名作です。

 

時限爆弾型の機器を取り付けられ、タイムリミットまでに謎を解かないと死んでしまうという設定です。デスゲームに似た設定は好きなので、個人的には嬉しかったです。

 

事の真相を申しますと、デスゲームもどきを仕切っていたのは伊東末彦で、西尾を殺害したのは清水麗子です。伊東末彦は清水麗子が犯人と思いたくないから、デスゲームもどきをして、清水麗子の無実を証明しようとしました。

 

認めたくない事実を認める重要性物事を客観視することの重要性を伊東末彦の失敗から学びました笑 人の振り見て我が振り直せですね笑

 

清水麗子は自己利益のためだけに西尾殺害し、伊東を殺そうとしました。正真正銘のクズ野郎です。

 

姿かたちと性格により、峰不二子を思い出しました。髪型も似てますし笑 少しは峰不二子を意識してキャラ作りしたのではないかと感じられます。

 

伊東が「自らの完璧な計画がなくなった」と嘆いていると、コナンがこう語りました。

 

「完璧なんてこの世にはねえよ!」
「絶対どこかで歯車が噛み合わなくなる。そのまま無理やり動かして何もかもダメにするか、一度リセットして正常に戻し、頑張って遅れた分を取り戻すかはその人次第」

「あんたは怖かっただけだよ……リセットするのがな」

 

伊東でいうと、西尾を殺人未遂したけど、そこから反省しリセットする手段だってあったはずです。しかし、伊東は清水麗子の疑いを晴らすために、探偵たちを死の牢獄(デスゲーム)へと誘おうとしたのです。

 

なにか大きなミスを犯したり、悲惨な経験が多いと、無敵の人になりやすいと思います。本作の伊東がまさにそうです。

 

実際には殺人未遂だったのですが、自分が西尾を殺したと思い込みました。この時点で冷静さに欠けています。

 

その後、殺人を犯したと思っている伊東は、失うものがない状態になったので、無敵の人になりデスゲームを開催します。

 

コナンは伊東に「あんたはリセットが怖かっただけ」と指摘します。どうしても悲惨な経験が多いと、自らの手で幸福になれるルートを潰し、修羅の道へ辿る人がいます。私です笑

 

多分私も幸福になるのが怖いんだと思います。なんで怖いのかは説明が難しいです笑

 

しかし、ポジティブな人間関係を長期的に築いていくと、いずれその関係に慣れ、幸福になれると私は感じます。伊東自身の性格も悪かったでしょうが、近くにいた清水麗子の性格がかなり非情です。

 

どうしても人間は周りの人間に影響を受けます。「朱に交われば赤くなる」ですね笑

 

「無敵の人がかっこいい」という風潮が世の中にありますが、過去の悲惨な経験によって自らの幸福を遠ざけようとしている人間が、リセットする恐怖に打ち勝って幸福になろうと踏ん張る方がよっぽどかっこいいと感じました。

 

本作から大きな学びを得ました。感謝します。

 

※ネタバレ注意

 

 

 

 

 

 

 

良作です。

 

心療内科医師の風戸京介が犯人です。外科医師の仁野によってはめられた風戸が復讐する形で、仁野を自殺に見せかけて殺害し、警察の目を騙せましたが、その後警察が本事件を再捜査することになり、警察関係者を殺して回るというのが真相です。

 

本事件から学ぶことはかなりあります。まず風戸京介が元々お人好しの人間である点です。近くにいる仁野がかなり性格が悪いのと、その仁野によってはめられたことにより、風戸も性格が悪くなってしまい、復讐鬼となってしまいます。

 

以下の写真はコナンと蘭に対峙する時の風戸先生です。

 

 

かなり顔つきが悪く、性格も悪そうです笑 

 

風戸先生からすると、「自分は何も悪いことをしていない」と考えるでしょう。結局人間は自分の立場でしか物事を考えられないからです。

 

これは我々にも同じことがいえます。物事を客観視することによって、真実は明らかになるのではないかと私は思います。

 

みなさんも本作を見ている際、風戸先生が悪人に写ったでしょう。しかし、バックボーンを考慮すると、ただの悪人ではないことがわかります。

 

「やられたらやり返す」という言葉があります。その言葉を体現したのが風戸先生でしょう。

 

しかし、その言葉通りに物事にあたった結果、警察関係者も殺すことになっています。何がいいたいのかと申しますと、仁野によってはめられ、左手を怪我した時の風戸先生より、本作ラストの風戸先生の方がかなり立場が悪くなっているということです。

 

「やられたらやり返す」という復讐の行動が、いかに自分にも被害があるかよくわかる作品だと思います。

 

ここで夏目漱石の『こころ』という小説の一部分を紹介したいと思います。

 

「平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。」

 

本作の風戸先生の通常時の顔が以下の写真です。

 

 

完全に善人の顔ですね笑 

 

しかし、完全な善人だと損してばかりの人生になると思います。だから、基本善人ですが、悪人が現れた際はしっかり騙されないよう注意しながら、うまく関係を切るようするのが最善の方法かと思いました。

 

もし私が風戸先生の立場なら間違いなく仁野に復讐したいという思いが強くなりそうですが、そこはうまく感情をコントロールして、仁野とは最低限の付き合いにとどめ、仁野が破滅するのを待つでしょう。実際そうやって行動できるか微妙ですが。。。

 

みなさんも是非、怒りの感情が湧いてきたら風戸先生を思い出すと良いでしょう笑

 

物語の展開としては、ずっと記憶喪失だった毛利蘭がコナンの告白により記憶が蘇り、犯人を痛めつけるという王道の展開をとりました。綺麗な展開といえるでしょう。

 

告白の言葉の内容が、毛利小五郎と全く同じだったというギャグ要素も良かったと思います。

 

全体的に非常に均整の取れた作品だと思います。

 

良作だったと思います。ラストには衝撃の事実が明らかとなります。

 

事件自体のクオリティーは正直低いと思います。宝を破壊するために、福城良衛と福城聖が奔走したというのが事の真相です。

 

しかし、映画館で見たので、迫力でゴリ押しして楽しめたというのが感想です笑 

 

今作の本編はラストシーンといっても過言ではないでしょう。なんと怪盗キッドの父親である黒羽盗一と、工藤新一の父親である工藤優作は兄弟だったのです。

 

だから、工藤新一と怪盗キッドはいとこ同士となります。工藤新一と怪盗キッドの顔が酷似していた理由が本作で明らかになりました。

 

終盤で服部平次が遠山和葉に告白しようとしましたが、また邪魔されました笑 お約束の展開ですね笑

 

事件内容は過去の名作と比べると見劣りしますが、衝撃の事実が判明したという点で評価はかなり上がると思います。

 

だから、位置づけとしては、沖矢昴=赤井秀一が判明した映画『名探偵コナン 異次元の狙撃手』と似ていると思います。

 

主題歌は前作同様、作品に合った素晴らしい曲だったと思います。元々aikoの曲が好きだったというのもありますが笑

 

本作はとても迫力があり、何より久々に名探偵コナンを劇場版で見られたのが嬉しかったです笑

 

大分個人的な感想になりましたが、お許しください笑

 

みなさんは劣等感というものをお持ちでしょうか?私はかなり劣等感を感じていた人間でした。

 

一般的に劣等感を感じてしまう要素をざっと羅列したいと思います。

 

学歴、顔面、頭の出来、貧乏、性格、彼女や彼氏の有無、家庭環境、障害、精神疾患、コミュ障などなど。。色々あります。

 

高学歴の方が優遇されますし、顔面がイケメンや美女の方が人生においてかなり有利です。彼氏彼女の有無に関しては、最も嫉妬が起きやすい事象でしょう。

 

ちなみに申しますと、私は学歴に傷がついており、顔面もブスですし、彼女もいたことがなく、精神疾患持ちです。当然嫉妬や劣等感はありました。

 

嫉妬なんてしたくなく、劣等感も持ちたくありません。私はどうにかして嫉妬という感情に対処しようと試行錯誤しました。

 

チャットアプリでも、いろいろな人達に意見を募り、嫉妬の対処法を教えていただきました。その対処法を以下に記します。

 

  1. 1vs1で考えると、それぞれに優れたところと劣ったところがあるという事実を認識する。
  2. 嫉妬した瞬間に、「努力していない自分が悪い」と考える。(才能に関しては、遺伝の問題なので、自分は悪くないと考える。)
  3. 心のなかで自分が相手に勝っているところでマウントをとる。
  4. 嫉妬を尊敬という感情に変える。
  5. 嫉妬が起きる事象に対して、「これなくてもよくね?」と考える。
個人的には1の方法が自分に有効でした。しかし、人によって合う方法は違うので、自分にしっくりくる方法で嫉妬心を減らせばよいと思います。
 
嫉妬の半分は自己嫌悪だという話をYouTubeで拝見しました。この自己嫌悪をいろいろな劣等感が生じる事象にあてはめて生きたいと思います。
 
学歴の場合:「低学歴である自分が嫌だ。」
顔面の場合:「ブスである自分が嫌だ。」
彼氏彼女の場合:「彼氏彼女がいない自分が嫌だ。」
障害の場合:「障害を持っている自分が嫌だ。」
 
ざっと並べてみました。自己嫌悪が嫉妬の原因の場合、ではどうすればいいのか。私は考えた結果、自分の長所や短所、双方好きになるという手段を思いつきました。
 
短所が多すぎる人が嫉妬に駆られ、おかしくなってしまうのだと思います。ですので、短所を受け入れた上で、その短所を好きになれば解決すると思います。
 
学歴の場合:「低学歴である自分が好きだ。」
顔面の場合:「ブスである自分が好きだ。」
彼氏彼女の場合:「彼氏彼女がいない自分が好きだ。」
障害の場合:「障害を持っている自分が好きだ。」
 
しかし、こう考えるのはかなり難しいと思えます。私もかなり苦労しました。
 
そこで、私は自分の短所や自分の負の感情をすべてサラの用紙に書き出しました。これはかなりきつい作業でした。
 
書いている最中もしんどかったです。しかし、しんどいからこそ乗り越えた時の成果はかなり大きいものでした。
 
すべて書き出してパッとその用紙を見たときにこう思いました。
 
「案外嫌いじゃないな。この人生。なんか自分らしいな。」
 
私はこの瞬間に、長所も短所も含めて「自分らしい」と考えた上で、自分のすべてを好きになることができました。その結果、嫉妬がかなり減りました。
 
とある障害者の方がこう発言しておられました。
 
「できなくてもいいじゃん。」
 
この思考はある意味最強だといえます。どんだけイケメンや美人で、金持ちで、高学歴だとしても、上には上がいます。
 
そして、自分の短所を受け入れない限り、どれだけハイスペック人間だとしても、マウントや自慢を繰り返す末路になると思います。
 
そのためにはプライドをぶち折ることが重要だと感じました。
 
日本は完全に学歴社会です。そういったものさしで自分という人間を測られます。
 
その際、劣等感を感じることがあるでしょうが、「自分はこの価値観で生きている」という自負があれば、人間としてブレることはないと思います。
 
お笑い芸人のカズレーザーさんがこうおっしゃっていました。
 
勝ち組負け組を意識してない人が本当の意味の勝ち組」
 
非常に刺さりました。
 
ここまで書いた文章はあくまで私の価値観です。私の価値観に共感していただけるのであれば、その価値観をぜひパクっていただいて、その価値観を礎に生きていただけたら幸いです。
 
この価値観に賛同していただけない人も勿論いるでしょう。私はその人達にどうこう言うつもりもないですし、間違っているとも思いません。
 
だって、「正解を押し付けたら不正解」ですから。
 
それでもなお、私の意見が参考になったのなら幸いです。

 

個人的にかなり好きな映画です。

 

被害者家族と思われた青柳悠人は、過去に吉永友之を友だちとともにいじめたいた加害者であったり、加害者と思われた八島冬樹は被害者であったりといった転換がなされています。これはミステリーでよく使われる方法です。

 

水泳部顧問が「うそをついてごまかす」ことを教えていなければ、杉野が青柳武明に嘘をつき、その上で殺すことはしなかったでしょう。青柳悠人も薄々水泳での事件と自分の父親が殺された事件が繋がっていたことはわかっていたと思います。

 

しかし、根本的な問題から目をそむけ続けたせいで、問題は肥大化していきました。自分に非がある問題と向き合う作業は非常にしんどいでしょう。

 

しかし、その作業をしていないと、いずれさらに大きな災難に見舞われることを本作で示しています。「現実逃避」というものを徹底的に否定している作品だと感じました。

 

ここからは作中のセリフを紹介していきたいと思います。

 

「事件ってのはガン細胞のようなものだ ひとたび侵されたら苦しみは周囲に拡がる」by 加賀 恭一郎

 

事件に関わった人だけの問題だったものが、その人の大切な人にまで問題が及ぶことを加賀恭一郎は示しています。実際、青柳悠人の妹は自殺未遂を起こしています。

 

個人的に一番好きなセリフは以下のものです。

 

「世の中甘く見ているようなら安心だ どこにも光が無いと絶望しているより」by 加賀 恭一郎

 

世の中にはネガティブな情報がはびこっています。不登校、リストラ、自殺、いじめ、離婚、詐欺、逮捕、ハラスメント。

 

ネガティブな情報の方が広まりやすくなるらしいです。だから、みなさんにネガティブバイアスがかかるのは、当たり前だといえるでしょう。

 

そんな世の中で、どんな状況になっても一筋の希望を持って生きる人が増えてくれたら私は幸いです。私も希望を持って生きようと思います。

 

 

 

新魚人海賊団であるホーディ・ジョーンズは、自分たちが人間たちから被害を被っているわけでもないのに、人間たちを毛嫌いし、報復しようとします。性格は遺伝要因と環境要因によって変わるといいますが、ホーディ・ジョーンズの場合、環境が彼を復讐マシーンへと変貌されたのでしょう。

 

しらほし姫は、母であるオトヒメとの約束を守るために、ホーディ・ジョーンズがオトヒメを殺した事実を周りのみんなに伏せます。親のいうことを聞く良い子という見方はできますが、個人的には親のいうことに従わず己の意志でみなに事実を言うべきだったと思います。

 

よって、しらほし姫はかなりの理想主義者であると見受けられます。しかし、道徳的にはしらほし姫は全く悪いことをしていないので、みんなに責められることはありませんでした。

 

その後は、各々麦わら海賊団のメンツが2年間の修行の成果を発揮します。個人的に修行の成果を発揮するシーンは結構好きです。

 

ルフィのいい意味での能天気さは私も見習いたいものです。

 

 

 

 

 

眉目秀麗、頭脳明晰である主人公の高嶺 清麿。その才能のおかげで周囲からの嫉妬にさらされることになります。

 

嫉妬する周りも問題ですが、清麿も周囲を見下し他人と関わろうともしないので、双方に問題が起きていたと思います。周りに馴染もうとする心掛けは清麿に必要かと思われます。

 

それに加えて、清麿には笑顔が足りません。ムスッとしています。表情を朗らかにする必要があるでしょう。

 

しかし、清麿が銀行強盗犯を退治したことにより、清麿が周囲に馴染んでいきます。立ち回りとかではなく、清麿の中身で周囲の反応が変わった良いシーンです。

 

その後は、人間の根幹の心意気の部分に触れる描写が続き、熱いバトルが展開されています。

 

 

 

 

 

非常に刺さる内容の作品です。

 

真実と架は恋人同士の関係です。二人は真逆の人生を歩んできました。

 

真実は過干渉の親の元、育ってきました。何事も親の言う通りにしなければいけないという強迫観念にとらわれていると思います。

 

そして、付き合ったことのある人数も少ないです。

 

架は非常に自由に育てられており、たくさんの女性とも付き合ってきました。

 

私は完全に真実側の人間です。だからこそ、非常に共感できる部分が多かったです。

 

「傲慢と善良」というタイトルの伏線回収が非常に良かったです。自己評価が高いことによって、相手に高い条件を求める傲慢さと、親の言う通りに生きてきた良い子ちゃん部分の善良さが混在しているというのが本書のテーマです。

 

一億総中流という言葉があります。日本の大多数の人間が自分を中流階級だと感じているということを表してる言葉です。

 

そのせいで、日本では嫉妬が起きやすく、なおかつ傲慢さと善良さを両立させる人間が多くなったのではないかと感じます。

 

だから、海外で本書を翻訳して発売すると、日本ほど刺さる人はいないと思います。

 

では傲慢さと善良さを両立させている人間はどうすればいいのでしょうか。

 

その対処法みたいなものは本書に記載されていなかったので、個人的に考察していきたいと思います。

 

まず、自分自身が傲慢さと善良さを兼ね備えている人間であることを認める必要性があります。己の負の部分と向き合うことは非常にしんどいですが、やったほうが確実に自己成長につながるといえます。

 

その上で傲慢さについては、単純に自分を客観視すればいいと思います。本書ではこう指摘されています。

 

「みんな、自分のパラメータの中のいい部分でしか勝負しないんだよ。」(p.156)

 

自分の劣っている部分に関しては目をつぶり、自分の良い部分と相手女性や相手男性を比べてみんな合コンしたり、婚活したりしているといえます。

 

私は合コンすらしたことないので、なんともいえませんが、本書の指摘は事実かと思われます。

 

本書の指摘のような行動をしていると、以下のような思考になります。

 

「なんで自分だけ彼氏・彼女いないんだよ。相手の見る目がない。」

 

はい。完全に私のことですね笑 でも、共感者はいるのではないでしょうか。

 

自分を過大評価せず、客観的に自分を見直して恋愛していきたいものですね笑

 

次に、善良さについてです。

 

これについても本書で指摘されています。

 

「だけど、真面目でいい子の価値観は家で教えられても、生きてくために必要な悪意や打算の方は誰も教えてくれない」(p.162)

 

過干渉の親を持っている場合、親が前もって子供の失敗を取り除きます。しかし、これが非常に悪手です。

 

日本人全員が真面目で良い子の世界ならいいですが、そうではありません。悪意を持った人間は必ずいます。

 

というか、悪意を持ったことのない人間なんてそもそもいません。ということを念頭に置いておけば、人に期待せず立ち振舞いをすることができるでしょう。

 

誰も教えてくれないというより、そもそも打算や悪意は教えるものではありません。自分一人で環境に向き合い、作中でいうところの悪意と打算の塊である架の女友達と関わることによって、悪意や打算を学んで行くのだと思います。

 

だから、過干渉の親を持つことは非常に危険だといえます。「可愛い子には旅をさせよ」ということわざは、言い得て妙だといえます。

 

こういったことを念頭においていくと、傲慢さと善良さは自分で多少調節できるものではないでしょうか。

 

それに加えて、前半は架が傲慢、真実が善良でしたが、後半は架が善良、真実が傲慢さを発揮しています。

 

たくさん経験を積んできている架にも善良さがあるし、親の庇護下で育ってきた真実にも傲慢さがあることを示しています。

 

真実は架と結婚するために「ストーカー被害にあっている」と嘘をつきます。これが真実の傲慢さと打算の部分です。

 

しかし、こうした打算の部分は、すぐに架の女友達にバレてしまいます。この部分は読んでいて非常にしんどかったです。

 

ラストシーンで架と真実は結婚式を挙げるのですが、真実が二人きりで式を挙げようと提案し実行します。

 

親の意向を無視し、真実自身の善良さを脱ぎ捨てた良いシーンだといえます。

 

本作は日本人特有の心理をついた良作だといえます。

 

 

 

 

非常に面白い考え方をする本です。

 

職場にいるときの自分、恋人といるときの自分、友達といるときの自分、家族といるときの自分。すべて違う顔を持っていることに違和感を持っている人はいませんか?

 

私は恋人がいたことないので恋人に関してはなんとも言えませんが、職場にいるときの自分、友達といるときの自分、家族といるときの自分は全部違う人間になっている感覚があります。この感覚に違和感を持っていました。

 

しかし、本書を読むことによって、「場によって、それぞれ違う人間でいい」と割り切ることができました。本書ではそれぞれの時の自分を分人と評しています。

 

しかも、それぞれの自分全てが本当の自分だと本書で述べられています。

 

初対面の方に接する時の自分を「社会的な分人」と評しています。そこからその人と仲良くなったりすることで、社会的な分人から個人的な分人へと変化するらしいです。

 

初対面の方との最初の会話が死ぬほどつまらないと私はずっと感じていました。天気の話、職種の話、相手の趣味の話などなど。

 

しかし、これはまだ社会的な分人をやっている最中なんだと割り切ることによって、少しは楽に会話をできるかもしれません。

 

一連の変化の流れとしては、以下の通りらしいです。

 

社会的な分人→グループ向けの分人→特定の相手に向けた分人

 

ちなみに、八方美人な人はある意味分人化できていないと書かれています。なぜなら、すべての人に対して同じ自分で接しているからです。

 

これは分人化していないといえます。誰に対しても同じ態度で通じると勘違いしている人たちらしいです。

 

確かに一人ひとり価値観は当然違うので、好みのタイプも変わってくるでしょう。

 

よって、八方美人な人はグループ向けの分人はできているのですが、特定の相手に向けた分人化ができていないことになります。こうなってしまうと、「自分だけじゃなく、みんなに対してあんな態度なのか!」となるらしいです。

 

これだと知り合いはできても、友達や親友はできないことになります。人間はやはり誰かに特別視してもらいたいという感情があることの証明でもあります。

 

私はコミュニケーションが苦手です。その場合、話術の不足ではなく、相互の分人化の失敗なのではという考察がなされていました。

 

非常に刺さりました。無理に個性を出そうとする癖が私にはあります。しかし、それは逆にいうと勝手なペースで分人化を進めようとしているだけなのではということが書かれていました。

 

それでは相手が勘違いして当然です。私がいつも誤解されてきた原因がようやく明らかにされました笑

 

ここで私の敬愛するアニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の平塚先生のセリフを導入したいと思います。

 

「考える時は、考えるべきポイントを間違えない事だ。」

 

私の場合、好き嫌いがはっきりしているタイプなので、八方美人の問題に関してはあまり考える必要はないでしょう。しかし、無理に個性を出して分人化に失敗している面に関しては考慮すべきかと感じました。

 

自分の痛いところをつかれるのは正直しんどいです。なるべく考えたくありません。しかし、痛いところだからこそ、しっかり問題と向きあうと自分に大きな変化が巡るでしょう。

 

映画『羊たちの沈黙』でもこういっています。

 

「苦しみ、もがき、痛み痛みを愛せ(HURT, AGONY, PAIN, LOVE IT)」

 

私はこれからも痛みを愛して、しっかり問題と向き合っていきたいと思います。

 

そして、個性は分人の構成比率によって変わってくるという文も刺さりました。それぞれの人間の個性が固定されているものではなく、常に変化し続けているという考え方は非常に新鮮でした。

 

世の中には騙したりする人間がいます。そういった人たちは常に相手の複数の分人に公開されている、つまり、違った文脈で他の相手に伝わる可能性を考慮すると騙さないようになると書かれてありました。

 

つまり、事実に尾ひれがつくという状態になります。非常に納得しました。

 

非常に多くの学びを得た本となりました。感謝します。

 

 

 

 

今日は久々に昼に外食に行きました。とんかつ定食を一人で食べに行きました。

 

久々の外出だったので、歩くだけで疲れました笑 一応朝に散歩はたまに行ってはいるのですが笑

 

気分転換したかったので、2300円の定食を頼んでみました。正直なところ、マックを食べても、2300円の定食を食べても、どっちも美味しいのだから、幸福度は変わらないと思っていました。

 

しかし、その定食屋は雰囲気もとても良かったです。おしゃれな空間でとんかつをあげてくれました。自然と自分の心も洗われました。

 

かけた金銭の額で幸福度は変わらないと勝手に思っていたのですが、お店の雰囲気と定食の味により私はとてつもない幸せを感じました。不思議ですね、幸せって笑

 

いつも嫉妬憎悪にとらわれている自分なのですが、隣の席にはカップルがいたのにも関わらず全く嫉妬しませんでした。嫉妬というものは劣等感からくるものだと思っていたのですが、そうではなかったようです。

 

劣等感があったとしても自分が幸せに包まれていたなら、嫉妬や憎悪は起きないようです。意外な発見でした。まさか定食屋にいるカップルから学びを得るとは思いませんでした。定食屋のカップルに感謝です。

 

とんかつ定食はとても美味しかったです。上品な味わいでした。私、食レポ下手ですね笑

 

とにかく洗練された味でした。今まで「食事は腹を満たせばいい」とばかり思っていたのですが、そうではなかったようです。

 

定食に2300円の価値が付与されているのではなく、定食の価値にお店の雰囲気や客対応を含めた代金が2300円であることを実感しました。

 

その後、父親とドライブに行くことになりました。これも気分転換の一貫です。

 

イメージ画像載せときますが、実際は住宅街を走ってます笑

 

 

私は生活リズムが崩れているせいか、徹夜していました。ですので、終始気分が悪く口数もすごく少なかったです。父親には申し訳ないことをしました。

 

車で日用品を買いに行っていたのですが、途中で吐きそうになってしまい、最終的には嘔吐しました。徹夜でとんかつ定食食べたせいですね笑

 

ずっと吐きそうだけど吐けない状況が続いてました。こういう時って人生で一番いやな時間帯ですよね笑

 

その時感じたのが、「嫉妬している状態は幸せだ」ということです。吐きそうだけど吐けない状況の時ってよほど不幸な状況なんですね笑

 

その後、とんかつ定食分すべて吐いてしまいました。2300円が塵へと消えました。

 

すべて吐いたら吐いたでかなり楽になりました。

 

吐いたあと自宅に戻るため、父親が運転してくれました。終始私は無言で外の景色を見つめてました。

 

外には公園や川、山などがありました。

 

その時、私は漫画『ぼくらの』の名シーンを思い出してました。

 

漫画『ぼくらの』では簡単にいうと、ロボットを操縦する人間がいて、そのロボットで相手と戦います。しかし、その操縦する人間は相手に勝っても負けても最後死ぬことが確定しています。

 

残酷な設定の漫画です。その操縦士であるコモという人間がロボットに乗る前日に街を巡るシーンがあります。

 

その際にコモが街に見える様々な景色を見渡します。

 

川、太陽、空、木、草、月、さえずり、夕焼け、自宅、お母さん、お父さん、先生、友達、虫の音。

 

「それらのすべてが美しく、そして私は多幸感に包まれている」と形容するシーンがあるんです。

 

そのシーンを思い出しました。その影響で、私も多幸感に包まれました。「だから何?」という話をしてすいません笑

 

そして、自宅に着き父親に感謝の言葉を述べ、私は今ブログを書いています。