庵野秀明監督の映画『シン・ウルトラマン』を見た。
最近Amazonプライムで配信された。



ちょっと、興奮していて なにをどう書いたものか混乱している。

深く考えずに頭の中のものを垂れ流すことにする。


たぶんネタバレしながら話すと思う。





ウルトラマンがこんなにかっこいいとは知らなかった。

ウルトラマンは、子供のころにファミコンのゲームでやったり 空想科学読本を読んだりしたくらいで、よく考えたら肝心の映像を見たことがほとんどなかった。



今回の映画では、政府や科学の言葉もたくさん早口で出てきて 一見すごく難しい話のようにも見えつつ、
肝心な話の流れに関わるところは やや平易な言葉づかいで ややゆっくりめに 繰り返し語られる感じになっていて、
子供にも分かるように描かれる(かもしれない)のがとてつもなくすごいと思った。

かっこよく見えるし、でも伝わる。
その工夫が不自然ではないように見えるのもすごい。


宇宙人の一部の種族は地球人類を生物兵器にできる可能性に気づき、実際にそうしたがっている。

それをよしとしない勢力もあって、ウルトラマンたちの星(ここではウルトラ星と呼ぶことにする)はそういうグループの仲間。

でも、ウルトラ星の者たちとて、地球にそこまで肩入れしているわけではない。

「地球が攻撃的な宇宙人たちの手に渡って ほかの宇宙存在たちの脅威になるくらいなら、太陽系ごと地球を破壊するのが得策」と考えるような思考の持ち主たちだ。

ウルトラマンはあるアクシデントにより地球人と関わることになり、そこからの流れでウルトラ星の人たちよりも 地球や地球人類に肩入れしたい気持ちが湧いた。

という話の大筋が、ほかの要素よりも スルンと頭に入ってくるのだ。
これには驚いた。




宇宙人たちの文明や科学技術の高度さを見せつけられた地球の物理学者が
「私がこれまで人生をかけてやってきたことは、宇宙人たちからすればこんなにも取るに足りないことだったのか。
この状況において、私も 地球の科学力も、あまりにも無力だ」
と打ちのめされるシーン。

そしてそこから立ち直るシーンに感銘を受けた。

宇宙人やウルトラマンたちのあらゆることが、地球人より勝っていた。(地球人にはそのように思えて当然だ)

地球人からすれば、宇宙からの脅威に対抗するにはもうウルトラマンに頼るしかない。
人々はウルトラマンを神扱いしたりする。

しかし、それではダメなのだ。
宇宙の高度さに地球人類を依存させてはならない。
地球の文明が自ら成長してこそなのだ。
それを見守るためのサポートはするけれど、直接的に助けることはよくない。
というウルトラマンの姿勢。

そして、ウルトラマンの力だけではなく、確かに地球人類がコツコツ積み上げた努力に もう一踏ん張りを積むことで、この危機を回避する力になった。
と展開していく。


地球人類への大いなる励ましのようであり
地球に来ている宇宙由来さんへのアイコンタクトのようでもあった。




「地球人類からすれば、宇宙人は神の力の持ち主に見える」「神=宇宙人 という説」というのは、スピリチュアルなことに興味があれば けっこう行き着く話題でもあるし、漫画など創作物でも非常によく出てくる展開であるようだ。
すごいな。




ウルトラマンの実直なところが素敵だった。
めちゃくちゃかっこよかった。

とても器用に地球人の文化に馴染む宇宙人と違い、ウルトラマンはちょっと不器用なところもある。
しかしそこにこそ好感が持てる。
誠実さの描き方。


ウルトラマンは、困った顔や 苦しい顔や 痛みを感じている顔をしない。
そういうところが描かれない。

描かれないのだ。
地球と宇宙の板挟みでめちゃくちゃ苦しい(と思われる)状況でも、その苦悩が あからさまな苦悩として描かれないのだ。
苦悩しているのかどうか分からない。
宇宙生命体だから、地球人と同じような感情の構造ではないのも分かるが、しかしそれにしても…という感じだ。

地球人のような感情を持っていたら、泣いたり叫んだり震えたり嗚咽したりする。
それが一切ない。

だから、こちらが勝手に想像して 胸がいっぱいになるところもあるのだろう。

すべて行動で、あるいは背中で語るような感じ。
だから見ているこっちがウルトラマンの代わりに泣いてしまう。



少し似ている状況を最近見た。
清水玲子作『竜の眠る星』の最終巻だった。
泣けない者の代わりに 誰かが流してくれる涙。

それによって、泣けない者自身が救われているかは分からない。

ただ、読者や視聴者は救われる。
というか、私が救われる思いだった。
泣いてくれてありがとう の気持ちだ。

この漫画のことも、近々書きたい。




ウルトラマンが地球人類を理解するために読んでいた文献が、広辞苑だったり精神世界の本(ルドルフ・シュタイナーの本など)だったりしたのもすごかった。

「宇宙由来さんだから、奥深い本質的なところから 徐々に浅い建前のようなところへ という順に学んで馴染んでいく」というのが そのまま再現されているように見えた。


また、ウルトラマンが地球人類に興味を持つのだが、その興味の対象が地球人類のもつ心だったことも、
私が精神世界のことを勉強して知ったことと一致していて「ふおお…っ」と思った。

地球人は宇宙からすればめちゃくちゃ遅れているけれど、感情の発達は宇宙のトップレベルなのだと聞いたことがある。




表現の塩梅が 好みだった。
先に物理学者のシーンの話もしたが、あの肝心なところを大げさにせずにサラリと描かれているのが 逆に趣きあるように感じられ、これは私の好みに合っていてうれしかった。


どうもここのところ、主音声と副音声を同時に流しているような、映像(絵)と音とセリフで同じことを重複して伝えているようなアニメや映画を見かけることがやや増えて、ちょっと胸焼けのような感じになっていた。

バターにマーガリンを塗ってごま油をかけて食べるような気分だ。

「言葉ではなく映像で語られていること読む」が苦手な人向けに、映像と音で既にこってり表現されていることをセリフでも説明する。


セミがなき、ヒマワリ、入道雲や道路の蜃気楼、汗を拭く人、うちわであおぐ人、そんな日の満員電車…!
と描かれ、ナレーションで「暑い日だった」と言われると、私はなんと怒るのだ(笑)
ものすごく怒るので 私も驚いている。
いつもこんな ものすごくくどい占いを書いている私が怒るのは筋違いであるが、自分のことは棚に上げて それはもう怒る。


そんな分かりやすさ重視の映像が、実際に増えているのだそうだ。

それが過剰になっていて、映像での表現という美しさが損なわれているようで、ちょっとつらい。
この傾向は ある種の流行りなのかもしれない。

映像作品にバリアフリー化が起きていると考えることにして心を落ち着かせている。


シン・ウルトラマンでは そういうところを気にせずにラクな気持ちで見ることができて、つらくなく、うれしかった。





あと、なんだっけな。
まだ興奮しているポイントがあったような気がする。

ブログ記事のタイトルに書いた「宇宙人と地球人の間」ということだ。
「どちらか」ではなく「そのどちらも」というありかたによって、見えるものがある。という話。

そこにグッときた。



見てよかった。




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よかった。



というところまで書いて寝落ちしていた。



あと、「ゼットン、こんなふうになっちゃったのねー!www」という感じでおもしろかった。

空想科学読本でゼットンのヤバさを読んだことがあったので、一兆度の火の玉の科学的な設定が活かされていてうれしかった。