デボラ・ラッツ『ブロンテ三姉妹の抽斗 物語を作ったものたち』
シャーロット、エミリー、アンのブロンテ三姉妹とその作品を、
ものを手がかりに読み解いていく本です。
子どもの頃に作った豆本、裁縫箱やサンプラーや手紙、
散歩の友の杖や飼っていた犬たちの首輪、
植物採集のアルバムや故人を偲ぶアクセサリーといった
さまざまなものが取り上げられています。
印象に残ったのは、まず「日々の暮らしの中で密接に関わり合っていた(p.45)」本。
三姉妹が書いた作品には、「困難な状況やひどい家族から逃げるために人が本を読む姿や
読むふりをする姿(p.55)」が描かれていることが多く、
ブロンテきょうだいが書いた物語は、詰まるところ、本に彩られた物語である(p.55)。
という一文がとても腑に落ちました。
『ジェイン・エア』の冒頭の場面で、孤児のジェインが隠れて読んでいる
ビュイックの『英国鳥禽史』は、ブロンテ家にもあった本でした
それから、「日常にあるこまごました物を入れる雑品入れ(p.74)」であるがゆえに
「持ち主の人となりを雄弁に語る(p.73)」裁縫箱。
ブロンテ姉妹の小説において、針仕事は不可欠な地位を占めている(p.69)。
ブロンテ姉妹は小説において、地味な針仕事にさまざまな意味を持たせている(p.82)。
ジェインが自分の気持ちを悟られないよう、ビーズの手提げ作りに集中している場面などがあります
そして、なかでもいちばん壺入ったのが desk box の章です。
「机箱」と訳されていますが、デスクボックスとは携帯用の書きもの机のこと。
箱をぱかっと開くと蓋が傾斜の付いた平面になり、
ここを下敷きの台にしてものが書ける仕組みです。
下の部分は物入れとして、筆記用具などを収納できるようになっていました。
持ち運べるので、開けばどこでもマイ机が登場。すばらしすぎる
「19世紀に入り、家具が大量生産されるようになると、紳士は専用の書き物机を使うようにな」り、
「かわって婦人たちが」「愛用するようになった(①p.62)」そうです。
「携帯書き物机を持って灯りと暖を求めて家の中を移動(①p.62)」できるので、
電気もガスもない時代には重宝したんだろうなと思います。
大英図書館に所蔵されているジェイン・オースティンの机箱が有名で、こちらで見れます。
https://imagesonline.bl.uk/?service=search&action=do_quick_search&language=en&q=jane+austen
ここではportable writing desk という表記になっています。
ラップデスクやテーブルデスクと呼ばれることもあったそうです。
お父さんからのプレゼント、マホガニー製で、台は革張り、ばね仕掛けの隠し引き出しが付いています。
同じ牧師の娘でも、オースティンの机の方がだいぶ凝った作りに。
旅行中にこの机箱(彼女は my writing-box と呼んでいます)が
手違いであやうく西インド諸島に送られそうになりかけたことに触れている
姉のキャサンドラ宛の手紙が残っており(1799年10月24日付)、
No part of my property could have been such a prize before,
for in my writing-box was all my worldly wealth,
あのときほど何とかして取り返したいと思ったことはありませんでした。
なぜなら机箱にはこの世の私の全財産が入っていたからです。
と書き送っています。
ブロンテ姉妹が使っていたものは
「中流階級の普通の女性たちが所有していた机箱と同じ類いで、至極平凡」な
「ありふれた象嵌が施された単純なデザイン(p.208)」のものでした。
シャーロットのものが巻頭のカラーページに、エミリーのは②の69ページに白黒で載っています。
材質はローズウッドだったそうなので、今からするといいもののような気もするのですが;
エミリーのは「靴箱より少し大きいくらいの長方形の箱(p.205)」で、
「手紙、便箋と封筒、封印、インク、金属製のペン先が入っていた(p.204)」そうです。
下敷きにあたる平面の部分には、書きやすいようにびろうどが張ってありました。
シャーロットの机箱は茶色のびろうど、
エミリーのは紫、
アンのは濃いピンク色。
何となくそれぞれのイメージと合っているのがおもしろい
三人は日中は針仕事や台所の用事といった家事をこなして、
「九時過ぎになると毎晩のように、食堂の折りたたみ式テーブルを囲み、
小説の筋や登場人物について意見を交わし、小説の一説を読んで聞かせ、
感想を求めた(p.219)」そうです。
エミリーは机箱を前に書きものをしている自分の絵も残しています(p.207、③p.64)
ブロンテミュージアムのサイトにも載っています↓
https://www.bronte.org.uk/museum-and-library/museum-collection
裁縫箱と同様に、机箱も
個人的なこまごまとしたものをしまい込む箱でした。
机箱の中のものは魔法で守られており、それぞれに物語がある(p.251)。
とあるとおり、そこで文字や絵が描かれるぶん、より内面的で
無限にひろがるさまざまなお話が紡がれていたんだろうなと思います。
・・・・・・・・・・・・・・
題に「三姉妹」とあるように、ブロンテ姉妹といわれると
『ジェイン・エア』のシャーロットと『嵐が丘』のエミリー、
それに『アグネス・グレイ』のアン の三人が思い浮かびますが、
ブロンテ家は六人きょうだいでした。
長女のマリア(1814-25)、
次女のエリザベス(1815-25)、
三女のシャーロット(1816-55)、
長男のパトリック・ブランウェル(1817-48)、
四女のエミリー・ジェイン(1818-48),
五女のアン (1820-49)。
父のパトリックはアイルランドの農家の生まれで、10人きょうだいの長男でした。
プロテスタントのパトリックの父はカトリックの母と駆け落ち結婚したため、
周囲とのつきあいはほとんどなく、家族だけで仲良く暮らしていたそうです。
この暮らし方はブロンテ姉妹の育ち方ととても似ています。
シャーロットは子ども時代を振り返って
「家族以外の人と交わりたいとは少しも思わなかった。
私たちは自分ひとりだけで、または家族だけで本を読み、学び、
そのようにして楽しく日々を過ごしていた(p.56)」と言っています。
また、両親ともにケルト系であることも姉妹に影響を与えました。
自然に神秘性を見いだし、情熱的で想像力に恵まれた性質はケルト人に顕著なもので、
特にエミリーにその傾向が強く現れています。
アンが生まれた1820年にお父さんのパトリックがハワースの牧師に任命され、
一家はハワースの牧師館に移り住みますが
翌年、お母さんのマリアが亡くなります。
看病にあたったお姉さん(子どもたちから見ると伯母)のエリザベス・ブランウェルは
妹のマリアが亡くなったあとも、牧師館で一生を過ごし
子どもたちの世話や家事を引き受けてくれました。
タビサ・アクロイドという住み込みのお手伝いさんもいました。
1825年からシャーロットの亡くなる一ヶ月前まで30年近く家族同様に働き暮らし、
きょうだいに様々はお話を聞かせてくれたそうで
『嵐が丘』のネリーや、『ジェイン・エア』のベッシーのモデルとも言われています。
翌1822年、まず10歳のマリアと9歳のエリザベスが、
数ヶ月遅れて8歳のシャーロットと6歳のエミリーも、
クラージー・ドーターズ・スクールという寄宿学校へ入ります。
牧師の子女を良心的な学費で預かってくれる学校だったのですが
環境が劣悪で、翌年マリアとエリザベスは結核にかかり、相次いで亡くなってしまいました。
この学校は『ジェイン・エア』のローウッド学校のモデルになりました。
また、新聞や雑誌が届くと読んで、いつも弟妹に内容を話してくれていた優しくて聡明だった長姉マリアは
ヘレン・バーンズのモデルになっています
シャーロットとエミリーは家に連れ戻され、以後五年半の間
残された四人の子どもたちは牧師館で一緒に過ごします。
四人は愛読していた雑誌『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』を参考にしたり、
父がお土産で買ってきてくれた兵隊の人形から空想を広げたりして
自分たちだけの架空の世界を創り上げ、
それにまつわる物語を書いては小さな本を作っていました。
人形の世界で編集・発行されている設定なので、人形にあわせたサイズ=5㎝×4㎝くらいの大きさで
本物の本のように活字体でぎっしり書いてあります。これでシャーロットはひどい近眼に;
ですが、家にずっといられたオースティンとは異なり、
ブロンテ家の子どもたちは経済的な理由から、それぞれ自活できるすべを身につける必要がありました。
この時代、中産階級の女性が体面を保ちつつ自活できる職業は教師一択です。
オースティンのお父さんも同じ牧師なのですが、二つの教区を担当+生徒を取って個人教授もしていたことなどで
収入は£600と、ブロンテ家の三倍ありました(それは机箱に隠し引き出しも付くなぁ…
また8人兄弟のうち女の子はジェインと姉のキャサンドラだけで、あとの男子は病気の一人を除いては
裕福な家の養子になって住居や金銭の援助をしたり、聖職に就いたり、銀行や海軍で働いていたりとみな頼りになる面々でした。
ジェーンの本の出版に際しても、事務的な事柄は兄がやってくれています。
1831年、15歳のシャーロットは、ロウ・ヘッド・スクールに入学し、
優秀な成績を収めて卒業した3年後、18歳で教師として戻ります。
弟ブランウェルは肖像画家になるべく、ロンドンのロイヤルアカデミーに入学する予定でした。
シャーロットは、家にいたいけれど弟のことでお金もかかるし働かなくてはという決意を綴った手紙を、
自分が生徒として学んだ時代の親友に送っています。
シャーロットが教える代わりにエミリーの学費を免除してもらえるということで
同時に生徒としてエミリーが入学しますが、「家と荒野へのホームシック(④pp.157-8)」で三ヶ月で帰郷、
代わりにアンがやってきて、二年半学びます。
シャーロットは1837年の末までロウ・ヘッドで働いたあと
39年4月から7月までシジウィック家で、41年2月から12月までホワイト家で、
ガヴァネスと言われる住み込みの家庭教師として勤めました。
ハワースから離れるのがいちばんきつかったエミリーも、
1838年の9月から翌年3月くらいまで、音楽教師としてミス・パチェットの学校で教えています。
エミリーはピアノの腕がプロ級でした。ここで『嵐が丘』の題材を得てもいます
温和で子ども好きだったアンがいちばん就業期間が長く、
1839年4月から12月までインガム家で、
それから1840年5月から45年6月までロビンソン家で働いています。
ただ、やはりガヴァネスは苦労することも多く、1841年の夏頃から
三人はハワースの自宅の牧師館で学校を開くことを計画し始めます。
三姉妹が学んだロウ・ヘッドは、校長のマーガレット・ウラーとその妹たちが運営している
生徒数十人足らずの家庭的な学校でした。
おそらく、ここを参考に考えていたのだと思われます。
当時はこうした学校がたくさんあったので、差別化を図るためにも
フランス語を本場で勉強し直し、より高いレベルの教育ができるようにしようと考えて、
1842年、シャーロットとエミリーはブリュッセルのエジェ寄宿学校に留学します。
10月、二人に留学費用を貸してくれていた、ブランウェル伯母が亡くなりました。
彼女は独身でしたが自分の父が遺してくれた年金収入があり、
ブロンテ家に来ても律儀に自分の食費を払い続けながら貯金もしていました。
そして、三姉妹にそれぞれ350ポンドずつ遺産を残してくれました。
エミリーはこのままハワースに残りますが、シャーロットは再びブリュッセルに赴き
1843年末まで英語教師として働きつつ、フランス語とドイツ語の研鑽を積みました。
「判断力に優れ」強い意志を持ち「芯が強くて男勝りだった(p.111)」エミリーが
能力的には姉妹のなかで最も優れていたようで、
エジェ氏はエミリーが「男だったらよかったのに」と言っていたそうです
この間、アンはガヴァネスとして住み込みで働いていました。
ブランウェルはロイヤルアカデミーに入学せず、肖像画家にはなれず、
家庭教師や駅員を経た後(どちらも勤務態度が問題で解雇←おーい;
アンが働いていたロビンソン家で、一番下の男の子にラテン語を教えることになります。
が、17歳年上のロビンソン夫人と不倫関係に陥り、1845年7月に解雇(そこへ直れ。
アンもこのことを知って苦しんでいたと思われ、6月で自主的に退職しています。
1844年、三姉妹は学校のパンフレットを作って生徒を募集しますが、
結局、一人も集まらず(ハワースが辺鄙な場所すぎたのが原因
この計画はうまくいきませんでした。
そんな中、1845年の秋にシャーロットは偶然エミリーの詩を読んで感動し、
三人の詩集を出そうと提案します。
渋るエミリーを説得し、彼女の「男性とも女性ともとれる筆名を使うこと(p.217)」という希望に添って
頭文字は本名と同じ、カラー・ベル、エリス・ベル、アクトン・ベルという
ペンネームを使うことになりました。
ガヴァネスの年収にあたる31ポンド10シリング負担の自費出版で、
1846年5月、『カラー、エリス、アクトン・ベル詩集』が出版されました。
二部しか売れませんでしたが;三人は次に三巻本の小説を出すことを目指します。
この頃は本が高価だったため、会員制の貸本屋が流行っており、
三巻本の長編小説が主流でした。
「一つの小説を三人の会員に貸し出せた」ため、利益が大きく
貸本屋は出版社に「三巻本を出版するよう要求した(p.225)」のです。
ディケンズがこれの申し子的な感じ
シャーロットは『教授』、エミリーは『嵐が丘』、アンは『アグネス・グレイ』を書き上げ、出版社に送り始めます。
断られては他の出版社をあたるのを、一年半ほど繰り返したあと
1847年7月、ようやくトマス・コートリー・ニュービー社から
姉妹が50ポンドを負担する条件で、『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』を出版するという返事が届きます。
『教授』は断られてしまったのですが
シャーロットはくじけずに、他の出版社に送り続けました。
すると、スミス・エルダー社から
『教授』は出版できないけれど、他の作品があれば読みたいという返事が来たのです。
シャーロットは1846年の夏頃から書いていた『ジェイン・エア』を完成させて
8月24日にエルダー社に送りました。
するとあまりのおもしろさに、すぐ出版が決定→
10月16日、原稿を送ってから53日間というすごいスピードで『ジェイン・エア』は世に出ました。
出版されるとサッカレーが絶賛するなど、たちまちベストセラーになり
翌48年1月に第二版、4月には三版と再版がかかっています。
びっくりしたのはニュービー社、8月の1週目に初稿が終わっていたのに
(たぶん)放っていた『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』を、急いで12月中旬に出版しました。
当時は『ジェイン・エア』ほどの高評価ではありませんでしたが、
それでも『ジェイン・エア』人気に引っ張られるようにして、売れ行きもよかったようです。
翌48年7月上旬、アンは第二作の『ワイルドフェル・ホールの住人』を出版しました。
一方、ブランウェルは、ロビンソン家を解雇されたあと、
ロビンソン氏が病気で亡くなって一瞬ぬか喜んだものの
夫人が結局自分と一緒になろうと思ってないことに絶望し(ブランウェルの死後、裕福な相手と再婚、
お酒+阿片中毒になり、どんどん壊れていきました。
しばしば錯乱状態に陥り
自分のベッドに火をつけてしまったりして、大変だったようです。
これが『ジェーン・エア』で、バーサがロチェスター氏のベッドに放火する場面のヒントになりました
そして1848年9月24日、結核で亡くなってしまいます。
倒れて寝込んだシャーロットの代わりに、エミリーが葬儀関係を取り仕切ったのですが
エミリーも体調を崩してしまいます。
ブランウェルの結核が感染していたのでした。
その年の12月19日に、エミリーも亡くなります。
さらにアンも、結核に冒されていました。
従順で穏やかなアンらしく、お医者さんの注意を守って療養につとめますが
翌49年5月28日、帰らぬ人となりました。
8ヶ月のうちにきょうだい三人を見送った、シャーロットの悲しみは大変なものでした。
次作の『シャーリー』を書いていた最中だったのですが、
ラッダイト運動を題材にした社会小説だったはずが、
三人の死を挟んで、後半はエミリーがモデルの主人公シャーリーと
アンがモデルのキャサリンがそれぞれ幸せな結婚をする物語になってしまっています。
何よりも毎晩集まって、批評したり話し合ったりしながら創作できなくなったことは大きな打撃でした。
エルダー社の社員、ジェイムズ・テイラーに宛てた1850年5月22日付の手紙には
一人でそこ〔姉注:荒野〕に出かけると、あらゆるものが、
いっしょに行く人たちがいた頃のことを思い出させます(③p.338)
とあり、
二年後の1852年10月30日、エルダー社の社長のジョージ・スミス宛の手紙でも
私が自分以外の誰かの意見をどんなに聞きたがっているか、一行読み上げて聞いてもらう人、
助言を求める人がいないために、時々どんなに意気消沈し、ほとんど絶望してしまうか、
ご説明できないほどです(③pp.338-9)
と書いています。
・・・・・・・
その後もシャーロットは、一人で書き続けていくのですが
きっとそのときも自分の机箱に向かっていて、
持ち主を失ったエミリーとアンの机箱も近くにあって、
シャーロットを見守っていたんだろうと思います。
第7章の扉には、エミリーとアンの髪を編んで、アメジストの留め具のついた
ブレスレットの写真が載っています。
「黒玉に黒色の花と枝葉が掘り出されている(p.313)」ジェットのブレスレットも遺されているそうで、
こうしたものにも慰められながら、シャーロットはペンを動かしていたのかなと思いました。
ブロンテ姉妹は、針仕事と皮剥きとプディング作りを済ますと執筆し、その後再び家事をした。
姉妹は、当時の世間一般の女性と同じように家事を行い、それが小説に現実味を与えた。
(中略)
姉妹の小説は、ヴィクトリア朝時代の女性の生活を知る窓である(p.87)。
オースティン(1775-1817)の作品が、笑いや機知をベースにしているのに対して
ブロンテ姉妹の「文学的特徴を考慮する上でもっとも大切なのは
彼女たちの情熱性(④p.302)」だと言われます。
ただそれは、単にエモーショナルだというのではなくて
エピクロスの
われわれは、同時に、笑ったり、哲学を研究したり、家事をとったり、
その他さまざまの営みをしなければならない。
そして、正しい哲学の教えを伝えることを、決してやめてはならない(⑤p.94)。
にも通じるような、暮らしのなかにあるいろんな思いを飲み込んで、
長い時間に堆積したものを、温めて孵していくように、正直に書いていく、
そういう情熱のような気もしました。
ブロンテ姉妹は、「基本的にロマン派詩人(④p.301)」でしたが
生きていたのは、産業革命の結果、イギリス社会が大きく変動して
「商工業によって富を得たものたちが中上流階層へとのし上がり、
『ヴィクトリアニズム』と称される時代精神ーー体面への過度のこだわり、
お上品な道徳主義的偏見ーーの担い手となった(③p.11)」時代でした。
こうした中で、職業を持つこと、書くこと、女の人が生きること、など
読むといつもいろいろと考えさせられます。
ハワースの牧師館は、今はブロンテミュージアムになっているのですが
案内板は食卓におかれた机箱に向かって羽ペンを走らせている女性のシルエットになっています。
お土産物のノート類のデザインにもなっているようで、こちらで見られます↓
https://www.bronte.org.uk/bronte-shop/30/special-offers
<おまけ>
1844年に、三人が学校を開こうとして、作ったパンフレット(ちらし?)がおもしろい。
The Misses Bronte's Establishment FOR
THE BOARD AND EDUCATION OF A LIMITED NUMBER OF YOUNG LADIES,
THE PERSONAGE, HAWORTH, NEAR BRADFORD.
という校名のあとに、学科が続きます。
Terms.
Board and Education, including Writing, Arithmetic, History, Grammer, Geography, and Needle Work
French,German,LatinMusic, Drawing
そしてピアノ使用料と洗濯代のあとの特記事項?にご注目ください(太字は私が変えています。
Each Young Lady to be provided with One Pair of Sheets, Pillow Cases, Four Towels,
a Dessert and Tea-spoon.
訳が載っていました↓
ブロンテ姉妹による
若い令嬢たちのための少人数制寄宿学校
ブラッドフォード近在、ハワースの牧師館にて
――――――――――――――――
経費
食費および教育費、書き方、算数、歴史、文法、地理、針仕事を含む。年額三十五ポンド。
フランス語 それぞれ四半期分一ポンド一シリング。
ドイツ語
ラテン語
音楽 それぞれ四半期分一ポンド一シリング。
絵画
ピアノ使用料、四半期分五シリング。
洗濯代、四半期分十五シリング。
各令嬢に、シーツ一組、枕カヴァーの換え、タオル四枚、デザート・紅茶用スプーン一本が
支給される。
生徒が退学する際には、四半期前の予告、または四半期分の食費の支払いが必要である(③pp.160-161)。
この最後の、a Dessert and Tea-spoon!
単数形なのと、 Dessert and Tea-spoonで検索しても見つけられなかったので、
「デザートアンドティースプーン」と一般的に言われていたスプーンがあったというよりも
ティースプーンとしても、デザートスプーンとしても使えるサイズのスプーンを
一本支給しますよということかと思うのですが…どうなのかな?;間違っていたらすみません;
で、どのくらいの大きさなんだろうと実験?してみました。
同じ頃のがあるとよかったのですが;手持ちのものを並べてみるとこんなふう。拡大できます
左の二本が、普段うちでティースプーンとデザートスプーンとして使っているものです。
12.3㎝と14㎝。
並べた四本が左から
1798年製の13.2㎝、1813年製の12.8㎝、1830年製の13.5㎝、1870年製の14㎝のスプーンです。
(みんな「ティースプーン」と言われてうちにやってきました)
右側のC&Sが、いつものティースプーンを置いたものです。
左側に、この四本を順に置いてなるべく客観的に見てみました。
結果、14㎝になると苦しいけど
上の写真のように、13.8㎝までなら大丈夫そうです。
ここの2㎜の違いが意外と大きくてびっくりしました
12㎝前半になると、今度はデザートが食べにくくなってしまうので
(ヨーグルトを食べてみました←大ざっぱな検証ですみません;)
12.8㎝から13.8㎝ぐらいのものだったのかな、と思いました。
デザインや手の大きさによっても違ってくると思いますが、
シーツやタオルといった必需品に続けて
スプーンを一本というのが何ともイギリスらしくて興味深かったです。
<参考文献>
40ページの図版に、シャトレーヌをつけ、机箱の上で書きものをしている婦人の図版が載っています。
こちらは現在絶版で、以下のようにタイトルを変更して再版されているようです↓
図説 「ジェイン・エア」と「嵐が丘」―ブロンテ姉妹の世界 ②
ブロンテ姉妹 ポケットマスターピース12 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ Z)
『エピクロス―教説と手紙』⑤
<さらにおまけ>
この前作ったヨーグルトバーグ、今度は桃の煮たものピュレと
冷凍のミックスベリーを入れて作ってみました。
おいしかったです。
そして前回、はりきってデザートナイフとフォークが出ておりましたが
スプーンで頂くのが正解でした(正直申告。
ポットはアメリカのヴィンテージ、オールドパイレックスのフレームウェアで
1952~79年頃に作られたものです。
フレームと取っ手がねじで外せる+直火にかけられて、とても頼もしいです。
先日のお茶
夏の陽ざしが続くので
先日読んだこちらの本でおいしそうだった
ヨーグルトバーグなるお菓子を作りました。
家にあったジャムを使って、ストロベリーとブルーベリーのマーブルにしました。
ガラスのお皿も冷やしておいて、いただきます。
シャーベットのようでいてヨーグルトなのでさっぱり、
作り方もかんたんでおいしかった!
この時期はさすがにオーブンが厳しくなってくるので
こういったお菓子は嬉しいです。
上がストロベリーで下がブルーベリーなのですが、写真を撮るとほぼ同じに;
堀口大學が『季節と詩心』 で
夏の食卓は、円形か楕円形に限る。(中略)
白いテイブル・クロスも夏はない方がよい。その代わりに、各自のお皿の下に、
お皿よりは一まわりだけ大きい円形のナプキンを置く、・・・
こうして磨きこんだ樫や桃芯木の食卓の木地を眺めながら食事をするのは涼しいものだ。
お皿が海に浮いた小島に見える(p.151)。
と書いていて、うちの食卓は四角なのですが;
たしかに白いクロスの上にお皿を置いて
木目がきれいに目に入ると、いちばん涼しく見える気がします。
クーラーが苦手なのと比較的風が通るので
基本 窓を開ける+打ち水で暮らしております。頭を使わないぶんには大丈夫←使いなさい
まんなかに置いてあるのはスポードの塩胡椒入れです。
数年前に母が譲ってくれました。ありがとう~
ティーポットやミルク入れが出ないぶん、
お花を置いても食卓に余裕があるので
楕円つながりで並べました。
粉砂糖を入れて、甘さが足りなければ各自足しませうという企画です(結論:足さなくて大丈夫でした。
参加することに意義があると思いた以下略
ドライフルーツをのせたバージョンもおいしそうだったので
また作ってみようと思います。
ガラスのコップ
ガラスのコップです。
アールグレイのアイスティーを淹れました。
数年前に、地元のアンティークショップで見つけて連れ帰りました。
1900年代初頭のイギリスのものだそうです。
まるい花びらが六枚の花と
すらっとした草の模様が
くるりと一周、踊るように彫られています。
撮るのが難しかった;クリックすると大きくなります。
中央の上にお花、そこからぐるっと茎と葉っぱがつながる感じです
持ったときのしっくり具合と
うすいけどやさしい口あたりもいと嬉し。
ところどころ小さな気泡が入っていて、手作業で作られたんだなぁとしみじみ思います。
ブランドもの?どこそこの○○的なものではありませんが;
持つ人のことを考えて作ってくれたとしか思えない絶妙なサイズのこのコップで
のびのび描かれた草花を見ながらお茶を飲むと
風通しのいい戸外にいるようなすがすがしい気持ちになれます。
今日は満を持してこれを使える(フフフ←やめなさい)と思うと
暑い日々も少し余裕を持って迎え撃てるような、頼もしいグラスです。
・・・・・・・・・・・
コースターにしているのはこちらのシェリーのソーサーです。
冷たい飲みもののときは、いつも適当なソーサーにシリコン製のコースターをかませて
コースター代わりにしています。
水滴もガードできますし、少し華やかになるのが嬉しいです。
Anatole France " Nos Enfants"
アナトール・フランスの『子どもたち』という絵本です。
子どもが主人公の短いお話が9編収められています。
おばあさんの家に行ったり、友達と遊んだり、学校の一場面だったり、
子どもの日常の風景が
あたたかく静かに語られます。
Il y a dans la cros de la mere-grand de l'herbe, des fleurs et des oiseaux.
Fanchon ne croit pas qu'il y ait au monde un puis joli clos.
Deja elle a tire son couteau de sa poche pour couper son pain, a la mode du village.
お祖母さまのお庭には、草があり、花があり、小鳥が飛んでいたのです。
ファンションは、もっときれいなお庭がこの世の中にあろうなどと、思ってみたこともありません。
早速彼女はポケットからナイフをとり出しました、そうして在方衆のやり方で
パンを切りにかかりました。(①p.10)
フランス語は二年習って覚えてるのが
Je ne sais pas (ワカリマセン)だけという体たらくなのですが;←蹴
それでもなんとか言葉を追っていくと、平易な文章ながら質量があって
リズムや響きのなかにしっかり芯が通っていることに気づかされます。
作者のアナトール・フランス(1844-1924)は
フランスの詩人・小説家・批評家で、1921年にノーベル賞を受賞しています。
挿絵はモーリス・ブーテ・ド・モンヴェル(Louis-Maurice Boutet de Monvel 1850-1913)。
ケイト・グリーナウェイに影響を受けたそうで、
言われてみるとああ確かに、となりますが
透明感のあるあかるさというのでしょうか、よりさらりとした印象を受けます。
朝起きて窓を開けたときの空気、夕暮れの中家まで歩くときの空気、
そうしたものがすんなりと画の中に織り込まれていて
ずっとながめていられます。
しっかりした重みがあるけど詩のような文章と
すっきりしつつもあたたかい挿絵がとてもよく合っていて、
ほんとに好きな絵本です。
・・・・・・・・・
もともとは、1886年に"Nos Enfants"という題で
19編が収録された単行本が出版されました。
1900年に、上下二巻本として再び刊行され、
上巻がこの"Nos Enfants"です。
下巻は"Filles et Garcons(少年少女)"という題になりました
その後、ドイツ国立図書館が
ヨーロッパの戦前の古い絵本を蒐集したコレクションの中から、
ドイツの作品を中心に、フランス、スイス、ロシア、オーストリアなどの名作を選んで
原書を忠実に再現した、ベルリン・コレクションというシリーズを復刻しました。
"Nos Enfants"はそのうちの一冊です。
さらに、1983年にぽるぷ出版から、
ベルリン・コレクションの中から20冊を選んで復刻した
『復刻 世界の絵本館 ベルリン・コレクション』 というシリーズが刊行されました。
私が持っているのは、このぽるぷ出版から出た復刻版です。
背表紙がちゃんと布貼りになっていて本格的
フランスで出版されたオリジナルの本を
ずっと前、一度だけ古本屋さんで見かけたことがあります。
それはやわらかな、仏蘭西感漂う色合いでした。
家賃のほぼ半額という
あまりに無謀な値段で諦めましたが;
その後、偶然この復刻版に遭遇して
今はこの本が本棚にいてくれてます。
別枠一位が裏表紙、
女の子がこの本を抱えて読んでいます。
絵本そのものが本に入り込んでいるのが壺すぎる
・・・・・・・・・・・
日本語版だと、昭和12年に出版されたこちらで読むことができます。
上で述べた上下二巻本が底本になっていて、19編が収められています。
訳が三好達治で、これがもうほんとに見事。
ご本人はあとがきで自分の力不足が恥ずかしいと謙遜してらっしゃるのですが、
「壁暖炉」に「シュミネ」、「林檎酒」に「シードル」などとルビをふってあるところや
詩のリズムを生かしているところ、漢字とひらがなのバランスなど、
細かい箇所まで神経を使って訳されたのがよくわかります。
自分内で光速帽子offだったのは
C'est ainsi que Fanchon rentra chez sa maman, accompagnee d'une musique aerienne.
やがてこんなふうにして、ファンションはお母さんのお家に着きました、なか空の歌声に送られながら。(①p.15)
以前、「翻訳は原語の語学力よりも日本語能力だ」と先生が仰っていたのを思い出します
岩波文庫が出版された当時、
「少女の友」という雑誌でブックレビューを連載していた村岡花子も、
三好達治が、翻訳から想像するに「いかにも気品の高い、子供好きの(中略)
真実の意味での少年少女の友とするべき人のような気がします」と述べた上で
次のように書いています。
『少年少女』は童話集と言うには、あまりに意味深いものです。(中略)
「詩」を持った童話ーー散文詩的童話ーーとでも評しましょうか、
一つ一つの小さいおはなしはまるで一粒一粒の宝石のよう、
これは少女の方の心の糧であり、たましいの歌となるものです。
是非、読んでその深い意味を考えてごらんになるようおすすめいたします。
(「少女の友」1938(昭和13)年3月号・②p.143)
たしかに子ども向けの短いおはなしの体を取っているのですが、
正しいことを言い出したときには、滅多に耳を籍してもらえないのが世の常です(①p.12)。
二人の間に立っているジャックは、左隣の仲間を見るか右隣の仲間を見るかに従って、
自分を大きいとも小さいとも考えることができるのです。これが境遇というものです(①p.34)。
働いて得たスープよりも、おいしいスープはありません(①p.74)。
などという箇所を読むと、ああほんとにそうだなぁと改めて思います。
かつて引っ越しに次ぐ引っ越しを
エミリーシリーズや『自省録』などと一緒にのりきった文庫本のうちの一冊です。
ずっと手元に置いて、読み返したい本です。
<おまけ>
昭和4年に出版された、薄田泣菫の『艸木虫魚(そうもくちゅうぎょ)』に収録されている
「古本と蔵書印」という随筆に、アナトール・フランスが出てきます。
本屋の息子に生れただけあって、文豪アナトオル・フランスは無類の愛書家だった。
巴里のセイヌ河のほとりに、古本屋が並んでいて、皺くちゃな婆さんたちが編物をしながら
店番をしているのは誰もが知っていることだが、アナトオル・フランスも少年の頃、
この古本屋の店さきに立って、手あたり次第にそこらの本をいじくりまわして、
いろんな知識を得たのみならず、老年になっても時々この店先にその姿を見せることがあった。
フランスはこの古本屋町を賛美して、「すべての知識の人、趣味の人にとって、
そこは第二の故郷である。」と言い、また「私はこのセイヌ河のほとりで大きくなった。
そこでは古本屋が景色の一部をなしている。」とも言っている。
彼はこの古本屋から貪るように知識を吸収したが、そのお礼として
またいろいろな趣味と知識とを提供するを忘れなかった(③p.260)。
実家が本屋さんの作家というと林真理子を思い出しますが
アナトール・フランスもそうだったんだとびっくり。
『少年少女』のイメージが大きくて、
他の小説などは読んだことがないので
機会があればいずれ読みたいです。
沙羅の木+α
夏椿が咲いています。
葉の上、奥の方にひっそりと咲くので
下から見上げているとなかなか見えにくい。
ベランダから見下ろすと思ったよりたくさん咲いていて「おおお」となります(^^ゞ
一日で花が落ちてしまうので、
朝、落ちている花を見て
ああ今年も咲き始めたんだなと知る年もあります。
夏椿は沙羅の木ともいって、鷗外に
褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも靑葉がくれに
見えざりしさらの木の花。
という詩があるのを毎年思い出します。
これは1929 (大正4)年に出版された『沙羅の木』という詩集に収められています。
国立国会図書館デジタルコレクションで初版本を読むことができます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954191
こちらのURLで、上中央の「コマ番号」を88にすると、この詩のページになります。
鷗外の書斎の前には、大きな沙羅の木があったそうで
次女の小堀杏奴が、次のように書いています。
沙羅の木の根本にはおもしろい形をした石があって、夏になると青く葉の茂った奥に、
気品の高い白い花が、咲くとみる間に散ってしまう。
藍色の縮の単衣を着た父が裾をまくって白い臑を出し、飛び石を跣で伝っては落ちた花を拾ってきたものだ。
父の死んだ年、何時もそれほど花の咲いた事もない沙羅の花が一面に咲乱れて、
石の上や、黒い土の上に後から後からそのままの形でいっぱい散った。
母はそれを拾っては父の位牌に供えていたが、その翌年は既う枯れてしまって、
どのように丹精してみても駄目になってしまった。
(中略)
父が気にして落ちるとは拾いに出ていた花が、その死と共に直ぐ枯れてしまったのを
母はひどく心細がっていた。
暫くして母と二人で散歩に出たら、夜店に思い掛けなく小さい沙羅の木の植わった盆栽があったので、
それを少し離れた場所に植えて置いた(①pp.126-7)。
長女の森茉莉も
私と父の間には何故か、白い花の記憶が、絡んでいた(②p.101)。
と回想し、鷗外の妹の小金井喜美子も
その後ある年の御命日に伺ったら、桃の煮たのをお出しになったので、お姉え様に
「お終いの頃によくこれを召し上がりましたねえ。」
「ええ、好物でしたから。」
それきり黙って青葉の庭を見て、お互いに思い出に耽ったことでした。
いつもその頃は軒に近い沙羅の樹の四弁の白い花がはかなげに咲いております。(③p.269)
と書いているので、鷗外と夏椿の白い花のイメージは
それぞれの中で結びついていたのだろうと思います。
鷗外記念館にはこの詩の碑があります。
字は永井荷風!
喜美子の『鷗外の思い出』に「建碑式」という随筆が収められていて、それによると
谷口吉郎博士の設計に拠るということで、特に明治の煉瓦を集めて十三間の塀を作り、
二尺五寸に三尺六寸の御影石を嵌めこみ、それに永井荷風氏が「沙羅の木」の詩を書かれたのです。
その傍には詩に歌われた根府川石をあしらった沙羅の木の白い花が一つ二つ夢のように咲いています(④p.219)。
とあります。
これは1964(昭和39)年の33回忌の時のことだそう。
碑の左端には
父森鷗外三十三回忌にあたり弟
妹と計りて供養のためこの碑を建つ
昭和二十九年七月九日 嗣 於菟
と彫ってありました。
今の記念館は2012年にリニューアルオープンしたので、少し様子が異なります。
当時は沙羅の木が近くにあったんだとなんだか嬉しくなりました。
<おまけ>
ということで、先日鷗外記念館に行ってきました。
庭好きとしてはこの展示が見たかったのです。
昔この場所に建っていた鷗外の家には広い庭があり、
様々な草花が四季を通じて楽しめたことが
茉莉や杏奴の随筆に詳しく書かれています。
鷗外のお父さんも庭が好きでした
どの花がいつ咲いたかという記録や自筆の手紙などもあって、
興味深くゆっくり回ってきました。
裏の目的は荷風先生の碑の写真を今の携帯で撮り直してくること←え
記念館が新しくなった時から、この季節にこの記事を書こうとずっと思っていたのですが
前の携帯で撮った写真がひどすぎて、一つ前の記事もろとも塩漬けになっておりました;
記念館から7~8分のところに、夏目漱石の旧居跡があります。
題字は川端康成!
ここ千駄木町57番地に建っていた貸家には、
漱石の前に、鷗外も住んでいたことがありました。
1890(明治23)年9月に最初の妻と離婚した後、
10月から1892(明治25年)1月31日まで、弟二人と住んでいたのです。
家を「千朶山房」と呼んでいたそうです。
その後、団子坂上(現在鷗外記念館のあるところ)に家を建てて、
祖母と両親、長男と一緒に住むようになりました。
8月に書斎を増築して、観潮楼と名付けました。
天気のいい日は二階から品川の海が見えたらしいので、この名前になったそう。
漱石はイギリス留学から帰国した後
1903(明治36)年3月から1907(明治39)年の暮れまでここで暮らしました。
『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、『草枕』などがここで書かれたので
石碑には「漱石文学発祥の地」とありました。
『吾輩は猫である』に因んで、猫のオブジェが。
少し奥まったところに本物の猫のようにあるのがいとをかし。
家そのものは愛知の明治村に移築されたそうです。
いつか見に行けたら嬉しいな
通りを少し下れば明治36年創業の一炉庵という和菓子屋さんがあります。
漱石(甘党)がお気に入りだったそう。
当時からある夜雨最中がおいしいです
またまた少し歩くと、根津神社に着きます。
境内の木陰にあるこの石に、
鷗外や漱石がよく座っていたのだそうです。
座って左方向→正面→二行はさんで右方向のながめ。
割と低めで、しっかり腰掛けられます。
幅もあるので、後ろに手をついてもゆとりがありました。
見上げると木々の枝に囲まれて青い空。
神社という、聖別された空間であることも大きいのでしょうが
落ち着いて考えごとをするにも
何も考えずにいったんぼーっとするにも
いい場所だなぁと思いました。
すぐそばに水飲み場があります。
裏に「戦利砲弾奉納 陸軍々医監 森林太郎」(鴎外の本名)の文字が。
1906(明治39)年に日露戦争の勝利を祝って奉納されたもので、
もともとは上に砲弾がのっていたのだそうです(びっくり。
犬の散歩をしている方がお水を汲んで、飲ませてあげていました。
<参考文献>





















































