akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -30ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.962-1/3に続けてご覧ください。

 

▼吉尾山いこいの里遊歩道を登る-2

 

▼吉尾山いこいの里遊歩道を登る-3

 

▼三分岐地点、吉尾山いこいの里遊歩道を登る-4

 

▼吉尾山いこいの里遊歩道を登る-5

 

▼吉尾山いこいの里遊歩道を登る-6

 

▼吉尾山いこいの里遊歩道を登る-7

 

▼吉尾山いこいの里遊歩道を登る-8

 

 

▼芳尾山山頂が見えた、芳尾山山頂に着いた

 

▼芳尾山山頂、三等三角点

 

▼山頂休憩所

 

 

▼芳尾山山頂からの展望-1(北-屋島方向)、屋島ズーム景

 

▼芳尾山山頂からの展望-2(東南-白山方向)、白山ズーム景

 

▼芳尾山山頂からの展望-3(西南-日山方向)、日山ズーム景

 

▼芳尾山山頂からの展望-4(南-平田池・フジグラン十川方向ズーム景)、(北-前田山ズーム景)

 

 

▼旗ポール(平成六年三月建立)、旗ポール寄贈者(高松市前田小学校-昭和十八年卒業生一同・他)

 

 

▼芳尾山山頂の吉尾神社-1

 

▼芳尾山山頂の吉尾神社-2

 

▼芳尾山山頂の吉尾神社-3、吉尾神社を後にして新川の堤防道路(北)の「⇦吉尾山いこいの里遊歩道」の案内板の地点へ向かう(約0.5km)

 

 

▼芳尾山山頂から下山-1

 

▼芳尾山山頂から下山-2

 

▼芳尾山山頂から下山-3

 

▼吉尾山いこいの里遊歩道の三分岐地点まで下りた、三分岐地点

 

▼芳尾山山頂から下山-4(直進する)、四国電力㈱の標識(屋島線⇦S4・S5➡)

 

▼芳尾山山頂から下山-5、送電鉄塔

 

▼Y分岐点を左折、芳尾山山頂から下山-6

 

▼芳尾山山頂から下山-7、墓地を抜ける

 

▼芳尾山山頂から下山-8

 

▼新川の堤防道路(北)が見えて来た、新川の堤防道路(北)の「⇦吉尾山いこいの里遊歩道」の案内板地点に着いた

 

 

▼帰路のことでん高田駅へ向かう(約0.3km)、新川の堤防道路(北)の左(東-白山)方向

▼新川の堤防道路(北)を西方向に進む-1、新川の河川敷に下りる

 

▼新川の河川敷の東方向、新川の河川敷を西方向に進む-1

 

▼右上に男井間4号堰の管理棟、左下に男井間4号堰

 

▼新川の河川敷を西方向に進む-2、左の男井間4号堰

 

▼西方向に高田橋、新川の河川敷から上がる

 

▼新川の堤防道路(北)を西方向に進む-2、新川の堤防道路(北)から見る後方の芳尾山と送電鉄塔

 

▼ことでん高田駅へ進む-1

 

▼高田橋を渡る、高田橋から見る左後方の新川と芳尾山

 

▼ことでん高田駅へ進む-2

 

▼ことでん高田駅構内の前田校区史跡マップ、ことでん高田駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.962-3/3をご覧ください。

Vol.962-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:07<雲寺山

<11.雲辺寺山 <撮影:2013.05.19 and 2013.10.28>

雲辺寺山(うんぺんじさん)は、標高927m。徳島県堺にあり、山頂には四国88カ所66番札所雲辺寺がある。お寺は徳島県側にあるが、遍路道は香川県側にあり、讃岐の1番札所となっている。

遍路道は、自然のままで、丁石が多く残されている。

山頂は、三豊平野や燧灘が一望でき、特に瀬戸内海に沈む夕日は、美しい。    (観音寺市観光協会HP)

 

<所在地・外観>

▼雲辺寺山-徳島県三好市池田町白地763-2

▼雲辺寺山、雲辺寺-「四国高野」の別名をもつ、もっとも高所にある四国霊場

 

 

萩原寺から南東方向、約2.3kmの位置に1987(昭和62)年春に開通した雲辺寺ロープウェイの山麓駅がある。

 

▼雲辺寺山の全景、雲辺寺山の山頂-1

▼雲辺寺山の山頂-2

 

 

<概 要>

ここでロープウェイに乗れば、山頂駅までの全長2,594m、高低差657mを眼下に広がる三豊平野から、燧灘、さらには遠く中国地方までも展望できる一大パノラマを楽しんでいる僅か7分の間に運んでくれるが、私たち(五人組)は今回、登山道を使って山頂へ行った。

 

▼雲辺寺山の駐車場、雲辺寺ロープウェイ山麗駅

 

▼登山道の案内図、雲辺寺へ3.9km地点

▼登山道を進む、ロープウェイを左(東)側へ潜る-1

 

▼ロープウェイを左(東)側へ潜る-2、流水溝のような遍路道を行く-1

 

▼流水溝のような遍路道を行く-2、桧の植林帯を登って行く

 

▼雨が降り靄って来た、雲辺寺まて0.6kmを通過

 

▼無線中継塔が並んでる、羅漢像に迎えられ進んで行く

 

 

<歴史遺産-1>

約4kmの登山道を登って、四国八十八個所霊場66番札所「雲辺寺」(真言宗)に着いた。

雲辺寺は、讃岐と阿波(現、徳島県)の県境、「雲辺寺山(標高927m)」の山頂付近にあり、四国霊場の中でもっとも高く、「四国高野」の別名を持つ。

 

▼雲辺寺に到着、山門

 

▼大師堂への石階段、大師堂

 

▼本堂、護摩堂

 

▼厄除不動、鐘楼堂

 

▼涅槃像、五百羅漢

 

<関連遺産>

別の日に私単独で、愛媛県四国中央市の国道192号線の「七田」から雲辺寺へ上り、香川県三豊市粟井町へ下る「四国のみち」を走破したが、65番札所三角寺(愛媛県四国中央市)からの上り道、67番札所大興寺(三豊市山本町)への下り道、共に狭く急峻な道で、「遍路ころがし」の異名があり、霊場巡拝の遍路たちに恐れられてきた難所である。

 

▼雲辺寺への道-1

 

▼雲辺寺への道-2(眼下の国道192号線)、県境へ向かう

▼雲辺寺への道-3(愛媛・香川県境に到着、分岐点の指導標

 

▼雲辺寺への道-4(山稜を進む) 、雲辺寺は近い

▼雲辺寺への道-5、雲辺寺が見えて来た

 

 

▼大興寺への道-1

 

▼大興寺への道-2、観音寺市街と燧灘・伊吹島

 

▼大興寺への道-3

 

 

<歴史遺産-2>

境内は約40haの広さを持ち、スギ・ヒノキなどの古木に囲まれ、霊気漂う雰囲気がある。

807(大同2)年、空海(弘法大師)の開基と伝えられ、本尊の経尋(きょうじん)作の秘伝「木造千手観音坐像」(国重文)が祀られている。また、「木造毘沙門天立像」(国重文)も安置されている。

雲辺寺ロープウェイ山頂駅の前方に、高さ15mの展望館の上に重さ15t・高さ10mの北方の守護神、毘沙門天像が聳え立ち、眼下に睨みをきかせている。

 

▼毘沙門天展望館、毘沙門天像

 

▼館内の螺旋階段-1(下方向) 、上方向

 

▼館内の四国霊場88箇所の切絵

 

▼展望館屋上から高松市方向、徳島市方向

 

 

萩原寺付近から雲辺寺ロープウェイの山麓駅にかけて広がる丘陵地帯は、雲辺寺ケ原とよばれ、第二次世界大戦前には、陸軍第十一師団の山砲射撃場として使用されていた。

萩原寺からロープウェイの山麓駅に至る道の途中、山麓駅の500mほど手前に、砲弾の着弾地点を観測するため、昭和時代初期に建設された監的所が残っており、現在は史跡広場となっている。

 

▼雲辺寺ケ原史跡広場(web引用-水彩画風変換)

 

▼雲辺寺ケ原監的所(web引用-水彩画風変換)

 

 

雲辺寺山からの下山は、ロープウェイに乗って山頂駅から山麓駅へ降りた。

 

▼徳島・香川県境プレート

 

▼スキー場のリフト、北嶺の展望台(二等三角点、標高910.7m)

 

▼ロープウェイ山頂駅へ

 

▼ロープウェイ山頂駅

 

▼ロープウェイ-1

 

▼ロープウェイ-2

 

▼ロープウェイ-3

 

▼ロープウェイ山麗駅、ロープウェイ山麗駅駐車場

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

曇天下のだんご山3兄弟と宮池の水面。

雨後に霞むだんご山3兄弟・袋山を映す宮池の水面パノラマ景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-073  Orignal掲載日:Vol.109 (2012.04.09)

手伝い。

 

私の少年時代は、塾通いなどする子は一人もいず、その代わり子供たちは家の手助けをやらされた。その頃の子供がどれだけ家のために仕事をやらされたか、現代の子に話しても想像がつかないだろう。雑巾がけ、庭掃除、風呂の水汲み、薪割り、風呂焚き、その他いろんなことをやらされた。

 

今はガスの栓をひねれば風呂の湯が溜まるから何の手間もかからないが、当時はどの家も薪を焚いて湯を沸かす風呂で、それを十歳ぐらいの年からやらされたのだ。効率よく薪を焚くのは難しいもので、薪を突っ込み過ぎてもいけないし、少な過ぎてもだめだ。焚き口の中で常時火力が最大になるように焚き続けるには、絶えざる注意と気働きがいるのだ。昔は日本中どこでも家事をやらされ、それで仕事を憶えたのだが、家の手助けをさせられなければ技も身に付かなかったろう。

現代の子供たちは、受験勉強ばかりで家の手伝いなど、掃除でさえもやらされていないだろう。

やらされなければ能力が開発されない。

 

ルソーの次の言葉を紹介する。

子供を不幸にするいちばん確実な方法はなにか、それをあなたがたは知っているだろうか。

それはいつでもなんでも手に入るようにしてやることだ。

現代は幼い時から子供を甘やかすばかりで、家の手伝いもさせない。

子供は託児所や幼稚園に通わされ、小学校にあがれば塾通いで、とても身近な生活の知恵を身につける折りがない。子供の欲求を満たしてやることばかりしていては、かえって子供を不幸にするだけなのだが…。

 

 

<高くがる空間>

観興寺(室町)の境内の上空。

出雲大社高松分祀(室新町)の上空。

大手前高松中学高校(室新町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの山間に咲くヤマフジ(山藤)

近畿地方以西の中国・四国・九州に分布する木本性ツル植物で、落葉する。フジに似ているが、ツルの巻き方向が反対(ヤマフジの蔓は左巻き)であること、花穂がフジのように長く伸長しないことで区別できる。

 

生態的には、類似しているが、混生することは少なく、どちらかのみが見られることが多い。

花は4~5月後半に咲き、花序は長く伸びずに球形に近い形となる。

 

花は紫色が濃く、フジに比べて色濃い。時に白色のものもあり、白色の園芸品種として販売されていることもある。

 

◇我が家の庭に咲いている西洋オダマキ

  

◇ウォーキングコースのK宅の畑に咲くクラシックガベラ

 

◇ウォーキングコースの田圃に咲くカラ

 

◇ウォーキングコースに咲くナガミノヒナゲシ

 

◇町並巡りで出会ったナニワイバラ

 

◇ウォーキングコースに咲くモッコウバラ

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<住吉神社小村田之助墓所獅子王神社  

住吉神社は、高松市小村町(おもれちょう)の業務用スーパーの横の道を入った奥に住吉神社がある。

一の鳥居の先に道が無く参道が無く成ったように見える。

屋根には屋根狛も、丸瓦にの文字が入っている。小さな神社ではあるが、凝った造りの社殿である。

 

義民-小村田之助墓所

田之助は寛永元年(1624)小村の庄屋の家に生まれ、寛永19年19歳の時に、病身の父親から庄屋職を引き継いた。

寛永19年は松平頼重が高松藩初代藩主になった年で、これから藩を経営して行こうしていた時だったが、藩内の農民はうち続く飢饉でほとほと困窮し、餓死者が出るほどであった。この状態を見かねた田之助は救済のため、年貢を11月に8分、6月に2分というように分納させて貰えるよう、もし納付ができない者がいた時には田之助の私財で納付する旨を藩に願い出た。農民の強訴は死罪だった時代で、田之助の願いは自らばかりか一族の命も掛けた上訴だったのである。

藩は田之助の意見を取り入れて分納を認めたが、田之助には厳しい処分が下される事となった。
農民達や、若く優秀な田之助の才能を惜しんだ人達は助命を嘆願したが、小姓の大村兵蔵という者が「決まりは決まり、一度許すと末代まで悪政を残す」と意見し、寛永21年4月24日に上福岡の一本松で打ち首になった。

このとき赦免状が発せられたが、あと一歩で届かず斬首されたとも伝わっている。
農民達は、高い志を持ち皆の犠牲になった若い田之助の死を悼み、弔いを続け彼の死から222年後の慶応2年(1866)に宅地跡に墓を建立したそうである。今も本村・高野自治会の方々が、命日に田之助の墓の供養を続けている。

 

獅子王神社は、ファミリーマートの隣に有る小さな神社である。

 

▼所在地、住吉神社

高松市小村町:〒761-0431

 

▼義民-小村田之助墓所、獅子王神社

 

 

▼住吉神社(小村町)へ向け県道10号線(十川西町-十河コミセン角の交差点)を北西方向に進む(約1.2km)、県道10号線(十川西町)を北西方向に進む-1

 

▼左(西)奥に十河仕様学校、県道12号線との交差点を渡る

 

▼県道12号線交差点の右(東-三木)方向、左(西-坂出・国分寺)方向

 

▼県道10号線(十川西町)を北西方向に進む-2

 

▼県道10号線(十川西町)を北西方向に進む-3

 

▼小村町に入った、県道10号線(小村町)を北西方向に進む-1

▼県道10号線(小村町)を北西方向に進む-2

 

▼県道10号線(小村町)を北西方向に進む-3、次の交点を右折し住吉神社へ

 

▼住吉神社へ進む、社殿が見えて来た

 

 

▼住吉神社に着いた、住吉神社-1

 

▼住吉神社-2

 

▼住吉神社-3

 

▼住吉神社-4

 

▼住吉神社-5

 

▼住吉神社-6

 

▼住吉神社-7

 

▼住吉神社-8

 

▼住吉神社-9

 

 

▼住吉神社を後にして義民・小村田之助墓所へ向かう(約1.4km)、小村町を北方向へ進む-1(次を右折)

 

Vol.961-2/3に続く

 

 

<akijii展-(518)

スクラッチアート(日本の名所めぐり6点)

今報は「新倉山間公園から望む富士山(山梨県)」で、所要時間は180Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.961-2/3をご覧ください。

Vol.961-1/3に続けてご覧ください。

 

▼小村町を北方向へ進む-2(次を左折)、小村町を北方向へ進む-3

 

▼小村町を北方向へ進む-4(前方奥に屋島・前田山)、次のT交点を左折

 

▼小村町を西方向へ進む-1、左(西南)奥に高松クレーター5座

 

▼小村町を西方向へ進む-2、右(北)奥に屋島・五剣山・前田山

 

▼小村町を西方向へ進む-3

 

▼次の交点を右折、小村町を北へ進む-1(前方に吉野川電線)

 

▼小村町を北へ進む-2、右側に吉野川電線-1

 

▼右側に吉野川電線-2

 

▼小村町を北へ進む-3(次の交点を左折)、小径を西へ進む-1

 

▼小径を西へ進む-2(次の交点を折)、義民-小村田之助墓所へ進む-1(前方左奥に由良山)

 

▼義民-小村田之助墓所へ進む-2、後方の吉野川電線を振り返る

 

▼義民-小村田之助墓所へ進む-3

 

▼義民-小村田之助墓所へ進む-4

 

 

▼右奥に義民-小村田之助墓所の碑が見えて来た、義民-小村田之助墓所に着いた

 

▼義民-小村田之助墓所-1

 

▼義民-小村田之助墓所-2

 

▼義民-小村田之助墓所-3

▼義民-小村田之助墓所-4

 

▼義民-小村田之助墓所-5

 

 

▼義民-小村田之助墓所を後にして獅子王神社へ向かう(約0.1km)、県道147号線を東に進む(交差点を北東角に神社が見える)

 

 

▼獅子王神社に着いた、獅子王神社-1

 

▼獅子王神社-2

 

▼獅子王神社-3

 

▼獅子王神社-4

 

▼獅子王神社-5

 

▼獅子王神社-6

 

 

▼獅子王神社を後にして帰路のことでん高田駅へ向かう(約1.4Km)、県道147号線(小村町)を東南方向に進む-1

 

▼県道147号線(小村町)を東南方向に進む-2、前方右に四電工

 

▼㈱四電工-1

 

▼㈱四電工-2

 

▼県道147号線(小村町)を東南方向に進む-3

 

▼小村橋-吉田川を渡る、吉田川(奥に屋島)

 

▼小村橋-吉田川を渡って前田東町へ入った、県道147号線(前田東町)を東南方向に進む-1(正面奥は芳尾山)

▼県道147号線(前田東町)を東南方向に進む-2

 

▼後方の県道147号線と長尾街道との交点を振り返る、県道147号線(前田東町)を東南方向に進む-3

 

▼県道147号線(前田東町)を東南方向に進む-4、亀田町に入った

▼高松市亀田町交差点を左折し高田駅へ、ことでん高田駅へ進む-1

 

▼ことでん高田駅へ進む-2、ことでん高田駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.961-3/3をご覧ください。

Vol.961-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:06<萩原寺>

<10.萩原寺>   <撮影:2015.09.15>

萩の名所として知られる萩原寺(はぎわらじ)は、大同2年(807)弘法大師によって開基されたと伝えられ、平安時代には仏法興隆の一大拠点となりました。江戸時代には末寺280余ヶ寺を統轄した本寺として、輝かしい歴史を持っており、現在でもその名残りを見ることができます。境内は、本堂、仁王門、大師堂、客殿、宝物館など九つの堂宇が建ち並んでいます。とくに宝物館には、重要文化財に指定されている「急就章」「法華曼陀羅図」「観経曼陀羅図」のほか、数百点におよぶ寺宝が納められています。

別名「萩寺」と呼ばれ、萩の名所としても知られています。秋には約2,000株の萩の花が咲き乱れ、多くの見物客や参拝客の目を楽しませてくれます。9月に開催される萩まつりでは、萩の花を背景に茶席や琴の演奏、骨董市などを楽しむことができます。   (観音寺市HP)

 

<所在地・外観>

▼萩原寺-観音寺市大野原町萩原2742

▼萩原寺-ハギの名所として知られる真言宗の古刹

 

 

観音寺市街から県道8号線を南下して、県道241号線との交差点を左折し、約1km、萩の丘公園のすぐ下を右折し、道なりに更に1km余り進むと、目の前に土壁をめぐらす壮大な寺院が見えてくる。

 

<概 要><歴史遺産>

(ハギ)の名所として知られる巨鼇山地蔵院(きょごうざんじぞういん)萩原寺」(真言宗)である。

地元では地蔵院と呼ばれる讃岐でも有数の古刹である。

 

▼萩原寺-1

 

▼萩原寺-2

 

▼萩原寺-3

 

 

唐から帰国した空海(弘法大師)が雲辺寺山に寺を建て、千手観音像を刻んで安置し、周辺に49カ院を開いたが、この内の中之坊(なかのぼう)が後、1280(弘安3)年に山上から郷坊(さとぼう)に移り、地蔵菩薩を本尊として地蔵院と号し、郷名により萩原寺とも称した。その後、1353(文和2)年に雲辺寺の惣門を地蔵院に移し、鐘楼などを建立した。(地蔵院文書・地蔵院縁起)

 

▼萩原寺の納経所、納経所から茅葺き客殿

 

 

応永年間(1394~1428)頃、伊予(現、愛媛県)の豪族河野(こうの)氏の帰依僧であった真恵(しんね)上人が寺務を執った。慶恵(けいえ)上人の頃から、地蔵院は室町幕府の管領(かんれい)で讃岐守護であった細川勝元(かつもと)の祈願寺となった。当時、四国中の真言寺院が地蔵院の末寺に成ったと言われる程に、寺勢は盛んであり、勝元以後も細川氏の祈願所で有ったと云われている。

 

▼萩原寺の納経所の左側、右側

 

 

長宗我部元親の後、讃岐に入った仙石秀久、江戸時代の高松・丸亀両藩の代々の藩主からも手厚い庇護を得た寺院である。

寺務所正面を東に、細川勝元寄進と伝える山門を潜り石段を上ると、右に鐘楼、左に中世密教建築の遺風を留める本堂が有り、本尊木造地蔵菩薩坐像を祀る。

 

▼萩原寺の茅葺き客殿、仁王門

 

▼萩原寺の鐘楼、本堂(web引用)

 

▼萩原寺の境内、境内から見る仁王門(web引用)

 

▼萩原寺の大師堂

 

西側寺務所の宝物館には、数多くの文化財が陳列されている。

中でも、空海真筆と伝わる「彩絹墨書急就章」や、鎌倉時代作の「絹本著色観経曼荼羅図・絹本著色法華曼荼羅図」(いずれも国重文)などは有名である。

また、平安時代末期から鎌倉・室町時代に掛けての膨大な聖経類が秘蔵されている。

 

▼萩原寺の宝物館

▼文化財展示-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼文化財展示-2(web引用-水彩画風変換)

 

▼宝物館-彩絹墨書急就章、絹本著色観経曼荼羅(web引用-水彩画風変換)

 

▼宝物館-絹本著色法華曼荼羅図、阿弥陀如来立像図(web引用-水彩画風変換)

 

 

▼萩原寺のハギ-1

 

▼萩原寺のハギ-2

 

▼萩原寺のハギ-3

 

▼萩原寺の外観

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

ソメイヨシノ桜が散った閑散とする宮池の遊歩道。

宮池の南側から西方向を見る(正面奥に国分台)。

西側に咲くツバキと宮池の水上展望台。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-072  Orignal掲載日:Vol.108 (2012.04.05)

ギブ・アンド・ギブ & 光あれば、影がある。

 

人に与えて、与えて、見返りを期待せずに善行を施すのは難しいが、見返りを期待しない生き方こそが、結局は幸せになれる一番の近道とその実践をされ、ダスキンを一代で大企業に育てあげた創業者、鈴木清一氏の言葉を紹介します。

 

--どんよくな人になるな--

ぬけ目なく、損をしないように上手に立ち回る人がある。ところが、反対に自分が損だ、とわかっていても上手に立ち回れない人もいる。それぞれの人柄である。

ただ長い人生で、本当に損をしないのはどちらであろうか?

すくなくても、どんよくな人は世間から好かれない人である。

 

鈴木氏は、「得な道と、損な道があったら、迷わず損な道を歩んできた」とも言っている。

人はどうしても目の前の利益に心を動かされるが、見返りは与えたその人から返ってくるとは限らず、まったく予期せぬ方向から、忘れたていた頃に突然やってきたりする。ギブ・アンド・ギブ…を、どのような生き方をするか…ですね。

ついつい活躍している人を、羨望の眼差しで見てしまうが、そこには妬みの気持ちが含まれている。

でも、人には苦労がつきものだ。多くの成功者でも影の部分を持っている。

光があれば、必ず影ができる。でも反対に、影があるというのは、光があるからこそ…なのだ。

今、落ち込んでいる人も、いつか光の当たる日も必ず来るであろう。

 

自分自身に置き換えて…。---「光あれば、影がある」「影あれば、光がある」--- 明日からの元気が湧いてくる。

 

 

<高くがる空間>

黄砂が浮遊し降下しているだんご山3兄弟・十瓶山・鷲ノ山の上空。

 

翌19日のだんご山3兄弟・十瓶山・鷲ノ山の上空。

 

 

道の駅源平の里むれ(牟礼町原)の上空。

幡羅八幡神社の社殿(牟礼町原)の上空。

房前公園(牟礼町大町・原)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇国分寺北部小学校の校庭に咲く(カンザンザクラ)

カンザンは日本原産の桜の仲間で、4月下旬から咲き始めるサトザクラ系の八重桜で、一般的な桜「ソメイヨシノ」が散った後に咲き始めるため、桜としては遅咲きである。

 

その花は濃い紅紫で大輪、花もちがよく長期間楽しむことができるため、学校や神社など様々な場所に植樹されている。

 

◇近所のMa宅に咲くカロライナジャスミン

 

◇ウォーキングコースに咲くシャガ

 

◇新居宮池の遊歩道に咲くキリシマツツジ

 

◇近所のNi宅に咲くハナミズキ

◇ウォーキングコースのMa宅玄関のビオラ

 

◇ウォーキングコースのYo宅の庭に咲くスイセンアヤメ(スパイラキシス)ガザニア

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<藤之森神社・地蔵堂・本宮神社 

藤之森神社は亀田南町にある小さな神社で、生活道路に面し駐車場もなく社務所など無く、社殿は藤ノ森自治会集会所となっていて、社殿の周りは綺麗に清掃され地元の方々に一体となっているのが見て取れる。

地蔵堂は「まるとの地蔵」である。

本宮(もとみや)神社も、東西吉田集会所となっている。当日は神社の清掃に地域の方々が参加していた。

 

▼所在地、藤之森神社

高松市亀田南町:〒761-0432

 

▼地蔵堂、本宮神社

 

 

▼ことでん池戸駅で降車、琴電長尾線の踏切を西へ渡り藤之森神社に向かう(約0.6km)

 

▼三木町(木田郡)を西方向へ進む-1

 

▼交点を直進、三木町(木田郡)を西方向へ進む-2(高松市亀田南町に入る)

▼亀田南町を西方向に進む-1(右は蘭香寺墓地)、亀田南町・蘭香寺墓地

 

▼亀田南町を西方向に進む-2、右(北)奥に屋島・前田山

▼亀田南町を西方向に進む-3、藤之森神社に着いた

 

 

▼社殿-藤ノ森自治会集会所

 

▼藤之森神社-1

 

▼藤之森神社-2

 

▼藤之森神社-3

▼藤之森神社-4

 

▼藤之森神社-5

▼藤之森神社-6

 

 

▼藤之森神社を後にして地蔵堂へ向かう(約0.4km)、亀田南町を南方向へ進む-1

 

Vol.960-2/3に続く

 

 

<akijii展-(517)

スクラッチアート(日本の名所めぐり6点)

今報は「大阪城天守閣(大阪府)」で、所要時間は235Mでした。

 

引き続き、Vol.960-2/3をご覧ください。

Vol.960-1/3に続けてご覧ください。

 

▼後方の藤之森神社を振り返る、亀田南町を南方向へ進む-2

 

▼亀田南町を南方向へ進む-3

 

▼亀田南町を南方向へ進む-4、次のT交点を左折

 

▼亀田南町を東方向へ進む、地蔵堂が見えて来た

 

 

▼地蔵堂に着いた、地蔵堂-1

 

▼地蔵堂-2

 

 

▼地蔵堂を後にして本宮神社へ向かう(約0.5km)、亀田南町を南に進む-1

 

▼亀田南町を南に進む-2、右(西)奥に高松クレーター5座と由良山

 

▼亀田南町を南に進む-3(県道12号線が見えて来た)、県道12号線交点を右折

 

▼県道12号線交点の左(東-三木町)方向、東(三木町)方向のズーム景

 

▼県道12号線を西に進み本宮神社へ、右後方は地蔵堂から通って来た小径

 

▼県道12号線を西へ進む-1

 

▼県道12号線を西へ進む-2、信号交差点を左折

 

▼次の交差点は県道12号線-高松市亀田南町交差点、高松市亀田南町交差点のズーム景

 

▼本宮神社へ進む、本宮神社に着いた

 

 

▼本宮神社-1

 

▼東西吉田集会所、本宮神社-2

 

▼本宮神社-3

 

▼本宮神社-4

 

▼本宮神社-5

 

 

▼本宮神社を後にして住吉神社(小村町)へ向かう(約2.1km)、亀田南町を南に進み吉田川の堤防道交点を右折

 

▼吉田川の堤防道を西方向に進む、吉田川を渡り(十川西町に入った)左側の地神社へ寄る

 

 

▼地神社-1

▼地神社-2

 

▼地神社-3、南方向にフジグラン十川

▼地神社を後にして県道10号線交差点へ、十川西町を西方向に進む-1

 

▼十川西町を西方向に進む-2(左側に法城寺)、法城寺-1

 

▼法城寺-2

 

▼十川西町を西方向に進む-3

 

▼十川西町を西方向に進む-4(県道10号線交差点が見えて来た)、県道10号線交差点に着いた

 

▼県道10号線交差点の左(南東)方向、住吉神社(小村町)へ県道10号線を北西方向へ進む

(次報Vol.961に続く)

 

引き続き、Vol.960-3/3をご覧ください。

Vol.960-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:05<椀貸塚古墳>

<09.椀貸塚古墳 <撮影:2018.05.16>

椀貸塚(わんかしづか)古墳は、6世紀後葉に築造された墳丘直径37.2m、推定墳丘高約10mの円墳です。

墳丘の周囲には二重周濠と周堤が存在し、古墳全体の範囲は直径約70mの広大な面積を占有しています。

また、複室構造である横穴式石室の全長は14.8mを測り四国最大規模です。

特筆すべきは、横穴式石室の中心施設である玄室(玄室長6.8m、玄室最大幅3.6m、玄室高3.9m)の床面積が24.6平方m、空間容積が72.7立方mあり、我が国トップクラスの見瀬丸山古墳、石舞台古墳などに準じる規模を誇っており、被葬者の強大な勢力を反映していると考えられます。大野原八幡神社境内に所在。

国指定史跡(平成27年10月7日指定)(観音寺市大野原町大野原字椀貸塚1913-1ほか)(平成27年10月8日更新)また、昔話、「椀貸塚伝説」の地としても知られています。                      (観音寺市HP)

 

その昔、人々が冠婚葬祭の際に、古墳に向かって「○客分のお椀を貸してください」と、お願いしておけば、翌日にちゃんと準備をしてくれていたことから、椀貸塚と呼ばれたそうだ。

 

<所在地・外観>

▼椀貸塚古墳-観音寺市大野原町大野原

▼椀貸塚古墳-県内を代表する大野原の巨石墳

 

 

JR豊浜駅から国道11号線を北東方向に進み、高松自動車道大野原IC入口を越え2つ目の信号交差点を右折し、高松自動車道を潜り約1kmでJA香川県大野原支店がある交差点に到達する。

その交差点を左折すると、大野原小学校と隣接して大野原八幡神社がある。

 

<概 要>

大野原町は、江戸時代初期、京都の商人平田与一左衛門が井関池を水源として新田を開発し、今日の繁栄の基が築かれた。大野原八幡神社は与一左衛門父子により建設されたもので、神社裏手には、平田家の菩提寺慈雲寺(じうんじ)(日蓮宗)がある。

 

▼JA大野原支店、お宮さんの松並木みち

 

▼大野原八幡神社-1

 

▼大野原八幡神社-2

▼大野原八幡神社-3

 

▼慈雲寺

 

 

<歴史遺産>  

八幡神社の本殿裏から南西一直線上に、岩倉塚・椀貸塚・角塚・平塚と呼ばれる4基の古墳が点在する。なかでも、「椀貸塚・角塚及び平塚」(県史跡)は県内を代表する巨石墳として古くから有名である。

この巨石墳の点在する辺りから少し北へ下ると、大野原扇状地は急激に扇端部に向かって下降し、燧灘に至る。古墳築造当時は、海上からもその雄姿を伺い知る事が出来たであろう。

 

4基の古墳の主体部はいずれも横穴式石室である。八幡神社の本殿裏の椀貸塚古墳は羨道(せんどう)部を含めた墳丘の南西部4分の1を、八幡神社の本殿を建てた際に大きく削り取られているが、直径40mを超えるものと推定される。玄室の奥壁に平行して幅1m、高さ0.3mの棺台と思われる石組があり、鉄製棺金具の破片が出土しているので、木棺が埋納されていたと考えられる。

 

▼椀貸塚古墳-1

▼椀貸塚古墳-2

 

▼椀貸塚古墳-3

 

 

椀貸塚古墳のさらに奥、慈雲寺に抜ける細道沿いに「岩倉塚古墳」がある。

墳丘頂部に岩倉大明神(通称「岩倉さん」)という小さな祠が祀られ、その事から名付けられた。

この古墳の墳丘も各所で大きく削られており、原形を留めないが、少なくとも直径20m以上の大円墳で有った事が推察される。

 

▼岩倉塚古墳

▼岩倉塚古墳-石室

 

 

大原八幡神社の南西約500mの所に、角塚古墳がある。

一辺約43mの方墳(ほうふん)で、かつては周濠(しゅうごう)を巡らしていたらしい。

石室の全長は10m、玄室の長さ5.4m・幅2.5m・高さ2.3mを測る。他の古墳と異なり、石室の奥壁および側壁はほとんど1枚の石から作られており、石は丁寧に平たく加工されている。

4基の古墳の中でも新しい時期の築造と考えられる。

 

▼角塚古墳-1

 

▼角塚古墳-2

 

▼角塚古墳-3

 

▼角塚古墳-4

 

 

角塚古墳の南約200mの所には、平塚古墳がある。直径52m、県内最大の円墳である。

石室の全長は12.4m、玄室の長さ7.2m・幅2.5mを測り、側壁などに巨大な一枚岩を用いている。

 

▼平塚古墳-1

 

▼平塚古墳-2

 

▼平塚古墳-石室

 

▼平塚古墳-墳丘、墳頂

 

 

西讃府誌に寄ると、この一帯には170基以上の古墳が有ったようであるが、近世以降の開拓事業に寄って、ほとんど姿を消してしまったが、前述の4基の古墳は、他の多くの小円墳が姿を消した中でも、手が付けられずに残った巨石墳である。4基の巨石墳の周辺に、先行または後出の大規模古墳は認められない。

従って、古墳時代の大野原地域の開発は、扇状地の扇端部を中心に6世紀末から7世紀中頃までに集中的に行われたと想定される。現在、角塚から平塚にかけての一帯は、大野原中央公園として整備されている。

 

▼大野原中央公園-1

 

▼大野原中央公園-2

 

▼大野原中央公園と平塚古墳、角塚古墳

 

 

<関連遺産>

大野原八幡神社の東方向約2kmの中姫(なかひめ)の赤岡山(あこかやま)には、大野原地域で最古とされる古墳時代中期の「赤岡山古墳」(県史跡)がある。

 

▼赤岡山古墳

 

▼赤岡山古墳-説明板

 

▼赤岡山の西側に上る

 

▼赤岡山の東側に上る

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

新緑のだんご山3兄弟(六ツ目山・伽藍山・狭箱山)と宮池(ウォーキングコース標高70mから見る)。

新緑のだんご山3兄弟(六ツ目山・伽藍山・狭箱山)と宮池(宮池の故歩道から見る)。

新緑の涅槃仏(国分台・猪尻山・大平山)と宮池。

新緑の袋山と宮池。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-071  Orignal掲載日:Vol.104 (2012.03.15)

経験則からくる知恵を…。

 

結果を出せる有益な人間になるために、身に付けておかなければならない「知識」と、その知識を応用して使いこなす力、すなわち「知恵」を手に入れる必要がある。

 

そもそも、「知識」とは「知っている」と言うことで、これを究めた人を「雑学王」と言い、聞けば何でも答えられて、凄くものを知っているが、社会を生きていくうえでの「賢さ」までには到達していない。

これに対して、「知恵」というのは「賢さ」のことで、いくら頭が良くても、賢くなければ実社会は渡っていけない。

だから、「知恵を持て」と言った場合、「社会的に賢者たれ」と言うことになる。

知っているという「知識」を、一種の「知的な武器」として自由自在に使える状態にするのである。

 

「本当に賢い者は、誰が何を知っているかを知っている人だ」という格言がある。

これは、単に情報としての「知識」をたくさん知っているだけではダメだと言っている。

つまり、「誰に聞けばいいのかがわかる」「どこを探せばいいのかがわかる」「どこに頼めば上手くできるかがわかる」というように、自分はその情報を知らなくても、必要な情報ソースの在処を探し当てることが出来れば良いのだ。

つまり、どこに行けば、その「知識」が手に入るかを知っている人は「知恵」を持っていると言えるのだ。

 

知識も知恵も兼ね備えている人を知力がある人と言えるが、この「知識力」と「経験則からくる知恵」が「知力」を形成する。人生をより良く生きていくためには、「知力」が欠かせないのである。

 

 

<高くがる空間>

奥谷新橋(国分寺町)から見る新居新池と奥の火ノ山・十瓶山・鷲ノ山の上空。

羽間上池の堤防(牟礼町大町)から見る五剣山の上空。

郷屋敷(牟礼町大町)の上空。

羽間神社(牟礼町大町)の上空。

国道11号線高架橋(牟礼町大町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの山間の岸に咲く草苺(クサイチゴ)

 

◇我家の庭に咲くツルニチニチソウフリジアアジュガ

 

 

◇ウォーキングコース脇の畑に咲くタンポポ

◇ウォーキングコースに咲くカリフォルニアジャスミン

 

◇ウォーキングコースの田圃道に咲くオオマツバウンラン

 

◇ウォーキングコース脇のSe宅(畑)に咲くチュリップネモフィラマクラタとリナリア

 

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<長三宮神社  

長専寺は、真宗佛光寺派の寺院、本尊は阿弥陀如来である。

 

林村は上林村、下林村、六条村の合併村で、上林村には拝師神社、下林村には岩田神社、六条村には鹿島神社をそれぞれ氏神として祭っていた。ところが、昭和十九年(1944)当村に軍用飛行場が設置されたため、岩田神社と拝師神社は、鹿島神社に合わせ祭られた。その後、昭和二十三年(1948)に社号を三宮神社と変更、社章は氏子から募集の上、桜花を鳥居三つで囲った現在のものとなった。祭神は、応神天皇、建御雷神、天火明命である。なお、三宮神社には篆刻家として天下に有名な細川林谷の師にあたる阿部良山の額が宝蔵されている。(境内由緒書より)

 

▼所在地、善教寺

高松市六条町:〒761-0303

 

▼長専寺、三宮神社

 

 

▼県道147号線交点から西方向に進む、県道147号線を西方向に進み長専寺へ向かう(約0.8Km)

 

▼右側はハローズ六条店、県道147号線を西方向に進む-1

 

▼県道147号線を西方向に進む-2(六条橋を渡る)

 

▼六条橋の右(北-屋島)方向、左(南-由良山)方向

▼県道156号線交点を右折、県道156号線(春日川西沿い)を北に進む-1

 

▼県道156号線(春日川西沿い)を北に進む-2、県道156号線沿い左側に善教寺

 

▼善教寺

 

▼県道156号線(春日川西沿い)を北に進む-3、左側に長専寺

 

 

▼長専寺に着いた、長専寺-1

 

▼長専寺-2

 

▼長専寺-3

 

▼長専寺-4

 

▼長専寺-5

 

▼長専寺-6

 

▼長専寺-7

 

▼長専寺-8

 

▼長専寺-9、長専寺を後にして三宮神社へ向かう(約1.3Km)

 

Vol.959-2/3に続く

 

 

<akijii展-(516)

スクラッチアート(日本の名所めぐり6点)

今報は「白川の合掌造り集落(岐阜県)」で、所要時間は465Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.959-2/3をご覧ください。

Vol.959-1/3に続けてご覧ください。

▼県道156号線(春日川西沿い)を北に進む-4、高松自動車道を潜る
 
▼春日川新橋西詰交差点を渡る、国道11号線沿いを西北方向に進む-1(古川橋を渡る)
 


▼古川橋の右(北-屋島)方向、左(南-由良山)方向
 
▼国道11号線沿いを西北方向に進む-2
 
▼国道11号線沿いを西北方向に進む-3、右奥に社号標が見えて来た
 

▼三宮神社の社号標、御旅所
 


▼三宮神社の参道を進む-1
 
▼三宮神社の御旅所を振り返る、三宮神社の参道を進む-2
 
▼三宮神社の参道を進む-3
 
▼三宮神社の参道を進む-4、三宮神社の境内に着いた
 


▼三宮神社-1
 
▼三宮神社-2


▼三宮神社-3
 
▼三宮神社-4
 
▼三宮神社-5
 


▼三宮神社-6
 
▼三宮神社-7
 
▼三宮神社-8
 
▼三宮神社-9
 
▼三宮神社-10
 
▼三宮神社-11
 
▼三宮神社-12、三宮神社を後にして帰路のことでん元山駅へ向かう(約1.0km)
 



▼左奥は三宮神社の御旅所、六条町を西に進みT交点を右折
 
▼六条町を北に進み次の交点を左折、六条町を西に進み次のT交点を右折
 
▼後方に高松自動車道の高架橋、六条町を北方向に進む


▼元山町に入った、元山町を北方向に進む-1
 
▼右(東)方向に協和中学校、左(西)方向に県営元山団地


▼元山町を北方向に進む-2
 
▼ことでん元山駅へ進む
 
▼ことでん元山駅ホームに着いた、ことでん元山駅から帰宅の途に就いた
 

引き続き、Vol.959-3/3をご覧ください。