集合研修の最終日、ついにプレゼン発表。
3人1組での発表で、時間は45分。



そしてその時が・・・!
一度もリハーサルしていないので不安材料だらけであるが、やるしかない。
部屋をノックして入室し、名刺交換するところから始まった。


さあ、本番は始まった!

いけるか!?

しかしドテンパリまくりでカミカミの喋りをかましてしまいました・・・

結果、他のメンバーにフォローしていいただくという不始末。

すまぬ、メンバーの皆様!



でも、とにもかくにも発表は終わったのだ。
前日滅茶苦茶きつかったが、そのせいか終わった時の爽快感はたまらなかった!
気付けば、頭を指でグリグリしながら「最高にハイッ!ってヤツだぁああ!!」

WRYYY~!!






しかし、今回の研修は本当に勉強になった。
考えのアプローチの仕方の一つを学べて、非常に気付きも多かった。
こんなにもプレゼンや対話の実演を短期間にやりまくるのは今まで無かったので、キツイ半面、充実した5日間でした。


一週間という、今までの集合研修では一番長い期間。
一緒に受講した他の会社の人とも関係が築けて、勉強以外でも実りの多い5日間でした。
そして、営業職を選ばなくてよかったかも・・・と実感した5日間でもありました。




137年前の5月11日、函館にて一人の男が銃弾に倒れました。

名は土方歳三、新撰組の副長として、佐幕派の志士として、激動の幕末を駆け抜けた男。



今日は土方歳三の命日なんで、土方歳三について語ってみよう。

ボクは土方歳三が大好きです。

近藤への義を通した生き方に惚れています。

最後まで諦めない精神に憧れます。

繊細な一面があったところに激しく魅力を感じます。

死ぬまで信念を貫いた姿に敬意をはらいます。

信念を貫きつつも合理主義的で、理にかなったものは受け入れる柔軟性に感心します。

では、以下で詳しく語って生きたいと思います。



土方歳三について、一般的にどういうイメージをお持ちでしょうか?

マンガや小説などに登場する際は、主に2パターンの描かれ方があります。

一つは「燃えよ剣」など多くの作品で描かれる、死ぬまで戦い続ける冷徹な一面を持つ戦闘狂のイメージ。

確かに「鬼の副長」と呼ばれるほど、新撰組を強固な組織にすべく隊の規律維持に勤め、非情な措置をとった面は否めないでしょう。


土方歳三が作った、通称「局中法度」という新撰組の掟。

 1、武士道に背くようなことはするな

 2、脱退は許さない

 3、勝手に金策をするな

 4、勝手に訴訟を取り扱うな

 5、私事の戦いは許さない


新撰組にはこの5つの決まりがあり、罰則は全て切腹です。

違反者にはこの掟を情け容赦なく執行する副長の姿に、隊士達は恐ろしがりました。

なにしろ、新撰組が京都で活動していた時期における隊士の死因の半分以上が切腹・斬首。

やがて歳三についた呼び名が、「泣く子も黙る鬼の副長」である。
なぜ歳三はこんなにも厳しい罰則を作ったのでしょうか?



それはひとえに新撰組隊士のほとんどが、もとを正せば浪人や農民の出身であったためです。

いうなれば、社会のはぐれ者や無頼の集まりでした。

それだけ有象無象が集まれば、一歩間違えれば烏合の衆と化し、瓦解してしまう可能性を孕んでいます。

だからこそ、“恐怖”によって隊士を抑制し、規律維持に努めたのかもしれません。


また、局長の近藤勇も歳三も農民の出身です。

武士の生まれでないからこそ、心構えだけは武士に負けない精神でいようとしたのでしょう。

厳しい戒律で自分たちを律して、武士にあるまじき行動を厳しく戒めたのでしょう。

この時代はどれほどの腕力や知恵、才覚があろうと決して乗り越えられない“身分の壁”というものが厳然とあったのです。

だからこそ、心の面でその壁を少しでも取り払おうとしたのかもしれません。

歳三が最終的に武士になることができたのは、そうした厳しい決まり事で自分達を律していたからではないかと思う。




しかし歳三は鬼の副長なんて言われますが、本当に血も涙もない鬼だったのでしょうか?

土方歳三がマンガや小説で描かれているもう一つの描かれ方。

それは「新選組血風録」で描かれたような、私情を押し殺して鬼を演じ、心の中で悩み苦しむという人間的な弱さをもった土方歳三。



局中法度を作ったのは、烏合の衆に過ぎない新撰組を強固な組織に仕上げるためであるといえます。

歳三は自分が「鬼」と呼ばれ、隊士から蛇蝎の如く忌み嫌われる役割を甘んじて受けることによって、局長である近藤勇を引き立たせていたのではないでしょうか?

汚れ役を自分が一手に引き受けることで、近藤や新撰組に対する不満までも自分ひとりで抱え込んで組織の崩壊を防いでいたのかもしれません。



京都を追われ、逆賊として各地を転戦するようになってからの歳三について、函館戦争まで付き従った新撰組隊士の中島登は、

「温和で、母のように慕われてた」と語っている。

部下達に自ら酒を馳走したというエピソードも残っています。

また京都にいた頃はほとんど笑わなかったそうですが、函館の頃になると笑顔もよく見せるようになったそうです。

この頃になると隊士を縛る必要もなくなって、やっと元来の自分らしさを出すことが出来るようになったのではないかと推測できます。



歳三が鬼を演じた理由。

それは義兄弟の近藤勇の信念や行動を遂行する際の危地を補佐するため。

新撰組では隊士の不満を一手に受け、組織の瓦解を防いでいた。

だが近藤の死後は、もう鬼を演じる必要がなくなったのだ。

そして幕府がもはや敗北が必至であることからの諦めの念があるのだろう。



歳三が函館戦争の時に言っていた言葉にこんなものがある。

「このまま敵に投降したらば、地下の近藤に顔向けが出来ない。」

つまり、近藤への義を通すことこそ、歳三の生き方なのである。

しびれる!




そして鬼の副長なんて呼ばれている反面、俳句が趣味という繊細な一面を持っていた歳三。

現在も彼の残した俳句がたくさん残っているのですが、これがまた結構おもしろいんですよ。



たとえば、

 「うぐいすや はたきのおとも ついやめる」

 「梅の花 一輪咲いても 梅は梅」


なんて按配で、正直素人目から見ても、お世辞にも上手くないのが非常にほほえましい。

鬼の副長とまで言われてる人が、実は俳句なんて繊細なものが好きでしかもヘタ・・・なんとも人間らしさを感じるじゃないか。

しかも、何気に恋の歌も詠んでるし。

 「知れば迷ひ 知らねば迷わぬ 恋の道」

ってさ。

そういえば、歳三にはこんな恋愛話が。



下の写真を見るとわかると思いますが、歳三は今の美的感覚から見ても非常に男前です。

土方義豊


当時も京都では芸妓さんに非常にモテたらしく、ラブレターをよくもらっていたそうです。

故郷への手紙に、

「京都では自分はこんなにもモテているぞ!」

という手紙とともに、もらったラブレターを大量に同封していた、なんてエピソードも。

ああもう、義に殉じたカッコイイ男なのに、なんてかわいい一面を持っているのだ。

そこにしびれる、あこがれる!


組織のため、義兄弟の近藤勇のために、涙して鬼を演じた男、死に急ぐように駆け抜けた35年の人生。

及ばずながら、土方歳三のような男に少しでも近づきたいと思う俗物であった。



あ~長い、やっぱ誰も読まねーんだろうね。

しかもまだまだ語りつくせない、表現しきれない。

自分の文才の無さに心底ウンザリだ。




そろそろ中央線に飛び込みたくなってきた4日目。

もはや気合で乗り切るしかありませんな。


この日は、各班でパワーポイントつくり&発表の準備(発表は次の日)

「ある企業の業務分析をして業務改善案のパワーポイント作成」という事前の課題がありまして、各自が作ったパワーポイントや分析をまとめるとい按配。

やはりここではIBM本体人が大活躍!

極めて論理的で、問題の根本原因まで「何で?何で?」と落とし込み、何が必要かを分析。

アホで知恵の回らぬ俗物は、この時点で取り残された感が・・・

とにかく問題の根本まで立ち返るボク達の班は明らかに他の班よりも話し合いに時間を費やしていた。

そのせいか、パワーポイントつくりに取り掛かるのが格段に遅かったです。


ハッキリ言っていくら時間があっても足りない、そんな感じだった。

話し合いからパワーポイント作成、発表準備を一日でやれという、電波少年的な無茶なプログラム。

間に合うわけが無い。



定時を過ぎても、誰一人帰る者はいなかった。

ご飯を食べる暇も無く、ただひたすらにパワーポイントを作成したり発表の段取りをする。

作業能率が下がりまくりですが、皆が皆、夜遅くまで懸命に取り組んでいた。

皆、いい発表にするために考え、妥協せずにパワポ作りと発表準備に追われていた。


かくいうボクもアホなりにがんばり、この日はじめて終電で帰宅。

ひたすら疲労を感じ、かえって即効で寝てしまった。

次の日は発表、いけるのか・・・?



前日思いっきり凹まされ、心は既に自殺スポットさがしにシフトしつつあった2日目。

この日は講義形式メインの研修でした。

物事を考える段階や手法を学び、受講者同士でその手法を試して営業の演習を行なうという感じのプログラムでした。

比較的面白い、刺激的な一日でした。

でも、これもまた次のステップの序曲、偽りの中休みに過ぎませんでした・・・

3日目は、2日目に学んだ手法を軸にして、お客さんの所に営業に行くという演習を行ないました。

上京の説明が書いた紙を受け取り、席次が隣の人とコンビを組む。

そして与えられた状況から、何をゴールに定めてどういう攻め方をするか、などを打ち合わせる。


そしてついに実習!

人見知り&引っ込み思案の俗物は、基本的には喋りを相方に任せ、一歩引いた立場で要所要所フォロー的な発言。

一番最初のお客さんへのつかみはボクがやりまして、それはまあまあの評価。

でも全体的には少々押しが弱く、自分達の目標の段まで話を詰めることはできませんでした。


本当に人とのコミュニケーションは難しい。

仕事の話だけでは、人の心を開かせて話をするのは不可能だし、さりとて世間話のような話ばかりではビジネスはできない。

絶妙なサジ加減って究極的には決して分からないのでしょうね。

だって相手が人間なんだから、相手の感じ方次第だもん。



あ~、人と接するのって難しい!

ひきこもって一人でいるほうがよほどラクやわ。

でもそれが出来ないのが社会人の悲しいところ・・・




ゴールデンウィークが終わっちまった・・・



現実逃避のゴールデンウィークも果敢なく終わり、また厳しい現実に戻っていかなけりゃならなくなってしまった・・・

やれやれ、すっかり五月病だな。

しかも連休明けで集合研修、 さらに大量のIBM本社の新入社員が参加するという嬉しくない特典付き。

マジ勘弁ですわ・・・


ここから先は、ハッキリ言ってボクの鬱憤晴らしに過ぎないのでつまらない事請負です。

帰るなら今のうちですよ?





おや、帰らないのですか?

アナタも酔狂な方ですね、よほどの物好きなんでしょうか?

まあいいや、では始めましょうか。





事前準備でパワーポイントを作成し持参、それを発表するというプログラム。

しかもその発表をビデオ撮影するという親切機能付き。

うん、余計なお世話です!

そして席次が一番後ろだったためか、全員のビデオ撮影を担当することになった俗物。

そして、席次が一番後ろだったために発表も一番最後になるという悲しい事実・・・



次々発表が展開され、予定より時間が押してきました。

そして最後のボクの発表の段に至っては、周りから「早く終われ。」ムードが漂う始末。

たしかにボクの番のときにはもう既に終了時刻間近ですよ。



そんな殺伐とした中でのプレゼン。

詳しく言うまでも無くグダグダ&ボロボロ。

あげくクラスマネジャーに若々しさが足りないと真っ向否定。

そうやって凹まされて一日目は終わった。




This is only the beginning・・・



まだまだ悪夢は続きます・・・

「ここは本当に京都なのか?」

開口一番、ボクはそう言ってしまった。



5月5日、ゴールデンウィーク3日目。

まだまだ世間は大型連休の真っ最中、京都各地の観光スポットは賑わいを見せ、洛中には観光客があふれかえっています。

にもかかわらず、この日ボクが訪れた場所はシンと静まり返り、人影もまばらであった。

この日ボクが訪れた場所、そこは加茂であった。



“京都府相楽郡加茂町”、これが加茂の正式名称らしい。

奈良県との県境付近にある極めてのどかな街である。

加茂駅の駅前には人もほとんどいない状態で、バスも1時間に1本しか走っていないという塩梅だ。

ハッキリ言ってお世辞にも発展した街とは言い切れない場所である。

なぜボクはこんなところに来たのだろう?



「加茂は歴史マニアは必ず訪れる名所ォ!」

加茂出身のYさんは鼻息を荒くして、度々そうおっしゃられていた。

たしかに加茂は平安京以前は数年間、“恭仁京”との名の下に都だった時期がある。5年ほどですが。

そのため、それに関する遺跡も残っているらしい。

なるほど、歴史好きを公言して憚らない厚顔無恥な俗物には、魅力的な街かもしれない。

天気も非常に良く、行き先決定に窮していたので、この日は加茂に行ってみようと思いました。



加茂出身のYさんを水先案内人に加茂に遠征してきたわけですが、話に聞いていた以上に田舎で少々驚きました。

さんざんボクの故郷は田舎だ!とののしっていたが、加茂人に言われるのは心外だな・・・と感じましたね。



JR奈良線に乗り、昼過ぎに加茂駅に到着、そこからバスに乗り岩船寺へ。

バスは乗客もほとんどいない状態で、イニシャルDを彷彿とさせる峠道をグングン登っていく。

そしてまずは岩船寺に到着、朱色の三重の塔と本堂の四天王像を拝観。

のどかで混んでいないのでゆっくり見ることができた。

雰囲気もいい感じで、非常にワビサビのある名所であった。


岩船寺を見学した後、浄瑠璃寺を目指し歩き出す。

どうやらこの付近はハイキングコースらしく、舗装もされていない山道をひたすら歩き回りました。

天気が良く、木々の青々とした姿がマイナスイオンをこれでもかというくらいに発散していた。

ああ、癒される・・・



岩船寺から歩いて小一時間、浄瑠璃時に到着。

浄瑠璃寺は中央に池、右に本堂、左に三重塔を配置していて見た目にも美しい寺であった。

紅葉の季節に来たらば、さぞかし美しいのだろうな・・・

本堂内では四天王や不動明王、阿弥陀如来などが安置されていた。

本堂内は、障子から差す薄明かりとロウソクの頼りない明かりで、堂内はほの暗く空気もヒンヤリとしていて、静かで独特な雰囲気であった。

そういったところで見る仏像は、非常に迫力があり荘厳である。

ボクはそういう荘厳であったりワビサビを感じるものが大好きだ。

これだから寺巡りはやめられない。




浄瑠璃寺を出ると夕方も近くなり、バスも終わってしまうので早めに帰ることになりました。

帰りの電車、晴れた山の中をひたすら歩き、花粉を大量に吸ったためか鼻水が止めどなく流れて往生しました。

今年はほとんど花粉で苦しまずに済んでいたのに今更・・・

私もよくよく運のない男だな。






黄金週間2日目

黄金週間中はずっとYさんの家に居座り続けて京都観光に基点にしてしまっています。



2日目は昼過ぎまでダラダラ。

どこに行こうか?迷いまくりの優柔不断コンビ。

結局、ボクの希望をゴリ押しして蓮華王院(三十三間堂)に行くことにしました。

チャリンコで二人乗りして七条通を東へ。

天気が非常に良くて気温も高く、ジャケットを着るのが煩わしかった。



蓮華王院。

正面の柱間が33あることから“三十三間堂”と通称される、平清盛が造進したお堂。

800年以上の歴史があり、国宝にも指定されている京都の定番観光スポットです。


1001体の千手観音と風神・雷神などが安置されている本堂の荘厳な雰囲気がたまらなくイイ!

ワビサビがあるもの、いぶし銀なものが大好きな俗物にとってここは聖地である。

最高に興奮する、魂が躍動する!

ほの暗く、ろうそくの頼りない明かりが唯一の照明ってのもいい雰囲気である。

この薄暗さが、仏像の迫力をより強調する効果を発揮するのだ。

雷神・風神、四天王・・神将や天などの仏門の守護者の像は、非常に筋肉の描写がリアルで躍動的なポージングをしていて見ている者を飽きさせない魅力を持っていると思います。


ところで、ホントに蓮華王院で宮本武蔵と吉岡伝七郎の決闘が行なわれたのかな?

どうもフィクションっぽいけど・・・



ま、Yさんはこんなところつまらなかったでしょうけどね。

でもいいんです、ボクの趣味がたとえ誰にも理解されなくても・・・



蓮華王院を見学して出てくると、日も傾きかけていていました。

このまま帰るのもなんなので、鴨川の河川敷でちょっとタムロしてから家路につきました。



夕飯は近くのラーメン屋にて。

前日夜、Yさんの奇怪な料理を喰らわされて痛い目にあいましたから、あれは正直もう勘弁っす。

その後は初めて小川珈琲でコーヒーなんぞを楽しむ。



う~ん、京都らしいねぇ~




俗物の黄金週間一日目。


昼過ぎに新幹線に乗って上洛、7時頃に京都に到着。

久方ぶりの京都、胸が熱くなった。

1ヶ月前にお別れしたばかりなのに、こんなにもはやく上洛してしまうとはボクもヤキがまわったものだ。




その夜、ボクはあるところに向かった。

西大路七条のすき家前、そこにアイツはいた。

ボクが京都を去って1ヶ月以上もずっとそこにいたアイツ。

雨や風に耐え、ただひたすらにボクが帰るのを待ち続けたアイツ。



そう、アイツとは・・・

京都時代のボクの自転車“銀輪2号”であった。

京都を去る際、始末にカネがかかるのは嫌で路上に放置していった、ボクの京都での移動の相方。

1ヶ月以上も撤去されず、ボクが放置した時の姿のまま、銀輪2号はそこにいた。

恐る恐る鍵をさしてみる。

カシャッという音とともに、銀輪2号の封印は解かれた。



銀輪2号に乗り続けて約3年、カゴはひび割れてブレーキはほとんどきかない、ベルも破壊されている。

自転車としての性能は著しく低下していますが、愛着があるので手放すことなどできません。

愛しています、銀輪2号!

一緒に京都市内を走り回ったボクの大切な相方です。




・・・だったら放置して行くなってハナシですね。

すいませんでした銀輪2号さん、ヅラとって謝りますんで許してください。





ようやく研修の課題が一段落しました。

これでとりあえずは黄金週間を謳歌できそうです。

もうかなり嬉しいです!

んっん~、鼻歌のひとつも歌いたい気分だ!

1年間で30センチ爪が伸びたときの吉良吉影ぐらいの高揚感、もう誰もボクをとめることはできない!

最高に「ハイ!」ってやつだアアアアアアハハハハハハハハハハーッ!!

明日からの黄金週間、とりあえず上洛します。

アホ面さげて洛中を観光してまわるつもりで、非常に楽しみです。

4年も京都に住んだのにまだ観光かと呆れられそうですが、それくらいボクは京の町が大好きだ。

1ヶ月振りの京都、どこに行こうかな・・・

連休明けからは集合研修が5日間続きます。

しかもIBM本体の進入社員との集合研修なので、この間の研修のようにまた萎縮するでしょう。

やつらは頭がキレすぎて、ボクのようなボンクラはまるでついていけない。

それを思うと今から実に憂鬱ではありますが、せいぜい京都で現実逃避してきます。

そしてこの黄金週間が終わる頃にはすっかり五月病にかかっていること請負です。

連休が明けて、全く使い物にならなくなっていても、こんなのを雇った会社側が悪いということで納得していただきたいですね。


では、アリーヴェ・デルチ!

「日本人として恥ずかしくない心構えでいたい。」

俗物の今日の感想です。

偶然日本に生まれ、平和であることが当たり前の時代を生きている私達。

飽食で食べ物があふれかえり、生活習慣病にかかる日本人が急増する一方で、アフリカや北朝鮮では食糧難による飢餓で亡くなる人も大勢います。

歯車がほんの少しずれていたら、もしかしたらボク達がそうやって死んでいてもなんらおかしくはなかったのでしょうか?

世界第2位の経済大国・日本。

ここまでたどり着けたのは、我々の祖先達の連綿たる努力と苦労があったことにほかなりません。

歴史のターニングポイントにようなものも幾度と無くあったでしょう。

特にその大きなターニングポイントとなったのは幕末であるといえるでしょう。

それまで200年以上も続いた天下泰平を打ち破る、天地がひっくり返るくらいの騒乱の時代です。

幕末の動乱とは、西欧列強のアジア進出によって日本が危機に直面した時代に、いかな体制でそれに当たっていくかという事で争った出来事であるとボクは思います。

徳川家を筆頭に諸外国と戦っていこうという佐幕派と、天皇家を筆頭にして諸外国と渡り合っていこうという尊皇派の争い、幕末の騒乱を一言で評するこういうことなのではないでしょうか?

要は西欧列強とどう渡り合っていくかという考え方の違いが、幕末の騒乱の根幹だと思います。

その結果尊皇派が勝利し、薩摩・長州主導による近代化が急速に推し進められ、諸外国と渡り合っていく力を蓄えていきました。

そうして日清・日露、日中、大東亜の戦争を戦い抜き、最後には敗北しましたが独立を保ち続けることができました。

しかしその影で、多くの日本人の命が失われました。

名のある軍人から、名も無き民間人まで、多くの犠牲を払い、日本は発展してきたのです。

日本の発展の礎となった英霊達を、今を生きる日本人は決して忘れてはいけないと思います。

ボクはそんな日本人でありたいと思います。

前置きがやたら長くなりましたが、そんなわけで靖国神社に言ってまいりました。

入り口に兵部大輔・大村益次郎の銅像が「ドッギャァァアアン!!」と仁王立ちしている姿が印象的でした。

お参りした後、遊就館を見学。

ゼロ戦やロケット特攻機・桜花や人間魚雷・回天のレプリカが展示してあって実に面白かった。

また、幕末から大東亜戦争までの資料が展示されていて、あの榎本武揚の軍服も見れてよかった。

そして何よりも圧巻だったのは、大東亜戦争の犠牲となった英霊達の写真と遺書である。

大東亜戦争の戦死者には、20代で亡くなられた方も多いのですが、その人達の遺書には正直胸が熱くなった。

国のために戦うという気概、覚悟、崇高な精神、家族への愛・・・今の若者には著しく欠けてしまっている要素ではないか。

志半ばで死ぬことになってしまった彼らに比べ、今のボク達の置かれた状況のなんと幸せなことか。

ボク達は自分で自分の人生を選んで生きることができる。

彼らは、自分の人生を投げ打って国を守るために死んでいった、否応無くそうせざるを得なかった。

そう思うと、死んでいった彼らをボクは絶大なる尊敬を禁じえない。

靖国神社、そこには日本人として忘れてはいけない“精神”があるのだと感じた一日であった。

そして一日歩き回ってヘロヘロになってしまって体力低下も感じた一日だった。