小金井喜美子『鷗外の思い出』 | ・・・夕方日記・・・

小金井喜美子『鷗外の思い出』

鴎外の思い出 (岩波文庫)  鴎外の思い出 (岩波文庫) 

 

森鷗外(1862-1922)の妹、小金井喜美子(1870・明治3-1956・昭和31)の随筆です。

 

祖父のものだった橘守部の『心の種』をもらったことをはじめ、

鷗外との思い出を中心に、家族のことや身の回りのことが

こまやかに書かれています。

 

料理に関する記述も多くて、楽しいです。

 

弁当の握飯のことはいつも話に出るのですが、毎朝母がそれを作られるのを見ますと、

炊き立のご飯を手頃の器に取って、ざっと握って皿に置きます。

それに味付けした玉子を入れるのですが、その玉子の中に花鰹を入れます。(中略)

握飯はいつも二つでした。一つには玉子を、今一つにはめそをいれます。

めそのことは人があまり知らずに小魚などといいますが、鰻のごく細いのです。(中略)

見ている私は浅草海苔をざっと焼いて、よいほどに切って、握飯を包むのでした。(p.62)

 

漬け物もよく上がりました。野菜の多い夏が重です。

茄子、胡瓜の割漬、あの紫色と緑色とのすがすがしさ。

それに新生薑を添えたのが出ると、お膳の上に涼風が立ちます。(p.65)

 

・・・・・・・・・・・・・

 

森家は代々、石見国津和野藩(島根県津和野町)の藩医を務めていましたが

廃藩置県によって収入の見通しが厳しくなってしまいます。

 

優秀だった長男の鷗外に期待する向きもあって、

一家は東京に移り住むことにしました。

1872年に父と10歳の鷗外が、翌年に残りの家族が引っ越しています。喜美子は3歳でした

 

はじめは向島、喜美子が11歳のときに北千住に移り

そこで父が橘井堂医院を開業しました。

 

鷗外は19歳で東京医学校(東大医学部の前身)を卒業して

(二歳逆鯖を読んで受験→合格したそうヽ(゚◇゚ )ノ

陸軍省に入り、軍医として働くことになります。

 

「人は泣いても(1871年)廃藩置県」、語呂合わせの暗記で通過した記憶しかないけれど;

士族の方々にとっては大事件だったというのを今頃実感しました…

 

家族は喜美子から見て、おばあさん+その娘のお母さん+婿養子のお父さん、

8つ上の兄が長男の鷗外(本名は林太郎)、

5つ上にもう一人のお兄さん、次男の篤次郎(1867-1908)、

そして9歳下に三男、弟の潤三郎(1879-1944)の四人きょうだいです。


喜美子は小学校を卒業後、漢学や和歌などの個人教授を受けたのち

東京女子師範学校附属女学校(お茶大の前身)に進み、

卒業後に19歳で解剖学者・人類学者の小金井良精(よしきよ)と結婚します。

 

良精は東京医学校で鷗外の一年先輩で、東大の教授でした。

首席で卒業して文部省派遣でドイツに5年半(1880-85年)留学しており、

その間(1884年)に陸軍省派遣留学生としてドイツにやってきた鷗外とも会っています。

当時医学部に在学中だった次兄の篤次郎も教わっていました。

 

鷗外が4年間のドイツ留学(1884-88)から帰った後は

喜美子は鷗外の主宰する新声社に加わって、詩や文学作品の翻訳をしたり、

千駄木の団子坂の自宅の、観潮楼と名付けられた鷗外の書斎で開かれた歌会に出席したりしていました。

 

 

いちばん印象に残ったのは

このあと、鷗外が東京を離れた時期に書かれた

喜美子の手紙に対する鷗外の返信です。

 

鷗外は1899(明32)年6月に、九州の小倉に転勤になりました(~1902年3月まで)。

陸軍省に務める傍ら文学活動をしていることなどがよく思われず、左遷された説もあります;

 

喜美子は四人の子どもに恵まれましたが、この年の5月に末っ子の男の子が生まれたばかり。

このとき長男9歳・長女6歳・次女3歳

 

小学生の上の二人は、夫の良精の日記によると皆勤賞で表彰+試験も上出来で

(後に男の子二人は医師になり、女の子二人は喜美子の母校の東京女子師範学校を卒業します)

端から見ると幸せな家庭に思えますが、

喜美子自身は夫の健康のことや将来のこと、同居していたお姑さんのことなどで

いろいろと悩むことも多かったようです。

 

さらに1900(明33)年6月から翌年3月までの9ヶ月間は

良精がパリの万国医事会議に出席するため渡欧しており、

喜美子は一人で留守を守らざるを得ませんでした。

医事会議&万国人類学考古学会議@パリ~かつての留学先ドイツで旧交を温めつつ

近隣諸国の大学を見学~アメリカを回って帰国。

 

そこで喜美子は

 

思ってはならぬ、いってはならぬと承知していることまでも、子供らの寝静まった夜などに、

書きに書いては送ったのでした。

読む人がなんと思うかなどということは考えもしませんかった。

ただ兄に手紙を書くということが、私の慰安なのでした。(p.177)

 

すると鷗外から、次のような返事が届きます。

 

1901(明34)年9月14日付の手紙は、母の峰子に宛てて書かれたものですが

峰子が「これはおまえの教科書だよ」と、喜美子のところへ持ってきてくれました。

 

家事(姑に仕へ子を育つるなど)のため何事(文芸など)も出来ぬよしかこち来候。

私なども同じ様なる考にて居りし時もありしが、これは少し間違かと存候。(中略)

何でもおのれの目前の地位に処する手段を工夫せねばならぬものに候。(pp.177-178)

 

そうろう文なのでかんたん姉訳(意訳とも;)をば。

 

 喜美子が、お姑さんに仕えたり、子育てをしたり、家事が忙しくて

 文学的な活動が何もできないことをなげいていました。

 私も同じように思うときもありますが、少し間違いかと思います。(中略)

 何においても、自分がいま置かれている立場で

 まわりのものごとに対処していく方法を工夫しないといけません。

 

また、同年12月29日付の手紙には

 

小供も次第に多くなりし為、文事にいとまなきよし承候。

これもまた似たることにていかなる境界にありても平気にて、出来る丈の事は決して廃せず、

一日は一日丈進み行くやう心掛くるときは、心も穏になり申者に候。(中略)

物書くこともあながち多く書くがよろしきには無之、

読む方を廃せざる限は休居候ても憂ふるに足らずと存じ候。(p.181)

 

 子どもが多くなるとそれだけ手間もかかり、文学活動にあてる時間がないこと、わかりました。

 これも(先ほど書いた、お姑さんに対する対応と)似ていますが

 どんな状況でも気持ちを平らかにして、その状況でできることは決してやめず、

 一日一日、少しずつでも進めようと心がけているときは、気持ちも自然と穏やかになるでしょう。(中略)

 ものを書くのも、たくさん書けばいいというものでもありません。

 読むことをやめない限りは、書く方は休んでいても悲観する必要はないと思います。

 

 

書くのはある程度まとまった時間とエネルギーが必要ですが、

読むのなら少しずつ、家事のあいまに入れ込んでいけます。

 

できる範囲でいいから工夫して諦めずに続けること、

書けなくても読むのをやめないこと、

こう言ってもらえたことで

喜美子はとても救われた気持ちになれたのではないかと思いました。

 

あいだがあく時期もありましたが、喜美子はその後も文学活動を続け

東京に戻った鷗外が創刊した雑誌『スバル』に随筆を載せたり、

与謝野晶子主催の『冬柏』に和歌を寄せたりしています。

 

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鷗外は60歳で亡くなりましたが、喜美子はそれから約三十年、

鷗外との思い出を大切にあたためて、折々に書いてきました。

 

この『鷗外の思い出』は

『日本古書通信』に連載されたものが

喜美子の最晩年にまとめられ、87歳で亡くなった直後に出版されました。

 

難しい言葉やふるった言い回しなどは一切ないのですが

すっきりと落ち着いた語り口の中に

一本筋の通った芯の強さと品のよさがあって、

明治の士族というものを改めて感じます。

 

「博士〔姉注:鷗外〕にそつくりで、何事につけても諧和し(①p.147)」ていた喜美子の目から見た

東京が江戸であった頃の自然や人々の生活ぶり、

そして家族ーーなかでも鷗外との日々が優しく描写されていて、

静かな温かな気持ちになれる随筆です。

 

アンティーク好きとして別枠で気になったのは

良精の唯一の趣味、根付の蒐集(渋い)でした。

喜美子が小3の時、主席を取ったご褒美に、鷗外が仲見世で買ってくれたお茶道具なども気になります

 

 

 

<余談>

 

良精と喜美子は千駄木の鷗外の家から歩いて15分ほどのところに住居を定め、

頻繁に鷗外の家を訪ねています。

鷗外の書斎の観潮楼を作ってくれた大工さんに、自宅の増築を頼んでいます。

良精は論文を発表する前、必ず鷗外に読んでもらっていました(贅沢すぎるネイティブチェック

 

子どもたちも近くに住み、集まって食事に行ったり頻繁に交流していて、

晩年も孫たちに囲まれてにぎやかだったようです。

 

中でも、次女の精子は結婚後も実家に同居していました。

鷗外に名付けを頼んだら「摩尼(まに)」という「恐しくむつかしい(②p.255)」名前が来て

さすがにびっくりした喜美子が、夫の良精から一字取って、せいこさんになったそう^^;

 

夫は星製薬の創業者である星一(はじめ)、

精子の長男が、小説家の星新一(1926-97)です。

 

星新一は20歳まで、喜美子と同じ家で暮らしました。

のちに、小さい頃のことを以下のように回想しています。

 

 祖父の室の西側に、祖母〔姉注:喜美子〕の書斎兼寝室があった。六畳の和室。

そこは私の寝室でもあった。幼児時代の私は、そこで祖母とともに寝ることになっていた。

〔三人きょうだいだったので、お母さんの精子は下の弟妹と一緒に寝ていました〕

(中略)

 夜の八時ごろになると、祖母と私はこの部屋の寝床につく。祖母も私も、寝床に入ってしばらく本を読んだ。

この部屋の壁にも書棚があり、本が並んでいた。「群書類従」とかいうのがたくさんあった。

一回のぞいてみて、二度と手にする気がしなかった。子供の私にはむずかしすぎた。

(中略)

 私が読むのは「少年倶楽部」という雑誌か「少年講談」という本のたぐいだった。

「少年倶楽部」の新刊を買った日は、夢中になって読み、そうでない日は古い号か

「少年講談」を少しだけ読みかえし、目をとじる。

 祖母はザラ紙のノートに、和歌を鉛筆で書き、小声で読みかえしながら、それをなおしつづける。

その単調なリズムのつぶやきを耳にしながら、私はいつしか眠りに入る。

いま読んだ「少年講談」の筋を思いかえしたりしているうちに。(②pp.13-14)

 

孫に絵本の読み聞かせ的なものをするのではなく、

おのおのが自分のペースで自分の時間を過ごしていて、

それがいかにも自然な情景が何ともいいなぁと思いました。

 

この頃喜美子は60代ですが、毎日の暮らしの中で「文事」を続けていることに

鷗外の手紙を思い出してなんだかほっとしました。

何度も推敲している様子もとても興味深かったです。

 

 

<参考文献>

 

 

森鴎外の系族 (岩波文庫)  森鴎外の系族 (岩波文庫)

 

もう一つの喜美子の随筆集です。

 

どちらかというと『~思い出』のほうを手に取ることが多いので

タイトルにしましたが、こちらも同じくらい好きな本です。

 

永井荷風が「今の世〔姉注:1940(昭和15)年〕に見る事の出来ぬほど

語格正しく且つやさしくも美しい御文章」と評しています。

 

雅文から和歌、現代文まで様々な作品が収められていて、

他ではあまり触れられていない、二番目の兄と弟についての記述も読み応えがあります。

ほんとに仲のいいきょうだいだったんだなぁとしみじみ思いました。

 

 

 

 

増補版 森鷗外・母の日記  増補版 森鷗外・母の日記

 

鷗外や喜美子のお母さん、峰子の54歳から70歳までの日記です。

 

鷗外が日露戦争に出征中、送ってくれと頼まれたインクなどを用意するときに

一緒に荷物に詰めるチョコレートを買いに

森茉莉の随筆に出てくる青木堂に行っていたり

(寂しくないか心配して、上田敏が様子を見に来てくれてる日も)、

寝込んでいるとおかずを大量に作って持ってきてくれた喜美子のことを

「女子の有難さを知りたり(p.68)」と言っていたり、読み始めるといろいろおもしろい。

二年後にも「病気の時女子持たるは実に嬉し(p.232)」という記述が

 

鷗外の二番目の妻、しげさんとバトり気味になってる日もあるのですが;

茉莉の成長に驚いていたり、

良精が長男の良一と魚釣りに行くときに、鷗外の長男、於菟を誘いに寄っていたり(同い年でした)

長女の田鶴子が服を新調してもらって、嬉しくて見せに来ていたり

ほのぼのなるところも多いです。

於菟は後に東大医学部に進んで、良精と同じ解剖学の教授になりました

 

 

 

祖父・小金井良精の記 上 (河出文庫) 祖父・小金井良精の記 上②  祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫)  祖父・小金井良精の記 下

 

喜美子の孫、星新一が書いた小金井良精の伝記です。

 

20歳まで一緒に暮らした祖父(=喜美子の夫)良精の一生が

良精が三十年にわたって欠かさずつけていた日記をもとに書かれています。

 

続ける、ものを書く、粘り強く調べる、まとめ上げる、

そうした能力に秀でていたご先祖様たちと星新一の努力と才能を

合わせて焼き上げるとこんなすてきな焼き菓子が!的感動が。

 

事実に基づいてすべてを客観的に捉えたうえで

一定の温度で語られていて、そのぶん底に深い愛情がたたえられていること、

喜美子の家庭のあたたかな雰囲気がしみじみ伝わってきます。