本日は我国建国の祖である神武天皇の2600年大祭、つまりお隠れになられた日、命日です。

 

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我国の建国は、神武天皇が即位したことに始まり、その即位された日を日本の紀元の日であるとして紀元節といいます。紀元の節目の時というわけです。現在紀元節は、毎年日本各地の神社でお祝いされていますが、一般には建国記念の日、として知られています。これは戦後、GHQのウォーギルドインフォメーションプログラムの一貫として、天皇・皇室については教えられないようにされたため、我国建国の祖である神武天皇の事績についても教えられなくなったからです。

 

多くの日本人は、建国記念の日の2月11日をただの休日として過ごしています。しかし、どんなものにも始まりがあるように我が国にも始まりがあり、その始まった日が2月11日なのです。

 

しかし、その2月11日も紀元節として認識されるようになったのは明治時代新暦になってからのことです。2月11日は、旧暦が新暦に変わった時にその旧暦をあてはめたら新暦のこの日だったというだけで、旧暦では別の日だったのです。では元の日はいつだったのかといえば、元旦です。元旦は、実は神武天皇の誕生日、即位された日、そして日本の誕生日という3つのおめでたい日が重なっています。だからこそ宮中祭祀で一番重要な日は、収穫を感謝する新嘗祭の11月23日ですが、その次に重要な日は元旦となっています。これは日本はもちろん日本の開祖の誕生日であるから大切にされてきたのです。しかし、そのような大切な日であっても2番目とされ、第一は収穫で感謝する時であるということが我国の我国である所以でもあります。

 

 

かつて日本では数歳というものがありました。年が変わるとみな一斉に年を取ったのです。つまり元旦が日本人全員の誕生日でした。だからこそ新しい年の前にはみな神社で禊をし、負債を清算し、新しい気持ちで新年を始めようとしました。季節の行事で元旦が盛大なのは日本と日本人全体のお祝いの日だったからです。そしてその習慣の大元には神武天皇がいらしたのです。

 

 

昨年、その数歳の数え方で、神武天皇2600年大祭が神武天皇の宮跡の橿原神宮で行われました。宮中祭祀として天皇陛下が皇居でされている神武天皇祭は、橿原神宮でも毎年行われているため、橿原市周辺では神武さんとして親しまれていますが、日本中のほとんどの人がその存在を知りませんでした。他には即位前の神武天皇生誕の地、宮崎県にある宮崎神宮も神武天皇となる神日本磐余彦天皇を御祭神として4月3日に神事が行われていますので、その周辺の方々はご存知でしょう。私はこのような2600年を慰霊顕彰する祭りの存在を知らないのは勿体ないと周りの人々、特に歴史に興味のある方々にお伝えして、一緒にその大祭に参列させていただきました。

2600年神武天皇大祭と天皇陛下

神武天皇式年祭と山稜の儀と神武天皇大祭

神武天皇2600年大祭参列

 

当日は、天皇陛下皇后陛下、秋篠宮殿下同妃殿下が橿原へ行幸啓をされ、神武天皇陵で山稜の儀をされました。また皇居の皇霊殿では、皇太子殿下が陛下の名代として儀式に臨まれ、皇太子妃殿下、また皇族の方々が御臨席されています。

 

実は昨年末まで、橿原神宮で行われた神武天皇2600年大祭が数歳方式である事を知りませんでした。年末に今年こそが本来の2600年大祭であるということを知ってから色々考えさせられるうちに、今上陛下の御言葉の意味はもっともっと日本を知ることを語られているのではないかと思えてきました。

今年こそが神武天皇2600年大祭の年

 

 

世界中で、2600年もの祭りを行っている国があるでしょうか?このような日本人として誇りといえることを、多くの日本人が知らないのは本当に残念なことです。そしてその存在を知っていてもその素晴らしさが実感できないことはもっと残念と言わざるを得ません。しかし、それは多くのフィルターを付けられているために、そうしたことが見えなくなっているのです。

 

 

ところが現在、そのフィルターが外れるような出来事が続いて起きました。

 

 

一つは聖徳太子という名称の排斥活動が近年目立っており、教育現場にも影響を与えるようになってきました。しかし、多くの良識ある日本人からの批判やパブリックコメントの反応でとりあえず阻止することができました。

「聖徳太子」「鎖国」が復活 呼称変更に批判…現行表記に 新学習指導要領が告示

産経ニュース2017.3.31 07:47更新

文部科学省は31日付で、小中学校の次期学習指導要領と幼稚園教育要領を官報に告示する。2月に公表した中学校の改定案で現行の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」に変更したが、学校現場に混乱を招くなどとして現行の表記に戻す。新指導要領は幼稚園は平成30年度、小学校は32年度、中学は33年度から全面実施される。

現行では小中学校とも「聖徳太子」を授業で扱うと例示しているが、改定案では、人物に親しむ小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、史実を学ぶ中学で「厩戸王(聖徳太子)」に変更した。

ただ、改定案公表後のパブリックコメントで呼称変更への批判が相次いだことなどから現行に戻すことを決めた。

改定案で消えた江戸幕府の対外政策である「鎖国」については、幕末の「開国」との対応関係に配慮して「鎖国などの幕府の対外政策」などとする。小中の学習の連続性を重視する観点から、「モンゴルの襲来(元寇(げんこう))」を「元寇(モンゴル帝国の襲来)」、「大和政権(大和朝廷)の成立」を「大和朝廷(大和政権)による統一の様子」とする。

新指導要領では小学校高学年で英語を教科化する。

 

 

そしてもう一つは、最近教育の現場で忘れ去られていた教育勅語等を教えることで良識ある日本人の親を狙った騒動が起きたことにより、教育勅語が反って注目されたことです。本来でしたら当たり前の教えであるはずの「教育勅語」の言葉の意味は「教育についての天皇の御言葉」です。急激な時代の変化と西洋化による人々の変化に心を痛めた明治天皇が道徳教育の基本方針を立てたいと願い、内閣法制局長官井上毅と儒学者である元田永孚が中心になって最終案まで作成しました。この教育勅語は天皇ご自身も実践に努めると宣言する形となっています。「一緒に頑張ろう」という君主、他の国では昔も今もなかなかない聞かない光景ではないかと思いますが、国務に関わる法令・文書ではなく天皇自身の言葉として扱われたため実現したものともいいます。教育勅語は井上・元田が関わる前の初期の草案では宗教色や哲学色がありましたが、宗教・哲学・政治・学問とは関わりない中立的な内容で記すことを前提として原案を練り直しました。そのため国民の誰もが共有できる内容となっています。

逆に考えるとなんでもわかりやすい→逆教育勅語って怖い!!

 

そしてこれを元に作られたアメリカの道徳書は、聖書に次ぐベストセラーとなっているのです。

 

 

 

また今までの視点を変えさせてくれ本や動画なども最近はどんどん増えています。

 

特に二月二十三日に展転社から出版の「敗戦復興の千年史 天智天皇と昭和天皇」山本直人著、を読むと、日本の千年先、二千年先を見据える目を御歴代の天皇がお持ちであったことが見えてきます。

 

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先日ある講演会でたまたま著者が本の紹介をされたのですが、その本の紹介の言葉に感激しました。

 

この時、著者の山本さんが語られたのが御著書から引用された昭和天皇の御言葉です。この御言葉がとても深いのです。それは二つあります。一つは、昭和二十一年八月十四日、首相・閣僚たちを召されたお茶会での話です。

「終戦記念日にあたって、私はかつて(大正九年の春)大宰府を訪れた時に聞かされた、あの有名な白村江戦の故事を思い出した。あのときは、百済の再興を援助するべく、日本軍が出動したが、唐と新羅との連合軍に完敗してしまった。そのあとで、当時の天智天皇がおとりになった国内整備の経論を、文化国家建設の方策として偲びたい。」

 

しかし、「あの有名な・・・」と語られた白村江戦と仰られてもそのお茶会の出席者は実は知らない人の方が大部分を占めたのではないかといいます。というのも戦前の国定教科書において、天智天皇の百済への救援派兵については触れられても白村江戦での敗戦について直接言及した記述は見られないからだというのです。しかし昭和天皇は「戦捷に誇る勿れ」と日露戦争直後の戦捷気分に危惧した歴史学者である白鳥庫吉に国史を習われたのです。

 

そしてもう一つの昭和天皇の御言葉は終戦の直後長い間海軍大臣を務めていた米内光政が天皇陛下に拝謁をした時の御言葉です。

米内光政はこのようなことを申し上げた。

「こういう敗戦の結果と致しまして今後、度々拝謁をする機会も恐らくはないことと思います。随って今日は、ゆっくり陛下のお顔を拝みたいと思って参りました。このたびの敗戦には、我々、大きな責任を感ずるのでありまするが、敗戦の結果、日本の復興というものは、恐らく50年はかかりましょう。何とも申し訳ないことではありますが、何卒、御諒承をお願い致します。」

ところが昭和天皇はこのようなことを仰られるのです。

「50年で日本再興ということは私は困難であると思う。恐らく300年はかかるであろう。」

米内は、この御言葉に胸を打たれて暫くは頭が上がらなかったといいます。

 

 

私はこの話を聴きながら、昭和天皇が御幼少の頃仁徳天皇の民の竈の民はなぜ貧窮したのかと問われ、御学友の誰もがお答えになれなかった中、ただお一人神功皇后・応神天皇以来の戦の影響があったからだとお答えになった逸話を思い出しました。しかもこの戦は負け戦ではなく勝ち戦です。これにより日本には朝貢が来るような状態だったのです。つまり勝ち戦でもこのような状態に陥ってしまうことを幼い皇太子殿下は御理解されていました。

 

 

 

昭和天皇に国史を教えた白鳥庫吉は歴史教育、教科書について、以下のように言及していることからその教育がみえてきます。

「我国これまでの学校に用いられる教科書を初めとして、その他種々の書籍などを見るに我国の勝利だけ記載して敗北した事は一つも書いていない。・・・・尤もこれは愛国心を養成するためにさうせられた事には相違ないとしてもその手段が間違っている。勝ったことを書くのみで負けたことを書かないで、どうして目的を達することが出来よう。幸いにして近頃我国は敗北をとらないが、勝つた事の喜びのみを知って負けた時の苦痛を知らないでは、もし萬一、萬萬一負けたらどうするであろう。この苦痛がわからない間は真正に勝利の有難味はわからないのである。」

 

 

昭和天皇がおっしゃられた300年を白村江戦から考えると、村上天皇の時代である応和年間にあたります。村上天皇の時代は後年朝廷の理想の政治とされた「延喜天歴の治」ただ中の時代です。これは村上天皇の父である醍醐天皇の御世の「延喜の治」と村上天皇御世である「天歴の治」と併せて崇められた時代のことです。そして醍醐天皇は亀山上皇が蒙古襲来時に勅願された御宸筆として知られている「敵國降伏」という言葉を最初に勅願された天皇だったのです。そしてその醍醐天皇の父の時代に遣唐使は廃止されているのです。

 

 

記紀を読むと古代の日本では外交が盛んに行われていたことがわかります。ところがその外交は白村江戦で負けたため元気がなくなってしまいました。しかしそれでも遣隋使に続く遣唐使は国情を知るため送り続けていましたが、その交通も宇多天皇の時代にやっと廃止となりました。つまり遣唐使の廃止は、大陸にわざわざ情報を取に行かなくても大丈夫だとやっと安心できる時だったのです。つまり、大陸にわざわざ大勢を派遣していたのは、大陸文化を取り入れるだけのためではなく、戦に備える情報を得るために続けなければいけなかったのです。そう安心できるまでに230年ぐらいかかっています。

 

 

しかも醍醐天皇は、その時点でもまたそうしたことが起きるかもしれないと危惧され、蒙古襲来はそれから三百数十年後に起きているのです。

 

この時、白村江戦の後天智天皇が対馬、壱岐、筑紫、といった九州北部に水城という防衛施設を築かせていたのが役に立ちました。この戦いの直後、唐と新羅が攻めてくることに備えて沢山作らせていたものです。白村江戦から600年経っていましたが、蒙古襲来時にこの水城が国土防衛の最前線の場所となったのです。つまりよく伝えられる神風だけではなく、天智天皇の御事績も我国防衛の後押しをされていたのです。

 

天智天皇とその弟の天武天皇の時代に日本の礎をしっかり固める基盤づくりが始まり本格的な律令制度の導入、また唐化が進められたのも国土防衛のためであり、それから遣唐使廃止までに300年以上の時が経ったということを昭和天皇は考えていらっしゃいました。

 

そして、当時国を預かった誰もそこまでの視点を持たれた人はいなかったのではないでしょうか。昭和天皇のこの視点は教育もさることながら、2600年以上遡る歴史を持つ天皇という存在だからこその視点だったのではないかとも思えます。御歴代の天皇の歴史を辿れば、大きな歴史の波が何度もあったことが見えてきますし、先を見据えた御歴代の天皇がいらっしゃったからです。そのような歴史を知りながら、只今だけのことに目線を向けることなどはできないでしょう。

 

しかし、その天皇を抱く日本は我々の国でもあります。だからこそ我々もその日本の歴史を知り、学んでいくことでそのような視野を広げることもできるはずなのです。

 

「敗戦復興の千年史 天智天皇と昭和天皇」の著者山本直人さんは、この本の最後で、国家十年の計、百年の計、千年の計を語られています。その国を語る我国の言葉は「国家」、「国の家」、つまり国民は家族なのです。その家族が続いていくためには家族一人一人がもっと我家のことを知り、考えるべきではないかと思うのです。そしてそれは「百年に一度の経済危機期」や「千年に一度の災害」がいわれる現在では非現実的な事ではないのです。

 

我国の正史である「日本書紀」は、天武天皇の言葉により編纂が開始されましたが、そこには白村江戦での敗戦が、新旧の唐書や「三国史記」よりも遥に詳細に報告されているといいます。また朝廷における失政と思える政策や、謀反や失火、天候や動物などの異変、童謡などでほのめかしているのは、その記録を読み解くことで後の世の参考にするためでもあるからです。これが我国の歴史が自らの正統性を認めさせるために創る国との違いとなっています。そして、そう学ぶことの重要性を昭和天皇へ国史を教えた白鳥庫吉も語っています。歴史、国史は実学であり、現在に生かすためのものだからです。そうしたことを生かすことが出来なかったのが先の大戦なのです。

 

古代日本での暦の数え方を入れたとしても我が国が2000年以上の歴史を誇る国であることに変わりはありません。日本という国が今も日本であるという幸せは、ただ日本のことしか知らないと理解することができません。人は何かと比較した時に初めて、現在の有難味を本当に理解できるようになるからです。だからこそ、我国を知るのと同時に世界にも目を向けて見ると、我国に生まれた有難さがひしひしと理解できるようになってきます。現在も含めた世界中の国々の実情を知ると、日本が特別である事の大きな理由の真ん中には天皇陛下がいらっしゃることがわかるのです。世界中の歴史をみても、天皇のような君主がいた国などどこにもありはしません。その始まりが神武天皇であり、その末裔であられる今上陛下に現在の私達は護られているのです。そしてその天皇陛下をお護りするのも私達なのです。そう考えた時、私達も長い視野で現在を見ることができるようになるのではないでしょうか。何も知らずに皇室を変えようとしてしまうことがどれほど危険なことか、多くの日本人に気がついて欲しいと思います。

皇室の悠久

 

 

ただ今が良くても、将来がめちゃめちゃでは意味がありません。

ただ家族が幸せでも、周りの家族が不幸せだったら、その影響は自分の家族にも来るものです。

ただ自分の職場が安泰であっても、周りが不況であれば自分の職場にもいずれは不況の波が押し寄せてきます。

ただ自分の街が繁栄していればいいけれども、周りの街が寂れていたら、その寂れの影響は自分の街にも訪れるでしょう。

ただ我国が平和であればいいけれども、周辺国が不穏であればその影響は我が国にも届き戦争や紛争の影響があるでしょう。

 

だからこそ、今上陛下は日々日本の安寧と世界の安寧を一緒に祈られています。そして、本日は神武天皇大祭が粛々と行われ祈られるでしょう。

 

 

本日、皇居、または橿原か宮崎へ遥拝される方々が多ければ多いほど素晴らしいと思います。

 

 

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 7年前倒れた鶴岡八幡宮の樹齢千年といわれた大銀杏の後に伸びてきた若木がここまで大きくなりました。この先千年後は、隣に今もある元の老木のように太く大きくなっていることでしょう。

2017.4.1撮影