本日の昭和の日とは昭和天皇のお誕生日で、昭和初期は天長節、戦後は天皇誕生日だった日です。

 

昭和天皇は、今上陛下の御祖父であり、上皇陛下の父君です。

皇太子時代に御外遊された時、フランスでの昭和天皇の御影

 

令和の御譲位の際、春には上皇陛下上皇后陛下が御譲位の御奉告のため武蔵御陵に参拝され、天皇陛下皇后陛下は即位後にやはり御奉告のため参拝されました。また秋篠宮皇嗣同妃両殿下も「立皇嗣の礼」後には参拝をされました。先日は敬宮殿下が学習院大学のご卒業と就職の奉告のため参拝されてらっしゃいます。

 

昭和天皇は、明治三十四年(1901年)四月二十九日にご誕生されました。皇孫を喜ばれた明治天皇が裕仁と命名され、親王の教育のため明治天皇たっての願いで乃木希典が学習院の院長に就任しています。

 

大正天皇崩御の大正15年(1926年)12月25日に即位され、昭和へと改元、昭和64年1月7日(1989年)に崩御されました。御歴代の天皇の中で、御在位期間が実質62年と最も長く、最も長寿であられた天皇です。(古代の天皇は春秋歴で修正して考えています)

 

昭和天皇が崩御された後、時代は平成と変わりましたから、平成や昭和の最後の方の生まれの方以外は昭和天皇についてはニュース映像などの記憶もあるでしょうし、昭和世代生まれの方は、一般参賀等にいらした方もいらっしゃるでしょう。崩御時の大喪の礼でその偉大さが初めて分かった方も多いかもしれません。今日は、是非そうした記憶を呼び覚まし、お子さんやお孫さんに語ってほしい、あるいは親や祖父母らに昭和天皇について聞いてほしい、そんな日です。


昭和天皇を知ることは天皇陛下と上皇陛下を知ることに繋がります。また天皇を知るということは日本を知ることにもなります。天皇=日本だからです。つまり昭和天皇を知ることで私達は日本を知ることになり、その日本に生きる私達、つまり日本人や日本に生きる人達を知ることになります。昭和天皇を知ることは、その昭和の時代に生きた方々を知ることに繋がります。普段は意識しなくてもこうした日には是非、私達日本人としての知識を深めていきたいものだと思うのです。

 

そうはいっても昭和の日は、昭和時代からGWの連休の一日として遊びにくれるための日ととらえられてしまっています。しかし、ここ数年の激動の世界情勢と不穏な流れに見えるこれからの時代だからこそ、改めて昭和天皇と昭和について見直す必要があると思うのです。なぜなら今と未来を知るには、その今に繋がる過去を知る必要があるからです。

 

現在の国際情勢を、昭和初期の頃に似ているという人もいます。歴史は繰り返すといいますが、だからこそ歴史から学ぶことが肝要です。

 

戦後、多くの人が昭和天皇がどれほど偉大な天皇であったのかわからなくなった、あるいは未だに知らないという現実があります。あるいは自虐史観から、昭和天皇やその時代を生きた先人達を貶めて考えている人達も多くいます。それは、私達が昭和天皇についてちゃんと教えられてこなかったから、あるいは貶められて教えられ、それをそのままにしてきたり、あるいは、興味を持たずに来たからです。

 

私もそうでしたが、歴史を学び直し始めた時初めて本当の日本についてまた天皇についても知りはじめ、今ではせっかく昭和生まれであったのに、同時代にいらっしゃった昭和天皇について存じ上げなかったことを悔しく思うようになりました。

 

2年前ウクライナ政府が作成した動画に昭和天皇がファシストとして写真が載せられており、多くの人が怒り抗議して訂正させました。今後もこうしたことが起こるかもしれません。そのように伝え教えている国があるからです。その時に抗議する、抗議できるためには、私たちがきちんと昭和天皇について知り、また伝えていく必要があります。一度歪められたことを正していくのがどれほど難しいか、今回のことはそれを示している事例といえます。

 

だからこそ多くの方に、今からでも昭和天皇について知ってほしいと思いますし、ちまたで色々と言われたり書かれたりしている汚名も削いでほしいと思います。

 

昭和天皇は、開戦当時戦争に反対である事を明治天皇の御製に託して伝えていらっしゃいました。そして、戦時中には、空襲の中でもその合間を縫って、四方拝をとり行われ日本の為世界のために祈られました。終戦の時には我が身を投げ打って日本を救おうとされました。そのようなことができる君主など、日本以外では考えられないからこそ日本嫌いであったマッカーサーが感銘を受けています。

 

 

昭和49年に書かれた『天皇』には、この昭和天皇とマッカーサーとの初めての出会いを昭和30年にマッカーサーから直接聞いた外務大臣重光葵との会見を発表した読売新聞の記事が載せられています。重光は昭和天皇からの感謝の言葉を伝えに行ったのですが、この時、マッカーサーは昭和天皇の御言葉に驚いたその初めての出会いの話をする前に、このようなことを言っていました。


「自分は日本の天皇の御伝言を、他の何ものよりも喜ぶものである。私は陛下にお会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は、天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。それにもかかわらず、陛下のなされたことは未だかつて十分に世に知られていない。十年前平和再来以来、欧州のことが常に書きたてられて、陛下の平和貢献の仕事が十分理解されていない恨みがある。その時代の歴史が正しく書かれる場合には、天皇陛下こそ、新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます。」
この後に続くのが上記動画の言葉です。

 

ただ単純に平和を求めたのではない、四方の海の話↓

 

現在の皇室での行事、一般参賀や稲作を始められたのは昭和天皇です。昭和の時代に皇室は随分変化しました。現在皇室で行われている行事は、昭和天皇や上皇陛下が始められたことが多くあります。また中にはGHQの政策により変えさせられたこともありました。これに対しては昭和天皇が反対されていたこともありました。その一つが皇室典範が皇室から離されたことや旧宮家の皇室離脱があります。そのため現在のように、ことある毎に皇室の危機と言われる状態になっても、天皇陛下や皇室の方が動くことも発言することもできません。

 

 

昭和天皇がいかに孤独な戦いを戦ってこられたかが「天皇家百五十年の戦い」に書かれています。

 

昭和天皇は終戦直後の厳しい時期に初めて迎える正月に国民を励まそうと二度目の玉音放送をされています。この、「新日本建設に関する勅書」の冒頭で、昭和天皇は五箇条の御誓文を全文あげられていらっしゃいます。これは、昭和天皇が五箇条の御誓文の誓いを新たにして官民を挙げて日本を立て直していこうとおっしゃられたのですが、それは、民主主義が輸入のものではないということを示すためもあってのことだったのです。

 

しかし、これは「人間宣言」と言われるようになります。それは文中の一か所を切り取ってそのように言われるようになるのですが、実際に読めば「人間宣言」されているような内容は一切ありませんから、悪意ある揶揄でしかないのです。そう読めてしまうとすればそれは読解力のなさの表れでしかありません。

 

こうしたことを含め、皇室関連の書物も多い江崎道郎氏は、国民の国語力が落ちて天皇の御言葉を理解できない国民が増えていると何度も書かれています。そこにはメディアによる悪意ある誘導に騙されてしまうことも含まれますし、GHQの遺産である国語教育の劣化がジワジワと効果を出しているのに対策をしていないという現実もあります。

 

また昭和天皇は、戦後の疲弊した国民を励ますために御巡幸の旅を始められました。昭和21年から昭和29年までの9年間で総日数165日、33,000キロに及ぶといいます。これは東京大空襲の後を視察された時に、自ら国民を慰め励まさなければならないと御決意されていたのだといいます。しかし、この御巡幸がなされた時期とは、終戦と過酷な占領政策、食糧不足と大量の失業で騒然たる情勢の真っ最中のことです。日本政府高官は安全を危惧してこの御巡幸には反対していました。一方で、占領軍幹部はこの御巡幸の最中に昭和天皇が国民から怒りや怨みをぶつけられることを期待していました。そのような中で、昭和天皇は日本中を御巡幸されたのです。

 

さらに終戦直後の宮内庁は、まだ皇室の伝統を守ろうとしていましたが、昭和50年ごろから宮中祭祀を排除するようにだんだん動くようになっていきます。そして昭和天皇の御高齢を理由にお出ましの祭祀も減らされていってしまうのです。

 

昭和天皇の崩御の後、マスメディアが勝手に変えてしまいそのまま一般の人にまで浸透し初めていることに敬称等の問題もあります。言葉は使われていくと浸透しますから、それをメディアが利用しているのです。これに抵抗するためには、メディアが違う言葉を使っても私達がきちんと使い続けるしかありません。しかし、そうはいってもそうした言葉を知らない人が現在は多くなっているのです。

 

 

 

一家に一冊置いておきたい「一般敬語と皇室敬語がわかる本」。

 

 

 

こうしたことを終戦直後既にみこしていたのかもしれませんが、昭和天皇は終戦の後、「日本の戦後復興には300年かかかる」とおっしゃっていたことが『敗戦復興の千年史』に書かれています。何百年も先を見据えて考えておられたのは当時昭和天皇だけだったのではないかと思います。終戦後80年近く経っても独立国家としての形が整えられない現状を見れば、昭和天皇の思し召しがいかに的確であったかがわかります。そして、そういった目線を持っておられたのはやはり2000年以上の歴史が続く日本の歴代の天皇をご先祖に持たれているということ、そうした歴史を学ばれてきていることが大きいことだったのだと思うのです。

 

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歴史をみれば数十年単位で変わってしまう流れというのが沢山あります。そして一時の流れで、国の根本まで変えてしまい、動乱が100年も続いた国、滅びた国が世界中にあります。例えば革命です。一番有名なのはフランス革命ですが、その後何度も帝政といったりきたりと政権が安定せず、またコロナ禍が起きる前の長期間の暴動のようなことが現代にいたっても繰り返されている国でもあります。コロナ禍が終わったかと思ったらまた大きな暴動が起きています。それなのに現在のフランス人ほどロイヤルファミリーに興味を持っている国はないとさえ言われています。革命が起きた後の国は動乱が続き国としての成熟度が低いのはロシア→ソ連→ロシアの流れを見てもわかりやすいことだと思います。一時の流れで見誤ることがいかに危険なことである事か、またそうなった場合それを鎮めていくことにいかに時間がかかることかを歴史が証明しています。我が国でも戦国時代の動乱の時代が鎮まるのには長い年月がかかりました。江戸太平の時代といいますが、動乱の時代から太平の世への人の移り変わりができたのは、四代綱吉の時代の悪評高い「生類憐みの令」以降だといいます。「生類憐みの令」は、当時の人々の思考を変えたとして、今は見直されてきているのです。当時、一国だけで政治のできた時代でも、それだけ時間がかかったのです。ましてや、国際社会の思惑まで絡まる現代、一度そういう状態に陥った国がまとまるのは至難の業となるのは、平成以降の国際情勢を見ても明らかです。そうしたことをきちんと記録され残されている我国の国史から昭和天皇は学ばれて思召されたのでしょう。国史とはそうした実学として後の世に生かすためにあるからです。

 

日本に皇室があるだけで世界一のコンテンツがある、ソフトパワーがあると語る奥山さん。また和田さんは、傍系は現在の天皇から血が離れるから女系宮家と言う人がいるが、血が離れるとか関係ない、血筋が大事と、本質的なことを語っています。

 

終戦の時、昭和天皇のように何百年先を見据えた人が他にいなかったように、現在も政治家などをみているとそういう人物は表れていないようです。一方で、上皇陛下は将来を見据え憂えていられるのではないかと思えるのは、上皇陛下の平成二十八年のお言葉があるからです。

 

終戦の詔の直前、宮城事件終結後に阿南陸軍大臣は、首相に暇乞い時に救われたという「陛下がお祭りをなさっている以上、日本は滅びませんよ」という言葉を聞いたその日に自決をされています。

 

 

これは日本が天皇陛下の祈りに護られていることを伝えています。だからこそ、昭和天皇は空襲の合間を縫って四方拝を行われたのです。そして上皇陛下も宮中祭祀を続けられ、またそれを引き継がれた天皇陛下は皇太子時代から祭祀に向かわれる姿勢はとても真剣だと竹田恒泰氏が語られていました。

 

そのように日本を私達を護られてくださる天皇陛下と皇室を護るのは私達国民しかいません。「神は人の敬によりて威を増し人は神の徳によりて運を添ふ」といいますが、これはそのまま天皇と国民にもあてはまります。だからこそ、私達は、機会ある毎に陛下を始め天皇や皇室について知識を深め、おかしな動きが起きないようにしなくてはならない、と思うのです。そして、いつだってそのその第一段階は今です。今知らなければ、後になって後悔しても変えられてしまったものを元に戻すのがいかに大変であるか。ゆとり教育だって20年かかってしまいました。このような重要なことが変えられてしまったら、昭和天皇が戦後復興でおっしゃったように百年単位での時間がかかるかもしれません。

 

 

そうならないためにも、既に変えられてしまったものを正すためにも、天皇について少しでも多く知る必要があります。現在を知るにはまず昭和天皇から入るのが一番わかりやすいです。今を生きる私たちが歴史をきちんと知ることは、過去変え、そして未来をも変えていくことができます。

 

昭和天皇御製

 

八月十五日那須にて

ゆめさめてたひねの床に十とせてふ
むかし思へばむねせまるかな

 

国のため生命ささげし人々の
ことを思へば胸せまりくる


さしのぼる朝日の光へだてなく
世を照らさむぞ我がねがひなる


わが庭の宮居に祭る神神に
世の平らぎを祈る朝朝


 

最後に、私が好きな昭和天皇のエピソードです。


これは、昭和天皇が御幼少の頃から仁徳天皇の民の竈について深く考えていらっしゃったことを伝える話です。それは民の竈についての授業で先生がなぜ民は窮乏したのか?と質問をされた時、ご学友の誰もがお答えになれない中、幼い皇子が(仁徳天皇の父や祖母の時代からの)長く続く戦のために民が疲弊したからだとお答えになったというのです。民の竈という物語にはその後の物語があるように、その前の物語もあるということをちゃんとその前の物語から繋げて考えられていらしたのです。

 

さらに、皇太子殿下の初めての皇子の誕生に、仁徳天皇の字をそのまま逆にされて命名されました。これは、戦後初の次世代の皇子の誕生に、仁徳天皇と民のかまどによる新たな冒険の出発を重ね合わせての命名による言祝ぎを思召されたのだと考えられます。300年先を見ていらした昭和天皇が、数十年先を考えていないはずがないからです。

皇太子殿下とは現在の上皇陛下ですから、誕生された皇子とは今上陛下です。

 

令和になって以降、世界中が激動の時代に入っているような現在、先の見えない不安な時代ではありますが、昭和天皇から言祝がれている御代ですから、私達の未来はきっと明るいはずです。

 

 

上皇陛下からさかのぼっていく形式で桃園天皇までの御言葉、詔が記載されている「天皇の言葉」。上皇陛下の次が昭和天皇です。

 

仁徳天皇と民の竃について詳しく解説されている「ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀」

『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』のラストに登場するのは昭和天皇です。昭和天皇の頁は漫画になっており、短い中にその素晴らしい業績が凝縮されながらわかりやすく描かれています。これほど短いながらもわかりやすく描かれた昭和天皇伝は他にないと思います。

 

 

我が国の理想である安寧な世の中を歌う「あめのした」

昭和39年の東京五輪での開会式。昭和天皇の開会宣言は7:20頃、君が代は最初と最後にあります。国際的イベントでの君が代は、天皇陛下はもとより、聴いている世界中の君(人々)の末永い長寿(そのためには健康でなくてはならず、安寧な生活を送らなくてはならず、平和でなくてはならない)を言祝ぐ目出度い言霊歌となります。

東京五輪は、まさにお祭りだった↓

 

昭和天皇の御代に紀元二千六百年となり、その年にできたのが零戦です。式典が戦時中と重なったことから、否定的に考える人が多くいますが、たとえ不確かだとしても、日本が一つの国として長く続いてきていることを否定できる人はいません。日本人として誇らしいことの一つです。

ゼロ戦とかけたタイトルの「永遠の0」の映画。原作を含めこの物語のテーマは、親や祖父母の時代について廻りの方々に話を聞いて知ろう\(^o^)/ということです。

 

三浦春馬さんが憂えた我が国の未来。国力を高める一つには歴史をきちんと知ることも含まれますし、皇室を分断する勢力の讒言にはのらないことです。

 

はっきりとした世代を超えた自我、つまり自分は自分よりももっと大きい何かの一部であると知っているとき自信をもつことができる、自分の原点を知り、家族や企業、国など、どんな形であれ自分の起源の物語と繋がっていると上手くいくということを科学的に解説した本『FULL POWER』。だからこそ、ある国を弱めいたいとき、滅ぼしたいとき、その国の歴史を教えず、あるいは貶めるのが効果的であり、戦後教育でそうされ今に至るまでその影響を受けているのが我が国です。昭和天皇とその昭和の時代に生きた先人達ほど貶められたことは我が国の歴史で他に類をみません。それを正すことができるのは我々だけです。だからこそ真の歴史を取り戻す必要があります。それこそが我々の歴史、国史です。

 

 

 

 

 

 

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