新居宮池は今
西側の遊歩道から見る宮池水上展望台と水面。
水上展望台を中心にした宮池のパノラマ景。
北側の遊歩道から見る宮池水上展望台と水面。
Akijii-blog巻頭言Repeat-076 Orignal掲載日:Vol.115 (2012.05.10)
こころが乾いている。
今のこの豊かな日本の社会で、年間3万人を越える自殺者が、十数年も続いている。
ベトナム戦争を15年間やって亡くなったアメリカ人が6万4千人で、私たちは爆弾も落ちない、機関銃の弾も飛んで来ない安全な社会に生きているのに、たった2年間でベトナム戦争15年の悲惨な泥沼の戦争よりも、もっと多くの人命を自殺によって失っている。
この数は広島型の原子爆弾を7年に一発ずつ落とし続けている計算になるのだ。
戦後の日本の建築工学の発展は、湿式から乾式への工法の大転換にあったと、東大の鈴木博之氏は指摘している。我々が小さい頃、家を建てている前を通りかけると、鉄板の上に砂利と砂とセメントを入れて、バケツで水をやってこねまわしていた。壁土を練るとか漆喰をつくるとか、水を多量に使って一軒の家が建っていた。これが「湿式工法」である。それがこの60年のあいだに、コンクリートは工場でつくってくるようになり、壁土を使わないでベニヤ板にビニールの壁紙を貼るとかアルミサッシとかプラスチックとか軽金属とかガラスとかを使って、一滴の水も使わずに一軒の家が建つようになった。それを「乾式工法」という。
湿式から乾式へ大転換をしたのは、建築の現場だけでなくて、教育の現場も、医療だって、あるいは…というふうに考えていくと、まさにいま日本はあらゆる面で乾式の社会のなかに住むようになっていることに気づく。
「情」なんていうのは湿式社会の典型であるが、そのような水分の存在しないところで生まれ育って大人に成ることを考えると、こころの中まで乾いてくるのは当然だと思うのだ。ものの見方や考え方だって変わってくる。
おしぼりを例に挙げると、水分を含んでいるものは重いけれど、乾いたものは軽い。つまり、乾式社会は軽い社会なのだ。そうした戦後の軽い社会の中で暮らすうちに、日本人のこころは乾いて、いのちが軽くなることにつながった。
困った問題にぶつかると「もうしょうがない」といって、簡単に自分の命を放り出す。あるいは他人の命を奪う。
それは命が軽くなっているからであり、こころが乾いているところに、根本的な原因があるのではないか、と思うのである。
経営には技術や知識はもちろん大事だが、人間の集団だから、こころの動きが非常に大事と言えど、感情を表に出さず、すべてを論理的に割り切って考え、なるべく人間性を表に出さないように抑えて、論理的に知的に物事を処理していこうとするが、情の部分が乾き切った人…それは誰だ。
<高く広がる空間>
峰山町へ向かう車道(西宝町)から見る高松市中心部(高松シンボルタワ-)と奥の屋島の上空。
峰山公園芝生広場(峰山町)(翔-はばたき)の上空。
厄除不動明王院(西宝町)の上空。
厄除不動明王院(西宝町)から見る高松市中心部(中央に香川県庁舎)の上空。
A seasonal flower
◇ウォーキングコースに群生するコバンソウ(小判草)
晩春から夏に、線形の葉の間からまっすぐ伸びた茎先が枝分かれし、細い糸のような花柄をまばらに出して、淡い緑の小さな花穂をつけ、花穂が実ってくると黄褐色になる。
コバンソウはイネ科の植物で、小花が集まった小穂ができ、花びらのない小花から雄蕊(おしべ)が少し出ている。花の名は、穂の形が小判に似ている事から名付けられた。
別名は穂を俵に見立てて俵麦(タワラムギ)と付いている。
ヨーロッパ原産で、日本には明治時代に観賞用に導入された帰化植物だが、現在では野生化して雑草として広く見られるようになった。
花言葉は、花名どおり花穂が小判のように見える事から「金満家・金持ち」と付けられている。
◇ウォーキングコースのka宅の畑に咲くラバテラ・バイカラー
◇我が家の庭に咲いている白花シラン
◇ウォーキングコースに咲くキショウブ
◇ウォーキングコースのTu宅の畑に咲く芍薬(シャクヤク)
◇町並巡りで出会ったチロリアンランプ
Akijii気ままniフォトsketch<前田甚之丞の祠・観音庵>
前田甚之丞の祠は、前田東町西本村の集会場横に、甚之丞さんと呼ばれる小祠がある。石造りで、高さは0.24mでこれが前田甚之丞のお墓だと云われている。元は50m程度北の田圃の中にあって、そこが甚之丞戦死の地であると言い伝えられている。前田氏は、文明年中(1469~87)に十河城主、十河在春(まさはる)の弟、宗在(むねまさ)が分家し前田西町に城を構えて居城とし、前田頼母頭(たのものかみ)宗在と称して、初代城主となった。大永四年(1524)八月、宗在が亡くなって、その子である宗春が第二代城主となり、天正五年(1577)二月、宗春が亡くなって、その子である宗清が第三代城主となったが、これが前田甚之丞である。甚之丞は、武勇のほまれ高く、弓矢などを携えて、六尺(約1.8m)をも飛び越える軽業の持ち主で、ことに弓にかけては百発百中の名人であった。わずかな手勢で、木太町の向城、鬼無町の佐藤城などの諸城を襲い、人を切り殺し財物を奪ったと伝えられている。天正十年八月、土佐の長宗我部元親が西讃・中讃の武将を従えて十河城を包囲攻撃したが、城が堅固で容易に落ちず、包囲のまま八月を過ごしていた。この時、甚之丞は城内で防戦につとめ、また暗闇に乗じてしばしば敵陣に忍びこみ、兵器や糧食を奪い取った。ある時は敵陣の真っただ中、将兵の宿所に侵入して、敵の首を多数打ち取り、ある時は敵の軍馬を奪って帰るなど、包囲軍は甚之丞率いる攪乱隊の奇襲にあい苦戦した。十河城の戦に活躍した甚之丞は、翌年三月二十七日、この戦が終わらない内に死去し、前田城主は絶えた。
観音庵は、享禄二年(1529)に奥州岩崎(宮城県)三万石の城主、黒川四郎右衛門享氏の孫・黒川四郎右衛門正成によって創建されたと伝えられている。天正十年(1582)に兵火にかかって堂宇はすっかり無く成り、本尊の聖観世音菩薩も背部に大火傷した。元禄二年(1689)黒川卯右衛門忠重が堂宇を復興し、以後、一族から代々尼僧を出して維持してきたが、現在は無住である。火傷をした人が祈願すればご利益があると言い伝えられている。
▼所在地、前田甚之丞の祠(墓)
高松市前田東町:〒761-0322
▼観音庵、県立高松東高
▼前田西町から前田東町に入った(前田甚之丞の祠へ向かう-約0.5km)、右にお堂
▼前田東町を南に進む-1、後方を振り返る(前田西町-西光寺)
▼前田東町を南に進む-2(県道42号線交点を右折)、県道42号線を西北方向に進む-1
▼県道42号線を西北方向に進む-2
▼県道42号線を西北方向に進む-3(次の三叉交点を左折)、県道42号線の高松市前田西町交差点のズーム景
▼三差交点を左折して東南方向に進む、前田東町を東南方向へ進む-1
▼前田東町を東南方向へ進む-2(前田小学校北交差点を横断)、前田小学校北交差点
▼前田小学校北交差点の左(東)方向、右(西)方向
▼前田小学校北交差点を横断、前田東町を東南方向へ進む-2
▼前田東町を東南方向へ進む-3(次の交点を左折)、前田甚之丞の祠が見える
▼前田甚之丞の祠に着いた、西本村中南集会所
▼前田甚之丞の祠-1
▼前田甚之丞の祠-2
▼前田甚之丞の祠-3、前田甚之丞の祠を後にして観音庵へ向かう(約0.3km)
▼前田東町を南方向へ進む-1
▼前田東町を南方向へ進む-2、右奥に観音庵の杜が見えて来た
▼前田東町を南方向へ進む-3(次の交点を右折)、交点の左(東)奥に高松前田郵便局
▼観音庵に進む
▼観音庵に着いた、観音庵-1
▼観音庵-2
▼観音庵-3
▼観音庵-4
▼観音庵-5
▼観音庵-6
▼観音庵-7
▼観音庵-8
▼観音庵-9、正面奥に前田小学校
▼観音庵-10、観音庵を後にして帰路のことでん高田駅へ向かう(約1.3km)
▼右奥に前田小学校、前田東町を東に進む(次の交点を右折)
▼前田東町を南へ進む-1、左に前田幼稚園
▼右に前田小学校、前田幼稚園
▼前田小学校-1
▼前田小学校-2、前田東町を南へ進む-2
▼前田東町を南へ進む-3、県道147号線を横断
▼前田東町を南へ進む-4、右に進み県道147号線へ移動(正面奥は高松東高グラウンド)
▼県道147号線を南方向へ進む-1、次の交点を右へ
▼前田東町の小径を南西へ進む-1
▼右に高松東高-1、前田東町の小径を南西へ進む-2
▼右に高松東高-2、前田東町の小径を南西へ進む-3
▼右に高松東高-3、県道147号線に戻る
▼道147号線を南方向へ進む-2、左は市営高田団地1
▼県道147号線を南方向へ進む-3(高田橋を渡る)、高田橋(新川)の左(東)方向
▼県道147号線を南方向へ進む-4(ことでん高田駅が見えて来た)、ことでん高田駅に着き帰宅の途に就いた
<akijii展-(521)>
美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02
今報は「猫」で、所要時間は450Mでした。
◇完成作品
引き続き、Vol.964-2/3をご覧ください。