Vol.967-3/4 R巻頭-79。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:12<弥谷寺・津嶋神社> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.967-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:12<弥谷寺・津嶋神社

19.弥谷寺 <撮影:2012.09.07 and 2012.10.16>

四国霊場第71番札所 弥谷寺(いやだにじ)。

仁王門から本堂までの急勾配な石段は、なんと540段という難所。大師堂は、岩壁を背に、囲まれたように建てられている。中へ入ると獅子が口を開いたような形をした岩窟があり、大師像など、数々の仏像を安置。また、境内のあちこちでは「磨崖仏」を拝むことができる。        (三豊市観光交流局HP)

 

<所在地・外観>

弥谷寺-三豊市三野町大見乙70

▼弥谷寺-四国霊場71番札所、寺内は県指定の信仰遺跡

 

 

JR詫間駅から県道48号線を東方向に3kmほど行くと、寺地バス停がある。

バス停から山道を北に1kmほど上がると、「弥谷寺」(真言宗)の登り口に着く。

 

<概 要><歴史遺産>

「いやだにさん」の名で親しまれている弥谷寺のある弥谷山(標高381.5m)は、古くから死霊の宿る山と信じられ、近隣の真言宗の家では、人が亡くなると霊をこの山に伴って行く。

これを「イヤダニマイリ」(死後、頭髪や衣類を当寺に納める習俗)と呼んでいる。

 

▼天霧山・弥谷山、弥谷山の山容

 

▼弥谷寺へ-1(県道48号線) 、左折し山道へ

 

▼弥谷寺へ-2(本堂へ1.1km)、本堂へ八丁の石柱

 

▼弥谷寺へ-3(八丁目大師堂前)、八丁目大師堂

 

▼弥谷寺へ-4(ふれあいパークみのとの分岐点)、県道221号線と交錯

 

▼弥谷寺へ-5(本堂へ581m) 、周辺案内図

 

▼弥谷寺へ-6(表参道巡拝路の標識) 、表参道-本堂へ530m

 

 

弥谷寺内の「賽(さい)の河原」「獅子窟」「比丘尼谷(びくにだに)の磨崖仏(まがいぶつ)」「比丘尼谷の墓地 五輪塔」が「弥谷寺信仰遺跡」として県史跡に指定されている。

また、唐の優品である「金銅五鈷鈴(ごこれい)」(国重文)を始めとする寺宝や、多数の聖教(しょうぎょう)を有する。

 

▼境内古図、金銅五鈷鈴(web引用-水彩画風変換)

 

 

山門(仁王門)の手前に俳句茶屋という茶店があったが、ここまでは車で行く事が出来る。

 

▼俳句茶屋(現在は閉鎖)、山門への階段

 

▼山門(仁王門)

 

▼仁王

 

 

山門を潜ると、緩やかな石段が続き、樹木が茂り、昼でも薄暗い。

谷川に沿った法雲橋(ほううんばし)までの参道は、「賽の河原」と呼ばれ、地蔵菩薩の石仏が多数祀られている。鉄製の急な階段を上り切ると大師堂(納経所)である。堂の奥に、「獅子窟」と呼ばれる薄暗い岩窟がある。曼荼羅壇の三方に阿弥陀如来と大日如来、地蔵菩薩の磨崖仏が有るが、ここで祈ると人間の背負った罪を獅子が食い尽くしてくれると云う。

 

▼262段の石段(賽の河原)、108の鉄製階段

 

▼百八階段の手前、弥谷寺案内図

 

▼大師堂

 

▼大師堂内、獅子の岩屋と明星の窓(web引用-水彩画風変換)

 

 

大師堂を出ると多宝塔・十全堂・鐘楼があり、比丘尼谷に出る。

この辺り一帯の岩壁には、無数の五輪塔や二重・三重の塔が彫られてある。

遺髪・遺骨が納められていたと云う。

 

▼多宝塔、本堂-1

 

▼本堂-2

 

▼鐘楼堂、観音堂

 

▼比丘尼谷、弥陀三尊摩崖仏

 

▼弥陀三尊摩崖仏の説明板、比丘尼谷の墓地(web引用-水彩画風変換)

 

▼大師像、金剛拳菩薩像

 

 

鐘楼前の石段を上がった求聞持窟(ぐもんじくつ)には、道範阿闍梨(どうはんあじゃり)の石像がある。

 

▼道範阿闍梨の石造-1

 

 

道範は、和泉国船尾(現、大阪府堺市)の生まれで、読経のために寝食をも忘れるほど精進し、高野山正智院(しょうちいん)の高僧となる。その後、金剛峯寺と大伝法院(だいでんほういん)(のちの根来寺)との紛争などに巻き込まれ、1243(仁治4)年に讃岐に配流された。郷照寺(宇多津町)に住み、1245(寛元3)年頃には、善通寺(善通寺市)に仮寓した。1249(建長元)年に許されて帰山するまで6年間、讃岐で布教したと云われる。

善通寺に誕生院を建立して弘法大師を顕彰したり、琴弾八幡宮や姫浜八幡宮(現、豊浜八幡神社)、仲南の尾背寺(おのせじ)(廃寺)など、多くの西讃の神社仏閣に参詣したりした。

その間の様子は「南海流浪記」に書き記された。

 

▼道範阿闍梨の石造-2(web引用-水彩画風変換)

 

境内にある多数の墓は詣(まい)り墓で、江戸時代のものが多い。

丸亀藩主山崎俊家の石塔、天城城主香川信景の石塔などが有名である。

 

▼香川氏の墓

 

 

<関連遺産>

弥谷山の東、尾根伝いにある天霧山(382m)の山頂から尾根にかけて、讃岐守護代として讃岐西部を支配した香川氏の牙城「天霧城跡」(国史跡)がある。

 

▼天城城跡の説明板、コルの指導標

 

▼天霧山へ向かう、隠砦跡の標示

 

▼何も無い隠砦跡、犬返しの険

 

▼保存会の標識、本丸跡が近い

 

▼天霧山山頂(本丸跡) 、天霧城本丸跡(物見台)

▼二の丸跡、三の丸跡

 

 

弥谷山の南東1.5kmほど、鳥坂(とっさか)峠から国道11号線を南に200mほど下ると、高松自動車道の西側に、花崗岩製で高さ約2mの「花立(はなたて)碑」がある。1776(安永5)年に庄屋大井助左衛門が建てたもので、鳥坂峠を越える旅人は、この碑に花を供え、弥谷寺を遥拝(ようはい)したと云う。

 

▼花立碑(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.967-4/4をご覧ください。