Vol.966-2/4に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-西讃編:11<矢の岡石棺墓/歓喜院>
<18.矢の岡石棺墓、歓喜院> <撮影:2017.07.13 and 2018.04.21>
矢の岡石棺墓(やのおかせっかんぼ)は、高瀬町の高松自動車道を潜り、左手に高瀬川沿いに進んで行った小山の中にある。矢ノ岡組合せ式箱式石棺群は、1号石棺:長さ156cm、巾(頭部・足部)29cm・19cm、2号石棺:長さ161cm、巾(頭部・足部)43cm・32cmで、古墳時代中期五世紀頃の埋葬施設で、規模は小さいが権威を象徴する宝器的性格をもつ「石釧(いしくしろ)」が副葬されていた事から県下でも注目されている墳墓である。
出土遺物は、1号石棺:石釧一点・弥生式土器二点・人骨一体分、2号石棺:人骨一体分である。
弘法大師の十哲の一人である道雄(どうおう)の開基と伝えられる「歓喜院(かんぎいん)」。境内の山麓には四基の窯跡が保存されています。これは、平安・鎌倉・室町時代に亘って瓦等を焼いたもので、寺の歴史を物語る貴重な遺跡です。本堂右手奥の白い土蔵には、国の重要文化財に指定されている「木造不空羂索観音菩薩坐像」が祀られています。この坐像は平安時代後期間もない頃のもので、弘法大師の作と言われています。面相は温和で全身の均斉もよく、刀法もさえた美しい像で県内の木像の中でも優作です。
また、庭では孔雀や鶏も飼われていて、優しく人を迎えてくれます。 (三豊市HP)
<所在地・外観>
▼矢の岡石棺墓・法蓮寺(歓喜院)の位置図- 三豊市高瀬町上勝間矢の岡、三豊市高瀬町下麻518
▼矢の岡石棺墓、法蓮寺(歓喜院)-石釧が出土した箱式石棺、弘法大師の弟子が開基した寺
JR高瀬駅から県道23号線(詫間琴平線)を琴平方面に行き、高松自動車道を潜って600m程で、高瀬川に架かる橋を渡り、川沿いに北へ進むと「矢の岡石棺墓」があり、石棺2基が保存されている。
<概 要><歴史遺産>
▼矢ノ岡石棺墓の方向、高瀬川を渡る
▼矢ノ丘石棺墓の探索へ向かう-1、民家の南側から山へ入る
▼入口で見つけた印だが…、矢ノ丘石棺墓の探索へ向かう-2
▼矢ノ丘石棺墓の探索へ向かう-3、右側へ進入する-1
途中で分岐があり、先に左側へ進入したが、猪の網が巡らされていて引き返し、右へ進入した。
▼右側へ進入する-2、右側への進入も…
右側も進行出来ないと判断し、探索を断念した。機会があれば十分な事前調査をして再アタックしたい。
箱式石棺からは、人骨と碧玉(せきじょく)製の石釧が出土したが、高瀬川流域では、弥生時代のサヌカイト製の石鏃(せきぞく)・セッピが出土している。
▼矢の岡石棺墓-箱式石棺、石釧(web引用-水彩画風変換)
矢の岡石棺墓から県道23号線に戻り、更に琴平方面に進むと、「歓喜院」の標柱があり、そこから200mほどの丘陵上に「法蓮寺」(歓喜院、真言宗)がある。「木造不空羂策(ふくうけんじゃく)観音坐像」(国重文)は、一面八臂(いちめんはっぴ)のカヤの寄木造で、10世紀も早い頃の作である。
▼歓喜院-標柱、歓喜院が見えてきた
▼歓喜院-石階段と寺標、参道
▼歓喜院-山門、本堂
▼歓喜院-大師堂、境内
▼歓喜院-宝物堂、重文説明板
▼木造不空羂索観音坐像-1(web引用-水彩画風変換)
▼木造不空羂索観音坐像-2(web引用-水彩画風変換)
法蓮寺の北側裏手には、「歓喜院内の瓦窯跡」(4基、県史跡)がある。二ノ宮窯跡と、ほぼ同時期の平安時代後期から中世にかけてのものである。ここで焼かれた瓦が大水上神社で発見されており、平安時代後期には、この寺と二宮(にのみや)である大水上神社は、何らかの結びつきがあったと考えられる。
▼歓喜院-瓦窯跡、瓦窯跡の説明板
▼歓喜院-瓦窯跡:東3-4号窯、西1-2号窯
<関連遺産>
法蓮寺の北の朝日山は、1988(昭和63)年、朝日山森林公園が開園し、700本のサクラが植えられた。
また、城の形をした高瀬町朝日山資料館が建てられている。
▼県道23号線から見る朝日山、朝日山資料館
▼朝日山城跡-鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)、朝日山森林公園 -1
▼朝日山森林公園-2
▼朝日山森林公園-3
県道23号線を琴平方面に向かうと、城山(しろやま)山頂(168m)に「麻(あさ)城跡」がある。
▼麻城跡の案内板、麻城跡の鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)
▼麻城跡へ向かう、案内板に従い右に進む
▼竹林の中を進む-1
▼案内板に従い真っ直ぐ進む(右側は下山に利用する)、竹林の中を進む-2
▼左に大きな穴(これは何?)、麻城跡はもう少しだ
引き続き、Vol.966-4/4をご覧ください。