Vol.965-3/3 R巻頭-77。歴史(観て歩き)レポ-西讃編10<権兵衛神社・大水上神社> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.965-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:10兵衛神社・大水上神社

16.権兵衛神社  <撮影:2014.04.12 and 2015.10.23 and 2016.05.27>

権兵衛(ごんべえ)神社は、寛延の大一揆(西讃農民一揆)を指導し、処刑された大西権兵衛ら七義士が祀られています。寛延3(1750)年1月に起こった一揆は、飢饉でも厳しく取り立てられた年貢によって追い詰められ丸亀・多度津藩領の農民が6万5千人集結した大一揆でした。那珂郡・多度郡・三野郡・豊田郡、つまり丸亀・多度津藩の全体に広がる全藩一揆でした。この頃は農村の格差が拡大してきた時期ですが、このとき年貢未進(負債)を抱えていたのは零細農民だけではなく、中小農民の中にまで広がっていました。

彼らが要求したのは、年貢未進の返済を30年で無利子にするなど経済的要求、年貢の銀納分を恣意的に決めず大坂の相場に従う、役人の不正・乱費を無くす、などでした。1月23日、藩側は善通寺客殿で農民代表と会見し、13か条の要求のうち10か条を認め、残り3か条は保留としました。しかし、この一揆の最中、幕府は全国化した一揆に驚き、一揆弾圧令を出していました。2月10日、この知らせが丸亀藩に届き、丸亀・多度津両藩は態度を一変させました。指導者の捕縛、処刑、領外追放を行い、約束の破棄を通達しました。ただし、役人の不正・乱費などに関する要求は認めました。

 

<所在地・外観>

▼権兵衛神社-三豊市豊中町笠田笠岡3285

▼権兵衛神社-餓死寸前の農民たちのために命かけた7人の義民をまつる

 

 

JR高瀬駅から国道11号線へ出て、南西方向へ約2km、国道の右側・長池の南に「権兵衛神社」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼権兵衛神社前、権兵衛神社-全景1

 

 

権兵衛神社は、百姓一揆を指導して処刑された丸亀藩領笠岡村の大西権兵衛・弥市郎・嘉兵衛、大野村(現、三豊市山本町)の高橋兵治郎、七箇村(現、まんのう町)の金右衛門、多度津藩領三井村(現、多度津町)の金右衛門、碑殿村(現、善通寺市)の甚右衛門ら、7人の義民を祀っており、七義士神社とも称される。

 

▼権兵衛神社-全景2、社号標

 

▼権兵衛神社-鳥居、社殿と芝居小屋

 

▼権兵衛神社-七義士の記念碑、乃木大将追慕碑

 

 

18世紀中頃、丸亀・多度津藩では飢餓が続いていたにも関わらず、厳しい年貢の取り立てが行われた。農民たちは、餓死寸前にまで追い込まれ、1750年1月、那珂郡・多度郡の農民たちは天霧山麓に集結した。三野郡・豊田郡の農民たちは本山寺やその近くの財田川の川原に集結し、観音寺村(現、観音寺市)大庄屋の屋敷を打ち壊すなどした後、丸亀藩に対して13カ条の嘆願書(多度津藩に対しては7カ条)を掲げ、丸亀城下に迫った。各郡から一揆に参加した数は約6.5万人と云われる。

丸亀・多度津両藩の役人は、善通寺(善通寺市)境内に農民代表を呼び集め、訴えを受理した。

農民は餓死寸前の状態を脱し、一揆は沈静化した。

 

一揆が鎮まった後に蜂起の指導者たちは、次々に捕らえられ、丸亀藩領民は金倉川の川原で、多度津藩領民は葛原(現、多度津町葛原)でそれぞれ処刑され、多くの農民が追放となった。

 

1903(明治36)年、笠岡村の権兵衛ゆかりの三豊市豊浜町笠田に権兵衛神社が建てられ、1974(昭和49)年には権兵衛の辞世の歌碑が建立された。毎年8月第1日曜日には、権兵衛祭が開催される。

権兵衛さんの辞世の句「此の世をば 泡と見て来し 我が心 民に代わりて 今日ぞ嬉しき」。

元首相(当時大蔵大臣)大平正芳氏が揮毫(きごう)しました。

 

▼権兵衛の辞世の歌碑、ごんべい祭り(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

宇賀神社(三豊市)の随身門の天井裏で七義士が評定を行ったと伝わります。彼らが村々に呼びかけた回文には「御出の節は、かま・くわ・みのがさ御持参ならるべく候」とあり、脇差・鉄砲など武器を持たない事を指示しています。江戸初期を除いて、一揆はデモ行進に近いのが実態でした。大庄屋・庄屋の中には打ち壊しにあった者もいますが、役人の不正を糺すという一揆のスタンスと考えられます。

 

▼宇賀神社-随身門

 

 

権兵衛神社の北西約500mの天神山には、道音寺(どおんじ)(単立)があり、境内には大西権兵衛夫妻を祀った小さな祠がある。

 

▼道音寺-1(web引用-水彩画風変換)

 

 

道音寺からは、法隆寺式の7世紀後半の瓦が出土している。746(天平18)年の「法隆寺伽藍縁起幷(ならびに)流記(るき)資材帳」には、三野郡に法隆寺領が1カ所あり、法隆寺の倉が存在していた事が解る。道音寺も、法隆寺となんらかの関係が有ったのではないかと考えられる。

奈良・平安時代の瓦も発見され、旧高瀬町域には、「ドオンジ」という小地名が残っている。

 

▼道音寺-2、法隆寺式の7世紀後半の瓦(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

17.大水上神社 <撮影:2013.09.18 and 2017.07.13>

古くから水の神様として崇められ、延喜式神名帳に讃岐国二の宮と記載されている「大水上(おおみなかみ)神社」。境内には、香川の水環境に認定されている、岩畳をなす宮川が流れています。また、昼でもうっそうとした社叢の中には、昔から干ばつの時に雨乞い神事が行われた「うなぎ淵」があり、せせらぎの音が心を癒してくれます。周辺地域は高瀬銘茶の生産地で、4月下旬には「高瀬二ノ宮ふる里まつり」が行なわれ、茶畑ろ~どウォークのポイントの1カ所として、のんびり歩けるようになっています。             (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

大水上神社-三豊市高瀬町羽方2136-1

▼大水上神社-荘厳な佇まいの讃岐二宮、拝殿前に南北朝時代の石灯篭

 

 

JR高瀬駅から三豊市コミバス財田高瀬線で約40分「バス停:大水上神社」に着く、バス停の270m先に「大水上神社」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

高松市の讃岐国一宮(いちのみや)(田村神社)に対して二宮(にのみや)と呼ばれ、「延喜式」に記載された神社の中で、三野郡唯一のものである。讃岐の「延喜式」式内社は、水源の近くに位置するという傾向がある。大水上神社は、財田川支流の宮川の水源付近に位置する。

 

▼入口、社号標・四国のみち案内板・バス停標識・ネズの木案内・二ノ宮の瓦窯跡など

 

▼鳥居をくぐり脇道へ、脇道-1

 

▼脇道-2

 

▼大鳥居、参道-1

 

▼祓殿、参道-2

 

 

髄身門を潜り、玉垣に沿って歩くと、スギやクスの大木に囲まれた拝殿・本殿がある。

 

▼注連柱、随神門

▼境内

 

▼社殿

 

▼拝殿

 

▼本殿

 

▼絵馬殿

 

▼四社宮、本殿後方の巨大な夫婦岩

 

 

境内の龍王淵(うなぎ淵)は雨乞いが行われた場所で、黒いウナギが現われると雨、白いウナギが現われると晴れると云い伝えられている。

 

▼うなぎ淵

 

 

「建久九(1198)年」の社領目録には、清澄寺(せいちょうじ)・神宮寺の2つの付属寺院とその社領が記載されている。また、鐘楼跡と伝えられる地点からは、3kmほど離れた歓喜院内の瓦窯跡(県史跡)で造られた瓦が出土している。

 

▼歓喜院内の瓦窯跡(web引用)

 

 

拝殿前の六角の「石灯籠」(県文化)は、高さ2.46m。凝灰岩製で、円筒の竿の部分には全面に雲龍文が施されている。火袋(ひぶくろ)には「康永四(1345)年」の年紀が刻まれ、藤原定村を願主として「大工法橋淨□」により製作された事が解る。南北朝時代の装飾性豊かな灯籠である。

 

▼時雨(さみだれ)燈籠

 

 

境内の南側の斜面には、「二ノ宮窯跡」(国史跡)がある。

12m離れて2基の窯跡が並び、西側が一号窯、東側が二号窯と呼ばれている。

共に平安時代後期から鎌倉時代のもので、瓦のほか、坏(つき)や硯(すずり)も焼かれた。

 

▼二ノ宮の瓦窯跡-1

 

▼二ノ宮の瓦窯跡-2

 

 

<番外>

「ネズの木」と「大水上神社の御旅所」を掲載しておきます。

▼ネズの木の説明板、ネズの木1

 

▼ネズの木-2、大水上神社の御旅所

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀