は、夢中になって読み、そうでない日は古い号か

「少年講談」を少しだけ読みかえし、目をとじる。

 祖母はザラ紙のノートに、和歌を鉛筆で書き、小声で読みかえしながら、それをなおしつづける。

その単調なリズムのつぶやきを耳にしながら、私はいつしか眠りに入る。

いま読んだ「少年講談」の筋を思いかえしたりしているうちに。(②pp.13-14)

 

孫に絵本の読み聞かせ的なものをするのではなく、

おのおのが自分のペースで自分の時間を過ごしていて、

それがいかにも自然な情景が何ともいいなぁと思いました。

 

この頃喜美子は60代ですが、毎日の暮らしの中で「文事」を続けていることに

鷗外の手紙を思い出してなんだかほっとしました。

何度も推敲している様子もとても興味深かったです。

 

 

<参考文献>

 

 

森鴎外の系族 (岩波文庫)  森鴎外の系族 (岩波文庫)

 

もう一つの喜美子の随筆集です。

 

どちらかというと『~思い出』のほうを手に取ることが多いので

タイトルにしましたが、こちらも同じくらい好きな本です。

 

永井荷風が「今の世〔姉注:1940(昭和15)年〕に見る事の出来ぬほど

語格正しく且つやさしくも美しい御文章」と評しています。

 

雅文から和歌、現代文まで様々な作品が収められていて、

他ではあまり触れられていない、二番目の兄と弟についての記述も読み応えがあります。

ほんとに仲のいいきょうだいだったんだなぁとしみじみ思いました。

 

 

 

 

増補版 森鷗外・母の日記  増補版 森鷗外・母の日記

 

鷗外や喜美子のお母さん、峰子の54歳から70歳までの日記です。

 

鷗外が日露戦争に出征中、送ってくれと頼まれたインクなどを用意するときに

一緒に荷物に詰めるチョコレートを買いに

森茉莉の随筆に出てくる青木堂に行っていたり

(寂しくないか心配して、上田敏が様子を見に来てくれてる日も)、

寝込んでいるとおかずを大量に作って持ってきてくれた喜美子のことを

「女子の有難さを知りたり(p.68)」と言っていたり、読み始めるといろいろおもしろい。

二年後にも「病気の時女子持たるは実に嬉し(p.232)」という記述が

 

鷗外の二番目の妻、しげさんとバトり気味になってる日もあるのですが;

茉莉の成長に驚いていたり、

良精が長男の良一と魚釣りに行くときに、鷗外の長男、於菟を誘いに寄っていたり(同い年でした)

長女の田鶴子が服を新調してもらって、嬉しくて見せに来ていたり

ほのぼのなるところも多いです。

於菟は後に東大医学部に進んで、良精と同じ解剖学の教授になりました

 

 

 

祖父・小金井良精の記 上 (河出文庫) 祖父・小金井良精の記 上②  祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫)  祖父・小金井良精の記 下

 

喜美子の孫、星新一が書いた小金井良精の伝記です。

 

20歳まで一緒に暮らした祖父(=喜美子の夫)良精の一生が

良精が三十年にわたって欠かさずつけていた日記をもとに書かれています。

 

続ける、ものを書く、粘り強く調べる、まとめ上げる、

そうした能力に秀でていたご先祖様たちと星新一の努力と才能を

合わせて焼き上げるとこんなすてきな焼き菓子が!的感動が。

 

事実に基づいてすべてを客観的に捉えたうえで

一定の温度で語られていて、そのぶん底に深い愛情がたたえられていること、

喜美子の家庭のあたたかな雰囲気がしみじみ伝わってきます。

Coalport

 

先日のお茶、1830年頃のコールポートです。

冬に地元に帰ったときに、母から借りて戻ってきました

 

アプリコットの地に金彩で薔薇、

白地のところには手描きの薔薇の花綱が描かれていて、

カップの外側には竪琴のようなかたちの金彩がぐるっと一周しています。

 

 

    

 

アデレードシェイプという形です。

1830年に即位したウィリアム4世の王妃の名前(Adeilaide)に因んで名付けられたそう

 

ロココのリバイバルの影響を受けていて

宮廷ぽい優雅なフォルムなのですが、

ベースがアプリコットなのもあってどこか軽やかな感じもしました。

 

 

この日は父の日用に、朝から大量にお菓子を焼いていました。

マドレーヌ、フィナンシェそれぞれ3種類(プレーン、紅茶、クランベリー)に

いちごのスノーボール、くるみのクッキー2種類、ごまときなこのクッキーです

 

ひと段落したところで、味見を兼ねて10分休憩。

くるみとチョコチップのクッキーに

スプーンは同じ頃のシンプルなものにしました。

 

 

カップだけで見ると自分史上最大級に華やかなセットなのですが

お茶をそそぐと紅茶の水色がとてもよく映えて、

そのぶん落ち着いた優しげな雰囲気になりました。

 

持ちやすくしっかりしていて

高台もついているので冷めにくいと、

見た目だけでなく、飲む人のことをちゃんと考えたつくりなのがスバラシイ。

 

200年近く前にはどんな人が手にしてたんだろうな、

このカップで紅茶を飲んでほっとしてるのは

私で何人目なんだろうとどうでもいいことを考えつつ古に思いをはせつつ

お茶を頂いておりました。

 

「お茶を一杯」のあいだでも

時間的にも空間的にもだいぶ遠くまで行ってきたような感覚になって、

ふうっとほどけていくようなところが、アンティークはすごいなと思います。

薔薇ノ花咲ク(3)

 

ピエール・ド・ロンサールが咲きました。

 

つるばらで、育てているうちこれだけが

春にしか咲かない一期咲きなので

咲いてくれるととても嬉しいです。

 

つぼみの時期が長くて

ゆっくりゆっくり開いていくのもまたをかし。

 

 

 

ロンサールは、薔薇を歌った詩で有名な

16世紀に活躍したフランスの詩人、Pierre de Ronsard(1524-1585)に因んで名付けられています。

 

なので、ときどき本の中に登場するのが興味深いです。

今まで気づいたものは

 

その①:J. R. ヒメーネス『プラテーロとわたし』

その②:饗庭孝男『窓』

その③:饗庭孝男『聖なる夏』

その④:アトランさやか『薔薇をめぐるパリの旅』

その⑤:アリソン・アトリー『時の旅人』 (本そのものについての記事はこちら

 

③の本では、著者がフランスのヴァンドームで

目指す修道院に行くために乗ったタクシーの運転手さんが

近くの村で生まれたロンサールのことを話題にしたと書かれていて、

それだけ溶け込んでいるんだなぁとしみじみ思いました。

 

 

  

 

ニュー・ドーンも咲きました。

 

伸び方が驚異的で、今年はかなり切り詰めてもアーチにできました。

藤村さんと呼ばれております。

New Dawn=新しい夜明け なので、咲く前に「まだ夜明け前」などと言っているうち

なぜか『夜明け前』→島崎藤村に;

 

薄いピンクがかった花がまとまって咲くので活けやすい。

つぼみもくるくる絞ったクリームのようでかわいいです(ただ棘が妙にシャープ

 

 

 

 

あじさいのアナベルも咲きました。

こちらもすいぶん株が大きくなってありがたや。

 

 

 

二番花も咲き始めて、庭にピンクが戻ってまいりました。

 

花をながめながら草引きと、枝を払うのを少しずつ進めています。

「庭の草はけづれども絶えぬものにて候ひぞかし」@阿仏尼『庭の訓』

なんだか今年はいろいろ伸びるのが早い気が…

 

薔薇ノ花咲ク(2)

 

ばら、次々に咲いています。

 

アイスバーグ。

 

ドイツ原産で、ヘリテージやグラハムトーマスのもとになったばらです。

葉がふかみどりなのもきれいです。

 

    

 

アスピリンローズ。

 

修景用の小ぶりのばらで、まとまって咲きます。

中心がほんのりピンクがかった白で、

ケーキの上に乗っている砂糖菓子のような咲き方がかわいいです。

 

 

 

つるばらのサマースノー。

 

花びらのふちがフリルのようになっていて、葉っぱは小さめ、あかるめの緑。

軽やかで清潔な印象です。

 

 

食卓の窓からばらが見えるようになるといいなと育て始めたところ、

今年はついに窓の上側まで持ってこれました(バンザイ。

 

茎が細めでとげがないので、誘引しやすいです。

 

   

 

番外編、夏椿に絡ませてある定家かずら。

今年はずいぶん伸びて、たくさん咲いています。

 

香りも甘くておいしそうなためか、

見たことのない蜂が集団で蜜を吸いに来ててびっくり(グルメ旅行…?;

 

最初に咲いたダービーさんたちの一番花が終わり、

こんな感じで、庭が白い花だらけになっていますが

陽射しが強い日にも緑と白のさっぱりした色味は涼やかで

ああ初夏だなぁと思いつつ、草引きをしたり剪定をしたりしています。

 

 

・・・・・・・・・・・・・

 

 

白いばらで毎年思い出すのが、永井荷風の『ふらんす物語』です。

 

ふらんす物語 (新潮文庫)   ふらんす物語 (新潮文庫)

 

1907(明治40)年7月、23歳からの3年10ヶ月をアメリカで過ごしていた荷風は

28歳で横浜正金銀行のリヨン支店に勤めることになり、フランスにやってきました。

 

ニューヨークを出航して一週間、フランスのル・アーブル港に上陸すると

荷風はまず、かねてから憧れだったパリへ向かい、サン・ラザール駅に降り立ちます。

 

客引きをあしらい、自力で手頃そうな宿を見つけて入ると

「酒樽のように肥った大きなマダム」が出迎えてくれました。

 

「髪の毛は半ば白いが」「頬は林檎のように血色がよく」、

「女の手一ツで何もかも切って廻すと云う巴里の町の女房らしい(①pp.19-20)」マダムは

いろいろ世話を焼いてくれ、二日しかパリにいられないが観光をしたいという荷風に

馬車を貸しきって名所を回るように勧めてくれました。

 

二日目の夕方、荷風は首尾よく観光を終えて

汽車でリヨンに向かうため、チェックアウトをします。

 

駅まで頼んだ馬車が到着するのを待っているあいだ、マダムは荷風をいすにかけさせて

汽車の旅のあれこれについて親切に助言をしてくれました。

そして

 

・・・いざ馬車が来て出発と云う間際、ほんのその場の思付ではあったろうが、

暖炉の上の花瓶から白薔薇の一輪を抜取って、

道中のおなぐさみにとまで自分に手渡ししてくれた。

 牡丹のような、大きな、仏蘭西の白薔薇である。自分は訳もなく非常に感動した。(p.21)

 

荷風はこのばらと一緒にマルセイユ行きの列車に乗り、

「明い静なフランスの野の夕暮れ(①p.22)」の中、窓からずっと景色をながめて

それまで暮らしていたアメリカとは大きく異なる

「何もかも皆女性的(①p.25)」なフランスの自然に心を打たれつつ、疲れて眠ってしまいます。

 

夜中の3時、明るくなってはっと起きると、リヨンの駅に着いていました。

急いで帽子をつかんで降りて、駅の近くのホテルに泊まった翌朝

荷風はばらの花を「汽車の窓の上に置いたまま、自分は慌忙てて下車した為め、

すっかり取忘れて了った(①p.27)」ことに気づきます。

 

荷風はばらの花に思いをはせて、以下のように随筆を結んでいます。

 

花は依然として香しく、今頃はマルセイユに行って了ったろう。

或はその途中出入の人の足に踏蹂られて了ったかも知れぬ………。(p.27)

 

・・・・・・

 

異国の地で一人旅をする人にばらを一輪、という

何気ないけど風流な温かさ、

こういう文化が根付いているんだなぁとしみじみ思いました。

 

車窓からの風景の描写が本当にみごとで、

荷風の後ろ姿ごしの、白いばらがのった窓枠のむこうがわ、

額縁の中で刻々と変わっていく風景画を眺めやるような気持ちでいつも読んでいます。

 

 

 

 

 

<おまけ>

 

荷風はリヨンの銀行に8ヶ月務めて、翌1908年3月末に退職します。

退職後は、5月28日に帰国の途につくまでパリに滞在していました。

 

パリにいるあいだ、荷風は著作を読んでひそかに尊敬していた上田敏を偶然見かけ、

その後これまた偶然カフェで一緒になった日本人の知り合いが紹介してくれて

知遇を得ることができました。

 

帰国後は慶應大学で仏文学を教えることになります。

声をかけてくれたのはなんと上田敏ヽ(゚◇゚ )ノ

 

文学部の刷新にあたり、慶大側が森鴎外とも相談して人選を考える

→夏目漱石か上田敏が適任だという結論に

→漱石は1907年に朝日新聞に入社し、作家として小説を連載中でNG

 &上田敏も京大で教えているのでちょっと難しそう…

→大学側が鴎外に、もし上田敏も無理なら誰がいいでしょうかと聞くと

 荷風が適任だろうと推薦

→上田敏がこの話をしに荷風の家まで訪ねてきてくれました。

 

この日のことを荷風は

「この時のわがよろこびは初めて巴里にて相見し時に優るとも劣らざりけり」と言い、

海外で知り合っても「帰国すればそのままに打絶ゆる」ことが多い中、

「先生のわが身に対する交情こそさる通一遍のものにてはなかりしなれ(②p.103)」と感激しています。

 

鴎外とはもっと前に面識があったようで、

1903(明治36)年、市村座という劇場に行った際、

自分の書いた戯曲が上演されていたため観に来ていた鴎外に

知り合いの紹介で初めて会っています。

 

荷風は前の1902年に、『地獄の花』という小説を出版していました。

急に紹介されてうろたえている荷風に、

 

先生[姉注:鴎外]はわれを顧み微笑して『地獄の花』はすでに読みたりと言はれき。

余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれることなし。(②p.81)

 

嬉しさでいっぱいになった荷風は「楽しき未来の夢さまざま心の中にゑがきつつ(②p.81)」

下谷から麹町の自宅まで歩いて帰っています。

グーグル先生によると7㎞弱、1時間20分はかかるようです。一言7000m、鴎外パワーおそるべし。

 

(このあたりの経緯はこちらに収められている「書かでもの記」に詳しいです)

 

荷風随筆集 下 (岩波文庫 緑 41-8)  荷風随筆集 下 (岩波文庫 緑 41-8)

 

 

荷風の教え子には佐藤春夫や堀口大學がいます。

 

後年(1933年)、堀口大學が銀座で偶然荷風に会ったときのことを日記に書いており、

人となりがほのぼのうかがえて楽しいです。

 

「荷風先生の御散歩姿を拝す」「先生は何時お目にかかっても若々し」→

 コーヒーをごちそうになりながら、家族や仕事のことをいろいろ気にかけてくれ、

 かなり前に大學が海外から送った手紙のことなどもちゃんと覚えてくれていることなどにふれて→

「久々にて先生の温容に接し、歓尽きず。(③p.17)」

 

 

季節と詩心 (講談社文芸文庫)   季節と詩心 (講談社文芸文庫)

 

荷風が森鴎外や上田敏の人柄や、自分にしてくれたことに感激したように

堀口大學も荷風に対して尊敬と感謝の思いを抱いていて、

この系譜がなんともいいなぁと思わされます。

 

そして「山のあなた」とか「夕暮の底遠くして」とか「巷に雨の降る如く」とか

数行ながらいまだに暗唱できるフランスの詩は

ほとんどこちらのお三方の訳であることに気づいて深く頭を垂れるのでありました

 

荷風が1913(大正2)年に出版した翻訳詩集『珊瑚集』には

アンリ・ド・レニエ(記事はこちら)の詩が10編ほど載っています。

 

珊瑚集―仏蘭西近代抒情詩選 (岩波文庫)   珊瑚集―仏蘭西近代抒情詩選 (岩波文庫)

New Hall

 

実家でお茶、その9。

 

ニューホールのカップです。

1825-30年頃のもので、パターンナンバーは2901。

 

ピンクのばらに葉っぱが描かれた

「イングランドのばら」と呼ばれるデザインです。

 

他の窯のこのデザインの葉は

金彩でしっかり描かれていることが多いのですが、

これは緑色の小さめの葉が添えられていて

なにやら楽しげな雰囲気が。

 

 

写真だとちょっと派手かなというふうに見えてしまうのですが;

お茶を注ぐといろんな方向を向きながら連なったばらや

ソーサーのふちの∫∫∫こういうのが並んだ模様など、

かわいらしさと落ち着いた品のよさを感じました。

オールドイングリッシュハンドルの角度のきれもスバラシイ

 

 

   

 

見込みの金彩もいい具合にかすれていて、

持ちぬ氏のみなさんも気に入って使ってらしたんだろうなと思います。

 

もう一つのティーカップは同じ頃のダヴェンポート、

ポットは詳細がわからないのですが

似ているので一緒に使っています。脚がかわいい

(両方とも以前こちらの記事で書いたものです)

 

   

 

200年近く経っているので

金が落ち着いたやわらかい雰囲気になっていて

そんなにきらきらしすぎず、やさしい華やかさがありがたや。

ただ甘いだけでなくて、長年生き抜いてきた気概のようなものも感じます

 

アーモンドのタルトをのせたケーキ皿はスポードで

お菓子で隠れていますが

中央にこんなばらが描かれています。

 

 

カップやお皿を並べて支度をしているあいだは

それぞれのうつわに描かれたばらの花が全部見えているので、

ばらの庭にいるような感じになれるのも楽しかったです。

 

 

最初の写真のC&Sはこの本の90ページに載っていました

 

ヨーロッパ アンティーク・カップ
<p> </p><a  data-cke-saved-href=   ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑

 

 

・・・・・・・・・・

 

今回の実家の記事はこれでおしまいです。

長いこと読んでくださってありがとうございました(深々。

 

家にあるものでお茶菓子を作り続けていたので

似たようなものばかりになっていて申し訳ありません;

記事を書きながら気がついて「魚ー!(訓読み)」となりましたが最早どうしようもなかった;

 

次回からは普段の記事に戻りますが、またよろしくお願いいたします。