沙羅の木+α
夏椿が咲いています。
葉の上、奥の方にひっそりと咲くので
下から見上げているとなかなか見えにくい。
ベランダから見下ろすと思ったよりたくさん咲いていて「おおお」となります(^^ゞ
一日で花が落ちてしまうので、
朝、落ちている花を見て
ああ今年も咲き始めたんだなと知る年もあります。
夏椿は沙羅の木ともいって、鷗外に
褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも靑葉がくれに
見えざりしさらの木の花。
という詩があるのを毎年思い出します。
これは1929 (大正4)年に出版された『沙羅の木』という詩集に収められています。
国立国会図書館デジタルコレクションで初版本を読むことができます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954191
こちらのURLで、上中央の「コマ番号」を88にすると、この詩のページになります。
鷗外の書斎の前には、大きな沙羅の木があったそうで
次女の小堀杏奴が、次のように書いています。
沙羅の木の根本にはおもしろい形をした石があって、夏になると青く葉の茂った奥に、
気品の高い白い花が、咲くとみる間に散ってしまう。
藍色の縮の単衣を着た父が裾をまくって白い臑を出し、飛び石を跣で伝っては落ちた花を拾ってきたものだ。
父の死んだ年、何時もそれほど花の咲いた事もない沙羅の花が一面に咲乱れて、
石の上や、黒い土の上に後から後からそのままの形でいっぱい散った。
母はそれを拾っては父の位牌に供えていたが、その翌年は既う枯れてしまって、
どのように丹精してみても駄目になってしまった。
(中略)
父が気にして落ちるとは拾いに出ていた花が、その死と共に直ぐ枯れてしまったのを
母はひどく心細がっていた。
暫くして母と二人で散歩に出たら、夜店に思い掛けなく小さい沙羅の木の植わった盆栽があったので、
それを少し離れた場所に植えて置いた(①pp.126-7)。
長女の森茉莉も
私と父の間には何故か、白い花の記憶が、絡んでいた(②p.101)。
と回想し、鷗外の妹の小金井喜美子も
その後ある年の御命日に伺ったら、桃の煮たのをお出しになったので、お姉え様に
「お終いの頃によくこれを召し上がりましたねえ。」
「ええ、好物でしたから。」
それきり黙って青葉の庭を見て、お互いに思い出に耽ったことでした。
いつもその頃は軒に近い沙羅の樹の四弁の白い花がはかなげに咲いております。(③p.269)
と書いているので、鷗外と夏椿の白い花のイメージは
それぞれの中で結びついていたのだろうと思います。
鷗外記念館にはこの詩の碑があります。
字は永井荷風!
喜美子の『鷗外の思い出』に「建碑式」という随筆が収められていて、それによると
谷口吉郎博士の設計に拠るということで、特に明治の煉瓦を集めて十三間の塀を作り、
二尺五寸に三尺六寸の御影石を嵌めこみ、それに永井荷風氏が「沙羅の木」の詩を書かれたのです。
その傍には詩に歌われた根府川石をあしらった沙羅の木の白い花が一つ二つ夢のように咲いています(④p.219)。
とあります。
これは1964(昭和39)年の33回忌の時のことだそう。
碑の左端には
父森鷗外三十三回忌にあたり弟
妹と計りて供養のためこの碑を建つ
昭和二十九年七月九日 嗣 於菟
と彫ってありました。
今の記念館は2012年にリニューアルオープンしたので、少し様子が異なります。
当時は沙羅の木が近くにあったんだとなんだか嬉しくなりました。
<おまけ>
ということで、先日鷗外記念館に行ってきました。
庭好きとしてはこの展示が見たかったのです。
昔この場所に建っていた鷗外の家には広い庭があり、
様々な草花が四季を通じて楽しめたことが
茉莉や杏奴の随筆に詳しく書かれています。
鷗外のお父さんも庭が好きでした
どの花がいつ咲いたかという記録や自筆の手紙などもあって、
興味深くゆっくり回ってきました。
裏の目的は荷風先生の碑の写真を今の携帯で撮り直してくること←え
記念館が新しくなった時から、この季節にこの記事を書こうとずっと思っていたのですが
前の携帯で撮った写真がひどすぎて、一つ前の記事もろとも塩漬けになっておりました;
記念館から7~8分のところに、夏目漱石の旧居跡があります。
題字は川端康成!
ここ千駄木町57番地に建っていた貸家には、
漱石の前に、鷗外も住んでいたことがありました。
1890(明治23)年9月に最初の妻と離婚した後、
10月から1892(明治25年)1月31日まで、弟二人と住んでいたのです。
家を「千朶山房」と呼んでいたそうです。
その後、団子坂上(現在鷗外記念館のあるところ)に家を建てて、
祖母と両親、長男と一緒に住むようになりました。
8月に書斎を増築して、観潮楼と名付けました。
天気のいい日は二階から品川の海が見えたらしいので、この名前になったそう。
漱石はイギリス留学から帰国した後
1903(明治36)年3月から1907(明治39)年の暮れまでここで暮らしました。
『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、『草枕』などがここで書かれたので
石碑には「漱石文学発祥の地」とありました。
『吾輩は猫である』に因んで、猫のオブジェが。
少し奥まったところに本物の猫のようにあるのがいとをかし。
家そのものは愛知の明治村に移築されたそうです。
いつか見に行けたら嬉しいな
通りを少し下れば明治36年創業の一炉庵という和菓子屋さんがあります。
漱石(甘党)がお気に入りだったそう。
当時からある夜雨最中がおいしいです
またまた少し歩くと、根津神社に着きます。
境内の木陰にあるこの石に、
鷗外や漱石がよく座っていたのだそうです。
座って左方向→正面→二行はさんで右方向のながめ。
割と低めで、しっかり腰掛けられます。
幅もあるので、後ろに手をついてもゆとりがありました。
見上げると木々の枝に囲まれて青い空。
神社という、聖別された空間であることも大きいのでしょうが
落ち着いて考えごとをするにも
何も考えずにいったんぼーっとするにも
いい場所だなぁと思いました。
すぐそばに水飲み場があります。
裏に「戦利砲弾奉納 陸軍々医監 森林太郎」(鴎外の本名)の文字が。
1906(明治39)年に日露戦争の勝利を祝って奉納されたもので、
もともとは上に砲弾がのっていたのだそうです(びっくり。
犬の散歩をしている方がお水を汲んで、飲ませてあげていました。
<参考文献>