Vol.967-1/4 R巻頭-79。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:12<弥谷寺・津嶋神社> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

新居宮池は今

宮池の遊歩道南東端から西北方向のパノラマ景。

宮池親水公園広場から見る水上展望台。

宮池の遊歩道南西端から東北方向のパノラマ景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-079  Orignal掲載日:Vol.118 (2012.05.25)

根は大事。

 

植物が生き生きと生育していくのに欠かせないのが根である。土中の目に見えない働きがあって花は咲き、葉は生い茂る。人間も然りである。人が人生という時間軸の中で自らの花を咲かせていくには、根がなければならない。根を養っていない人はいささかの風にも傾き、倒れる。植物も人間も自然の節理の前には等しく、平等である。

 

では、人間の根はどうしたら養えるのだろうか。

釈迦は人間を悟りに導く方法として、六波羅蜜(ろくはらみつ)を説いた。

布施(ふせ、与える)、持戒(じかい、自ら戒めるものを持つ)、忍辱(にんにく、苦難やいやなことを耐え忍ぶ)、精進(しょうじん、仕事に一所懸命打ち込む)、禅定(ぜんじょう、心を落ち着かせる)、智慧(ちえ、以上の五つの修養に努めていると生れる)、これが六波羅蜜で、心の根を養う実践徳目であろう。

 

中で特に根を養うのに大事なものは、忍辱ではないだろうかと思う。人生の艱難辛苦に耐え忍ぶ。植物が激しい風雪や干天にさらされるほど強く根を張るように、人間の根もそこに養われるのである。

 

相田みつをの詩に「いのちの根」と題するものがある。

なみだをこらえて、かなしみにたえるとき  ぐちをいわずに、くるしみにたえるとき  いいわけをしないで、だまって批判にたえるとき  いかりをおさえて、じっと忍辱にたえるとき  あなたの眼のいろが、ふかくなり  いのちの根が、ふかくなる

長い苦節に耐え、深く静かに自らの根を養ってきた人の言葉は重い。

 

 

<高くがる空間>

ハゼ東公園(東ハゼ町)の上空。

ハゼ西公園(東ハゼ町)の上空。

観賢増正と剃刀塚(西ハゼ町)の上空。

南部伊平記念碑(紙町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコース脇の畑で栽培されているスモクツリ

 

スモークツリーはウルシ属に近縁な、雌雄異株の落葉樹で、初夏に咲く花木の代表で、ヨーロッパから中国に分布する。

 

雌木の枝先につく花序は長さ約20cmで多数枝分かれし、花後に伸びた花柄が遠くからは煙がくすぶっているように見える。雄木は花序が短く、煙状にはならない。

 

横に広い円形の樹形が美しく、秋の紅葉も楽しむことができる。

銅葉や黄葉の園芸品種も栽培されている。

和名はケムリノキ(煙の木)で、その他の名前としてはハグマノキ(白熊の木)である。

 

◇ウォーキングコースに咲くミニバラ

 

◇ウォーキングコース脇のYa宅の畑のブラシの木

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<椙尾神社・十河城跡 

椙尾(すぎお)神社は、十川東町の朔方寺の北側にある神社。祭神は天児屋根命。十河城の鬼門にあり十河存保が崇敬していた。社宝に県内最古の鰐口がある。歴史を感じる神社である。

仏教の法要儀式や僧侶たちの集団生活の合図に使う梵鐘や鰐口(わにぐち)、木魚(もくぎょ)などを梵音具(ぼんおんぐ)といい、清浄な音をだす仏具である。鰐口は、金鼓(きんこ)ともいい、古代には多用されていたが、今は神社仏閣の軒先につるし、礼拝の時、布で編んだ綱で打ちならしている。
この椙尾神社の鰐口は、南北朝の文和(ぶんな)3年(西暦1354年)銘の作で、面径20cmの小振りであるが、細部の形状には古様がみられる。表裏同文(どうもん)、面中央に2本の紐帯(ちゅうたい)をめぐらせた撞座区(つきざく)を配し、区内には3本の紐帯を、外区には2本の紐帯をめぐらせている。地方色豊かな作風であるが、全体としてよく古い姿を伝え、文和3年の刻銘と合わせ考えると、鰐口編年上貴重な存在である。銘文は「讃州山田郡十河郷椙尾大明神大師堂元心文和三年甲午三月十一日。」~高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』より抜粋~

 

十河城跡は、十川東町の「城」といわれる地名の台地上にあり称念寺を中心とする一帯である。四方の眺望にすぐれ、城として恵まれた立地にある。同寺の境内に、本丸があったと考えられている。
本丸跡には、将兵の菩提を弔うため称念寺が建立された。北側の空堀は、歴然と名残をとどめ、西側の鷺(さぎ)の池、東側の急傾斜など天然の地形を利用した中世の典型的な城跡として貴重な史跡である。
南北朝時代、山田郡の豪族植田景保(かげやす)の第4子吉保(よしやす)が十河城に分家し、城主となる。以来、存景(まさかげ)・存春(まさはる)(景滋(かげはる))と続き、足利幕府細川管領家の執事(しつじ)職をつとめた阿波の三好家から一存(かずまさ)、存保(まさやす)と二代にわたって当主を迎え、国内の名族をおさえて讃岐の旗頭となり2万石を領した豪族である。十河城は土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際し、激戦の城となったことで有名である。
~高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』より抜粋~

 

▼所在地、椙尾神社

高松市十川東町:〒761-0434

 

▼称念寺・十河城跡、称念寺やすらぎ墓地

 

▼十河一存・存保墓所、鷺池と称念寺・十河城跡・やすらぎ墓地

 

 

▼バス停「フジグラン十川」で降車、早朝のフジグラン十川を散策-1

 

▼早朝のフジグラン十川を散策-2

 

▼早朝のフジグラン十川を散策-3

 

 

▼椙尾神社へ向かう(約0.9km)、県道30号線へ進む

 

▼県道30号線の交点を右折、バス停「フジグラン十川」を振り返る

 

▼県道30号線を南西方向に進む-1

▼高松市十川東町交差点(県道30・10号線)を南西に渡る、県道30号線を南西方向に進む-2

 

▼高松市十川東町交差点(県道10号線)の西北方向、東南方向

 

▼県道30号線を南西方向に進む-3

 

▼十川東町檀原交差点、県道30号線を南方向に進む-1

 

▼県道30号線を南方向に進む-2

 

▼次の交点を左折、椙尾神社へ進む-1

 

▼椙尾神社へ進む-2

 

 

▼椙尾神社に着いた、椙尾神社-1

 

▼椙尾神社-2

 

▼椙尾神社-3

 

▼椙尾神社-4

 

▼椙尾神社-5

 

▼椙尾神社-6

 

▼椙尾神社-7

 

▼椙尾神社-8

 

 

▼椙尾神社を後にして称念寺(十河城跡)へ向かう(約0.7km)、県道30号線へ進む

 

▼県道30号線の交点を左折、県道30号線を南方向に進む-3

 

▼県道30号線を南方向に進む-4、左(西)奥に朔方寺が見える

 

▼県道30号線を南方向に進む-5

 

▼県道30号線を南方向に進む-6、右奥に案内板が見えて来た

 

▼案内板「称念寺・十河城跡・やすらぎ墓地➡」、称念寺・十河城跡へ進む-1

 

▼称念寺・十河城跡へ進む-2

 

▼称念寺・十河城跡へ進む-3、後方を振り返る

 

(Vol.967-2/4に続く)

 

 

<akijii展-(524)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「無題f」で、所要時間は175Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.967-2/4をご覧ください。