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   早いもので今日はもう彼岸の入り。「暑さ寒さも彼岸まで」といいますがいつの間にかエアコンもストーブもつけずに過ごせるようになりました。ちなみに彼岸とは文字通り彼方の岸、現世(此岸)に対する呼び方。般若信経で最初に出てくる波羅蜜多(ハラミタ。サンスクリット語?)だそうです。そしてこの時期は「ぼたもち」。同じものが秋の彼岸には「おはぎ」。昼間立ち寄ったスーパーでも入り口近くにたくさんぼたもちが並んでいました。1パック買って帰ろうかな?と思ったのですが(全部食べきれない)と思いとどまりました。同じといいましたが微妙に違うという人もいます。ぼたもちは牡丹の花のイメージで大きめ。おはぎは萩の花のように小ぶりで少し長め、そしてぼたもちはこしあん。おはぎは粒あんだとか?。これは知りませんでした。もうひとつ。世の中には物知りな方がおられます。ぼたもちは別名「夜の船」。おはぎは「北の窓」ぼたもちってもちなのに杵でつきません。夜の船もいつつ(着)いたかわからない。同じように北の窓はつかないもち。つき(月)が無い。だから北の窓。真偽のほどはわかりません。これはお得意さんからの受け売りです。大体この人の話はいつも半分ぐらいしか真に受けないことにしてます。ぼたもち。やっぱり明日買ってきて頂きます。仏壇に供えてから。

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  昨日見たNHKのドキュメンタリー『プロフェッショナル』2つ上の姉が癌で余命が限られていると知り家事が大好きだった姉のためベッドを台所に持ち込ませ、家族といつも一緒に暮らせるようにしたそうです。その後病院での看護に飽き足らず訪問看護に専念。そういう言われ方を彼女が好んでいるかどうかは別ですが通称「市谷のマザーテレサ」。訪問看護師の秋山正子さんが出演されていました。その話の中で彼女は「病院と違い在宅は46時中付きっ切りというわけにはいきません。医師やヘルパーさんと連携しその上で患者さんには在宅ならではの注意を払います。」家の中を見渡して「トイレのタオルが湿っていない」ということは半日以上前からトイレを使ってないのではないか?そんなヒントを探しつつちょっとしたことも見逃さないで患者との話題を探る。どんなに終末が近づいていてもその人の「今」が輝いて欲しい。そしてそれは住み慣れた家でほんの些細なことに喜びを見出すこと。終末期の看護ってともすれば「終わる」ことの準備に気が行くのだと思いますがそうじゃない。最後まで輝きを失わないで終わってもらう。それがご本人はもちろん後に残された家族のケアにもなる。「優しい人だな」と思いました。それともうひとつ印象に残ったこと。彼女のかばんの中に聴診器等と一緒にキャップに小さな穴が数箇所開けてある空のペットボトルが1本入ってます。「これ1本と紙おむつ2枚で洗髪できます。患部洗浄にも便利ですよ」現場で考え出された道具って高価なものじゃない。仕事が好きな人は自分で工夫します。

  明日16日はちょっと遅くなりそうなので今日はダブルヘッダー。前々から書いておきたいと思ったこと。
 25年前にアフリカの飢餓を救おうとグラミー賞を終えたアーティストたちが集結し一つの曲を歌い上げました。「We are the world」。ライオネル・リッチー。クィンシー・ジョーンズ。スティービーワンダー。ポールサイモン。そして今は亡きマイケル・ジャクソンがそれぞれ曲や詩、アレンジを無償で提供。当時、最高と言えるアーティスト達が手弁当でレコーディングに参加し完成させました。いい曲が出来ないはずが無い。全世界の音楽ファンに感動を与えた名曲だと思います。

 そして今年、25周年がカナダ「バンクーバー・オリンピック」の開会式で全世界に向けて放映されたこの曲。 「USA for Africa」が図らずもハイチの惨事と重なりました。マイケルジャクソンも違和感なく「共演」しています。「We Are the World 25 for Haiti」です。iTunes Storeでもダウンロード販売されてます。販売された楽曲、ビデオの売上の全ては「We are the World Foundation」に寄付されるそうです。それもまたいい。みんな自分達の出来る方法で支援する。それにしても前回も思ったのですが25年経った今もその中に日本人が一人も入ってないのが悔しく情けない。
   郵便受けに請求書以外に地域の催し案内が入ってます。少し前、『介助講座』と題して『目の不自由な方に対する介助方法」そして『手話でコミュニケーション』が開催されるという案内が入ってました。場所は市民センター。ウチから歩いて10分ぐらいのところ。「目の不自由な方に・・・」のほうはパラリンピック銀メダリストが講師とかで(行ってみたいな)と思ってたのですが時間が取れず、それならと「手話」のほうに行きました。これものっけから40分の遅刻。(ひょっとして入れてもらえない?)と思いながら恐る恐るドアを開けると受付の方が『どうぞ』小声で『すんませ~ん。よろしいですか?』最後列の席に座ります。丁度シュミレーションの真っ最中みたいでスーパーでのレジ係と客(聾の方)に扮してのやり取りをしておられました。●レジ「おはしは要ります?」■客「???」お箸。これは聾の人にとってのウイークポイント。『お箸』『お菓子』『終わり』の区別はつきません。こういう場合は指2本でお箸を表現するのが一番。(なるほどこういう身近なことで聾を理解してもらおうとしているんだな)遅れて入ったものですから10分もすると休憩。その間に椅子を丸く配置換え。そして真ん中に聾の方が入り受講者に簡単な手話を覚えてもらう。そういうパターンのようです。講師は40前後の女性。(なかなかの美人です。動きも綺麗。この人の手話見てるだけでも来た甲斐はある。)日常の挨拶から簡単な単語をボードに書いては膝に置き手話で表します。黙って見ていると受講者が思い思いにジェスチャーで表現します。時々笑いも起こり実に和やかな雰囲気。そのうち順番に講師さんの聞くことに答えることになり、それぞれが覚えたての手話で表現します。普段考えてもなかなか表現出来ないのに振ってこられると手が動きます。(どこで覚えられたのですか?)(大阪のサークルでほんの少しだけ)(分かりやすくとてもお上手です。)(そんなことありません。覚えては忘れの繰り返しです。)(こちらにもサークルがあります。メンバーが少ないので入ってください)(それほどのレベルではありません。お邪魔になるだけだと思います)(でも一度見学に来てください。)(分かりました。そのうちお邪魔します)気がつけば講師の方とマンツーマン状態でやり取りしてました。(しまった!)と思った時は後の祭り。いつの間にか周囲から浮いてます。受講者から「白い目」で見られ主催者側からも「変な受講生」に写ったと思いますがひとつだけ収穫。追い詰められないと駄目なタイプなのがはっきりしました。
 

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先週サボった手話サークル。どうしょうかな?と思ってたら夕方近くに前年までの講師さんからメール「抜歯した後の調子が悪いので今日はお休みします。よろしく!」なんてメールが入りました。「やっぱり行くか」この講師さんに受講したメンバーで今現在残ってるのは私を含めてほんの2~3名。妙な義務感みたいな気持ちも働いて時間ギリギリで行って来ました。幸運なことに一番親しみやすく分かりやすい聾の方が講師に来られてました。この方も歯医者に通っておられるそうなのですが通い始めて数年間。歯医者さんに聾だということが気づかれなかったそうです。もともと歯医者に行ってそれほどペラペラしゃべる人はいないと思いますがそれでも手話抜きで意思の疎通が出来るというのですからすごい。以前、全盲の方のサービスにガイドで入ったことがありますがこの時の利用者さんも(ひょっとして見えてる?)と思うほど。普通は手引きといって捕まってもらってガイドをするのですが私より歩く速度が速くガイドが後からついていくというなんとも不細工な思いをしました。もちろん一朝一夕でそうなったものではなくそこに至るまでは人知れず辛い思いをされたはずなのですが共通してそういう人は苦労を表に出さない。そして表情も豊かで会話が楽しく退屈させません。学ぶところは多い。

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   民主党政府が国民の幸福度をはかる新しい指標の作成を検討するそうです。ある程度以上の年代の方は記憶にあると思いますが昔、駅名でそんなのがあり競って『幸福』行きの切符を手に入れたことがありました。今はどうなってるのかな?ま、その程度の幸福なら文字通り洒落で済みますが例えば通常の統計調査のように3万人を対象に幸福度を聞いて、3万人の最大公約数的な幸福度をもって「国民は幸福である」と判断されても、一体全体それに何の意味があるのか?今の政府がそのような指標を政策に利用すると考えているのであれば不安です。耳ざわりのいいマニュフェストが次々と頓挫。そしてもぐらたたきみたいに終わりかけたと思ったらまたまた出て来る資金疑惑。八方ふさがり状態の中、考え付いた発想なのでしょうがどうも彼らの考え方がよく分かりません。おそらく「子供手当て」よろしく選挙目当てのばらまきのネタにするつもりなのかと思います。本来、幸福感や満足度というのは、おかれた状況そのものよりも、実際にはその人の心のあり方しだいで万人万様。どう見たって幸せとは縁がないと思う人でも『幸福の絶頂』かもしれないし人が羨むような暮らしをしていても『不幸のどん底』なのかもしれません。子供手当てもらったって子供に食事を与えない親はなくならないでしょうし『どうせだからもう一人生もうか?」という人もいないと思います。それよりもその予算を計上するために他にしわ寄せが行く。その弊害のほうが気になります。今回の『幸福』も選挙目当てのジェスチャーだったら国民も甘く見られたものだと思います。
  ちなみに、世界最貧国といわれるブータンでは、我が国に先駆けて幸福度の向上を政策目標にしており、「国民総幸福量(GNH)」として金銭的・物質的豊かさではなく、精神的な豊かさ(幸福度)を数値化しています。2007年に同国で行われたる国政調査では「あなたは今幸せか」という問いに対し9割が「幸せ」と回答しています。さて、日本ではどうでしょう

   戦場が舞台となった映画ハートロッカー。それと同時にドキュメンタリー賞に「コーブ」が選ばれました。「年間数万頭のイルカが意味もなく殺される」舞台にされた和歌山県太地町は「虚偽の事項を事実として表現している」と抗議しているそうです。どちらが正しいか?は知る由もありませんが太地にしてみれば迷惑な話。どうも白人社会特有の「日本人=野蛮人」という潜在意識を感じるのは私だけ?
 奇しくも65年前の3月9日。夜10時30分、アメリカ軍編隊が東京上空に飛来。ラジオ放送が中断され、警戒警報が発令されました。同編隊は房総半島沖に退去して行ったため、警戒警報は解除。ここに大きな油断が生じ、9日から10日に日付が変わった直後に引き返してきた編隊による低空爆撃が開始されました。約300のB29爆撃機による爆撃は人口過密地帯に焼夷弾を投下。木造家屋に油をまいて上からh火をつけるような攻撃。火炎地獄と化します。そして、逃げ惑う市民には超低空のB-29から大量の榴弾や機銃掃射が浴びせられました。行き場を失った人たちは氷点下0度の川に入り凍死する。彼らや彼女達は兵士じゃない民間人。イルカは知能が優れた生き物だから殺してはいけないとヒステリックにいう人達の親や祖父達が日本人女性や子供あるいは老人を皆殺しにしようとした。戦時下の異常な状況がそうしたというのでしょうがそれでも私の理解を超えてます。
「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていた。これをやっつけて何が悪いのか…。」(当時指揮をとっていた将軍の言だそうですがこの感覚は後に「負け戦」になったベトナム戦争にも通じます)

アバターのキャメロン監督が次作の構想に『広島』を考えているそうです。所詮は「出張戦争」しか経験したことのない民族。受ける側の痛みは分からないと思いますがどんな理屈をこねた作品が出来るか別な意味で興味があります。
 図らずも昨夜から降り続く雨。涙雨か。ひょっとして今の私の父母か祖父母であったかもしれない犠牲者の方たちの冥福をあらためて祈ります。

  第82回米アカデミー賞の発表・授賞式をTVで見ました。前評判が高かったジェームズ・キャメロン監督の「アバター」は多くの賞にノミネートされましたが受賞は撮影賞、美術賞、視覚効果賞の3部門にとどまり、アバターを押さえて作品賞を受賞したのはキャメロン監督の「元妻」であるキャスリン・ビグロー監督の「ハート・ロッカー」。他に監督賞、脚本賞、編集賞、録音賞、音響編集賞の全6部門でオスカーを獲得しました。正直よく知りませんでした。裏返してみるとアメリカ人にとってイラク紛争はそれほど大きいということなのでしょう。それにしても離婚したとはいえすごい才能の夫婦だったんだなと思います。
 ちなみにアカデミー賞の主演女優賞は日本でも若い女性にファンが多い「しあわせの隠れ場所」のサンドラ・ブロックで、前日には「オール・アバウト・スティーブ」で最低主演女優賞(ゴールデンラズベリー賞:通称ラジー賞)も受賞しており、ラジー賞とアカデミー賞を同時受賞した女優は彼女が初めてだそうです。
  ところで、よくポジティブ・シンキングなどと言いますが「できる・やれる」という強い思い込みはやる気を生み、それが良い結果をもたらす。そして 「こうなりたい・こうしたい」と強く願う。自分に期待し、まわりからも期待される。やがて望んだような結果になる。これを「ピグマリオン効果」と呼びます。
  ちなみにピグマリオンの名はギリシャ神話からの引用でバーナード・ショーはこれを題材に同名の小説を書き上げました。そしてその小説をモチーフにしたのがオードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディ」でありそれを焼きなおしたのがジュリア・ロバーツ主演の「プリティ・ウーマン」です。ストーリーの基本は一緒。どちらも好きな俳優。映画で何度も見ましたが今思えば潜在的にピグマリオンに憧れていたのかもしれません。

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    先の中国副主席来日の折の「天皇会見ごり押しの」件ではまるで天皇をも自らの道具のように操ろうとする小沢幹事長の傲慢さに険悪感を抱いたのですが、今回の愛子様不登校の件は宮内庁の軽率さを禁じ得ません。同時にあの学習院でもそういうこと(いじめ。不登校)があるのか?と驚きました。でもこういう問題は本来、本人どうしあるいは学級担任。そして父兄が解決するもの。そしてなにより気がついた時点ですぐに芽を摘む。それが一番大事なこと。自らの責任を放棄してマスコミに訴える。その結果国内はおろか海外にまで広がる。一番迷惑なのは子供たち。いじめた。乱暴したといわれた子供はもし転校でもしようものならすぐに特定され本人。そしてその家族に一生傷となって残る。(第一受け入れる学校も迷惑)だからといってこれだけ大きく取り上げられて当事者間で「ごめんなさい」で収まる?そうは思えません。それともうひとつ。時限の低い話ですが宮内庁と学習院との関係。これも良好とはいえない。図らずも自らそれを露呈したことをおろかと感じないセンス。父兄と学校の関係が悪化した時に一番迷惑なのが生徒。皇族だからといってもそれは例外じゃないと思います。想像ですがむしろそういうのを一番嫌われるような気がします。

 某所で介護士(仮にTさんとします)が看護士とのことについて書かれていました。そこでコメントすればいいのでしょうがこの話をすると長くなりますので記事にしました。
  この国が、老人入所施設を近代化していくにあたって、建物やシステムの手本にしたのが、病院でした。既存している多くの施設は、大抵が病院そっくりです。そして、そこで提供される「お世話」が、「専門的介護」に脱皮する際、手探り状態の中、手本にしたのが看護でした。医療の分野は『お医者様』(おをつけた上に様までつける)を頂点に階層組織が重んじられる世界です。その中でも順位でいくとそれまで一番下位にあった看護。そこに新しく介護という職種ができた。新参の介護は看護の下に位置づけられたように考えます。ですから「介護は看護の下請け。看護を水で薄めたようなもの」そんな風に思う看護士がいても不思議はない。でも、看護も介護も個人の資質。キャラクターに依存する部分が大きい職種。レベルの低い看護もあればレベルの高い介護もあります。そんな時、レベルの低い看護士が「あんたと私では身分が違う。私のほうがずっと難しい試験をクリアしてきてる。高々100数時間講習受けただけで出来る仕事と同列に思わないで欲しい」と介護士を見下す。そして自分の専門とばかりに領域(病)に利用者さんを引き寄せようとする。尊重しなければいけないと思うけど実際はそう思えないケースもあります。また逆に「その程度の知識もなくて介護職やってるの?」という介護士もいます。介護保険制度ももう10年になります看護と介護。車の両輪みたいな関係でどちらが上でも下でもない。お互いが補い合って成り立つ「2つそろって1セット」なのですがごく一部にそう思わない人がいるのも事実。残念ですがそういう現場ではいいケアは出来ません。結局一番つまらない思いをするのは利用者さん。