Vol.964-1/3に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-西讃編:09<本山寺・妙音寺・延命院>
<13.本山寺> <撮影:2012.09.28 and 2015.08.28 and 2017.10.17>
大同2年(807)、弘法大師空海によって建てられたと伝えられる本山寺(もとやまじ)は、四国八十八ケ所霊場第70番札所として、多くのお遍路さんが訪れます。広々とした境内には国宝の本堂、国指定重要文化財の仁王門をはじめ、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂、慰霊堂、鐘楼、客殿、庫裏が整然と並んで、まさに大寺の風格を示しています。また毎年土用の丑の日にはキュウリ加持が行われ、大勢の人で賑わっています。現在の本堂は正安3年(1301)、京極佐々木氏の寄進によって再建された後、昭和30年に復元工事が行われ、国宝に指定されたものです。また国指定重要文化財の仁王門は、和様・唐様・天竺様の手法を取り入れた全国的にも珍しい折衷様式の建築物で、本柱の前後に4本ずつ計8本の控柱があるので八脚門ともいわれています。
五重塔は四国では第31番札所「竹林寺」・第75番札所「善通寺」・第86番札所「志度寺」と本山寺の4ケ寺しかありません。本山寺の五重塔は明治43年3月に現在の位置に建て替えられました。 (三豊市HP)
尚、五重塔は2016年から3年以上にわたる解体修理が2019年4月に完了した。
<所在地・外観>
▼本山寺-三豊市豊中町本山甲1445
▼本山寺-四国八十八カ所霊場70番札所、国宝の寺
JR本山駅の南東約1kmに、四国八十八個所霊場70番札所「本山寺」(真言宗)がある。
▼本山寺-本堂と五重塔(2013.09.21、2017.10.17)
<概 要><歴史遺産>
「仁王門」(国重文)は、切妻の屋根を支える本柱の前後に8本の控柱がある八脚門で、柱や木材の組み方に鎌倉時代の様式がみられ、堂々とした力強い仁王が、左右に安置されている。
▼本堂と五重塔(2021.10.09)、仁王門-全景(2012.09.28)
▼仁王門-八脚門
▼仁王門-木造金剛力士立像
「本堂」(国宝)の棟札(むなふだ)には、1239(暦仁2)年と1255(建長7)年に本堂を修理した事、1291(正応4)年には破損した本堂を再建した事が書かれている。
▼本山寺-本堂
本堂の礎石には、1300(正安2)年に本堂の工事が行われた事や建築を担当した「末清(すえきよ)」と「国重(くにしげ)」の名が記されている。末清と国重は、奈良市の霊山寺本堂(国宝)や薬師寺東院堂(国宝)の建築にも従事した人物である。
▼本堂-礎石
1547(天文16)年建立の「鎮守堂」(県文化)は、建立当寺の檜皮葺(ひわだぶ)きに復元されている。
▼拓魂堂(開拓慰霊堂)と鎮守堂、鎮守堂
風格のある五重塔は、1913(大正2)年に復元されたもので、落慶(らっけい)法要では多くの人を集めたと伝えられている。
▼五重塔(2013.09.21時点)、平成大修復工事中の案内板
▼本山寺五重塔、平成・令和の大修復-解体修復浄財勧募のお願い板(2021.10.09)
本尊の馬頭観音を始め、雨乞いの時に祈った「木造善女龍王像・木造愛染明王坐像・木造金剛力士立像・経文板木」(いずれも県文化)など、貴重な文化財が多くある。
▼馬頭観音(平安時代、ボストン美術館所蔵)、 木造善女龍王像(web引用-水彩画風変換)
▼木造愛染明王坐像、経文板木
また、境内には満蒙開拓団の慰霊堂が建てられている。
日本は満州事変(1931年)の翌年から広大な満州(現、中国東北部)への移民を計画し、香川県からも開拓民5506人と青少年義勇軍2379人を送り込んだ。1945(昭和20)年8月、ソビエト連邦の参戦によって大混乱に陥り、開拓民に多くの犠牲者が出た。三豊郡(現、三豊市)の開拓民で、引き揚げる途中で亡くなった人びとの葬儀が本山寺で行われ、満蒙開拓に携わった人びとや開拓の様子を写した写真や資料などが保管されている。
▼満蒙開拓慰霊堂
▼大師堂、十王堂
▼五輪塔、鐘楼
▼赤堂(大日堂)、境内
▼神馬の像、客殿
<関連遺産>
七宝山(しっぽうざん)(標高445m)の南東麓の豊中町下高野には、本山寺の奥の院であった「興隆寺跡石塔群」(県史跡)があり、約100基の石塔が残っている。石塔群は、凝灰岩の岩壁を掘り窪めた、上・下2段の岩庇に横並びの2群があり、鎌倉時代後期から室町時代末期までのものと考えられている。
▼興隆寺石塔遺跡の石塔群-1
▼興隆寺石塔群-2
▼興隆寺石塔群-3
▼興隆寺石塔群-4
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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