akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -29ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.965-1/3に続けてご覧ください。

 

▼右奥に荒神社櫻の宮が見える、荒神社櫻の宮に着いた

 

▼荒神社櫻の宮-1

▼荒神社櫻の宮-2

 

▼荒神社櫻の宮-3

 

▼荒神社櫻の宮-4、荒神社櫻の宮を後にして善光寺へ向かう(約0.1km)

 

 

▼県道12号線を西南に進む(川島橋-春日川を渡る)、右奥に善光寺が見える

 

▼川島橋の左(南東-川島小学校)方向、右(北西-由良山)方向

 

 

▼右奥の善光寺、善光寺に着いた

 

▼善光寺-1

▼善光寺-2

 

▼善光寺-3

 

▼善光寺-4

 

▼善光寺-5

 

 

▼善光寺を後にして春日川の西沿いに南方向に散策、県道12号線を東北に進み春日川の西側へ進む

 

▼春日川の西沿いに南方向に散策-1

 

▼春日川の西沿いに南方向に散策-2、後方の川島橋を振り返る-1

 

▼春日川の西沿いに南方向に散策-2

 

▼対岸の川島小学校、春日川の西沿いに南方向に散策-3

 

▼春日川の西沿いに南方向に散策-4、後方の川島小学校を振り返る

▼後方の川島橋を振り返る-2、春日川の西沿いに南方向に散策-5

 

▼春日川の西沿いの散策を終え「ひだまり川島」に寄る、「ひだまり川島」へ進む-1

 

▼「ひだまり川島」へ進む-2、右奥に川島小学校

 

 

▼「ひだまり川島」が見えて来た、「ひだまり川島」-1

 

▼「ひだまり川島」-2

 

▼「ひだまり川島」を後にして高運寺に寄る、高運寺へ進む-1

 

▼右(東)奥に川島小学校、高運寺へ進む-2(次の交点を左折)

 

▼高運寺へ進む-3

 

▼高運寺へ進む-4、高運寺に着いた

 

 

▼高運寺-1

 

▼高運寺-2

 

▼高運寺-3

 

▼高運寺-4

▼高運寺-5、高運寺を後にして高松市川島本町交差点へ向かう(約0.2km)

 

 

▼高松市川島本町交差点へ進む-1、次の交点を右折

 

▼高松市川島本町交差点へ進む-2、高松市川島本町交差点が見えて来た

▼高松市川島本町交差点に着いた、交差点を左折して県道12号線を西に進む

 

(次報Vol.966に続く)

 

引き続き、Vol.965-3/3をご覧ください。

Vol.965-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:10兵衛神社・大水上神社

16.権兵衛神社  <撮影:2014.04.12 and 2015.10.23 and 2016.05.27>

権兵衛(ごんべえ)神社は、寛延の大一揆(西讃農民一揆)を指導し、処刑された大西権兵衛ら七義士が祀られています。寛延3(1750)年1月に起こった一揆は、飢饉でも厳しく取り立てられた年貢によって追い詰められ丸亀・多度津藩領の農民が6万5千人集結した大一揆でした。那珂郡・多度郡・三野郡・豊田郡、つまり丸亀・多度津藩の全体に広がる全藩一揆でした。この頃は農村の格差が拡大してきた時期ですが、このとき年貢未進(負債)を抱えていたのは零細農民だけではなく、中小農民の中にまで広がっていました。

彼らが要求したのは、年貢未進の返済を30年で無利子にするなど経済的要求、年貢の銀納分を恣意的に決めず大坂の相場に従う、役人の不正・乱費を無くす、などでした。1月23日、藩側は善通寺客殿で農民代表と会見し、13か条の要求のうち10か条を認め、残り3か条は保留としました。しかし、この一揆の最中、幕府は全国化した一揆に驚き、一揆弾圧令を出していました。2月10日、この知らせが丸亀藩に届き、丸亀・多度津両藩は態度を一変させました。指導者の捕縛、処刑、領外追放を行い、約束の破棄を通達しました。ただし、役人の不正・乱費などに関する要求は認めました。

 

<所在地・外観>

▼権兵衛神社-三豊市豊中町笠田笠岡3285

▼権兵衛神社-餓死寸前の農民たちのために命かけた7人の義民をまつる

 

 

JR高瀬駅から国道11号線へ出て、南西方向へ約2km、国道の右側・長池の南に「権兵衛神社」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼権兵衛神社前、権兵衛神社-全景1

 

 

権兵衛神社は、百姓一揆を指導して処刑された丸亀藩領笠岡村の大西権兵衛・弥市郎・嘉兵衛、大野村(現、三豊市山本町)の高橋兵治郎、七箇村(現、まんのう町)の金右衛門、多度津藩領三井村(現、多度津町)の金右衛門、碑殿村(現、善通寺市)の甚右衛門ら、7人の義民を祀っており、七義士神社とも称される。

 

▼権兵衛神社-全景2、社号標

 

▼権兵衛神社-鳥居、社殿と芝居小屋

 

▼権兵衛神社-七義士の記念碑、乃木大将追慕碑

 

 

18世紀中頃、丸亀・多度津藩では飢餓が続いていたにも関わらず、厳しい年貢の取り立てが行われた。農民たちは、餓死寸前にまで追い込まれ、1750年1月、那珂郡・多度郡の農民たちは天霧山麓に集結した。三野郡・豊田郡の農民たちは本山寺やその近くの財田川の川原に集結し、観音寺村(現、観音寺市)大庄屋の屋敷を打ち壊すなどした後、丸亀藩に対して13カ条の嘆願書(多度津藩に対しては7カ条)を掲げ、丸亀城下に迫った。各郡から一揆に参加した数は約6.5万人と云われる。

丸亀・多度津両藩の役人は、善通寺(善通寺市)境内に農民代表を呼び集め、訴えを受理した。

農民は餓死寸前の状態を脱し、一揆は沈静化した。

 

一揆が鎮まった後に蜂起の指導者たちは、次々に捕らえられ、丸亀藩領民は金倉川の川原で、多度津藩領民は葛原(現、多度津町葛原)でそれぞれ処刑され、多くの農民が追放となった。

 

1903(明治36)年、笠岡村の権兵衛ゆかりの三豊市豊浜町笠田に権兵衛神社が建てられ、1974(昭和49)年には権兵衛の辞世の歌碑が建立された。毎年8月第1日曜日には、権兵衛祭が開催される。

権兵衛さんの辞世の句「此の世をば 泡と見て来し 我が心 民に代わりて 今日ぞ嬉しき」。

元首相(当時大蔵大臣)大平正芳氏が揮毫(きごう)しました。

 

▼権兵衛の辞世の歌碑、ごんべい祭り(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

宇賀神社(三豊市)の随身門の天井裏で七義士が評定を行ったと伝わります。彼らが村々に呼びかけた回文には「御出の節は、かま・くわ・みのがさ御持参ならるべく候」とあり、脇差・鉄砲など武器を持たない事を指示しています。江戸初期を除いて、一揆はデモ行進に近いのが実態でした。大庄屋・庄屋の中には打ち壊しにあった者もいますが、役人の不正を糺すという一揆のスタンスと考えられます。

 

▼宇賀神社-随身門

 

 

権兵衛神社の北西約500mの天神山には、道音寺(どおんじ)(単立)があり、境内には大西権兵衛夫妻を祀った小さな祠がある。

 

▼道音寺-1(web引用-水彩画風変換)

 

 

道音寺からは、法隆寺式の7世紀後半の瓦が出土している。746(天平18)年の「法隆寺伽藍縁起幷(ならびに)流記(るき)資材帳」には、三野郡に法隆寺領が1カ所あり、法隆寺の倉が存在していた事が解る。道音寺も、法隆寺となんらかの関係が有ったのではないかと考えられる。

奈良・平安時代の瓦も発見され、旧高瀬町域には、「ドオンジ」という小地名が残っている。

 

▼道音寺-2、法隆寺式の7世紀後半の瓦(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

17.大水上神社 <撮影:2013.09.18 and 2017.07.13>

古くから水の神様として崇められ、延喜式神名帳に讃岐国二の宮と記載されている「大水上(おおみなかみ)神社」。境内には、香川の水環境に認定されている、岩畳をなす宮川が流れています。また、昼でもうっそうとした社叢の中には、昔から干ばつの時に雨乞い神事が行われた「うなぎ淵」があり、せせらぎの音が心を癒してくれます。周辺地域は高瀬銘茶の生産地で、4月下旬には「高瀬二ノ宮ふる里まつり」が行なわれ、茶畑ろ~どウォークのポイントの1カ所として、のんびり歩けるようになっています。             (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

大水上神社-三豊市高瀬町羽方2136-1

▼大水上神社-荘厳な佇まいの讃岐二宮、拝殿前に南北朝時代の石灯篭

 

 

JR高瀬駅から三豊市コミバス財田高瀬線で約40分「バス停:大水上神社」に着く、バス停の270m先に「大水上神社」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

高松市の讃岐国一宮(いちのみや)(田村神社)に対して二宮(にのみや)と呼ばれ、「延喜式」に記載された神社の中で、三野郡唯一のものである。讃岐の「延喜式」式内社は、水源の近くに位置するという傾向がある。大水上神社は、財田川支流の宮川の水源付近に位置する。

 

▼入口、社号標・四国のみち案内板・バス停標識・ネズの木案内・二ノ宮の瓦窯跡など

 

▼鳥居をくぐり脇道へ、脇道-1

 

▼脇道-2

 

▼大鳥居、参道-1

 

▼祓殿、参道-2

 

 

髄身門を潜り、玉垣に沿って歩くと、スギやクスの大木に囲まれた拝殿・本殿がある。

 

▼注連柱、随神門

▼境内

 

▼社殿

 

▼拝殿

 

▼本殿

 

▼絵馬殿

 

▼四社宮、本殿後方の巨大な夫婦岩

 

 

境内の龍王淵(うなぎ淵)は雨乞いが行われた場所で、黒いウナギが現われると雨、白いウナギが現われると晴れると云い伝えられている。

 

▼うなぎ淵

 

 

「建久九(1198)年」の社領目録には、清澄寺(せいちょうじ)・神宮寺の2つの付属寺院とその社領が記載されている。また、鐘楼跡と伝えられる地点からは、3kmほど離れた歓喜院内の瓦窯跡(県史跡)で造られた瓦が出土している。

 

▼歓喜院内の瓦窯跡(web引用)

 

 

拝殿前の六角の「石灯籠」(県文化)は、高さ2.46m。凝灰岩製で、円筒の竿の部分には全面に雲龍文が施されている。火袋(ひぶくろ)には「康永四(1345)年」の年紀が刻まれ、藤原定村を願主として「大工法橋淨□」により製作された事が解る。南北朝時代の装飾性豊かな灯籠である。

 

▼時雨(さみだれ)燈籠

 

 

境内の南側の斜面には、「二ノ宮窯跡」(国史跡)がある。

12m離れて2基の窯跡が並び、西側が一号窯、東側が二号窯と呼ばれている。

共に平安時代後期から鎌倉時代のもので、瓦のほか、坏(つき)や硯(すずり)も焼かれた。

 

▼二ノ宮の瓦窯跡-1

 

▼二ノ宮の瓦窯跡-2

 

 

<番外>

「ネズの木」と「大水上神社の御旅所」を掲載しておきます。

▼ネズの木の説明板、ネズの木1

 

▼ネズの木-2、大水上神社の御旅所

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

西側の遊歩道から見る宮池水上展望台と水面。

水上展望台を中心にした宮池のパノラマ景。

北側の遊歩道から見る宮池水上展望台と水面。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-076  Orignal掲載日:Vol.115 (2012.05.10)

こころが乾いている。

 

今のこの豊かな日本の社会で、年間3万人を越える自殺者が、十数年も続いている。

ベトナム戦争を15年間やって亡くなったアメリカ人が6万4千人で、私たちは爆弾も落ちない、機関銃の弾も飛んで来ない安全な社会に生きているのに、たった2年間でベトナム戦争15年の悲惨な泥沼の戦争よりも、もっと多くの人命を自殺によって失っている。

この数は広島型の原子爆弾を7年に一発ずつ落とし続けている計算になるのだ。

 

戦後の日本の建築工学の発展は、湿式から乾式への工法の大転換にあったと、東大の鈴木博之氏は指摘している。我々が小さい頃、家を建てている前を通りかけると、鉄板の上に砂利と砂とセメントを入れて、バケツで水をやってこねまわしていた。壁土を練るとか漆喰をつくるとか、水を多量に使って一軒の家が建っていた。これが「湿式工法」である。それがこの60年のあいだに、コンクリートは工場でつくってくるようになり、壁土を使わないでベニヤ板にビニールの壁紙を貼るとかアルミサッシとかプラスチックとか軽金属とかガラスとかを使って、一滴の水も使わずに一軒の家が建つようになった。それを「乾式工法」という。

 

湿式から乾式へ大転換をしたのは、建築の現場だけでなくて、教育の現場も、医療だって、あるいは…というふうに考えていくと、まさにいま日本はあらゆる面で乾式の社会のなかに住むようになっていることに気づく。

「情」なんていうのは湿式社会の典型であるが、そのような水分の存在しないところで生まれ育って大人に成ることを考えると、こころの中まで乾いてくるのは当然だと思うのだ。ものの見方や考え方だって変わってくる。

 

おしぼりを例に挙げると、水分を含んでいるものは重いけれど、乾いたものは軽い。つまり、乾式社会は軽い社会なのだ。そうした戦後の軽い社会の中で暮らすうちに、日本人のこころは乾いて、いのちが軽くなることにつながった。

困った問題にぶつかると「もうしょうがない」といって、簡単に自分の命を放り出す。あるいは他人の命を奪う。

それは命が軽くなっているからであり、こころが乾いているところに、根本的な原因があるのではないか、と思うのである。

 

経営には技術や知識はもちろん大事だが、人間の集団だから、こころの動きが非常に大事と言えど、感情を表に出さず、すべてを論理的に割り切って考え、なるべく人間性を表に出さないように抑えて、論理的に知的に物事を処理していこうとするが、情の部分が乾き切った人…それは誰だ。

 

 

<高くがる空間>

峰山町へ向かう車道(西宝町)から見る高松市中心部(高松シンボルタワ-)と奥の屋島の上空。

峰山公園芝生広場(峰山町)(翔-はばたき)の上空。

厄除不動明王院(西宝町)の上空。

厄除不動明王院(西宝町)から見る高松市中心部(中央に香川県庁舎)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースに群生するコバンソウ(小判草)

晩春から夏に、線形の葉の間からまっすぐ伸びた茎先が枝分かれし、細い糸のような花柄をまばらに出して、淡い緑の小さな花穂をつけ、花穂が実ってくると黄褐色になる。

 

コバンソウはイネ科の植物で、小花が集まった小穂ができ、花びらのない小花から雄蕊(おしべ)が少し出ている。花の名は、穂の形が小判に似ている事から名付けられた。

別名は穂を俵に見立てて俵麦(タワラムギ)と付いている。

 

ヨーロッパ原産で、日本には明治時代に観賞用に導入された帰化植物だが、現在では野生化して雑草として広く見られるようになった。

 

花言葉は、花名どおり花穂が小判のように見える事から「金満家・金持ち」と付けられている。

 

◇ウォーキングコースのka宅の畑に咲くラバテラ・バイカラー

 

◇我が家の庭に咲いている白花シラン

 

◇ウォーキングコースに咲くキショウブ

 

◇ウォーキングコースのTu宅の畑に咲く(シャクヤク)

 

◇町並巡りで出会ったチロリアンランプ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<前田甚之丞の祠・観音庵

前田甚之丞の祠は、前田東町西本村の集会場横に、甚之丞さんと呼ばれる小祠がある。石造りで、高さは0.24mでこれが前田甚之丞のお墓だと云われている。元は50m程度北の田圃の中にあって、そこが甚之丞戦死の地であると言い伝えられている。前田氏は、文明年中(1469~87)に十河城主、十河在春(まさはる)の弟、宗在(むねまさ)が分家し前田西町に城を構えて居城とし、前田頼母頭(たのものかみ)宗在と称して、初代城主となった。大永四年(1524)八月、宗在が亡くなって、その子である宗春が第二代城主となり、天正五年(1577)二月、宗春が亡くなって、その子である宗清が第三代城主となったが、これが前田甚之丞である。甚之丞は、武勇のほまれ高く、弓矢などを携えて、六尺(約1.8m)をも飛び越える軽業の持ち主で、ことに弓にかけては百発百中の名人であった。わずかな手勢で、木太町の向城、鬼無町の佐藤城などの諸城を襲い、人を切り殺し財物を奪ったと伝えられている。天正十年八月、土佐の長宗我部元親が西讃・中讃の武将を従えて十河城を包囲攻撃したが、城が堅固で容易に落ちず、包囲のまま八月を過ごしていた。この時、甚之丞は城内で防戦につとめ、また暗闇に乗じてしばしば敵陣に忍びこみ、兵器や糧食を奪い取った。ある時は敵陣の真っただ中、将兵の宿所に侵入して、敵の首を多数打ち取り、ある時は敵の軍馬を奪って帰るなど、包囲軍は甚之丞率いる攪乱隊の奇襲にあい苦戦した。十河城の戦に活躍した甚之丞は、翌年三月二十七日、この戦が終わらない内に死去し、前田城主は絶えた。

 

観音庵は、享禄二年(1529)に奥州岩崎(宮城県)三万石の城主、黒川四郎右衛門享氏の孫・黒川四郎右衛門正成によって創建されたと伝えられている。天正十年(1582)に兵火にかかって堂宇はすっかり無く成り、本尊の聖観世音菩薩も背部に大火傷した。元禄二年(1689)黒川卯右衛門忠重が堂宇を復興し、以後、一族から代々尼僧を出して維持してきたが、現在は無住である。火傷をした人が祈願すればご利益があると言い伝えられている。

 

▼所在地、前田甚之丞の祠(墓)

高松市前田東町:〒761-0322

 

▼観音庵、県立高松東高

 

 

▼前田西町から前田東町に入った(前田甚之丞の祠へ向かう-約0.5km)、右にお堂

 

▼前田東町を南に進む-1、後方を振り返る(前田西町-西光寺)

 

▼前田東町を南に進む-2(県道42号線交点を右折)、県道42号線を西北方向に進む-1

 

▼県道42号線を西北方向に進む-2

 

▼県道42号線を西北方向に進む-3(次の三叉交点を左折)、県道42号線の高松市前田西町交差点のズーム景

 

▼三差交点を左折して東南方向に進む、前田東町を東南方向へ進む-1

 

▼前田東町を東南方向へ進む-2(前田小学校北交差点を横断)、前田小学校北交差点

▼前田小学校北交差点の左(東)方向、右(西)方向

 

▼前田小学校北交差点を横断、前田東町を東南方向へ進む-2

 

▼前田東町を東南方向へ進む-3(次の交点を左折)、前田甚之丞の祠が見える

 

 

▼前田甚之丞の祠に着いた、西本村中南集会所

 

▼前田甚之丞の祠-1

▼前田甚之丞の祠-2

 

▼前田甚之丞の祠-3、前田甚之丞の祠を後にして観音庵へ向かう(約0.3km)

 

 

▼前田東町を南方向へ進む-1

 

▼前田東町を南方向へ進む-2、右奥に観音庵の杜が見えて来た

 

▼前田東町を南方向へ進む-3(次の交点を右折)、交点の左(東)奥に高松前田郵便局

 

▼観音庵に進む

 

 

▼観音庵に着いた、観音庵-1

▼観音庵-2

 

▼観音庵-3

 

▼観音庵-4

 

▼観音庵-5

 

▼観音庵-6

 

▼観音庵-7

 

▼観音庵-8

 

▼観音庵-9、正面奥に前田小学校

 

▼観音庵-10、観音庵を後にして帰路のことでん高田駅へ向かう(約1.3km)

 

 

▼右奥に前田小学校、前田東町を東に進む(次の交点を右折)

 

▼前田東町を南へ進む-1、左に前田幼稚園

 

▼右に前田小学校、前田幼稚園

▼前田小学校-1

 

▼前田小学校-2、前田東町を南へ進む-2

 

▼前田東町を南へ進む-3、県道147号線を横断

 

▼前田東町を南へ進む-4、右に進み県道147号線へ移動(正面奥は高松東高グラウンド)

 

▼県道147号線を南方向へ進む-1、次の交点を右へ

 

▼前田東町の小径を南西へ進む-1

 

▼右に高松東高-1、前田東町の小径を南西へ進む-2

 

▼右に高松東高-2、前田東町の小径を南西へ進む-3

 

▼右に高松東高-3、県道147号線に戻る

 

▼道147号線を南方向へ進む-2、左は市営高田団地1

 

▼県道147号線を南方向へ進む-3(高田橋を渡る)、高田橋(新川)の左(東)方向

▼県道147号線を南方向へ進む-4(ことでん高田駅が見えて来た)、ことでん高田駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

 

<akijii展-(521)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「猫」で、所要時間は450Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.964-2/3をご覧ください。

Vol.964-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:09本山寺・妙音寺・延命院

<13.本山寺 <撮影:2012.09.28 and 2015.08.28 and 2017.10.17>

大同2年(807)、弘法大師空海によって建てられたと伝えられる本山寺(もとやまじ)は、四国八十八ケ所霊場第70番札所として、多くのお遍路さんが訪れます。広々とした境内には国宝の本堂、国指定重要文化財の仁王門をはじめ、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂、慰霊堂、鐘楼、客殿、庫裏が整然と並んで、まさに大寺の風格を示しています。また毎年土用の丑の日にはキュウリ加持が行われ、大勢の人で賑わっています。現在の本堂は正安3年(1301)、京極佐々木氏の寄進によって再建された後、昭和30年に復元工事が行われ、国宝に指定されたものです。また国指定重要文化財の仁王門は、和様・唐様・天竺様の手法を取り入れた全国的にも珍しい折衷様式の建築物で、本柱の前後に4本ずつ計8本の控柱があるので八脚門ともいわれています。

五重塔は四国では第31番札所「竹林寺」・第75番札所「善通寺」・第86番札所「志度寺」と本山寺の4ケ寺しかありません。本山寺の五重塔は明治43年3月に現在の位置に建て替えられました。  (三豊市HP)

 

尚、五重塔は2016年から3年以上にわたる解体修理が2019年4月に完了した。

 

<所在地・外観>

本山寺-三豊市豊中町本山甲1445

▼本山寺-四国八十八カ所霊場70番札所、国宝の寺

 

 

JR本山駅の南東約1kmに、四国八十八個所霊場70番札所「本山寺」(真言宗)がある。

▼本山寺-本堂と五重塔(2013.09.21、2017.10.17)

 

 

<概 要><歴史遺産>

「仁王門」(国重文)は、切妻の屋根を支える本柱の前後に8本の控柱がある八脚門で、柱や木材の組み方に鎌倉時代の様式がみられ、堂々とした力強い仁王が、左右に安置されている。

 

▼本堂と五重塔(2021.10.09)、仁王門-全景(2012.09.28)

 

▼仁王門-八脚門

 

▼仁王門-木造金剛力士立像

 

 

「本堂」(国宝)の棟札(むなふだ)には、1239(暦仁2)年と1255(建長7)年に本堂を修理した事、1291(正応4)年には破損した本堂を再建した事が書かれている。

 

▼本山寺-本堂

 

 

本堂の礎石には、1300(正安2)年に本堂の工事が行われた事や建築を担当した「末清(すえきよ)」と「国重(くにしげ)」の名が記されている。末清と国重は、奈良市の霊山寺本堂(国宝)や薬師寺東院堂(国宝)の建築にも従事した人物である。

 

▼本堂-礎石

 

 

1547(天文16)年建立の「鎮守堂」(県文化)は、建立当寺の檜皮葺(ひわだぶ)きに復元されている。

 

▼拓魂堂(開拓慰霊堂)と鎮守堂、鎮守堂

 

 

風格のある五重塔は、1913(大正2)年に復元されたもので、落慶(らっけい)法要では多くの人を集めたと伝えられている。

 

▼五重塔(2013.09.21時点)、平成大修復工事中の案内板

 

▼本山寺五重塔、平成・令和の大修復-解体修復浄財勧募のお願い板(2021.10.09)

 

 

本尊の馬頭観音を始め、雨乞いの時に祈った「木造善女龍王像・木造愛染明王坐像・木造金剛力士立像・経文板木」(いずれも県文化)など、貴重な文化財が多くある。

 

▼馬頭観音(平安時代、ボストン美術館所蔵)、 木造善女龍王像(web引用-水彩画風変換)

 

▼木造愛染明王坐像、経文板木

 

 

また、境内には満蒙開拓団の慰霊堂が建てられている。

日本は満州事変(1931年)の翌年から広大な満州(現、中国東北部)への移民を計画し、香川県からも開拓民5506人と青少年義勇軍2379人を送り込んだ。1945(昭和20)年8月、ソビエト連邦の参戦によって大混乱に陥り、開拓民に多くの犠牲者が出た。三豊郡(現、三豊市)の開拓民で、引き揚げる途中で亡くなった人びとの葬儀が本山寺で行われ、満蒙開拓に携わった人びとや開拓の様子を写した写真や資料などが保管されている。

 

▼満蒙開拓慰霊堂

 

▼大師堂、十王堂

▼五輪塔、鐘楼

 

▼赤堂(大日堂)、境内

 

▼神馬の像、客殿

 

 

<関連遺産>

七宝山(しっぽうざん)(標高445m)の南東麓の豊中町下高野には、本山寺の奥の院であった「興隆寺跡石塔群」(県史跡)があり、約100基の石塔が残っている。石塔群は、凝灰岩の岩壁を掘り窪めた、上・下2段の岩庇に横並びの2群があり、鎌倉時代後期から室町時代末期までのものと考えられている。

 

▼興隆寺石塔遺跡の石塔群-1

 

▼興隆寺石塔群-2

 

▼興隆寺石塔群-3

 

▼興隆寺石塔群-4

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.964-3/3をご覧ください。

Vol.964-2/3に続けてご覧ください。

 

14.七宝山宝積院妙音寺  <撮影:2015.10.23 and 2017.10.17>

地元では妙音寺(みょうおんじ)より宝積院(ほうしゃくいん)と呼んだ方が解り易い真言宗の寺院である。

現在の寺院から当時を偲ぶには少し無理かあるが、今だに寺院付近から古瓦がたくさん出土している。
十一葉素弁蓮花文軒丸瓦、単弁蓮花文方形鐘先瓦が代表的であるが、この二種以外に山田寺様式の八葉単弁蓮花文軒丸瓦、四重孤文軒平瓦、単弁蓮花文方形隅木先瓦などがある。

丈六仏である本尊は、像高3.32m、桧材寄木造、定印を結び蓮華三重座(後期に補修)に結跏跌座する。

頭部には小さな螺髪を規則正しく並べて彫り出し目は切れ長の彫眼で伏目がち、上唇に細い口ひげを描く胸幅は広いが薄く、膝高も低い。彫りの浅い整った衣文や、全体に豊満な肉づきなどから、定朝様式の阿弥陀坐像である。寺伝によると河内の春日部の仏師が同地の平岡明神に祈願して彫ったといわれている。平安末期の作であろう。仏師印覚の作った京都法金剛院の阿泳陀像とよく似ているといわれる。江戸時代の正徳四年(1714年)に京都の仏師の手によって修理が行われ、(このとき木札に重要な事項を毛筆で書き、仏像の胴の内部に釘で打ちつけてあった。)さらに、昭和26年8月から9月にかけて再修理が行われた。 (三豊市HP抜粋)   

                                                      

 <所在地・外観> 

妙音寺-三豊市豊中町上高野1986

▼妙音寺-讃岐最古の寺、白鳳期の瓦が出土

 

 

JR高瀬駅から三豊市コミバスで15分、バス停「下原」から徒歩で5分ほどの所にある「七宝山宝積院妙音寺」(単立)は、讃岐国で最古と推定される寺院である。

 

<概 要><歴史遺産>

▼妙音寺-入口の看板塔、山門(仁王門)

 

▼妙音寺-仁王:阿形像、吽形像

 

▼妙音寺-仁王門から参道、参道と中門

 

▼妙音寺-中門から本堂、文化財の説明板

 

▼妙音寺-本堂、奥殿

 

▼妙音寺-聖観音立像、地蔵尊

 

▼妙音寺-境内、鐘楼

 

妙音-境内から中門・仁王門の方向、中門と仁王門

 

▼妙音寺-中門から仁王門を見る、仁王門とボロボロの土壁

 

 

妙音寺から出土した十一葉素弁蓮華文の「軒丸瓦」(妙音寺出土瓦として県文化)は、高句麗(こうくり)様式と呼ばれ、飛鳥の豊浦寺(とゆらでら)にもみられる瓦で、7世紀中頃の白鳳期のものと思われる。

 

▼十一葉素弁蓮華文の軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦(web引用-水彩画風変換)

 

 

本尊は、国指定重要文化財の「木造阿弥陀如来坐像」で、平安時代後期の秀作で、定朝(じようちょう)様式のヒノキの寄木造(よせぎつくり)である。戦国時代、長宗我部元親に攻められた時に、堂搭・寺宝などを焼失したが、本尊だけは、霊験をあらわし、大雨を降らして難を免れたと伝えられる。

 

▼木造阿弥陀如来坐像(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

妙音寺から国道11号線を1.4km北上すると大津池の東側に、「宇賀神社」がある。

 

▼宇賀神社-全景、西正面入口

 

▼宇賀神社-鳥居と社号標、石段と随神門

 

▼宇賀神社-随身門と境内、由緒

 

▼宇賀神社-拝殿

▼宇賀神社-本殿、大きな磐座(いわくら)

 

▼宇賀神社-宝殿、神輿庫

 

▼宇賀神社-どぶ酒の由来碑、酒樽

 

▼宇賀神社-御神酒殿、御旅所

 

 

宇賀神社の春のももて祭りと秋の例祭では、「古式醸造用具」(県民俗)で醸造された「どぶろく」を、口開けの儀式後に神前に供えて神事が行われ、その後、氏子や参拝者らに振る舞われる。

 

▼どぶろく祭り-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼どぶろく祭り-2(web引用-水彩画風変換)

 

▼どぶろく祭り-3(web引用-水彩画風変換)

 

 

秋に「どぶろく」が振る舞われるのは約300年前からと云われ、樽で熟成した乳白色の「どぶろく」を石臼(いしうす)で挽いて仕上げ、氏子の中の杜司(とうじ)に秘伝が受け継がれている。

 

▼どぶろく祭り-4(web引用-水彩画風変換)

 

▼どぶろく祭り-5(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

15.延命院 <撮影:13.09.21 and 19.05.30>

讃州七福の寺 延命院(えんめいいん)。小高い丘の上に建つ延命院は、弘法大師の開基とされる寺で、世の中のあらゆる障害を退散させる福神「毘沙門天」をお祀りしています。また、境内には蝋梅の木が植えられており、花の時期(1月下旬ごろ)には清らかな香りが漂います。菅原道真公が奉納されたといわれる「一の字」をなぞると、願い事がかなうといわれています。延命院付近一帯を治めた富豪の墓「延命古墳」。   (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

延命院-三豊市豊中町上高野858-遠州七福之寺、境内に円墳、近くに平安時代後期の集落跡

 

JR本山駅の東南約2.6km、高松自動車道と県道226号線とのほぼ中間にある「延命院」(真言宗)は、讃州七福之寺(毘沙門天)として知られている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼延命院-1

 

▼延命院-2

 

▼延命院-3

 

▼延命院-4

 

▼延命院-「一の字」

「一の字」は菅原道真が奉納されたと言われ、一の字をなぞると願い事が叶うと云われている。

▼延命院-蝋梅(web引用-水彩画風変換)、歌碑

 

 

延命古墳は、延命院境内にある円墳で、4m余り盛り土がなされ、広壮な石室をもち、天井に使われている3枚の巨大な岩は、被葬者の高い地位を物語っている。

 

▼延命古墳-1

 

▼延命古墳-2

 

▼延命古墳-3

 

 

<関連遺産>

延命院の北約400mの八反地(はったんじ)地区からは、「延命遺跡」と呼ばれる平安時代後期から鎌倉時代にかけての集落跡が発見され、大木を刳り抜いて造られた井戸が見つかった。

出土品のうち、中国産の磁器は、香川県立ミュージアム(高松市玉藻町)で展示されている。

 

▼八反地地区、延命遺跡

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

宮池の遊歩道の葉桜と水上展望台に降り注ぐ陽光。

宮池の水上展望台と袋山・だんご山3兄弟のパノラマ景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-075   Orignal掲載日:Vol.111 (2012.04.20)

出会いで人生、人格が変わる。

 

人生は出会った人で決まり、出会った人次第で展開をするといっても過言ではないと想う。

 

人と人の出会いは、人生の骨格をつくるものといえる。素晴らしい人に出会って、素晴らしい影響を受けた人は、素晴らしい人生を送る可能性を贈られ、好ましくない人に出会って、好ましくない影響を受けた人は、好ましくない人生を送る可能性を贈られる。

かけがえのない人生を如何に素晴らしく生きるか、それは如何に素晴らしい人と出会うにかかっているのである。

・人と出会うということは、その人の人格構成に影響を与える要素との出会いである。

・人間は一人でいるだけでは、決して啓発されることがない。

・人生の道のりは、メロンの皮の模様のような迷路に似る。

・出会いとは、人生の曲がり角において、重要な選択を方向づけてくれるきっかけである。

 

色々な苦難に遭遇しながらも、私がここまで人生を歩むことが出来たのは、その節目節目に私の行く手を示してくれた諸先輩・同僚・友人との出会いがあったお陰である。あのとき、あの出会いがなかったら、私の人生はもっと違ったものになっていただろう。本当に人生のドラマは、出会った人でストーリーが決まるのである。

これから人生の荒波に乗り出そうとする若い人々は、心豊かな人生を送るために必要な「出会い」はどうすれば実現するのか、諸書籍なども加えて研究して身に付け、実践をして行って欲しいと思います。

 

 

<高くがる空間>

奥谷新橋から見る新居新池(国分寺町)と南奥の山々の上空。

奥谷新橋から見る新居新池(国分寺町)と南奥の山々の上空のパノラマ景。

 

県道173号線交点から見る中野稲荷神社(中野町)参道の上空。

六角堂(高松市戦災犠牲者慰霊堂)(中野町)の上空。

グランディス高松ザ・タワー(中央町)の上空。

廣昌寺(中央町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースに咲くニセアカシア

開花時期は5月初旬~5月下旬頃、北アメリカ原産で明治中頃に渡来した。

 

アカシア(房(ふさ)アカシア)とよく間違われるところからこの名前が付いている。

 

夜になると葉を閉じ、槐(えんじゅ)に似た木で、とげをもつことから別名を「針槐(はりえんじゅ)」という。

 

◇ウォーキングコースのka宅の畑に咲くヒメウツギ

 

◇ウォーキングコースのSe宅の畑に咲くキンギョソウ(金魚草)

 

◇我が家の庭に咲いているヒメヒオウギアヤメ

 

◇ウォーキングコースの山間に咲くノイバラ

 

◇ウォーキングコースに咲くシャクヤク(芍薬)

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<宮處八幡宮・前田城跡・西光寺  

宮處八幡宮は、創祀が平安時代またはそれ以前に遡るとされる古社である。境内に整然と配された本殿・幣殿・拝殿や末社護国神社本殿・注連柱が平成25年12月に国登録有形文化財に登録された。

宮處八幡宮拝殿及び幣殿は、拝殿は桁行五間梁間二間、入母屋造本瓦葺で、正面に唐破風造の大振りな向拝を張出し、背面に両下造の幣殿を付属する。拝殿は外周に格子や舞良戸をたて、内部一室で格天井を張る。幣殿は二段階に床を高め、奥に本殿に昇段する階を備える。風格ある構えの拝殿。

 

前田城は、十河城主存春(まさはる)(景滋)のとき、その弟宗存(むねまさ)が分家して、前田氏の居城とした。2代前田宗春(むねはる)、3代前田宗清(むねきよ)と続いたが、天正10年(西暦1582年)8月、土佐の長宗我部元親の侵攻をうけ落城した。城跡は、神泉山の舌状台地の南突端にあり、本丸・二の丸に分かれている。本丸跡は、現在樹木に覆われ、墓碑が建立されている。また、外周には、かつて壕跡(ほりあと)が残されていたが、現在はほとんど埋め立てられている。南の壕跡をへだてて二の丸跡があったが、現在は宝寿寺と墓石が残るのみである。城跡の西側と南側の入口は近代の石垣であるが、東・北の両面は、当時の土壇が残存している。前田城跡は、自然の立地条件を合理的に利用した典型的な中世の城塞として、その遺構をよく残している。(高松市HP)

 

西光寺(さいこうじ)は浄土真宗の寺で、京都の興正寺を本山とする、真宗興正派に属する。

寺伝によれば、天正年中(1573~1592)に沙門善性が宝寿寺跡地(前田東町字中村172)堂床に建立。
もとは天台宗に属していたが、その後真宗に転じた。過去帳にその名が残る住職は、教善法師を初代として、現住職教尚が16代である。(西光寺HP)

 

▼所在地、宮處八幡宮

高松市前田西町:〒761-0321

 

▼前田城跡、西光寺

 

 

▼バス停「谷川」で降車、県道30号線を南東に進み宮處八幡宮へ向かう(参道口まで約0.5km)

 

▼横谷川の手前を左折、前田西町を北方向へ進む-1

 

▼前田西町を北方向へ進む-2、次のT交点を右折

 

▼前田西町を東北方向に進む-1(正面奥は前田山)

▼前田西町を東北方向に進む-2、次の交点を左折

 

 

▼宮處八幡宮の参道口に着いた、後方に御旅所

 

▼宮處八幡宮の一の鳥居、宮處八幡宮の参道を進む-1(約300m)

 

▼宮處八幡宮の参道を進む-2

 

▼宮處八幡宮の参道を進む-3

▼宮處八幡宮の参道を進む-4

 

▼左側に角燈籠、宮處八幡宮の境内前の二の鳥居に着いた

 

 

▼宮處八幡宮-1

 

▼宮處八幡宮-2

 

▼宮處八幡宮-3

 

▼宮處八幡宮-4

 

▼宮處八幡宮-5

 

▼宮處八幡宮-6

 

▼宮處八幡宮-7

 

▼宮處八幡宮-8

 

▼宮處八幡宮-9

 

▼宮處八幡宮-10

 

(Vol.963-2/4に続く)

 

 

<akijii展-(520)

今報から美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02です。

今報は「女の子&ネコ」で、所要時間は295Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.963-2/4をご覧ください。

Vol.963-1/4に続けてご覧ください。

 

▼宮處八幡宮-11

 

▼宮處八幡宮-12

 

▼宮處八幡宮-13

 

▼宮處八幡宮-14

 

▼香西照雄の句碑へ進む

 

▼香西照雄句碑

 

▼宮處八幡宮の境内に戻る

 

▼宮處八幡宮の社殿を後にする、宮處八幡宮の二の鳥居まで石段を下る-1

▼宮處八幡宮の二の鳥居まで石段を下る-2

 

▼宮處八幡宮の二の鳥居まで石段を下る-3、二の鳥居まで下りた

 

▼宮處八幡宮の一の鳥居まで参道を戻る-1

 

▼右前方奥に由良山、由良山のズーム景

 

▼右奥に堂山・六ツ目山・国分台などの山々、六ツ目山・国分台のズーム景

 

▼宮處八幡宮の一の鳥居まで参道を戻る-2、一の鳥居まで戻った

 

 

▼前田城跡へ向かう(約0.4km)、前田西町を南方向に進む-1

 

▼前田西町を南方向に進む-2(次の交点を左折)、前田城跡へ進む-1

 

▼前田城跡へ進む-2

 

▼前田城跡へ進む-3、前田城跡に着いた

 

 

▼前田城跡-1

 

▼前田城跡-2

▼前田城跡-3

 

▼前田城跡-4

 

▼前田城跡から宝寿寺(前田城二の丸)に寄る、宝寿寺(前田城二の丸)に着いた

 

▼宝寿寺(前田城二の丸)-1

▼宝寿寺(前田城二の丸)-2

 

▼宝寿寺(前田城二の丸)-3、宝寿寺(前田城二の丸)を後にして西光寺へ向かう(約0.6km)

 

 

▼前田西町を東方向へ進む、次の交点を右折

 

▼前田西町を南西方向へ進む、次のT交点を左折

 

▼前田西町を東へ進む-1(左は横谷川)、前田西町を東へ進む-2

 

▼前田西町を東へ進む-3(次のT交点を右折)、前田西町を南へ進み次の交点を左折

 

▼前田西町を東方向へ進む-1

 

▼前田西町を東方向へ進む-2(次の交点を右折)、交点の左奥に前田山

 

▼前田西町を南方向へ進む(前方に認定こども園-西光寺保育所)、認定こども園-西光寺保育所-1

 

▼認定こども園-西光寺保育所-2

 

▼長妙寺に寄る、長妙寺-1

 

▼長妙寺-2

 

▼長妙寺-3、長妙寺を後にして西光寺へ進む

 

▼西光寺へ進む-1

 

▼西光寺へ進む-2、西光寺に着いた

 

 

▼西光寺-1

 

▼西光寺-2

 

▼西光寺-3

 

▼西光寺-4、西光寺を後にして前田東町へ向かう

 

 

▼前田西町を南へ進み次の交点を右折、前田西町から前田東町に入った

 

(次報Vol.964に続く)

 

引き続き、Vol.963-4/4をご覧ください。

Vol.963-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:08<豊稔池堰堤>

<12.豊稔池堰堤 <撮影:2014.09.15 and 2018.05.12>

阿讃山脈を分け入る柞田川上流に「豊稔池堰堤(ほうねんいけえんてい)」があります。長い年月の風雨にさらされた堰堤は、まるで中世ヨーロッパの古城を思わせる偉容と風格があり、水を湛えた水面と周囲の山並みとの調和で四季折々に見事な景観を見せてくれます。

堤長145.5m、堤高30.4mのコンクリート造溜池堰堤で、両端部を重力式、中央部が5個のアーチと6個の扶壁(バットレス)からなるマルチプルアーチ式で、その先駆的かつ希少な構造形式は農業土木史上価値が高く、また、昭和前期における堰堤建設の技術的達成度を示しており、平成18年12月19日に重要文化財(建造物)に指定されました。大正15年に起工、昭和4年11月の竣工後、80年近く経過した今でも約500haの農地の水がめとして活躍しています。建設に際してはすべて地元農家の出役で工事が行われ、約3年8カ月の間、無事故で完成したといわれています。

また、当初、池の名称は「田野々池」でありましたが、昭和4年5月に三土忠造大蔵大臣が現地視察をした際に「豊稔池」と命名されました。平成6年に大規模な改修工事や周辺整備が終了。

一年を通じて多くの観光客がここを訪れています。特に、夏(不定期)に行われる「ゆる抜き(放流)」の風景は季節の風物詩として知られています。   (観音寺市HP) 

                               

<所在地・外観>

豊稔池堰堤-観音寺市大野原町田野々

▼豊稔池堰堤-中世ヨーロッパの古城を思わせる石積式アーチダム

 

 

JR観音寺駅から県道8号線を南東方向へ約7km進み、井関池に架かる井関橋を渡ると五郷地区に入る。

 

▼井関池

 

▼県道8号線、井関橋-1

 

▼井関橋-2

 

 

<概 要><歴史遺産> 

更に1kmほど進み、観音寺市教育センターを過ぎて約400m、二差路を右に入り県道9号線を2kmほど上る。柞田川の上流の谷間を堰き止めて造った「豊稔池の堰堤」がその威容を見せる。

 

▼観音寺市教育センター、前方の南東方向に雲辺寺山が望める

 

▼柞田川、豊稔池へ2kmの標識板

 

▼豊稔池堰堤、豊稔池堰堤と遊水公園

 

▼豊稔池と県道9号線を見る

 

▼満水の豊稔池、豊稔池と堰堤のズーム

 

▼豊稔池ダムが見える、奥に豊稔池碑と豊稔池守護神

 

▼豊稔池ダムの堤体、豊稔池ダムから見る堰堤と遊水公園

 

▼豊稔池ダムの堤体と豊稔池、豊稔池ダムから見る豊稔池

 

 

県道9号線から左へ坂を下りると豊稔池遊水公園が整備され、堰堤を真下から見上げる事が出来る。

 

▼豊稔池遊水公園へ降りて行く、豊稔池堰堤が姿を見せた

 

▼豊稔池遊水公園入の入口、各種案内・説明板

 

▼豊稔池堰堤説明板、豊稔池の概要説明板

 

▼豊稔池遊水公園の石標、豊稔池堰堤-1

 

▼豊稔池堰堤-2

 

▼豊稔池堰堤-3

 

▼豊稔池改修記念碑、旧土砂吐樋門・旧中樋取水口

 

▼火薬庫跡、東屋と堰堤

 

 

初夏に行われるユル抜き風景は、西讃の風物詩として知られ、多くの見物人で賑わいをみせる。

 

▼豊稔池ユル抜き風景(web引用-水彩画風変換)

 

 

豊稔池堰堤から更に西方向に約1.8Km進むと、谷間の田野々集落に着く。

 

引き続き、Vol.963-4/4をご覧ください。

Vol.963-3/4に続けてご覧ください。

 

<関連遺産>

ここの法泉寺(浄土真宗)の境内には、県内でも最大級の樹齢350年と言われるボダイジュがある。

 

▼法泉寺-寺名標、ボダイジュとラカンマキ

▼法泉寺-山門と境内、境内

 

▼法泉寺-ボダイジュ、本堂

 

 

晩秋には紅葉が鮮やかに色づき、多くの紅葉狩りの行楽客の目を楽しませている。

 

▼法泉寺のもみじまつり(観音寺市HP引用-水彩画風変換)

 

 

豊稔池築造以前、この地方はしばしば旱魃に見舞われ、ひどい年には「月夜にも稲が焼ける」と云われ、百姓はヤカンに貯めた水を稲の1株1株に注ぎ、稲の枯死するのを1日でも2日でも延ばそうとしたと云う。それと同時に慈雨を求めて、懸命に高尾山の龍神に祈願した。

その雨乞いの踊りが、この地に伝わる「田野々雨乞踊」(県民俗)である。

 

▼田野々雨乞踊(web引用-水彩画風変換)

 

 

住民は雨乞いをする前夜1カ所に集まって、夜中過ぎから高尾山の龍王宮前などで踊り、最後は集落内の法泉寺と集落内の鎌倉神社で踊り納める。歌詞や踊りの所作は、豊浜町和田の「和田雨乞踊」(県民俗)とよく似ており、江戸時代初期に流行した風流(ふりゅう)踊りの系統に属する古様式を留めている。

 

▼鎌倉神社-鳥居と社号標、境内

 

▼鎌倉神社-百手(ももて)の大的、百手の様子(web引用-水彩画風変換)

 

▼和田雨乞踊(web引用-水彩画風変換)

 

 

県道8号線へ戻り、徳島との県境の曼陀峠に向かって山間の曲がりくねった道を進むと、2.0Kmほどで五郷ダムに着く。

 

▼県道8号線から見る前田川沿いの落合集落

 

▼五郷ダム-1

 

▼五郷ダム-2

 

▼五郷ダム堤体のakijii、五郷ダム堤体の下流風景

 

▼五郷ダム湖の上部、下部

 

 

このダム湖に架かる有木(有盛)橋を渡ると、平家落人伝説の伝わる有木集落(大野原町有木)がある。

 

▼有盛橋、有盛橋とakijii

 

▼有盛橋のダム湖上流、下流

 

▼有木集落(web引用-水彩画風変換)

 

 

ここの阿弥陀堂に伝わる「木造阿弥陀如来坐像」(県文化)は、結跏趺坐(けっかふざ)し、定印(じょういん)を結ぶ寄木造の像で、全身漆箔が施されている。

上品で落ち着いた印象を受ける県内でも珍しい平安時代の定朝様(じょうちょうよう)の優品である。

 

▼阿弥陀堂、木造阿弥陀如来坐像(web引用^水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

北から見るツツジが咲く宮池の南側の遊歩道。

上記の遊歩道ズーム景。

西から見るツツジが咲く宮池の南側の遊歩道。

新居宮池親水公園駐車場から見るツツジが咲く宮池の西側の土手。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-074  Orignal掲載日:Vol.110 (2012.04.15)

コツは、自分で会得する…。

 

教えること、習うことの出来るものが有る。しかし一方、教えることも習うことも出来ず、自分で会得するしか仕方がないものがある。知識は教えられるが、知恵は教えることが出来ない。

 

経営学は教えられ習うことが出来るが、経営は教えることも、習うことも出来ない

経営のコツというのは、口で言えないものがあり、自分で会得するしかない。

会得するためには、日々実行と反省を繰り返し、大小さまざまな体験を一つひとつ重ねる中から、経営者に必要なさまざまな資質、能力が磨かれ、研ぎ澄まされて、経営のコツが身についていくのである。汗を流し努力し、体験によって「あ、これだ」と感じとり、日々の積み重ねをして、それを高めていくしかない。

 

学問的に教えられただけで、実際の経営か上手くいかないのみならず、誤った経営をして会社を潰す危険が高いことは実例に事を欠かない。科学的、学問的に経営を学び、しかも現場での体験も踏まえてコツを掴んでいることは、鬼に金棒であるが、現実には多くはいない。実際に経営を味わって、それをさらに学問的に検討し、その応用を適切にしてこそ、より大きな成功が得られるというものである。

 

ただ、コツを悟り易くすると思われることに、経営者としての仕事を心から好きになり、それに生きがいを感じることである。知識は教えて教えられるが、知恵は教えて教えられない。

 

「経営のコツここなりと、気づいた価値は百万両」とは、松下幸之助氏が昭和9年の年頭に、松下電器の社員にお年玉として贈った言葉である。経営のコツを会得すれば、その価値ははかり知れないというのだ。

経営のコツは、自分で会得するしかないのだ。

 

 

<高くがる空間>

JR高松駅から見る高松駅前広場(浜ノ町)の上空。

石清尾八幡宮の御旅所(亀岡町)の上空。

道祖神社(亀岡町)の上空。

霊源寺(亀岡町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇新居宮池の遊歩道に咲くツツジ

 

◇ウォーキングコース脇の畑のブボリジチャイブ

 

 

 

 

◇ウォーキングコース脇の広場に咲くダッチアイリス

 

◇我が家の庭で満開となったネモフィラ

◇我が家の庭の鉢に咲ベニベンケイゲラニウムハトリアタム

 

 

◇ウォーキングコースのお宅の塀に咲くカナメモチ

 

◇町並巡りで出会った車輪梅(ヒメシャリンバイ)

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<金崎神社吉尾神社新川

金崎(かねさき)神社はハイキングで親しまれている芳尾山(標高102.9m)の麓にあり、森と狛犬に囲まれた参道の異次元感が素晴らしかった。芳尾山は白山(202.7m)、由良山(120.3m)と同類の黑雲母安山岩を主体とする岩頸と呼ばれる独立円頂丘である。元旦には、初日出の御来光を拝むため大勢の善男善女が登頂する。

吉尾神社は、御祭神:天之水分命で、毎年8月に宮處八幡宮(前田西町)の宮司さんをお迎えして祭礼をしている(その昔雨乞いしていたようである)。金崎神社から吉尾山を更に登ると、雨乞いの斎場「吉尾神社」に天之水分神がお祀りされている。豊玉姫は海の神の娘ということで、雨乞い・止雨の神としての信仰もあったそうで、関連性が伺える。

新川は、高仙山の北方、三木町大字鹿庭字三番付近に源を発して北流したのち、三木町大字平木字下所で西に流路を転じ、再び高松低地東部を春日川と並行して北流し、高松市屋島西町付近で瀬戸内海へ流れる。支流は三木町大字平木で古川、高松市東山崎町付近で吉田川、最下流部の河口付近で春日川などが合流する。指定延長18.693km、流域面積131.9km2、支流を含む指定総延長は約98kmである。

 

▼所在地、新川金崎親水公園

高松市亀田町:〒761-0323

 

▼金崎神社、吉尾神社

 

▼芳尾山山頂、芳尾山山頂からの展望

 

 

▼ことでん高田駅で下車、県道147号線の交差点を左折して高田地蔵尊(北向き地蔵)に寄る

 

▼高田地蔵尊(北向き地蔵)-1

 

▼高田地蔵尊(北向き地蔵)-2

 

▼県道147号線を北に進み金崎神社参道口へ向かう(約0.6Km)、高田橋(新川)を渡る

 

▼高田橋(新川)の左(下流)方向、右(上流)方向

 

▼高田橋の北詰めを右(東)折、新川の堤防道路(北)を東南方向に進む-1(正面奥は白山)

 

▼後方の高田橋を振り返る、新川の堤防道路(北)を東南方向に進む-2(男井間4号堰が見える)

 

▼男井間4号堰、管理棟

 

▼左側に「⇦吉尾山いこいの里遊歩道」の案内板(下山はここに下りる予定)、新川の堤防道路(北)を東南方向に進む-3

 

▼右下は新川金崎親水公園-1、左奥が芳尾山

▼新川の堤防道路(北)を東南方向に進む-3、右下は前田小学校3年生花壇

 

▼右下は新川金崎親水公園-2、新川の堤防道路(北)を東南方向に進む-4

 

▼左奥に金崎神社の参道口が見えて来た、金崎神社の参道口に着いた

 

 

▼金崎神社の拝殿へ進む-1

 

▼金崎神社の拝殿へ進む-2

 

▼金崎神社の拝殿へ進む-3

▼金崎神社の拝殿へ進む-4

 

▼金崎神社の拝殿へ進む-5

 

▼金崎神社の拝殿へ進む-6

 

▼金崎神社の拝殿へ進む-7、金崎神社の拝殿に着いた

▼金崎神社-1(拝殿)

 

▼金崎神社-2(本殿)

 

▼金崎神社-3(筆塚、金崎神社附近の説明板)

 

▼金崎神社-4(社殿、布袋さん)

 

▼金崎神社-5(拝殿前、地蔵堂と延命地蔵菩薩)

 

 

▼吉尾神社へ向かう(約0.3km・標高差72m)、吉尾山いこいの里遊歩道を登る-1

Vol.962-2/3に続く

 

 

 

<akijii展-(519)

スクラッチアート(日本の名所めぐり6点)

今報は「大鳴門橋と渦潮(兵庫県・徳島県)で、所要時間は180Mでした。

◇完成作品

今報で「スクラッチアート(日本の名所めぐり」を終え、次報からは「美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02」です。

 

引き続き、Vol.962-2/3をご覧ください。