Vol.966-4/4 R巻頭-78。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:11<矢の岡石棺墓/歓喜院> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.966-3/4に続けてご覧ください。

 

▼麻城跡に着いた、麻城-外郭跡

 

▼麻城-本丸跡へ進む-1、空堀(馬切)

 

▼麻城-本丸跡へ進む-2、ねらい岩(大門石)

 

▼麻城-本丸跡へ進む-3、第二郭跡

 

▼麻城-本丸跡へ進む-4、本丸跡

 

▼麻城-石碑、城主・近藤出羽守国久の説明板

 

▼本丸跡からの西北方向の眺望-左に傾山・右に朝日山、朝日山・伊勢朝日山本宮のズーム

この季節、他方向は樹木で遮られていた。

 

頂上は平らに整形され、段段に曲輪(くるわ)が連なっている。近藤氏が城主であった。「秋山家文書」(県文化)には、阿波の三好軍と讃岐の軍勢が戦った麻口合戦が有った事が記されている。

 

▼秋山家文書(web引用-水彩画風変換)

 

この合戦で、讃岐の高瀬郷の秋山氏は、奮戦し、手柄を立てた。

その後、土佐(現、高知県)の長宗我部元親が讃岐に侵攻し、1578(天正6)年秋頃、麻城は落城した。

城主近藤国久は麻城の谷に落ちて死んだとされ、その谷は横死ケ谷(おじがたに)と呼ばれる。

 

麻城跡から県道23号線をJR高瀬駅方面に戻り、新名交差点(国道11号線交点)を左折し、国道11号線を南へ約1km行くと、左側の田んぼの中に「勝造寺層搭」(通称、石の塔、県文化)が見える。

凝灰岩製の十三重搭(異形十三重層)で、高さは7.25mある。「永和四(1378)年」の銘があり、塔身東・南面には、金剛夜叉明王を表す種字(しゅじ)の「ウン」を読み取る事が出来る。

 

▼国道11号線沿いの石の塔標識、標識と石の塔の遠景

 

▼勝造寺層塔-1

 

▼勝造寺層塔-2

 

 

層搭の南東約500mの所に、勝間大坊と称された威徳院(いとくいん)勝造寺(真言宗)があり、「木造兜跋(とばつ)毘沙門天立像・木造阿弥陀如来立像」(ともに県文化)を所蔵する。

 

▼威徳院・本坊-正面、大門は工事中

 

▼威徳院・本坊-白壁(東面) 、白壁(北面)

 

▼威徳院・本坊-北門、本殿と庫裡

 

▼威徳院・本坊-本殿、広々とした境内

 

▼威徳院・本坊-大門と無量寿ハク、境内

 

▼木造兜跋毘沙門天立像、木造阿弥陀如来立像(web引用-水彩画風変換)

 

▼威徳院・奥の院へ向かう

 

▼威徳院・奥の院-石階段、境内1

 

▼威徳院・奥の院-奥殿

 

▼威徳院・奥の院-阿弥陀堂、鐘楼

 

▼威徳院・奥の院-境内2、奥の院から見る爺神山

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀