akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -28ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.968-3/4に続けてご覧ください。

 

JR詫間駅から西へ行き詫間大橋西詰の三差交差点を左折し、県道21・23号線を南東に約3.5km下ると、高瀬町との境付近の宗吉に、藤原京(現、奈良県橿原市)の瓦を製作したことで知られる「宗吉瓦窯(がよう)跡」がある。国内最多の23基の窯跡が、整然と並んでいる。

 

▼宗吉瓦窯跡-1

 

▼宗吉瓦窯跡-2

 

 

釜跡はA~C群に分かれ、最も古い時期に造られたと見られるC群の2基の内、宗吉17号窯は床面がほぼ完全な状態で残っている。窯の全長13m・最大幅2m・最大高1.4mで、瓦専用の登り窯としては国内最大級の規模をもち、妙音寺(豊中町上高野)用の大量の瓦を一度に生産しようとしたものと考えられる。出土した単弁八葉(たんべんはちよう)蓮華文軒丸瓦は、「妙音寺出土古瓦」(県文化)と文様・胎土が一致した。

 

▼C群窯跡

 

▼宗吉17号

 

▼宗吉かわらの里展示館-展示瓦、妙音寺出土古瓦(web引用-水彩画風変換)

 

 

A・B群で出土した、重弧文軒平瓦・凸面布目平瓦は、660~670年頃に創建された、飛鳥の四大寺に数えられる大寺院川原寺(かわらでら)(現、奈良県明日香村)の出土瓦と製作技法・焼成が酷似し、川原寺の瓦を焼いた工人が技術を伝えたものと考えられる。

 

▼A群窯跡

 

▼B群窯跡

 

 

当瓦窯では、まずA・B群で宝幢寺(ほうどうじ)(現、丸亀市)の瓦を焼くようになり、その後、C群で藤原京の瓦を焼いたものと考えられる。藤原京から、平城京に遷都した後、吉宗窯は急速に衰えていった。

吉宗瓦窯跡は国の史跡に指定され、史跡公園として整備された。

元の斜面に16号窯を実物大で復元し、他の釜は植裁でその規模を示している。

 

▼史跡公園-1

 

▼史跡公園-2

 

▼16号窯

 

▼復元した実物大の16号窯

 

 

また2009(平成21)年春、公園内に「吉宗かわらの里展示館」が開館し、関係諸瓦の実物などが系統的に展示され、この瓦窯と藤原京との関係などが解り易く解説されている。

 

▼吉宗かわらの里展示館-1

 

▼吉宗かわらの里展示館-2

 

▼吉宗かわらの里展示館-3

 

▼吉宗かわらの里展示館-4

 

▼吉宗かわらの里展示館-5

 

 

▼藤原宮の再現イメージ-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼藤原宮の再現イメージ-2(web引用-水彩画風変換)

 

▼藤原宮の再現イメージ-3(web引用-水彩画風変換)

 

▼藤原宮に供給された「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

宮池の遊歩道南東端から西北方向のパノラマ景。

宮池親水公園広場から見る水上展望台。

宮池の遊歩道南西端から東北方向のパノラマ景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-079  Orignal掲載日:Vol.118 (2012.05.25)

根は大事。

 

植物が生き生きと生育していくのに欠かせないのが根である。土中の目に見えない働きがあって花は咲き、葉は生い茂る。人間も然りである。人が人生という時間軸の中で自らの花を咲かせていくには、根がなければならない。根を養っていない人はいささかの風にも傾き、倒れる。植物も人間も自然の節理の前には等しく、平等である。

 

では、人間の根はどうしたら養えるのだろうか。

釈迦は人間を悟りに導く方法として、六波羅蜜(ろくはらみつ)を説いた。

布施(ふせ、与える)、持戒(じかい、自ら戒めるものを持つ)、忍辱(にんにく、苦難やいやなことを耐え忍ぶ)、精進(しょうじん、仕事に一所懸命打ち込む)、禅定(ぜんじょう、心を落ち着かせる)、智慧(ちえ、以上の五つの修養に努めていると生れる)、これが六波羅蜜で、心の根を養う実践徳目であろう。

 

中で特に根を養うのに大事なものは、忍辱ではないだろうかと思う。人生の艱難辛苦に耐え忍ぶ。植物が激しい風雪や干天にさらされるほど強く根を張るように、人間の根もそこに養われるのである。

 

相田みつをの詩に「いのちの根」と題するものがある。

なみだをこらえて、かなしみにたえるとき  ぐちをいわずに、くるしみにたえるとき  いいわけをしないで、だまって批判にたえるとき  いかりをおさえて、じっと忍辱にたえるとき  あなたの眼のいろが、ふかくなり  いのちの根が、ふかくなる

長い苦節に耐え、深く静かに自らの根を養ってきた人の言葉は重い。

 

 

<高くがる空間>

ハゼ東公園(東ハゼ町)の上空。

ハゼ西公園(東ハゼ町)の上空。

観賢増正と剃刀塚(西ハゼ町)の上空。

南部伊平記念碑(紙町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコース脇の畑で栽培されているスモクツリ

 

スモークツリーはウルシ属に近縁な、雌雄異株の落葉樹で、初夏に咲く花木の代表で、ヨーロッパから中国に分布する。

 

雌木の枝先につく花序は長さ約20cmで多数枝分かれし、花後に伸びた花柄が遠くからは煙がくすぶっているように見える。雄木は花序が短く、煙状にはならない。

 

横に広い円形の樹形が美しく、秋の紅葉も楽しむことができる。

銅葉や黄葉の園芸品種も栽培されている。

和名はケムリノキ(煙の木)で、その他の名前としてはハグマノキ(白熊の木)である。

 

◇ウォーキングコースに咲くミニバラ

 

◇ウォーキングコース脇のYa宅の畑のブラシの木

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<椙尾神社・十河城跡 

椙尾(すぎお)神社は、十川東町の朔方寺の北側にある神社。祭神は天児屋根命。十河城の鬼門にあり十河存保が崇敬していた。社宝に県内最古の鰐口がある。歴史を感じる神社である。

仏教の法要儀式や僧侶たちの集団生活の合図に使う梵鐘や鰐口(わにぐち)、木魚(もくぎょ)などを梵音具(ぼんおんぐ)といい、清浄な音をだす仏具である。鰐口は、金鼓(きんこ)ともいい、古代には多用されていたが、今は神社仏閣の軒先につるし、礼拝の時、布で編んだ綱で打ちならしている。
この椙尾神社の鰐口は、南北朝の文和(ぶんな)3年(西暦1354年)銘の作で、面径20cmの小振りであるが、細部の形状には古様がみられる。表裏同文(どうもん)、面中央に2本の紐帯(ちゅうたい)をめぐらせた撞座区(つきざく)を配し、区内には3本の紐帯を、外区には2本の紐帯をめぐらせている。地方色豊かな作風であるが、全体としてよく古い姿を伝え、文和3年の刻銘と合わせ考えると、鰐口編年上貴重な存在である。銘文は「讃州山田郡十河郷椙尾大明神大師堂元心文和三年甲午三月十一日。」~高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』より抜粋~

 

十河城跡は、十川東町の「城」といわれる地名の台地上にあり称念寺を中心とする一帯である。四方の眺望にすぐれ、城として恵まれた立地にある。同寺の境内に、本丸があったと考えられている。
本丸跡には、将兵の菩提を弔うため称念寺が建立された。北側の空堀は、歴然と名残をとどめ、西側の鷺(さぎ)の池、東側の急傾斜など天然の地形を利用した中世の典型的な城跡として貴重な史跡である。
南北朝時代、山田郡の豪族植田景保(かげやす)の第4子吉保(よしやす)が十河城に分家し、城主となる。以来、存景(まさかげ)・存春(まさはる)(景滋(かげはる))と続き、足利幕府細川管領家の執事(しつじ)職をつとめた阿波の三好家から一存(かずまさ)、存保(まさやす)と二代にわたって当主を迎え、国内の名族をおさえて讃岐の旗頭となり2万石を領した豪族である。十河城は土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際し、激戦の城となったことで有名である。
~高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』より抜粋~

 

▼所在地、椙尾神社

高松市十川東町:〒761-0434

 

▼称念寺・十河城跡、称念寺やすらぎ墓地

 

▼十河一存・存保墓所、鷺池と称念寺・十河城跡・やすらぎ墓地

 

 

▼バス停「フジグラン十川」で降車、早朝のフジグラン十川を散策-1

 

▼早朝のフジグラン十川を散策-2

 

▼早朝のフジグラン十川を散策-3

 

 

▼椙尾神社へ向かう(約0.9km)、県道30号線へ進む

 

▼県道30号線の交点を右折、バス停「フジグラン十川」を振り返る

 

▼県道30号線を南西方向に進む-1

▼高松市十川東町交差点(県道30・10号線)を南西に渡る、県道30号線を南西方向に進む-2

 

▼高松市十川東町交差点(県道10号線)の西北方向、東南方向

 

▼県道30号線を南西方向に進む-3

 

▼十川東町檀原交差点、県道30号線を南方向に進む-1

 

▼県道30号線を南方向に進む-2

 

▼次の交点を左折、椙尾神社へ進む-1

 

▼椙尾神社へ進む-2

 

 

▼椙尾神社に着いた、椙尾神社-1

 

▼椙尾神社-2

 

▼椙尾神社-3

 

▼椙尾神社-4

 

▼椙尾神社-5

 

▼椙尾神社-6

 

▼椙尾神社-7

 

▼椙尾神社-8

 

 

▼椙尾神社を後にして称念寺(十河城跡)へ向かう(約0.7km)、県道30号線へ進む

 

▼県道30号線の交点を左折、県道30号線を南方向に進む-3

 

▼県道30号線を南方向に進む-4、左(西)奥に朔方寺が見える

 

▼県道30号線を南方向に進む-5

 

▼県道30号線を南方向に進む-6、右奥に案内板が見えて来た

 

▼案内板「称念寺・十河城跡・やすらぎ墓地➡」、称念寺・十河城跡へ進む-1

 

▼称念寺・十河城跡へ進む-2

 

▼称念寺・十河城跡へ進む-3、後方を振り返る

 

(Vol.967-2/4に続く)

 

 

<akijii展-(524)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「無題f」で、所要時間は175Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.967-2/4をご覧ください。

Vol.967-1/4に続けてご覧ください。

 

▼称念寺・十河城跡に着いた、称念寺・十河城跡-1

 

▼称念寺・十河城跡-2

 

▼称念寺・十河城跡-3

 

▼称念寺・十河城跡-4

 

▼称念寺・十河城跡-5

 

▼称念寺・十河城跡-6

 

▼称念寺・十河城跡-7

▼称念寺・十河城跡-8、やすらぎ墓地へ進む

 

▼称念寺・十河城跡-9

 

▼やすらぎ墓地-1

 

▼やすらぎ墓地-2

▼やすらぎ墓地-3

 

▼朔方寺に戻る、称念寺・十河城跡-10

 

▼称念寺・十河城跡-11

 

 

▼称念寺・十河城跡を後にして十河一存・存保墓所へ向かう(約0.2Km)、十川東町を北に進む-1

▼十川東町を北に進む-2、後方に称念寺・十河城跡

 

▼十川東町を北に進む-3

 

▼十川東町を北に進む-4(左にカーブ・奥に高松クレーター5座)、北門地蔵が見えて来た

 

▼後方に称念寺・十河城跡とやすらぎ墓地、北門地蔵-1

 

▼北門地蔵-2

 

▼十河一存・存保墓所へ進む

 

▼十河の郷

 

 

▼十河一存・存保墓所に着いた、十河一存・存保墓所-1

 

▼十河一存・存保墓所-2

 

▼十河一存・存保墓所-3

 

▼十河一存・存保墓所-4

 

▼十河一存・存保墓所-5

 

▼十河一存・存保墓所-6

 

 

▼十河一存・存保墓所を後にして鰹宇神社(十川西町)へ向かう(約0.8km)、十川東町を西に進む-1

 

▼後方に称念寺・十河城跡、右(北西)奥に由良山

 

▼右(北東)奥に前田山、十川東町を西に進む-2(左奥に鷺池)

 

▼鷺池改修記念碑、鷺池

 

▼十川東町を西に進む-3、鷺池と称念寺・十河城跡・やすらぎ墓地-1

 

▼中央奥に鰹宇神社の杜が見えて来た、十川東町を西に進む-4

 

▼鷺池と称念寺・十河城跡・やすらぎ墓地-2、称念寺・十河城跡・やすらぎ墓地のズーム景

▼十川東町を西に進む-5(T交点を右折)、T交点と奥に上佐山・日妻山・日山

 

▼T交点から見る特別養護老人ホーム「すみれ荘」のズーム景、JA香川県高松南部第2カントリーエレベーターと奥の上佐山・日妻山のズーム景

 

▼T交点から見る日山のズーム景、由良山のズーム景

 

▼鰹宇神社へ進む、十川西町へ入る

 

(次報Vol.968へ続く)

 

引き続き、Vol.967-3/4をご覧ください。

Vol.967-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:12<弥谷寺・津嶋神社

19.弥谷寺 <撮影:2012.09.07 and 2012.10.16>

四国霊場第71番札所 弥谷寺(いやだにじ)。

仁王門から本堂までの急勾配な石段は、なんと540段という難所。大師堂は、岩壁を背に、囲まれたように建てられている。中へ入ると獅子が口を開いたような形をした岩窟があり、大師像など、数々の仏像を安置。また、境内のあちこちでは「磨崖仏」を拝むことができる。        (三豊市観光交流局HP)

 

<所在地・外観>

弥谷寺-三豊市三野町大見乙70

▼弥谷寺-四国霊場71番札所、寺内は県指定の信仰遺跡

 

 

JR詫間駅から県道48号線を東方向に3kmほど行くと、寺地バス停がある。

バス停から山道を北に1kmほど上がると、「弥谷寺」(真言宗)の登り口に着く。

 

<概 要><歴史遺産>

「いやだにさん」の名で親しまれている弥谷寺のある弥谷山(標高381.5m)は、古くから死霊の宿る山と信じられ、近隣の真言宗の家では、人が亡くなると霊をこの山に伴って行く。

これを「イヤダニマイリ」(死後、頭髪や衣類を当寺に納める習俗)と呼んでいる。

 

▼天霧山・弥谷山、弥谷山の山容

 

▼弥谷寺へ-1(県道48号線) 、左折し山道へ

 

▼弥谷寺へ-2(本堂へ1.1km)、本堂へ八丁の石柱

 

▼弥谷寺へ-3(八丁目大師堂前)、八丁目大師堂

 

▼弥谷寺へ-4(ふれあいパークみのとの分岐点)、県道221号線と交錯

 

▼弥谷寺へ-5(本堂へ581m) 、周辺案内図

 

▼弥谷寺へ-6(表参道巡拝路の標識) 、表参道-本堂へ530m

 

 

弥谷寺内の「賽(さい)の河原」「獅子窟」「比丘尼谷(びくにだに)の磨崖仏(まがいぶつ)」「比丘尼谷の墓地 五輪塔」が「弥谷寺信仰遺跡」として県史跡に指定されている。

また、唐の優品である「金銅五鈷鈴(ごこれい)」(国重文)を始めとする寺宝や、多数の聖教(しょうぎょう)を有する。

 

▼境内古図、金銅五鈷鈴(web引用-水彩画風変換)

 

 

山門(仁王門)の手前に俳句茶屋という茶店があったが、ここまでは車で行く事が出来る。

 

▼俳句茶屋(現在は閉鎖)、山門への階段

 

▼山門(仁王門)

 

▼仁王

 

 

山門を潜ると、緩やかな石段が続き、樹木が茂り、昼でも薄暗い。

谷川に沿った法雲橋(ほううんばし)までの参道は、「賽の河原」と呼ばれ、地蔵菩薩の石仏が多数祀られている。鉄製の急な階段を上り切ると大師堂(納経所)である。堂の奥に、「獅子窟」と呼ばれる薄暗い岩窟がある。曼荼羅壇の三方に阿弥陀如来と大日如来、地蔵菩薩の磨崖仏が有るが、ここで祈ると人間の背負った罪を獅子が食い尽くしてくれると云う。

 

▼262段の石段(賽の河原)、108の鉄製階段

 

▼百八階段の手前、弥谷寺案内図

 

▼大師堂

 

▼大師堂内、獅子の岩屋と明星の窓(web引用-水彩画風変換)

 

 

大師堂を出ると多宝塔・十全堂・鐘楼があり、比丘尼谷に出る。

この辺り一帯の岩壁には、無数の五輪塔や二重・三重の塔が彫られてある。

遺髪・遺骨が納められていたと云う。

 

▼多宝塔、本堂-1

 

▼本堂-2

 

▼鐘楼堂、観音堂

 

▼比丘尼谷、弥陀三尊摩崖仏

 

▼弥陀三尊摩崖仏の説明板、比丘尼谷の墓地(web引用-水彩画風変換)

 

▼大師像、金剛拳菩薩像

 

 

鐘楼前の石段を上がった求聞持窟(ぐもんじくつ)には、道範阿闍梨(どうはんあじゃり)の石像がある。

 

▼道範阿闍梨の石造-1

 

 

道範は、和泉国船尾(現、大阪府堺市)の生まれで、読経のために寝食をも忘れるほど精進し、高野山正智院(しょうちいん)の高僧となる。その後、金剛峯寺と大伝法院(だいでんほういん)(のちの根来寺)との紛争などに巻き込まれ、1243(仁治4)年に讃岐に配流された。郷照寺(宇多津町)に住み、1245(寛元3)年頃には、善通寺(善通寺市)に仮寓した。1249(建長元)年に許されて帰山するまで6年間、讃岐で布教したと云われる。

善通寺に誕生院を建立して弘法大師を顕彰したり、琴弾八幡宮や姫浜八幡宮(現、豊浜八幡神社)、仲南の尾背寺(おのせじ)(廃寺)など、多くの西讃の神社仏閣に参詣したりした。

その間の様子は「南海流浪記」に書き記された。

 

▼道範阿闍梨の石造-2(web引用-水彩画風変換)

 

境内にある多数の墓は詣(まい)り墓で、江戸時代のものが多い。

丸亀藩主山崎俊家の石塔、天城城主香川信景の石塔などが有名である。

 

▼香川氏の墓

 

 

<関連遺産>

弥谷山の東、尾根伝いにある天霧山(382m)の山頂から尾根にかけて、讃岐守護代として讃岐西部を支配した香川氏の牙城「天霧城跡」(国史跡)がある。

 

▼天城城跡の説明板、コルの指導標

 

▼天霧山へ向かう、隠砦跡の標示

 

▼何も無い隠砦跡、犬返しの険

 

▼保存会の標識、本丸跡が近い

 

▼天霧山山頂(本丸跡) 、天霧城本丸跡(物見台)

▼二の丸跡、三の丸跡

 

 

弥谷山の南東1.5kmほど、鳥坂(とっさか)峠から国道11号線を南に200mほど下ると、高松自動車道の西側に、花崗岩製で高さ約2mの「花立(はなたて)碑」がある。1776(安永5)年に庄屋大井助左衛門が建てたもので、鳥坂峠を越える旅人は、この碑に花を供え、弥谷寺を遥拝(ようはい)したと云う。

 

▼花立碑(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.967-4/4をご覧ください。

Vol.967-3/4に続けてご覧ください。

 

20.津嶋神社 <撮影:2015.04.22 and 2016.06.11>

三豊市三野町の沖に浮かぶ小さな島に奉られている津嶋神社(つしまじんじゃ)は、子供の健康と成長の守り神。

毎年8月4・5日両日の夏季大祭には海岸から島まで渡り橋がかけられ、早朝から夜まで子連れの参拝者で賑わう。JR予讃線「津島ノ宮駅」は、夏季大祭の時だけ営業する幻の駅です。 (三豊市観光交流局HP)

 

<所在地・外観>

▼津嶋神社-三豊市三野町大見7463

▼津嶋神社-牛馬の神転じて、大正時代からは子どもの守り神として信仰を集める

 

 

JR予讃線海岸寺駅と詫間駅の中間、大見の東久保谷の海岸から250mほどの沖合の小島に、子どもの守り神として知られる「津嶋神社」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

江戸時代から大正時代中期までは、牛馬の神として知られていたが、大正時代末期頃から子どもを流行病から守るため、遠方から参詣する人が増え、子どもの健康と成長の守り神として親しまれるようになった。

 

▼三野津湾に浮かぶ津嶋神社-1

 

▼三野津湾に浮かぶ津嶋神社-2

▼津嶋神社が近づいた、津島橋と津嶋神社

 

 

椀を伏せたような小島は、昔は鼠島(ねずみしま)と呼ばれた。

境内の松林の中には祈祷殿・社務所・参集殿などが立ち並ぶ。

 

▼遥拝殿、参集殿

 

 

8月4・5日の大祭の日は、JR予讃線の臨時駅である津島ノ宮駅が営業される。

 

▼県道21号を進む、JR津島ノ宮駅-1

 

▼JR津島ノ宮駅-2、津嶋神社の境内

 

▼夏季例大祭の看板、柱状節理の説明板

 

▼津嶋神社

 

 

海岸と津島を結ぶ津島橋は、通常は橋の踏み板が外され、通行禁止と成っているが、大祭時には踏み板が敷かれて通行が可能になり、参拝者で賑わう。

 

▼津島橋、大祭日以外は通行禁止の津島橋

 

▼踏み板が外された津島橋、津嶋神社-本殿

 

▼津島大橋から観る津嶋神社-1

 

▼津島大橋から観る津嶋神社-2、見立から観る津嶋神社

 

 

<関連遺産>

大見に伝わる文楽(人形浄瑠璃)は、讃岐源之丞一座とも呼ばれ、1897(明治30)年頃、三好富太郎が人形を購入し、創設した。1925(大正14)年には東京で上演され、讃岐源之丞保存会によって大切に引き継がれている。毎年11月23日に、三野町下高瀬の本門寺周辺でも催される大坊市で公演される。

得意の出し物は、「壷坂(つぼさか)霊験記」「傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)」である。

保存会には、「讃岐源之丞人形及び衣装」(人形頭42個・衣装40枚、県民俗)が伝わっている。

 

▼讃岐源之丞保存会(web引用-水彩画風変換)

 

▼壷坂霊験記・沢市内より山の段(web引用-水彩画風変換)

 

▼傾城阿波鳴門・巡礼歌の段(web引用-水彩画風変換)

 

▼伊達娘恋緋鹿子 八百屋お七 火の見櫓の段(web引用-水彩画風変換)

 

▼朝顔日記・宿屋の段より大井川の段、えびす舞(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

陽光を映す宮池の水面。

宮池とオオキンケイギク(大金鶏菊)3景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-078  Orignal掲載日:Vol.117 (2012.05.20)

…あぶなく候。

 

挫折を知らない人間はいるものである。

子供の時から成績がよく、どこでもトップかそれに近い地位にいて、やがて権力を握って人を使う立場になった人間だ。そういうのは頭も切れ、才知に富み、仕事はできるかも知れないが、人間として面白みに欠ける。

 

自信満々が高じて傲慢になり、他人の痛み、苦しみ、悲しみに対して鈍感なやつが多い。

挫折はイヤなもの、誰だってしたくないが、生きて行く上の成り行きで、人間には失敗がある。

誤まちを犯したり、社会制度の必然から落伍者にされたりする。

ほとんどの人はいつかどこかで挫折を体験し、身の不運を嘆き苦しんだ事があるに違いない。

 

佐賀鍋島藩に伝わる武士の逸話を集めた武士道論とでもいうべき本「葉隠(はがくれ)」の中にある一つが次の言葉である。

 

- - - 誤ち一度もなきものは、あぶなく候。

 

挫折、失敗、恥辱、不面目を一度も犯した事のない者は、他人への思いやりもなく、独りよがりで、危険で使い切れませぬ。と見事な一言である。

挫折を知らずに来た者には、生涯の最後に二度と立ち上がれぬ大挫折が待ち受けている。

 

 

<高くがる空間>

ウォーキングコースの標高70m地点から見るだんご山3兄弟・奥に高松クレーター5座の上空。

本門寿院克軍寺(西宝町)の上空。

妙覚教会・高松最上稲荷(西宝町)の上空。

西方寺境内(西宝町)の上空。

西方寺(西宝町)から見る北東方向の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの新居新池のオオキンケイギク(大金慶鶏菊)

 

 

 

◇ウォーキングコース脇に咲くナデシコ

◇ウォーキングコースのK宅の畑に咲くダイアンサスガウラ

 

 

◇ウォーキングコース脇に咲くモモバギキョウ

 

 

Akijiiままniフォトsketch<高野丸山古墳(高野南1号・2号墳)・丹生神社>  

高松平野南部の三谷地区は、弥生・古墳時代以降の遺跡や古墳が数多いところ。さらに律令制下では南海道の「三谿(みたに)駅」が設けられ、地域の中核的役割を担う。前期古墳として三谷石舟古墳があったが、これに続く盟主墳などに次のものがある。

高野丸山古墳(こうやまるやまこふん)は、古墳時代中期の直径40mの円墳です。道路建設等により削平され詳細は不明で すが、古い地籍図から二段築成の可能性が考えられています。さらに古墳周囲に幅10~15mの周濠状の地割が見られ、古 墳南側は堀状となっていますが、北側は堀状にならず外側が一段下がっており、基壇状のテラスと考えられています。 同時期の古墳の中では高松平野で最大級であり、平野南部の盟为墳と考えられます。現在でも地割りにその痕跡を見ることができます。(ふるさと探訪より引用)

高野(こうや)丸山古墳」(高松市川島本町)は、高松平野南部の上佐山から北にのびる低丘陵の先端付近にあった。

径42mの円墳で、幅10-15mの周溝ないし基壇状テラスを示す図面が残る。

5世紀後半の円筒埴輪と須恵器の出土を伝え、当時における地域最大の古墳だが、完全に消滅した。
高野南1号墳」(高松市川島本町)は、高野丸山古墳の南南西約300mに「15m×6m」の盛土が残る。

円筒埴輪が出土し、6世紀前半の築造。「2号墳」が、さらに南西約100mにあったという。(よっちゃんの文明論より)

 

丹生神社(にうじんじゃ)(高野廃寺:こうやはいじ)は、池田町の合子神社の境外攝社で、祭神は淤加美神(おかみのかみ)です。『全讃史』では「里人はむかし七堂伽藍があったので丹生明神を祀っていたが、長宗我部によって焼き討ちされ祠だけが残っていると言っているが誤りで、淳和帝(823~833)が遍照院に喜捨したので、院为の僧が高野明神を迎えて祀り、鬼骨村を高野原と改名したという説が正しい」と推測しています。境内からは白鳳時代から平安時代の古瓦が出土しており、丹生神社周辺の東西150m、南北100mの範囲が高野廃寺に比定されています。(ふるさと探訪より引用)

 

▼所在地、丸山古墳

高松市川島本町:〒761-0442

 

▼高野南一号墳、高野南二号墳

 

▼丹生神社、高野廃寺跡

 

 

▼川島東町から川島本町へスケッチを続ける(高松市川島本町交差点を左折)、県道12号線を西に進み丸山古墳へ向かう(約0.8km)

 

 

▼県道12号線を西に進む-1(左側の川島地蔵尊に寄る)、川島地蔵尊-1

 

▼川島地蔵尊-2

▼川島地蔵尊-3

 

 

▼県道12号線を西に進む-2

 

▼県道12号線の北側の「香川県立高松東高校・川島分校之跡」石碑、県道12号線を西に進む-3

 

▼県道156号線交差点の標識、県道12号線を西に進む-4(県道156号線交差点)

 

▼県道156号線交差点の右(北-由良山)方向、県道156号線交差点の左(南-上佐山)方向

 

▼県道12号線を西に進む-5

 

▼左(南)奥に上佐山、右(北)奥に由良山

 

▼左側の道は帰路に使う予定、県道12号線を西に進む-6

 

▼県道12号線を西に進む-7

 

▼県道12号線を西に進む-8

 

▼県道12号線を西に進む-9(左の小径へ入る)、丸山古墳へ進む

 

 

▼丸山古墳の石標が見えて来た、丸山古墳に着いた

 

▼丸山古墳-1

 

▼丸山古墳-2

 

▼丸山古墳-3

 

▼丸山古墳の円墳跡へ進む、県道12号線を横断

 

▼丸山古墳の円墳跡-1

▼丸山古墳の円墳跡-2、丸山古墳の石標の位置に戻る-1

 

(Vol.966-2/4に続く)

 

 

<akijii展-(523)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「フラミンゴ」で、所要時間は135Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.966-2/3をご覧ください。

Vol.966-1/4に続けてご覧ください。

 

▼丸山古墳の石標の位置に戻る-2、丸山古墳の石標の位置に戻った

 

 

▼丸山古墳を後にして高野南一号墳へ向かう(約0.3km)、高野南一号墳へ進む-1

 

▼高野南一号墳へ進む-2

 

▼高野南一号墳へ進む-3

 

▼南西方向奥に高松クレーター5座、高野南一号墳へ進む-4

 

▼高野南一号墳へ進む-5(左折)、高野南一号墳が見えて来た

 

▼高野南一号墳に着いた、高野南一号墳-1

 

▼高野南一号墳-2

 

▼高野南一号墳-3、高野南一号墳を後にして高野南二号墳へ向かう(約0.1km)

 

 

▼高野南二号墳へ進む-1

 

▼高野南二号墳へ進む-2、高野南二号墳の石標が見えて来た(奥は高松クレーター5座)

 

 

▼高野南二号墳-1(奥は由良山)、高野南二号墳-2

▼高野南二号墳を後にして丹生神社へ向かう(約0.5km)、丹生神社へ進む-1

 

▼後方の高野南二号墳を振り返る

 

 

▼丹生神社へ進む-2

 

▼奥に岡池の堤体と上佐山、丹生神社へ進む-3(次の交点を左折)

 

▼丹生神社へ進む-4、北方向の左に由良山・奥に五剣山と前田山

 

▼丹生神社へ進む-5、交点を左折

 

▼丹生神社へ進む-6

 

▼右(東北)方向に川島小学校、川島小学校のズーム景

 

▼丹生神社へ進む-7

 

▼丹生神社へ進む-8

 

▼次の交点を右折、丹生神社へ進む-9

 

 

▼丹生神社へ進む-10、丹生神社に着いた

 

▼丹生神社-1

 

▼丹生神社-2

 

▼丹生神社-3

 

▼丹生神社-4

 

▼丹生神社-5

 

▼丹生神社-6

 

▼丹生神社-7

 

▼丹生神社を後にして帰路のバス停「川島」へ向かう(約0.6km)、県道12号線交点へ進む-1

 

▼県道12号線交点へ進む-2

 

▼県道12号線交点へ進む-3

 

▼県道12号線交点へ進む-4、県道12号線交点が見えて来た

 

▼県道12号線交点に着いた(右折)、県道12号線を東に進む

 

▼県道156号線交差点の標識、県道156号線交差点を左折

 

▼交差点の道標「四国のみち👈84番-屋島寺・☞83番-一宮寺」、県道156号線南方向

 

▼県道156号線を北に進む-1

 

▼県道156号線を北に進む-2(バス停が見えて来た)、バス停「川島」に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.966-3/4をご覧ください。

Vol.966-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:11<矢の岡石棺墓/歓喜院

18.矢の岡石棺墓歓喜院 <撮影:2017.07.13 and 2018.04.21>

矢の岡石棺墓(やのおかせっかんぼ)は、高瀬町の高松自動車道を潜り、左手に高瀬川沿いに進んで行った小山の中にある。矢ノ岡組合せ式箱式石棺群は、1号石棺:長さ156cm、巾(頭部・足部)29cm・19cm、2号石棺:長さ161cm、巾(頭部・足部)43cm・32cmで、古墳時代中期五世紀頃の埋葬施設で、規模は小さいが権威を象徴する宝器的性格をもつ「石釧(いしくしろ)」が副葬されていた事から県下でも注目されている墳墓である。

出土遺物は、1号石棺:石釧一点・弥生式土器二点・人骨一体分、2号石棺:人骨一体分である。

 

弘法大師の十哲の一人である道雄(どうおう)の開基と伝えられる「歓喜院(かんぎいん)」。境内の山麓には四基の窯跡が保存されています。これは、平安・鎌倉・室町時代に亘って瓦等を焼いたもので、寺の歴史を物語る貴重な遺跡です。本堂右手奥の白い土蔵には、国の重要文化財に指定されている「木造不空羂索観音菩薩坐像」が祀られています。この坐像は平安時代後期間もない頃のもので、弘法大師の作と言われています。面相は温和で全身の均斉もよく、刀法もさえた美しい像で県内の木像の中でも優作です。

また、庭では孔雀や鶏も飼われていて、優しく人を迎えてくれます。              (三豊市HP)                                       

 

<所在地・外観> 

▼矢の岡石棺墓・法蓮寺(歓喜院)の位置図- 三豊市高瀬町上勝間矢の岡、三豊市高瀬町下麻518

▼矢の岡石棺墓、法蓮寺(歓喜院)-石釧が出土した箱式石棺、弘法大師の弟子が開基した寺

 

 

JR高瀬駅から県道23号線(詫間琴平線)を琴平方面に行き、高松自動車道を潜って600m程で、高瀬川に架かる橋を渡り、川沿いに北へ進むと「矢の岡石棺墓」があり、石棺2基が保存されている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼矢ノ岡石棺墓の方向、高瀬川を渡る

 

▼矢ノ丘石棺墓の探索へ向かう-1、民家の南側から山へ入る

 

▼入口で見つけた印だが…、矢ノ丘石棺墓の探索へ向かう-2

 

▼矢ノ丘石棺墓の探索へ向かう-3、右側へ進入する-1

途中で分岐があり、先に左側へ進入したが、猪の網が巡らされていて引き返し、右へ進入した。

 

▼右側へ進入する-2、右側への進入も…

右側も進行出来ないと判断し、探索を断念した。機会があれば十分な事前調査をして再アタックしたい。

 

 

箱式石棺からは、人骨と碧玉(せきじょく)製の石釧が出土したが、高瀬川流域では、弥生時代のサヌカイト製の石鏃(せきぞく)・セッピが出土している。

 

▼矢の岡石棺墓-箱式石棺、石釧(web引用-水彩画風変換)

 

 

矢の岡石棺墓から県道23号線に戻り、更に琴平方面に進むと、「歓喜院」の標柱があり、そこから200mほどの丘陵上に「法蓮寺」(歓喜院、真言宗)がある。「木造不空羂策(ふくうけんじゃく)観音坐像」(国重文)は、一面八臂(いちめんはっぴ)のカヤの寄木造で、10世紀も早い頃の作である。

 

歓喜院-標柱、歓喜院が見えてきた

 

▼歓喜院-石階段と寺標、参道

 

▼歓喜院-山門、本堂

 

▼歓喜院-大師堂、境内

 

▼歓喜院-宝物堂、重文説明板

 

▼木造不空羂索観音坐像-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼木造不空羂索観音坐像-2(web引用-水彩画風変換)

 

 

法蓮寺の北側裏手には、「歓喜院内の瓦窯跡」(4基、県史跡)がある。二ノ宮窯跡と、ほぼ同時期の平安時代後期から中世にかけてのものである。ここで焼かれた瓦が大水上神社で発見されており、平安時代後期には、この寺と二宮(にのみや)である大水上神社は、何らかの結びつきがあったと考えられる。

 

▼歓喜院-瓦窯跡、瓦窯跡の説明板

 

▼歓喜院-瓦窯跡:東3-4号窯、西1-2号窯

 

 

<関連遺産>

法蓮寺の北の朝日山は、1988(昭和63)年、朝日山森林公園が開園し、700本のサクラが植えられた。

また、城の形をした高瀬町朝日山資料館が建てられている。

 

▼県道23号線から見る朝日山、朝日山資料館

 

▼朝日山城跡-鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)、朝日山森林公園 -1

 

▼朝日山森林公園-2

 

▼朝日山森林公園-3

 

 

県道23号線を琴平方面に向かうと、城山(しろやま)山頂(168m)に「麻(あさ)城跡」がある。

 

▼麻城跡の案内板、麻城跡の鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)

 

▼麻城跡へ向かう、案内板に従い右に進む

 

▼竹林の中を進む-1

 

▼案内板に従い真っ直ぐ進む(右側は下山に利用する)、竹林の中を進む-2

 

▼左に大きな穴(これは何?)、麻城跡はもう少しだ

 

 

引き続き、Vol.966-4/4をご覧ください。

Vol.966-3/4に続けてご覧ください。

 

▼麻城跡に着いた、麻城-外郭跡

 

▼麻城-本丸跡へ進む-1、空堀(馬切)

 

▼麻城-本丸跡へ進む-2、ねらい岩(大門石)

 

▼麻城-本丸跡へ進む-3、第二郭跡

 

▼麻城-本丸跡へ進む-4、本丸跡

 

▼麻城-石碑、城主・近藤出羽守国久の説明板

 

▼本丸跡からの西北方向の眺望-左に傾山・右に朝日山、朝日山・伊勢朝日山本宮のズーム

この季節、他方向は樹木で遮られていた。

 

頂上は平らに整形され、段段に曲輪(くるわ)が連なっている。近藤氏が城主であった。「秋山家文書」(県文化)には、阿波の三好軍と讃岐の軍勢が戦った麻口合戦が有った事が記されている。

 

▼秋山家文書(web引用-水彩画風変換)

 

この合戦で、讃岐の高瀬郷の秋山氏は、奮戦し、手柄を立てた。

その後、土佐(現、高知県)の長宗我部元親が讃岐に侵攻し、1578(天正6)年秋頃、麻城は落城した。

城主近藤国久は麻城の谷に落ちて死んだとされ、その谷は横死ケ谷(おじがたに)と呼ばれる。

 

麻城跡から県道23号線をJR高瀬駅方面に戻り、新名交差点(国道11号線交点)を左折し、国道11号線を南へ約1km行くと、左側の田んぼの中に「勝造寺層搭」(通称、石の塔、県文化)が見える。

凝灰岩製の十三重搭(異形十三重層)で、高さは7.25mある。「永和四(1378)年」の銘があり、塔身東・南面には、金剛夜叉明王を表す種字(しゅじ)の「ウン」を読み取る事が出来る。

 

▼国道11号線沿いの石の塔標識、標識と石の塔の遠景

 

▼勝造寺層塔-1

 

▼勝造寺層塔-2

 

 

層搭の南東約500mの所に、勝間大坊と称された威徳院(いとくいん)勝造寺(真言宗)があり、「木造兜跋(とばつ)毘沙門天立像・木造阿弥陀如来立像」(ともに県文化)を所蔵する。

 

▼威徳院・本坊-正面、大門は工事中

 

▼威徳院・本坊-白壁(東面) 、白壁(北面)

 

▼威徳院・本坊-北門、本殿と庫裡

 

▼威徳院・本坊-本殿、広々とした境内

 

▼威徳院・本坊-大門と無量寿ハク、境内

 

▼木造兜跋毘沙門天立像、木造阿弥陀如来立像(web引用-水彩画風変換)

 

▼威徳院・奥の院へ向かう

 

▼威徳院・奥の院-石階段、境内1

 

▼威徳院・奥の院-奥殿

 

▼威徳院・奥の院-阿弥陀堂、鐘楼

 

▼威徳院・奥の院-境内2、奥の院から見る爺神山

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

ウォーキングコース(標高70m地点)から見る宮池。

                                                                          

ウォーキングコース(標高70m地点)から見る宮池のズーム景。

                            

遊歩道の北端から見る宮池。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-077  Orignal掲載日:Vol.116 (2012.05.15)

気働き、触発---テイク・アクション。

 

気働きというのは、相手の状態、心理をよく解かった上で、その人の側に回り込んで考え、行動することである。

優しさの片鱗がチラッとこぼれ落ちる時、相手はそれにうたれるのである。

 

意欲や行動が何かに触れることによって誘い出される心の作用それが触発ということだ。

でも、この触発というのは、自分自身の心が膨らんでいる状態のときでなければ起こらない。

自分の内側で努力を懸命にしていないと、触発されないのである。

 

テイク・アクションとは、行動に移すという意味である。

何かを始めるには、勇気がいる場合もあるが、まず行動してみよう。

行動することによって、きっと私たちの毎日は、変わるはずである。

さぁ~テイク・アクションだ・・・。

 

 

<高くがる空間>

ことでん高松築港駅ホームから見る玉藻公園(高松城跡)の鞘橋と天守台の上空。

八幡通り(宮脇町)から見る石清尾八幡宮の上空。

石清尾八幡宮本殿(宮脇町)の上空。

蜂穴神社・髪授神詞(西宝町)の入口の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇近所のSo宅の塀に咲く薔薇

 

◇ウォーキングコースのSe宅に咲く薔薇

 

◇ことでん高松築港駅前の寄せ植え

 

◇高松駅前広場の寄せ植え

 

◇ウォーキングコースのYo宅の畑に咲くマツバギク

 

◇ウォーキングコースに咲くワトソニア

 

◇ウォーキングコースに咲くシラン(紫蘭)

 

◇ウォーキングコースに咲くナヨクサフジ

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<信寺荒神社(櫻の宮)善光寺・高運寺  

浄信寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。

荒神社(櫻の宮)は、JA川島支店のすぐ横にあり、春日川がすぐ横にあるスポットで、小さいながらも存在感のある神社である。

善光寺は、真宗興正派の寺院です。

高運寺は、高野山真言宗の寺院で、本尊は大日如来です。

 

▼所在地、浄信寺

高松市川島東町:〒761-0443

 

▼荒神社櫻の宮、善光寺

 

▼ひだまり川島、高運寺

 

 

▼バス停「川島小学校前」で降車、浄信寺へ向かう(約0.3km)

 

▼県道12号線を東方向へ進む、次の信号交差点を右折

 

▼浄信寺の北側が見えて来た、浄信寺へ進む-1(T交点を左折)

 

▼浄信寺へ進む-2、浄信寺の山門前に着いた

 

▼浄信寺-1

 

▼浄信寺-2

 

▼浄信寺-3

 

▼浄信寺-4

 

▼浄信寺-5

 

▼浄信寺-6

 

▼浄信寺-7

 

▼浄信寺-8

 

▼浄信寺-9

 

▼浄信寺-10、浄信寺を後にして荒神社櫻の宮へ向かう(約0.2km)

 

 

▼.川島東町を西方向に進む-1、左は川島小学校

 

▼川島小学校-1

 

▼川島小学校-2

 

▼川島東町を西方向に進む-2(右奥は県道12号線の歩道橋)、県道12号線の歩道橋を渡る-1

 

▼県道12号線の歩道橋を渡る-2

 

▼歩道橋から見る左(西南)方向、右(東)方向

▼県道12号線の歩道橋を渡る-3、県道12号線の歩道橋を渡った

(Vol.965-2/3に続く)

 

 

 

<akijii展-(522)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「無題e」で、所要時間は435Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.965-2/3をご覧ください。